憎んで嫌って君と僕 2


「うるせえぞ、糞ガキ! 静かにしやがれ!」
 父の巨大な手が令良を打ち据えた。きゃしゃな体は吹き飛び、畳の上を転がった。
 令良は泣かなかった。泣きわめけば折檻がもっとひどくなることを知っているからだ。
 父は酔っぱらった赤ら顔で新しい焼酎の瓶に手を伸ばした。それが最後の一本だ。飲み終えてしまえば、また機嫌を損ねて母や令良に暴力を振るうことは疑いない。
 令良は痛みと恐怖に震えたが、彼女に逃れる場所はなかった。安アパートの狭い部屋の中に父の目が届かないところはなく、かといって七歳の令良が夜中に外に逃げ出せば、たちまち怖い大人たちに捕まり、また父に殴られる原因をつくってしまう。
 母は令良と同じく父に殴られながらも、ほとんど抵抗せず、非難することもしない。令良が殴られるとときどきかばってくれるが、意味のない行為だった。どうせ二人とも殴られるからだ。
(どうしてお父さんはあたしを殴るんだろう)
 真っ赤に腫れた頬を小さな手で押さえ、幼い令良は考えた。
 クラスメイトのユイちゃんのお父さんは会社の社長さんで、ユイちゃんの誕生日には盛大にパーティーを開いてくれる。ユウト君のお父さんは病院のお医者さんで、ユウト君が熱を出すと学校まで迎えに来てくれる。
 令良のお父さんはタクシーの運転手だったが、お客さんを殴ってクビになった。それからは新しい仕事を探すでもなく、パチンコに行ったり喧嘩をしてお巡りさんのお世話になったりしている。生活はお母さんのパート頼りだ。
 クラスメイトのユイちゃんやユウト君と自分は、いったい何が違うのだろうか。
 何度も何度も殴られるたび考えた結果、令良がたどり着いた結論は、自分が悪いというものだった。
(あたしが悪いから、罰として殴られるんだ)
 そうでもなければ、大勢いるクラスメイトの中で自分だけが殴られる説明がつかない。ユイちゃんやユウト君のようないい子でない令良は、悪いことをした罰として殴られているのだ。
 自分が「いい子」でいれば殴られないはず。
 そう考えた令良は、徹底的に父の言うことを聞き、いい子でいるよう努力した。殴られても泣かなかったし、雨の日に家の外に放り出されても、騒いでよその大人を呼ぶことはしなかった。アパートの廊下の隅で冷たい雫に濡れながら、父が許してくれるのをじっと待ちつづけた。
 一度、近所の噂を聞きつけた役所の大人たちがやってきて、令良に話しかけてきた。
「令良ちゃん、お父さんに怒鳴られたり叩かれたりしてない?」
 彼女は直感した。これはテストなのだと。
 令良がいい子でいられるか試しているのだ。
 ここで「毎日お父さんに殴られてる」と正直に答えたら、令良は父の言うことを聞かない悪い子として、もっとひどい罰を受けることになると考えた。
「ううん。うちのお父さんはそんなことしないよ。いつもあたしに優しくしてくれるの」
 令良はそう答えて、可能な限りいい子でいるよう努めた。父も認めるほどいい子でいたら、きっと父も殴らなくなるだろう。令良は早くいい子になりたいと願った。
 しかし、いくら令良がいい子でいるよう努力しても、父は母と令良を殴るのをやめなかった。
 令良は反省した。殴られるのは、まだまだ自分の努力が足りないからに違いないのだ。
 悪い子は殴られて当然。いい子になれば殴られない。
 だが、これ以上何をすれば、もっと「いい子」になれるのだろうか。幼い令良は必死で考えたが、その答えにたどり着くことはなかった。

 ある日、令良は母に連れられ、少し離れた町にある伯父の家を訪れた。伯父は母の兄で、いつも気難しそうな顔をしている。母はこの伯父にしばしば金の無心をしていたため、この日もそうなのだろうと令良は思った。母と一緒に伯父に頭を下げて憐れみを乞うのは、幼い令良が両親の役に立てる数少ない機会だった。
 だがこの日、令良の予想は当たらなかった。
「令良、あなたはしばらく伯父さんのうちでお世話になりなさい。お母さんはしなくちゃいけないことがあるの。それが終わったらきっと迎えに来るから、いい子で待っているのよ」
 母はそう言って令良の肩を強く抱くと、令良を兄に預けて一人で帰っていった。
 これもまたテストだろうか。令良は訝しがった。
 伯父夫婦とその娘たちはどう見ても令良を好いてはいなかったが、彼女は両親の目が届かないところでも、いい子でいるよう努力した。その甲斐あってか久方ぶりに殴られない生活を満喫して、令良は無邪気に喜んだ。
 それから数日して、令良の両親が死亡したという知らせが入った。二人の乗った車が川に飛び込み、揃って溺死したらしい。父親の血中からアルコールが検出されたことから、警察は飲酒運転でハンドル操作を誤ったのだろうと結論づけた。
 だが、伯父には異なる見解があった。
「お前のお母さんはお父さんと無理心中したんだ」
