啓一と恵 9

 ――パーン……パパーン……。
 よく晴れた夜空にたくさんの花が咲き乱れている。青、赤、緑と何でもありだ。暗黒のキャンバスに描かれた光の軌跡が視界を照らし、少し遅れて景気のいい破裂音が聞こえてくる。
 俺は首をやや上向かせ、黙ってその光景を眺めていた。
「綺麗だね」
「ああ、ホントだな」
 隣でつぶやく恵にそう返し、再び花火に見入る。
 周囲の空気は夏らしく蒸し暑かったが、俺もこいつも気にせずここに立ち続けている。手に持った緑茶の缶も俺たち同様に汗をかいていた。
 ここはうちから電車で何駅か行ったところにある、大きくも小さくもない公園だ。辺りにはフランクフルトや射的の夜店が並び、綿菓子を持った子供たちが走り回っている。木々の間にぶら下げられた真っ赤な提灯が、いかにも夏祭りといった陽気な雰囲気をかもし出していた。
 時は夏。うちの近所でも祭りはあるにはあるのだが、この歳になるとちょっと背伸びがしたくなる。少し離れたこの辺りには知り合いもおらず、地元とは異なった安心感と緊張とが俺たちの身を包み込んでいた。
 ――パパパパパパ……。
 今度は小さな花火が群れをなし、漆黒の闇を色とりどりに塗りたてる。その光に照らされた妹の姿は、俺の目から見ても充分以上に綺麗だった。
 身にまとう浴衣は落ち着いた色調ながら明るく、まるで季節外れの夜桜を思わせる。薄い桃色の生地の中に桜の花びらが舞い、紅色の帯にも白い花弁がさりげなく飾られていた。こいつはもっと青っぽい色が似合うと思ってたんだが、こうして見ると母さんが上機嫌で着せていたのがよくわかる。
 普段は自然に垂らしている長い髪も、今日は浴衣に合わせて頭の後ろでまとめてあった。真後ろで結ぶのではなく、やや右後ろでふわふわ毛玉みたいに柔らかく編んであるのが自然な感じだ。
 子供の頃、祭りの日に今みたいに髪を整えてもらうのが楽しみだったっけ。年に一度だけだから特別な興奮があった覚えがある。
 と、いつの間にか夜空ではなく恵の方に見とれていた俺だったが、当然のごとくその視線はこいつの気づくところとなった。優しい声が、ざわめきと爆発音の隙間をぬって耳に届く。
「啓一? どうしたの」
「いや、何でもない」
 俺はそう言って再び夜空を向こうとするも、やはり自分の分身を誤魔化すことはできなかった。悪戯っぽい笑みを浮かべて恵がこちらに近づいてきたかと思うと、気がつけば俺は左腕を取られ、妹に寄りかかられる格好になっていた。
 艶やかな浴衣姿で人目を引くこいつと違い、俺はただの普段着だ。黒のジーンズにチェック柄のシャツ、やや青みがかった灰色の半袖ジャケットとごくごくいつもの服装である。小さい頃は浴衣を着せてもらったこともあったが、年頃の男としてはやはり面倒臭かった。それに、何を着ても今の恵には敵わないと思う。
 周囲の喧騒が嘘のように、俺たちは二人きりの静寂の中に立っていた。感じるのは自分に触れてくる妹の体温、聞こえるのは妹の穏やかな息遣い。とっくの昔に日は沈んでいたが、真夏の夜は蒸し暑い熱気で辺りを覆い尽くしている。
「……やっぱり暑いね」
「ああ。かき氷でも買ってくるか」
「いいわね。じゃあ私はイチゴ、よろしくっ!」
「はいはい。ちょっと待ってろ」
 俺は一旦その場を離れ、近くの夜店で二人分のかき氷を買って戻ってきた。先の開いたストローの刺さった、安っぽい紙製のカップ。その中で山盛りになったシャクシャクの氷に、原色のきつい真っ赤なシロップが大胆にかかっている。俺も恵もイチゴ味が好きだった。
「はいよ」
「ふふ、ありがと♪」
 にっこり微笑んで俺の手からカップを受け取る恵。浴衣と髪とかき氷と、いかにも夏の夜らしい妹の姿が周りの目を集めている。分身である俺から見ても、今の恵はまぶし過ぎる存在だった。
 氷の甘さと冷たさに感動しながら、俺と恵は花火を見て安らかなひとときを過ごした。部活に精を出したり友人たちと馬鹿騒ぎをしたりも確かにいいのだが、やっぱり俺はこいつといるのが一番だ。おそらく恵も俺と同じ気持ちだろう。元は同じ一つの心、誰よりもお互いを理解した仲だ。こうして二人で一緒にいると、本当に幸せなのが身をもって実感できる。