 二人の葬式を済ませた晩、泥酔した伯父は死人のように青ざめた顔で令良に語った。
「無理心中?」
「一緒に自殺することだ。この場合は殺人……人殺しに近い」
「人殺し……お母さんがお父さんを殺したの?」
「畜生、あのときあいつを止めたらよかった。よりにもよって俺が人殺しの兄貴になっちまうなんて。ひとから金を借りるだけ借りておいて、恩を仇で返しやがって」
 それだけ話すと伯父は寝てしまい、翌朝にはその会話の内容を忘れてしまっていたが、令良は伯父の言葉を心の奥深くに刻みつけた。
(私が悪い子だから、お父さんもお母さんも死んじゃった。お母さんは人殺しになっちゃった……)
 令良は自分を責めた。
 七歳の令良は伯父の家に引き取られたが、伯父夫婦はいかにも迷惑そうだった。伯父の二人の娘たちとは明らかに待遇に差をつけられ、褒められたり可愛がられたりすることは一切なかった。
 さすがに令良に直接言いはしなかったが、血の繋がりのない伯母は令良を「人殺しの娘」と呼び、時おり令良の顔を見ては、
「あなた、だんだんあなたのお母さんに似てきたわね。いつかあんな風にならないか心配だわ」
 と嘆くのだった。
 令良は自分が嫌いになった。
 離れた町にある伯父の家に引き取られたことで、転校することになった。新しい小学校の子供たちは、両親が事故死した令良を奇異の目で見た。
 人の口には戸が立てられない。伯父夫婦が時おり漏らす無理心中の話は、小さな町の刺激的な娯楽として瞬く間に広まった。令良は「人殺しの娘」として学校でいじめられ、教師も見て見ぬふりをした。学校にも家庭にも令良の味方はいなかった。
 令良は自分を憎んだ。
 どうして自分はこんなに悪い子に生まれてしまったのだろうか。
 令良は少しでもいい子でいるため、いくらいじめられてもきちんと学校に通い、勉強を頑張り、大人たちの言うことも素直に聞いた。
 その後、数年が経過して、ようやく彼女は「いい子」でいることに意味がないと理解した。
 自分がいい子でいようがいまいが、同級生にいじめられるのは同じだし、伯父一家に厄介者としてお荷物扱いされるのも変わらない。
 幸い、令良は学校の勉強がよくできた。また、成長するにつれて母親似の可憐な顔立ちになっていった。
 誰にも大切にしてもらえない自分のことは相変わらず嫌いだったが、「私はひとよりも綺麗で賢い」と己に言い聞かせることで、辛うじて自尊心を守ることができた。たとえその綺麗な顔が町で悪名高い「人殺し」の女によく似たものであったとしても。
 令良は次第にひとを見下すようになった。
 中学校に上がってもいじめられるのは変わらなかったが、そうしたいじめは自分のような優れた人間に対する嫉妬からくる行為だと思い込み、心の均衡を保った。孤独な令良の目には、自分以外の誰もが知能の劣った醜い極悪人に映った。自分に対して悪意を持っているに違いないそんな劣悪な連中と、対等に付き合おうとは微塵も思わなかった。
 中学校を卒業する頃、ありがたいことに伯父が高校に行かせてやると言ってくれた。中卒での就職も考えていたが、進学ができるのであればやはり高校に通いたいと思った。
 令良は自宅からは通えない距離にある、隣県の公立校を志望した。意地悪な伯母と従姉たちが住む伯父の家にはこれ以上いたくなかった。
 当然、仕送りをする立場になることに伯父はいい顔をしなかったが、「負担は最低限で構わない。足りない分はアルバイトをして自分で稼ぐ」と説得し、何とか志望校に入学して家を出た。
 他人を信用せず何かと見下すのは高校に入ってからも同じだったが、アルバイト先でトラブルを起こして辞めさせられることを幾度か繰り返すと、クビにならない程度に猫をかぶることを覚えた。好きでもない男に言い寄られるのが煩わしかったため、必要以上に愛想を振りまくことはしなかったが。
 生活は決して楽ではなく、高校に入って一年が過ぎても友達は一人もできなかった。しかし子供の頃のようないじめには遭わず、不仲な家族とも顔を合わせずに済む暮らしには概ね満足していた。
 そんなある日の放課後、令良は学校のクラスメイトと口論になった。
 相手は小柄で線の細い、ひ弱そうな男子生徒だった。生意気にも令良の不注意を指摘してきたため、身のほど知らずをたしなめてやるつもりだった。
 ところが思わぬ反撃に遭った。
「本当に性格がねじ曲がってるな! いったいどんな育ち方をしたらお前みたいな嫌われ者になるんだよ! 小学校からやり直せ!」
 少年が口にした言葉は、家庭環境にコンプレックスをかかえる令良の古傷をえぐった。
「何よ! あんたみたいな情けないチビが私を侮辱しようっていうの !?」
 令良は激昂し、階段の上にいた彼につかみかかった。バランスを崩した少年はとっさに令良の腕を引っ張り、二人一緒に階段を転がり落ち……。

 ◇ ◇ ◇ 

「……起きなさい。もう朝よ」
 目覚めると、間近にその少年の顔があった。令良は「きゃあっ」と可愛らしい悲鳴をあげて、布団から飛び出した。
「あれ? あなたは……月彦君?」
「寝ぼけてるの? 月彦はあなたよ。私は令良。私たち、昨日体が入れ替わっちゃったじゃない」
 夢に出てきた少年、月彦は畳の上に正座し、昨日発生した超常現象が収まっていないことを令良に伝えた。階段から転落したはずみで二人の人格は入れ替わり、朝を迎えても元に戻ってはいなかった。
「ああ、そうか……僕たち、体が入れ替わったんだっけ」
 令良はぼんやりした頭を押さえ、軽く首を振った。長い黒髪が頬を撫でてくすぐったい。
(あの夢はなんだったんだろう? 両親のこと、伯父さんの家のこと、学校のこと……)
 長い……とても長い夢を見ていた。まだ現実の世界に帰ってきた気がしない。
(多分、あれは夢なんかじゃない。あれは全部、私の記憶。僕のじゃないけど、今は僕の記憶……)
 令良は自分の人生の記憶、十数年分のほとんどを思い出していた。月彦の人格に令良の記憶が流れ込み、彼女の肉体でいることに違和感を抱かなくなる。自分が月彦でもあり令良でもある、奇妙な人間になりつつあることを令良は自覚した。
「結局、ひと晩寝て起きても元に戻らなかったわね。やっぱり一緒に階段から落ちないとダメかしら? でも、ケガをしたらバイトに差し支えるし……」
 彼女の内面の変化を知ってか知らずか、月彦は悩んだ顔で独りごとを口にした。
「起こしに来てくれたんだ。ありがとう。でも、どうやって鍵を開けて家に入ったの?」
「もしものときのために外の郵便受けにスペアキーを入れてるの。あれはダイヤルロック式だから、番号さえ知ってたら鍵がなくても開けられるわ」
「ああ、そういえばそうだったね。今は何時? うわ、まだこんな時間じゃないか……」
 窓の外はまだ暗く、起きるには早い時刻だ。聞けば、月彦は始発の電車でやってきたそうだ。
「起こしに来てくれたのはいいけど、ちょっと早すぎない? 君も僕も朝練があるような部活はやってないだろ」
 眠気覚ましに冷たい水で顔を洗い、令良はぼやいた。月彦は運動部には入っておらず、普段は始業時間ぎりぎりに登校している。そんな月彦が夜明け前に家を出て、さぞ彼の家族は驚いたことだろう。
「学校に行く前に、ここのキッチンでお弁当を作ろうかと思って。あなたはいつもお昼は購買部のパンみたいだけど、私はお弁当を作って持っていってるの。安くつくし、自分の好きなものを入れられるし。どうせ、あなたは何も用意してくれてないでしょ?」
「ご飯は夕べ炊いたし、下ごしらえもしといたよ……二人分」
「え?」
「だから、僕と君の分だよ。お弁当は僕が作ってやるって」
「え、そんな……私がやろうと思ってたのに。どういうつもり?」
「どういうつもりって……君がいつもしてるようにやってるだけさ。一人分作るのも二人分作るのも手間は変わらないしね。そのかわり君のお昼のパン代は僕がもらうけど、文句は言わないでくれよ。まあ、そもそも僕のお金だから、君が文句を言う筋合いはないはずだけどさ」
「私がいつもしてるように……」
 月彦は令良の言葉を聞いて何やら考え込んでいたが、やがて鋭い眼差しで彼女をにらみつけた。
「……見たわね?」
「見たって、何をさ?」
 殺気すら感じる彼の冷たい眼光に、令良は冷や汗をかいた。
 確信した。
 月彦は気づいている。
 月彦の中の令良は、自分と入れ替わった月彦の人格が令良の記憶を読み取ったことに気づいている。
 そして、おそらくは令良も、月彦の記憶を自分のものにしている。そうでなければ、夕べの会話の説明がつかない。こちらが説明してもいないのに彼は自分の家族構成を把握し、場所を知らないはずの自分の家に帰っていったのだ。
 体が入れ替わった二人の記憶は混ざり合い、お互い、相手のプライバシーを隅々まで覗いてしまった。
 何もかも。
 そう、隠しておきたいことも、絶対にひとには知られたくないことも、何もかもだ。
 月彦はまだいい。平凡な家庭で真っ直ぐ育てられた彼には、絶対にひとに隠し通さなくてはならないような秘密はほとんどない。
 せいぜい、まだ恋愛とも表現できない智絵理への淡い思いくらいだ。それを他人に覗かれるのはたしかに腹立たしいが、令良のそれに比べたらちっぽけなものだ。
 一方、令良は事情がまるで異なる。幼少期の虐待、両親の死、学校でのいじめ……心的外傷になっている彼女の辛い過去を、月彦が所有する令良の脳が全て「思い出して」しまった。
 日頃の学校生活や家事、アルバイトの様子を思い出す分にはまだ許されるかもしれないが、今もなお尾を引く忌まわしい記憶を覗いてしまったのは絶対にまずい。
 もし、令良の記憶を丸々盗み見てしまったことを知られたら……令良になった月彦は蛇ににらまれた蛙のように固まるしかなかった。
 幸い、彼になった彼女はそれ以上追及してこなかった。