 やがて空を賑わせていた夏の宴も盆踊りも終わり、公園の人々は少しずつその数を減らしていった。
 俺たちもそろそろ帰ろうと、最寄りの駅の方へとゆっくり歩いていく。大した距離じゃない。歩いてほんの数分だ。せっかくだから周辺を適当にブラついても良かったんだが、この暑さと蚊に刺されることを考えると、あまりいい選択とは言えなかった。
 このまま真っ直ぐ家に帰り、風呂に入って二人でゴロゴロ。今日はこいつの浴衣姿に大分そそられたから、ベッドの中でイチャイチャしたい。恵と目を合わせると、こいつも同じことを考えているのが俺には容易に想像できた。人目をはばかることもなく、手と手を繋いで笑い合う。
 もう駅は目の前、大通りの交差点に差しかかった。街灯と信号機の灯りが無言で道路を照らしている。祭りが終わって人の波も過ぎたのか、通行人は大していない。行き交う乗用車が目の前をどんどん横切っていき、信号待ちで立ち止まる俺たちの話し声をかき消した。
 会話ができなくなった埋め合わせという訳ではないが、俺は自然に恵を握る手の力を強めた。するとこいつも負けじと女の力で精一杯握り返してくる。また身を寄せ合い、二人でぴたりと密着する。
 夏のクソ暑いときだってのに、まったく俺たちは何をやってるんだか。我ながら苦笑するしかない。
 そんな馬鹿なことをしてる間に、そろそろ信号が変わる頃になっていた。車道の信号が赤になって右折用の矢印信号が灯り、交差点を曲がろうと慌しく自動車の進入が続く。ほんの数秒間だったが、意外と待たされた気がした。
 やがて車は全て通過しあるいは止まり、歩行者信号が青になった。俺と恵は手を取り合って横断歩道に足を踏み入れる。
 そのときだ。
 俺の視界の隅、交差点の向こう側に一台のトラックが見えた。やや背の高い箱型荷台を背負い、かなりのスピードでこちらに近づいてくる。既に信号は変わっており、その行く手を遮る形で多くの車が道路を軽快に流れていた。もちろんトラックが停止すべきなのは言うまでもない。
 だが驚いたことにトラックは止まらず、そのまま真っ直ぐ交差点に進入した。辺りを走っていた車も、まさか横から突っ込まれるとは思いもしない。そのうちの一台に勢いよく衝突し、盛大な音を立てて跳ね飛ばした。
「――――っ !?」
 突然のことに俺たちは身を竦ませた。トラックに衝突されたワンボックスの乗用車が斜めに吹っ飛ばされてコントロールを失い、歩道にいる俺たちの方に一直線に突っ込んでくる。
 斜めに傾いた格好でこちらに突進してくる乗用車を前に、俺の背筋がぞくりと震えた。
 俺は避けれる。だが恵は?
 裾の長い浴衣を着たこいつはいかにも動きにくそうで、とてもじゃないがまともに逃げられそうにない。妹を守ってやれるのは、この手を握った俺だけだ。
 もはや考える時間は残されていない。気がつけば俺の体は勝手に動き、恵の腕を思い切り引っ張っていた。倒れそうになるこいつの体をできるだけ後ろに投げ出す。とにかくここから少しでも恵を離そうと必死だった。自分の身などどうでもよかった。
 妹と目は合わさなかったが、彼女はこちらを向いて俺の名を叫んだようだった。
「……啓一ぃっ !?」
 もう間に合わない。
 次の瞬間、轟音と衝撃が俺の意識を無に返した。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 ……ここはどこだろう。
 何もない、本当に何もない空間だった。風に乗って流れる雲も、空で輝く太陽も、そもそも空そのものがない。大地も、空気も、時間ですら。この世界は全てを失っていた。
 唯一あるのは、おぼろに漂う自分だけ。その自分もどんな人間なのか、今の俺には思い出すことができなかった。手足の感覚、光と視覚、音と聴覚。五感と記憶のいっさいを無くした俺も、この空間と同じく無意味な存在なのかもしれない。
 俺……?