「まあ、いいわ。今日は学校のあとアルバイトにも行かなくちゃいけないし、朝からやぶをつつくような真似はやめとく。とにかく、お弁当の準備をしてくれて助かる。ありがとう」
「あ、ああ、うん……」
「それじゃあ着替えて、身だしなみを整えないとね。寝ぐせまみれのその頭で外出なんて許さないから」
 月彦は令良の長い黒髪に櫛を入れ、軽く化粧をしてくれた。貧しい高校生ゆえそれほど濃くはしないが、ちょっとしたメイクが美少女の魅力をいっそう引き出す。リップクリームを塗られた桜色の唇が、瑞々しい色気を醸し出していた。
「うん、いい感じ。自分の顔でも、他人の視点から見ると全然違うわね。すごく可愛いかも」
 月彦は令良の顔に見入り、非の打ち所がないことに満足した。
「チンポ勃たせながら言わないでよ。みっともない」
 令良は頬を赤く染めて指摘した。月彦の股間では、黒いズボンの布地がテント状に押し上げられていた。
「ああっ? ち、違うの、これは……!」
「ふふっ、君もこれじゃ外に出られないね。まだ時間に余裕があるし、僕がお世話してやるよ」
 令良は艶めかしく微笑むと、月彦をトイレに連れ込んで昨日と同じことをしてやった。情けなく喘いで自分の手の中に射精する月彦の痴態に、令良は下着を湿らせて愉悦するのだった。
「いけない、すっかり遅くなっちゃったわ。急がないと遅刻しちゃう。もう、あなたが妙なことをするから……」
「でも、気持ちよかっただろ? 僕の綺麗な手でヌイてもらうの」
「た、たしかにそうだけど……ああ、思い出したらまた勃ってきちゃったじゃないの。どうしてくれるのよ」
「また勃っちゃったの? 君って意外とスケベなんだなあ」
 赤面して身を寄せ合い小声で会話しながら仲良く登校する令良と月彦を、周囲の生徒たちが驚いた様子で見ていた。
 令良と月彦の体が入れ替わってしまったことは、二人のほかは誰も知らない。そのため令良も月彦も、学校にいる間はそれぞれ相手になりすます必要がある。
 中身が月彦の令良は、誰とも言葉を交わすことなく嫌われ者の女生徒として自分の席につき、一方、中身が令良の月彦は、智絵理に挨拶して彼女の隣の席に座った。親しげに話す二人を見て、令良は不機嫌になった。
(それにしても……友達どころか話し相手もいないって退屈だな)
 授業中は大人しく教師の話に耳を傾け、ノートをとり、疲れたときは窓からじっと外の風景を見て過ごした。休み時間になっても誰にも話しかけられず、話しかけず、目を合わせることさえない。
 入れ替わる前の月彦も友達は決して多い方ではなかったが、世間話をする友人はいた。仲のいい男子とスポーツの試合や人気のゲーム、動画サイトの話で盛り上がったり、智絵理と好きな音楽について語り合ったりしていた。
 しかし、孤独な令良になった今はそうはいかない。記憶の中の令良は学校で過ごす時間のほとんどを勉強と読書に費やしていた。覚悟はしていたが、やはりずっと独りでいるのは辛いものだ。
 昼休みになって、そんな令良のもとに月彦がやってきた。ちょうど空いていた前の席に座り、令良が作ってやった弁当を開いた。
「いいの? ひとに見られてるけど」
 令良は訊ねた。今までまったく親しくなかった男女が突然席を共にし、同じ飯と副食が詰まった弁当を口にしているのだ。自然と二人に注目が集まった。
「私は別に困らないわね。困るとしたらむしろあなたの方じゃない、月彦?」
「外じゃ令良って呼んでよ。あとその気持ち悪い言葉づかいもやめて……まあ、僕も一緒にご飯食べるのは別にいいよ。問題ない」
「ひとりでいるの、寂しいんでしょ。顔にそう書いてるわよ」
「気の合うやつらとバカ話ができないのはたしかに退屈だね。君のスマホ、ゲームの一つも入ってないし。何かインストールしようにも、機種が古すぎてほとんど対応してないときた」
 程よく塩味のきいた握り飯を箸でつまみ、令良は肩をすくめた。
「本でも読んでなさいよ。私もあなたのお友達と話したけど……正直、ゲームとかスポーツの話にはあまり興味がもてないわね。あなたと二人でいる方がいくらかマシだわ」
「智絵理ちゃんとは何を話したの?」
「別に。昨日一緒にマックに行けなくてごめんねって、ただそれだけよ」
 すると、まさにその智絵理が二人の前に現れて、令良は面食らった。智絵理は手に小さな弁当箱を持っていた。
「あの……令良さん、一緒にお昼ご飯を食べてもいい?」
「うん、いいよ」
 相席を求められ、即座に了承した。智絵理はおどおどした様子で、月彦と令良の顔を見比べていた。
「二人とも、同じお弁当なんだね」
「う、うん、そうだよ。一人分作るのも二人分作るのも変わらないから……」
 智絵理のつぶらな瞳に見つめられ、令良は後ろめたさを覚えた。密会という単語が頭をよぎり、いけないことをしている気分になった。
「あのね……月彦くんと令良さんに訊きたいことがあるんだけど、いい?」
「いいよ。何?」
「正直に答えてほしいの。二人はお付き合いしてるの?」
「お付き合い……い、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
 令良は返答に窮した。
 いずれ誰かに訊かれるだろうと思っていた内容だった。昨日まで接点のなかった二人が、今は仲良さそうに手作りの弁当を共に食しているのだ。昨日、多くの学生で賑わうファストフード店を出た二人が肩を並べて家路についたことも智絵理の耳に入っているだろう。疑われて当然だ。
(僕が好きなのは、ホントは智絵理ちゃんなんだけどな……)
 令良は智絵理の顔をじっと見つめて、真実を告げる衝動に駆られた。
 だが、あまりにも現実離れした現状を彼女に語るのは、やはりためらわれた。
「実は僕たちの体が入れ替わっていて、令良が僕、僕が令良になってるんだ」などと言われて、いったいどこの誰が信じるだろうか。交際しているのを誤魔化すために突拍子のない嘘をついている……そう思われるのがおちだろう。
「うん、そうだよ。僕と令良は付き合ってるんだ。昨日、彼女から告白されてね」
 逡巡する令良の代わりに智絵理の疑問に答えたのは月彦だった。
「令良 !? じゃない、月彦!」
「やっぱりそうなんだね。そうじゃないかと思ってた……」
 智絵理の顔が気の毒なほど暗くなった。「昨日、あたしと一緒にマックに行こうって約束したのに令良さんと行ったらしいし、今朝だって二人一緒に登校してくるし、今だって令良さんの手作りお弁当を二人で食べてるし。やっぱり二人は付き合ってるんだね……」
「ち、違うよ、智絵理ちゃん! 僕たちは別に……!」
「いいの、令良さん。誤魔化さないでくれた方があたしも助かるから。令良さんは可愛くてスタイルもいいし勉強だってできるし、あたしも理想の彼女だなって思うよ……」
 今にも泣きそうな顔の智絵理に、令良はどう弁解したらいいかわからなかった。まったくの誤解だが、智絵理の指摘はすべて事実で、月彦と令良が昨日から行動を共にしていたことは否定しようがない。
「月彦くん、これからもあたしのいいお友達でいてね。それに、令良さんもあたしのお友達になってくれたら嬉しいな」
「うん、約束する。智絵理ちゃんは僕の大事な友達だよ。これからもずっとね」と、月彦。
「よかった。じゃあ、また後でね」
 智絵理は手早く弁当を食べ終えると、自分の席に戻っていった。そして机に突っ伏し、昼寝をするふりをする……が、泣いているのは誰の目にも明らかだった。常に賑やかな昼休みだというのに誰も言葉を発さず、教室の空気が重苦しい。
 令良は月彦を廊下に連れ出した。
「いったいどういうつもりだよ、令良! 智絵理ちゃんを泣かせて! なんで僕が君と付き合わなきゃいけないんだ !?」
 激怒して問い詰めたが、彼は涼しい顔だ。
「仕方ないでしょ。本当のことが言えない以上、ああ言うしかないじゃない。家に送り迎えしたり、一緒に手作りのお弁当を食べたり、手で気持ちよくしてくれたりするのに、付き合ってないって周りに説明するのは無理があるわよ。私たちが付き合ってるってことにしたら、こうして一緒にいても変に思われないじゃない。もちろん私は不本意だけどね」
「僕だって嫌だよ! なんで君なんかと! 僕が好きなのは智絵理ちゃんだぞ!」
 令良は頭をかかえて自らの意気地なさを悔いた。「ああ、こんなことならさっさと智絵理ちゃんに告白しておけばよかった。あの様子だと脈ありだったじゃないか……」
「じゃあ、あなたの代わりに私があの子と付き合ってあげようか? あなたの体で言い寄ったらうまくいきそうだけど」
「絶対にダメだ! そんなの許さないぞ!」
「もし私とあの子が付き合うことになったら、気軽にあなたと接触できなくなるわね。付き合ってる彼女がいるのに他の女の子とお弁当や送り迎えは無理だし、SNSでの連絡もできなくなるかもしれない。そうなったら困るのは私じゃなくてあなたなのよ。あなたは今、ひとりぼっちの女の子なんだから」
「ああ、もう……どうしてこんなことになっちゃったんだ。やっぱり、昨日すぐに階段落ちをして元に戻るべきだったのか……?」
「だから階段落ちは嫌だって言ってるでしょ。打ちどころが悪くて死んじゃったら後悔もできないのよ」
 月彦は背伸びをして令良の肩に手を置いた。「お願いだからケガも病気もしないで、この体を大事に扱ってちょうだい。今日だって学校が終わったらアルバイトがあるのよ」
「わかってるよ。君の代わりに僕がバイトに行けばいいんだろ」
「本当に大丈夫? 行ったことないお店に行って、知らない人たちと一緒に働ける? 他人になりすますにはフォローが必要だわ。周りに怪しまれずにお互いをフォローするには、やっぱり私とあなたが付き合ってることにするのが一番いいと思う。なんだか安直だけど」