 深い奥底に心を沈めていた自分だが、ふと自分の一人称にかすかな違和感を覚えた。
 私は自分のことを俺と呼んでいたのだろうか。ならば私――俺は男だったということになるが、それは少し違う気がした。
 なぜなら、自分の心のどこかに私という自称も沈んでいたからである。
 私、私……そうだ私だ。自己の中に俺という自分と、私という自分がいる。どちらも等しく自分であって、どちらが上位ということはない。薄れつつある思考の中で、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。
 しかし、私は誰だったのだろう。やはり思い出すことができない。
 ……ここはどこだろう。
 見えず、聞こえず、動けない。
 気分はまるで宇宙空間を遊泳しているかのようだったが、ただじっとしているだけで退屈極まりなかった。時間の感覚もなく、いつまでここにこうしていればいいかもわからない。
 夢……ここは夢の中なのだろうか。俺はただ眠りについているだけなのだろうか。唯一存在するのは意識を覆う倦怠感と気だるい眠気。それが私の心を闇に包もうとする。
 気持ちいいかって? さあ、どうなんだろう。
 少しずつ自分がぼやけ、だんだん消えていくのも自覚していたが、特に恐怖は感じなかった。このまま流れに身を任せて消えていく。ただそれだけだった。
 しかし、唐突に無音の世界から声が聞こえてきた。こちらを呼ぶ、爽やかで透き通るような響き。まだ若い男――少年の声だった。
「やあ、大丈夫かな?」
「…………」
 そう問われたが、今の俺には言葉を出すこともできない。返事をせずそのまま無言でいると、その声は苦笑したように私に話しかけてきた。
「うーむ、これはひどいね。今にも消えちゃいそうだ」
「…………」
「わかるかい? 君は今、生死の境を彷徨っている。このまま放っておいたら間違いなくお陀仏さ。自分の心が、自我が溶けていくのがわかるよね?」
「…………」
 聞き覚えがあるようなないような、そんな少年の声。親しげに話しかけてくるということは、俺の知り合いなのだろうか。だが自分が誰なのかも思い出せないこの状態で、知人のことなど覚えている訳がない。
 しかしこの声の言う通り、私という存在が今まさに消えようとしていることは何となく理解できた。自分がだんだん小さくなり、薄れていくのがはっきりわかる。
 これが死ぬという感覚なのか。よくわからないけど大したことのない、どうでもいい感じがする。ほとんど残っていない俺の理性がそう思った。
「返事もできない、か……まあ仕方ないね」
 少年はやや呆れた口調で言った。ちょうど大人が子供を相手にするときのような、優越感を含んだ流麗なつぶやき。しかし怒りはまったく湧かない。そんなことを考える知性など今の俺には残されていなかった。
 ただ消えていくのを待つばかりの私。あと数分か数十秒かわからないが、最期はごく間近に迫っている。抗う術も逆らう意思もありはしない。
 そんな俺に、彼は涼しげな声で言った。
「困るんだよね。君に今、勝手に死なれたら。仮にも君は、僕が十数年間その成長を待ち続けた『世界』の片割れだ。いくら不慮の事故とはいえ、それをこんな形で台無しにされたんじゃたまらないよ」
 何を言っているのかよくわからなかったが、この少年が肩をすくめた様子だけは理解できた。随分と自分勝手な言い草なのだろうが、やはり私の心に怒気はない。全てがどうでもいい、投げやりな脱力感が俺を支配していた。
「だから――」
 虚空から聞こえてくる彼の声が、楽しそうな響きを帯びる。
「僕としてはもっと色々試してみたかったけど、こうなってしまったからには仕方がない。答えを聞かせてもらうよ。君たちの答えを」
「…………?」
 君たち。少年はそう言った。俺と誰か、他のやつのことを指してそう言った。
 その言葉に、なぜか私の胸はざわめいた。自我が薄れていく真っ最中で、自分という存在が消えかけているというのに、俺の心は何かを感じてもがいている。