「バイトくらい大丈夫さ。君の助けなんかなくたって……」
「信用できないわね。あなたを一人にさせておけないわ。妙なことしてバイトをクビになったら困るもの」
「そんなこと言ったって、どうするんだよ? 君が働いてる店でバイトに雇ってもらってるのは君じゃなくて僕だぞ。今は体が入れ替わってるんだからな」
「じゃあ、私も一緒に行くわ」
 予想しなかった月彦の申し出に、令良は目を丸くした。

 夕方、令良と月彦は街のレストランにいた。
 二人とも客としてではなく、店員としてだ。
「今日から新しくうちで働くことになった月彦君だ。仲良くしてやってくれ」
 店の経営者を兼ねるシェフは、厨房に集まったスタッフに月彦を紹介した。黄色い歓声があがり、月彦はたちまち年上の女たちに取り囲まれた。
「君、可愛い顔をしてるわね。高校生? バイトするのは初めて?」
「なんか小動物みたい。女装とか似合いそうね。ああ、レイヤーの血が騒ぐわ」
「西高の二年生だって? 令良と同じじゃん。あたしの三つ下かあ……うん、いいかも」
「ちょっと、やめてください。ああっ、変なところを触らないで!」
 このレストランで働いているのはほとんどが近所の女子大の学生で、月彦以外の男性は還暦を過ぎたオーナーシェフしかいない。器量よしのウェイトレスが行き交う店内は実に華やかだった。
 そんな女ばかりの店に突然加わることになった線の細い男子高校生は、スタッフの好奇心を刺激せずにはいられない。髪や顔をいじり回され、月彦は困り果てていた。
 令良はアルバイト仲間たちから距離をおいて、むすっとした顔で月彦をにらみつけていた。自分のものだった体が年上の異性からもてているのが腹立たしい。
(なんであいつが僕の体でバイトするんだよ。また勝手なことをして……)
 月彦の弁によると、初めてここで働く令良のフォローと生活費を稼ぐ手伝いを兼ねて、ということらしい。月彦が令良の生活費を稼ぐのには心理的な抵抗があるが、現在は月彦が令良、令良が月彦だ。体が入れ替わっている間の二人は利害が一致した、いわば運命共同体の関係にある。元の体に戻るまでは支え合わなくてはならないとの主張だった。
「ああ、言い忘れたが月彦君は令良ちゃんの彼氏だそうだから、ちょっかいは出さないように。あくまで先輩として、いろいろ教えてやってくれよ」
 呆れたシェフが月彦に群がる女子大生たちに釘を刺すと、口々に不満の声があがった。
 シェフは若い頃、腕の立つ料理人として名を馳せ、大きな店をいくつも経営していたそうだ。しかし、年をとるにつれて自分のしたいことは事業の拡大ではなく客に料理を作ることだと考え直し、現在はこのこじんまりしたレストランのオーナーシェフとして熟練の腕を振るっている。
「若くて綺麗な女の子たちに囲まれて仕事に励むのは最高だよ」と冗談めかして彼は笑うが、料理に対する真摯な情熱は確かだった。
「でも、意外ですね」月彦を取り囲んで皆が大騒ぎする中、やや年上の女性スタッフがシェフに囁いた。「シェフ、うちの店じゃもう男の人は雇わないって言ってませんでしたっけ?」
「それは君たちがバイトの男の子をとり合って派手に喧嘩したからだろう。あれには本当に参った……今回はくれぐれもあんなことがないように頼むよ。月彦君にはお触り禁止だ」
「残念……あの子、私のタイプなんだけどなあ。でも、どうして急に採用することにしたんですか? それも高校生の男の子を」
 女性スタッフに問われ、シェフは太い腕を組んだ。
「今日いきなり雇ってくれって言ってきたんだが、令良ちゃんの紹介だから信用できると思ってね。ちょうどこの間、一人辞めたところでもあるし……それに」
「それに、何ですか?」
「月彦君は令良ちゃんによく似てる気がするんだ。ああいうタイプは何だか放っておけなくてね」
 シェフは令良をじっと見つめたが、令良は何も言えず、女たちのおもちゃにされる月彦を眺めた。
「ええっ、全然似てないですよ。令良ちゃんはきりっとしたクールな女の子だけど、月彦君はどう見ても小さくて可愛い男の子って感じじゃないですか。どこが似てるんですか?」
 シェフはその質問には答えず、手をパン、パンと叩いて皆を静かにさせた。
「それじゃあ、仕事にかかろう。今日もよろしく頼むよ」
 はい、と明るい声が厨房に響いて、活気あふれる店は忙しい夕食どきを迎えた。令良は自分の普段の記憶を必死でたぐり寄せ、最年少のウェイトレスとして労働に励むのだった。
(まったくもう……あいつにいいように使われてるな、僕は)
 背広姿の二人組の客のオーダーをとって厨房に伝える際、令良はちらりと月彦を見た。
 彼はこの店の制服である白いインナーに黒いベストと蝶ネクタイ、スカートのようにも見える男女兼用の腰巻エプロンを身に着けていた。
 元は自分の体ではあるが、ウェイターの格好をしているだけで随分と印象が異なる。線の細い少年のイメージは変わらないが、中身がのんきな月彦ではなく令良だからか、目つきがやや鋭く、口元も引き締まっていた。