 誰だ。俺を揺さぶるそいつは誰だ。抗いようのない今わの際に、なぜ俺は動揺しているんだ。なぜだ、誰だ、それは何だ。混乱の極みにありながら、私に残された微少の理性は記憶の淵を必死でさらう。
 いつも近くにいたはずの、自分とはわずかに異なる存在。自分の分身、自分の片割れ、自分の写像。自分と同じで異なる者、男であり女でもあった大事なあいつ。
 そうだ、あいつだ。
 心の片隅に芽を出した一つの種が、どんどん大きくなっていく。
「…………!」
 そして、俺の世界は色を取り戻した。
 ゆらめく闇もぼやけた虚空も消え、大地と空が、記憶に残る道が、近所の家が、生まれ育った町並みが現れる。それと共に、俺も全てを思い出していた。
「俺は……」
 俺は啓一。水野啓一だ。いつも双子の妹と一緒にいるシスコンの男子高校生。二人は一つの水野兄妹の片割れ、真面目で優しい優等生だ。男でありながら女の心も持った、俺と私の入り混じった奇妙な存在。忘れていた大事な記憶が次々に蘇り、俺という人間を形作っていく。
 俺は路上に立ち尽くし、目の前にいた少年に顔を向けた。そいつは相変わらずの寒気がする美貌でもってにこにこ微笑み、こちらに語りかけてきた。
「よろしい。やっと自分を取り戻してくれたね」
 天使のように無邪気な笑顔。光り輝く笑みはいっそ神々しいほどだったが、この少年の恐ろしさを身をもって知っている俺からすれば、気持ち悪いことこの上ない。
 生気を取り戻した俺は多少の警戒心を胸にこいつを見返し、どう反応したものか思案に暮れた。俺たちを取り巻く無人の世界、俺の記憶が作り上げた虚構の町並みは何も言わず何も語らず、ただ明るい太陽の光と爽やかな風で俺の心を和らげるだけだ。意識がはっきりしたのはいいが、俺はまだ夢の檻に囚われたままで現実に帰ることを許されない。
 やっと口に出た俺の言葉は、非常に素っ気ないものだった。
「なぜ、あんたがここにいる」
「そりゃあ、君が勝手に死にかけてくれたからね。今にも命を落としそうな君が心配で心配で、こうして君の中まで様子を見に来てしまったのさ」
「死にかけた……」
「そう、死にかけている。君は妹さんをかばって車にはねられ、全身を強く打って意識不明。今は救急車で運ばれてる最中だよ」
「…………」
 記憶の最も新しい部分、夏祭りの夜の光景が脳裏に浮かぶ。恵と二人で夜店を回って花火を見上げ、肩を並べて帰る途中だった。信号無視のトラックが引き起こした事故に俺たちは巻き込まれ――俺が覚えているのはそこまでだった。
 そこで俺は戦慄して少年を見やった。恵は、恵はどうした。車にはねられる直前まで俺と手を繋いでいた、大事な妹はどうなったんだ。
 突如として焦り出した俺の心を見透かすかのように、やはり笑顔を保ったままのこいつが言う。
「ああ、妹さんなら大丈夫だよ。転んだだけで怪我はない。すり傷くらいはあるかもしれないけど、何も心配要らないよ」
「そうか……」
 自然と胸を撫で下ろす。俺は三途の川に向かっているが、あいつは無事に助かったらしい。そのことに俺は心から安堵の息をついた。
 ほっとした俺を見つめ、少年は目を細めてくる。そんな自然な動作ですら、人の心をどきりとさせる何かがこいつにはあった。
「でも、君は駄目だね。急いで病院に搬送中だけど、ちょっと助かりそうにない。いくら完璧な心を持っていようが最高の肉体を持っていようが、人の命なんて儚いものさ」
「…………」
 爽やかに楽しそうに、そして少しだけ哀れみを込めて少年は言った。
 俺は死ぬ。避けようもない自分の死を知らされ、俺は黙って拳を握りしめた。
 周囲に見えるのはよく見慣れた、うちの近所の穏やかな風景。マンションと一戸建てが入り乱れ、学校があったりスーパーがあったり、ごく平凡な町並みが広がっていた。
 だが、これは現実の街ではなかった。死に瀕した俺が見ている夢の中なのだ。人も車も姿は見えず、無言の木々と建物の他は小鳥一羽いやしない。唯一いるのはこの世界の主である俺と、その中に入り込んできたこの優美な侵入者だけだった。
 自分が作り出した虚無の世界で虚空を見つめ、俺は力なくつぶやいた。
「俺は……死ぬのか……」