 令良に見られていることに気づいた月彦は、彼女と視線を合わせて微笑んでくれた。
(なんだよ、あいつ。へらへらしやがって……)
 心臓が飛び跳ねて、顔が赤くなるのを自覚した。まるで恋する乙女のような己の体の反応に、令良は大いに当惑した。
 動揺を抑え、客に料理を運びに行く。学生らしき男たちのテーブルに皿に載った肉料理を届けた。
「君、可愛いね。大学生? 名前はなんていうの?」
 長い黒髪を後ろで編んだ令良に、客の男の一人がにやにやして訊ねてきた。
 答えるべきか令良の中の月彦は迷った。日頃の令良ならばそんな質問は無視して、冷たくあしらったに違いない。
 だが、今の令良は以前の彼女とは別人だった。
「僕……いえ、私は令良です。高校生で」と、ついうっかり答えてしまう。
「高校生? へえ、大学生かと思った。背は高いし、スタイルもいいね」
 いかにも軽薄そうな男は、下心丸出しの顔で令良の顔を覗き込んできた。「ねえ、この仕事は何時ごろに終わるの? 明日は休みだけど暇? このあと徹夜でカラオケ行かない?」
(なんで僕がこんなやつにナンパされなくちゃいけないんだ……)
 平凡な男子高校生だった令良の中の月彦は、初めて年上の男に言い寄られて大いに困り果てた。
 男はうろたえる令良の反応を見て楽しみ、不躾にもエプロンの上から彼女の尻を撫で回してきた。その大胆な行為と複数の男たちの視線が、令良の羞恥と嫌悪を煽った。
「や、やめてください。こんなこと……」
「なあ、俺たちとカラオケ行こうぜ。客の言うことは素直に聞けよ。いいだろ?」
 大きな手で尻をつかまれ、令良は男たちから逃れることができなかった。アルバイトの従業員と客という彼我の立場もあって、大声で誰かに助けを求めることもできない。
 野獣のような男と目が合い、令良は子供の頃の記憶を思い出した。彼女の父親が幼い娘に暴力を振るうときの顔と、その男の顔が重なる。中身は男だというのに、令良は女児のように震えあがった。
(怖い。僕、いったいどうしちゃったんだ……?)
 そこに月彦が注文の料理を持ってやってきた。
「お待たせしました。鴨のむね肉ローストでございます。こちらはメカジキのムニエルでございます」
 テーブルの上に音もなく皿を置き、月彦は一礼して令良を連れ去る。ほんの一瞬だが、彼の冷静な顔に怒りの色が浮かぶのを令良は見た。
「ぷっ、振られてやんの。ダッセーやつ」
「うるせーよ。畜生、あーあ、あのちっこい野郎がこなきゃ、令良ちゃんを誘えたかもしれねーのに……」
「あのちっこいの、令良ちゃんの彼氏かもよ? 最初から無理だったんじゃね」
「バーカ、そんなわけねーよ。あんな女みたいな顔のチビ、あの子と釣り合わねーって。絶対ホモだよ、あの顔は」
 男たちの低劣な会話を背中で聞きながら、令良は月彦に手を引かれて厨房に連行された。
「あなたはあのテーブルに近づかないで。配膳は私がするから」
 月彦は険しい顔で彼女をにらみつけた。
「う、うん……助けてくれてありがとう」令良の胸が高鳴った。
「わかってると思うけど、今のあなたはか弱い女の子なの。こういうバイトをしてると、ああいうこともたまにあるわ。気をつけてちょうだい」
「ご、ごめん。僕、あんなの初めてで……その、すごく怖かった」
 異性の肉体になってほぼ一日。自分が女としてセクシャル・ハラスメントを受けたのはショックだった。きゃしゃで非力な女の体で下品な男たちに取り囲まれる恐怖を味わい、情けないやら悔しいやらで令良の目に涙がにじんだ。
「月彦君、令良ちゃん、ちょっといいか?」と、シェフが二人を呼んだ。新たな仕事かと身構えたが、彼は意外にも二人に休憩を言い渡した。
「急に雨が降ってきて、客足が遠のきそうだ。月彦君は今日が初日だし、少しゆっくりしていいぞ」
 窓の外を見ると、真っ暗な空から大粒の雨が降りだしていた。じめじめしたこの季節、飲食店の客の入りは不安定になりがちだという。
「それにしても月彦君、君は意外にやる男だったんだな。お姫様を守ってやるなんて感心したよ」
 おそらく一部始終を見ていたのだろう。シェフは嬉しそうな声でそのように評した。
 令良は「お姫様」と呼ばれたことに恥じらい、月彦と二人で店の奥の待機室に引っ込んだ。二、三十分ほどして仕事に戻ればいいだろうと月彦は言う。
「それにしても……ああ、びっくりした。まさか僕があんな目に遭うなんて……」
「ホントに気をつけてよね。やっぱり私もバイトに来て正解だったわ。私がいなかったら、今ごろあなたはトイレに連れ込まれて、あの下品な男たちにレイプされてたかもしれない」
「さすがにそれはないと思うけど……でも、君が来てくれて助かったよ。ありがとう」