 俺は死ぬ。このまま二度と目覚めることなく、突然の死を強制される。その事実に抵抗がないでもなかったが、いざこうなってみると嫌悪や戸惑いはあまり大きくなかった。ただ、これでもう恵と一緒にいられなくなると思うと悲しかった。
 俺と恵、ふたりはひとつ。あいつは俺がいなくてもちゃんとやっていけるだろうか。兄妹でなくなった水野兄妹の片割れが、一人の人間として生きていけるだろうか。心配ではあったが、もう俺はあいつと共にいられない。自分の分身を想い、俺はその場で天を仰いだ。
 死ねばどうなるんだろう。地獄か天国か、もしくは極楽にでも連れて行かれるんだろうか。それともただ俺という存在がこの世から消えてしまうだけなのか。二度と目覚めない眠りというのはどんなものなのだろう。死を間近にした心が己にそう問いかけた。
「さて、そこでだね。君に聞いておきたいことがある」
 かけられた声に前を見つめると、あの少年が朗らかに笑っていた。男であっても女であっても関係なく、見る者全てを虜にする美貌が静かに微笑んでいる。
「聞きたいこと?」
「そう。君たちは今まで一つの心を共有して生きてきた。そして最近になって二つに分かれ、互いに愛し合うようになった。その君たちに聞いておきたい。君たちにはどっちがいいのか、君たちにとってはどちらが良かったのか」
「? 何の話だ」
「一つの心と二つの心、いったいどちらがいいと思う? 二人分の肉体と記憶、常人の二倍の処理能力を持った一人の超人と、ただの平凡な人間二人とは、どっちの方がいいんだろうね」
「そんなの――」
「世界の中心にいるべき完璧な人間。君はまぎれもなくその試作品だった。今地球上にいる何十億人もの人間たちの中で、君が一番『完璧』に近い。前にもそれは言ったよね」
 俺は答えない。ちゃんと声は出せるのに、きちんと体は動くのに、返事をすることができないでいる。そんな俺を追い立てるかのように少年は言葉を続ける。
「でも、今の君たちは互いから切り離された不完全な存在だ。一人の男と一人の女、どこにでもいるただの二人の人間に成り下がっている。そして君自身はそれを喜んでいる」
「…………」
 言い返さなかった。図星だったからだ。
 だって当然だろう? 俺と私は小さい頃から何でもできた。二人分の記憶と体験を共有しているということは、他人の二倍できるってことだ。何をするにも常人の半分の努力で済むし、他人と同じだけやれば二倍身についてしまう。こんなのイカサマもいいところで、嬉しさや優越を感じたことなど一度もなかった。こんな体質で生まれてきた自分を疎ましいと思った。
 男でもあり女でもある自分。確かに俺たちは相手の性別を問わず、気取らず自然体で振る舞うことができる。男女どちらの気持ちも理解できる。どちらの相手とも友人として、親友としてつき合うことができる。でも、決して恋はできなかった。
 男相手には俺の“男”が反発し、女性相手には私の“女”が反発する。誰も好きになれずに人からの告白を断り続ける俺と私は、周囲から奇異の目で見られていた。事情を誰にも言えず、自分の胸にしまっておくのも辛かった。
 何が完璧なものか。俺たちはずっと、普通の人間になりたい、普通の生活をして普通の恋愛にふけり、普通の人生を送りたいと思っていたんだ。こんなイカサマをせず、兄妹それぞれ一人の平凡な人間として生きてみたかったんだ。
 それが変わったのは、こいつが初めて俺たちの前に姿を見せたあの日だった。あの日から俺と私は二つの人格に分けられ、ようやく普通の人間になることができた。男女どちらでもある心はそのままだったけれど、俺には恵という仲間ができたし、あいつには俺という伴侶ができた。お互いの全てを理解した最高の相方、俺たちはそれを得て心の底から歓喜した。
 あいつと過ごしたこの数ヶ月の思い出は、今までの人生が色あせるほどに輝いていた。あいつとふざけて笑い合い、あいつを抱いてドキドキして、あいつと体を繋げ合う。双子の兄妹、自分の分身ではあったけれど、いや分身だからこそ俺はあいつが好きで、ずっと一緒にいようと誓ったんだ。
 物思いにふける俺に、少年の明るい声が聞こえてくる。
「でも、生きるもの全てにいつか終わりはやって来る。老いたり病気にかかったり、今の君みたいに突然事故に襲われることもあるだろう。そうなったとき、残されたもう一方はどう思うかな? 君なら想像できるはずだ。君が死ねばあの子がどんなに悲しむか」
 そう、俺は今こうして死を受け入れようとしている。あいつを守り、あいつを置いて死のうとしている。俺がいなくなった後、恵がどんなに悲しむかわかっているのに。今も死にかけの俺のそばにいて、声を枯らして泣き叫んでいるに違いないのに。
 恵の動転、恵の後悔、恵の悲しみ。少年の言葉は刃となって俺の心をえぐった。
「仲睦まじい男女はいくらでもいるけれど、出会いがあれば別れも来る。永遠の愛を誓っても、いつかどちらかが先に死んでしまうんだ。そして死んだ方は、大抵は残された相手にもっと生きてくれと願う。君も今、せめてあの子には長生きして幸せになってほしいと思っているはずだ。違うかい?」
「…………」
「だが、もし君たちが再び一つに――元通り一つの存在になれば、一緒に生きて死ぬことができる。永遠に分かれることなく、共に人生を送ることができる。もちろん二つの肉体のうち片方は先に死んでしまうけれど、それは文字通り自分の半身を失うことであって『愛しい他者の喪失』とは異なる。片手、片脚を失くしてしまうのはとても辛くて悲しいことだけど、それと家族、恋人を亡くすのとはまた違うと思うよ」
 俺と恵、ふたりはひとつ。その存在にまた戻れと言うのか。またあの孤独を抱えて、寂しく生きていけというのか。俺の問いかけに、意外にも少年は首を横に振った。
「違う、僕は知りたいんだ。一つの心と二つの心、その両方を知ってる君が、最後に何を選択するのか。二つに分かれて無理解と別離に恐怖するか、一つになって孤独と空虚に苛まれ続けるか。この世界で君たちにしか出せない答えを、僕は聞きたい」
「…………」
 いつの間にか少年の微笑みは消え、真剣な眼差しでこちらを見つめてきていた。それだけこの問いが重要だということか。
 だがこんな質問、もはや俺にとってさしたる意味はなかった。どうせ俺はここで死に、恵は一人ぼっちになってしまう。ふたりはひとつ、ふたりはふたつという選択などありはしない。
 俺の表情から言いたいことを察したのだろう。少年はつけ足すように言葉を継いだ。
「ああ、もちろん君は死なせないよ。僕がきちんと治してあげる。ここまで僕の実験につき合ってくれたんだ、多少の我がままは聞くつもりさ。君は嫌がるだろうけど、君たちは僕のお気に入りなんだからね」
「何だって?」
 彼の意外な言葉に、俺は眉を曇らせた。
 瀕死の重傷を負った俺を、もはや死を待つだけの俺をこいつは生かしてくれるという。本当にそんなことができるのか疑わしかった――というより、こいつのことが信用できなかった――俺だが、こうなったら藁にもすがるしかない。この少年が普通の人間じゃないことは今までの行動でよくわかっているし、ひょっとしたらあの不思議な力で俺を助けてくれるかもしれない。
「治して……くれるのか? 俺をまた恵のところに、帰してくれるのか?」
「いいとも。その代わり僕の質問に答えて欲しい。君たちが望む心の形とはなんだい? 二つか一つか、どちらを選ぶ?」
「二つか一つか……」
「そうだ。君たちの選択を、君たちの答えを僕は知りたい。君と……そしてこの子のね」
 そのとき少年が細い指をパチンと鳴らした。心地よく乾いた音、その透き通った音色が俺の世界に響き渡った。
 すると空気がにわかに陽炎のように揺れ、盛り上がった影が一人の人物を形作った。誰もいない町並み、何もない通りにたたずむ俺たちの隣に見慣れた少女が現れる。古臭いセーラー服を着て、ストレートの黒髪を背中に垂らした可憐な娘。言うまでもない俺の片割れ、恵の姿だった。
 彼女は驚いた様子でそばにいる俺を見つめ、大声をあげた。
「……啓一ぃっ !!」
「恵……!」
 こちらに飛びついてきた少女の体を受け止め、きつく抱きしめ合う。それだけで俺は、自分の心が温かいもので満たされていくのを感じた。
「啓一! 啓一! 啓一……っ !!」
「ごめん恵。心配かけて」
「ううん、私こそ……ごめん、私のせいで……!」
 泣いて自分にすがりついてくる妹の頭をそっと撫でてやりながら、俺は自分と恵の違いについて考えていた。
 俺には恵の記憶があるし、こいつにも啓一の記憶がある。たしかに元は同一の人格のはずなのに、俺とこいつとではこんなにも違う。この違いはどこからきてるんだろう。これがこの数ヶ月で確立した俺の、そして恵の個性なんだろうか。俺たちはもう別々の存在で、一つには戻れないんだろうか。
 抱き合って無言の喜びにひたる俺たちに、横から声がかけられた。
「さて。感動の再会はその辺にしておいて、僕の話を聞いてほしいな」
 爽やかな少年の声に揃って顔を向け、俺たち二人が身構える。
「啓一……私たち、どうしたい?」
 俺に抱きついたまま、妹が問いかけてきた。
「どうしたいって、何がだよ」
「今のままだったら私は恵、あなたは啓一として生きていける。私は啓一が好きだし、啓一も私が好きだと思う。でもいつか、今みたいに離れ離れになってしまう……」
 彼女は悲しげに目を伏せた。
 俺が死の淵にあるとき、こいつは横で呆然とするだけだったのだ。絶望と無力感に苛まれる妹の姿を想像し、俺は心を痛めた。別れるのが辛いのは俺だけじゃない。俺に守ってもらったという負い目、俺に置いていかれた気分に恵は苦しみ、泣きじゃくっていたに違いない。それを思うと辛かった。
「でも、もう一度君たちが一つになれば、そんな心配は要らない。啓一君も恵さんも混ざったまま、両方の体が死ぬまで一緒にいられるよ。さあ、君たちはどっちを選ぶ? 僕としてはどちらでも構わない。一つに戻っても二つのままでも、君たちが望むようにしてあげるさ」
 少年は俺たちを向いて笑っている。高慢な嘲笑でもなく、実験動物を見つめる研究者の笑みでもない。ただ笑いたいから笑っている。そんな微笑みをこちらに向けていた。
 俺と恵、ふたりはひとつ。その心の形を選ぶのは俺たち自身。こいつはそう言っている。俺たちが望む俺たちの在りようを知りたがっている。
 もし一つに戻ると言えば、彼は俺たちをまた一つに戻してくれるだろう。このままでいいと言えば俺と恵は兄妹のまま、二人の人間として生きていける。いずれにせよ、選ぶのは俺たち自身なわけだ。
 俺は一旦恵から身を離し、その肩に両手を置いて目を合わせた。涙に揺れる漆黒の瞳が俺のそれと向かい合い、二人の心を安らげていく。
「……恵、どうする?」
 彼女は俺の言葉に首を振り、回答を嫌がった。
「わからない。一つになっちゃったら、また寂しくなると思う。でも今みたいに、啓一と離れ離れになるのはもっとイヤ……」
「恵……」
 どうすればいいのか。恵と同様、俺にも答えはわからない。一つになるか二つのままか、俺たちにしか出せない答えを求められている。
「さあ選んで、君たちが望むものを。世界か太陽か、運命か愚者か。君たちが他の人間たちとどう違うのか、それともやはり変わらないのか。僕に答えを見せてほしい」
「啓一……私たち……」
「ああ。わかってる、と思う……」
 互いに好きでいられて、ずっと一緒にいられれば。それができたらどんなに幸せだろうか。
 仕切りによって隔たれた、水野兄妹の心の部屋。その境の壁があるから俺は俺、恵は恵としていられる。それを取って混ざり合うか、それとも完全に分かれるか。
 俺たちはじっと見つめ合い、互いの考えを目で伝え合った。
「……啓一、私と同じこと考えてるね。えへへ」
「そうか? やっぱりわかるもんだな。さすが俺の片割れだ」
「ふふふ……」
「あはは……」
 結論が一致したことを確かめると、俺と恵は静かに少年を向いた。
「決まったかい? さあ、僕に教えてくれ。君たちの答えを」
「俺たちは――」
「私たちは――」
 二つの異なる口が、同じ言葉を発した。


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