 令良は身震いした。慣れないウェイトレスの仕事の疲れにセクシャル・ハラスメントの恐怖が加わり、とても心細かった。月彦の存在がそんな令良の心の支えになっていることは間違いない。前言を翻し、彼女は月彦がこの店に来てくれたことに感謝した。
「その顔はやめて」
「その顔って……ひょっとして僕、泣いてたりする?」
 令良は慌てて自分の頬を触ったが、特に濡れてはいない。それとも目に見えて落ち込んでいたのだろうかと訝しがった。
「違うわよ。あなたのその顔を見てると……その、ドキドキするから」
「なんでまた勃起してるんだよ、君は!」
 元気に盛り上がっていた月彦の股間に、令良は仰天した。引き締まった彼の顔つきと振る舞いに見惚れたのも束の間、恥ずかしそうに男性器を硬くした月彦と狭い部屋で二人きりになった。
「しょうがないわよ。このお店、綺麗な女の人ばっかりだし。それにあなたのその格好、その顔を見てると、ここが勝手にこうなっちゃうのよ」
「これは君の体だろ? なんで君が勃起するのさ。わけわかんないよ……」
「あなたの体が私の体を見ておチンポ硬くしちゃうのよ。私のせいじゃない。あなたが悪いのよ」
「その理屈はどう考えてもおかしいよ。君がスケベなのが悪いんじゃないか」
「違う、悪いのはあなた!」
「いや、君が悪いよ。まったくもう……」
 ぶつぶつ言いながら、令良は月彦の前にかがみ込んだ。先ほど助けてもらった礼に彼をリラックスさせてやるつもりだった。
「まずいわ、こんなところで。誰かが入ってきたら言い訳できない。臭いだってするし……」
「すぐに終わらせるから大丈夫。さっさと出しちゃってね」
 令良は月彦の腰巻エプロンを外し、黒いズボンの中から雄々しく立ち上がったペニスを取り出した。
(すごく大きい。これが僕のものだったなんて……)
 恍惚の吐息をついて、そり返った肉槍に令良は見惚れた。身体が入れ替わる前は間違いなく自分の体の一部だったが、このようにして鼻先数センチの距離で観察することは一度もなかった。尿道口から先走りの汁がにじみ出るその雄姿は、月彦が表面上は尻込みしつつも心の底では令良の淫らな奉仕を期待していることを示していた。
 つんとオスの臭いがする陰茎の先に顔を近づけ、熱い息を吐きかけた。頬にかかるひとふさの黒髪をかきわけ、ピクピク震えるペニスの前で意を決して口を開く。次の瞬間、令良の桜色の唇は月彦のものをくわえ込んでいた。
「ああっ、そんな、口でするなんて……い、いやらしいわ。ドキドキする」
 月彦は声を震わせたが、彼女を止めるつもりはないようだ。ペニスを舐めはじめた令良を酔っぱらったような赤い顔で見下ろし、奉仕される幸福に頬を緩ませる。昨日まで男と関係を持ったこともない女子高生だったはずの令良は、いまや同い年の美少女に男性器を舐められて興奮する好色な少年へと変貌していた。
(僕、チンポを舐めてる。変な味……うう、自分のチンポだったのに、こうしてると体が熱くなってくる)
 股間の花園を蜜で湿らせ、令良は月彦の生殖器を賞味した。たどたどしい動きで舌を絡め、キャンディかアイスクリームでも舐めるように少年のペニスを味わう。苦く生臭い男の体液が己の唾液と混じり合ったものを嚥下すると、十七歳の女体はじんじんと疼いて発情するのだった。
 下着が濡れるのを自覚しながら、月彦の心を宿した令良は淫らな行いで元の自分を喜ばせた。繊細な指で太い幹をしごき、暗いピンク色の亀頭に接吻して口内に迎え入れる。くわえたまま頭を上下させると、顎が外れそうなほど巨大なペニスの切っ先が喉に当たって呼吸が乱れた。
「すごいわ、月彦。月彦の口が絡みついてきて……ああっ、喉の奥もたまらないの」
 すっかり令良の虜になった月彦は、お互いの体が入れ替わっていることも忘れた様子で少女の口内を堪能していた。だらしなく鼻の下を伸ばした締まりのない顔で、令良の頭を両手でかかえて更なるサービスを要求する。このうえなく嬉しそうな彼の声が、令良をますます熱くさせた。
(僕、女の子と付き合ったことがないのに……女の子にフェラチオしてもらったこともないのに、僕と体が入れ替わった女の子相手にフェラチオしてる。ああ、アソコが熱くなる。こんなに大きくて硬いチンポにおまんこ貫かれたら、いったい僕はどうなっちゃうんだろう)
 令良も月彦も異性との交際経験はなく、このような淫行にふけったこともない。それなのに、令良は聞きかじっただけの知識と初々しいテクニックで月彦を喜ばせ、処女の膣内を熱い蜜であふれさせていた。時おり上目づかいに月彦を見ては、羞恥と快楽に動揺する互いの内心を伝えあうのだった。
「ダ、ダメ。ううっ、お腹の奥が……もう出ちゃう。射精しちゃうわ」
 切羽詰まった声を聞いて、令良は終わりが近いことを知った。経験のないぎこちない奉仕で月彦が絶頂を迎えることに歓喜しつつ、ペニスを責める動作をますます速めた。いつ爆発してもいいように、彼を口いっぱいに頬張った。
「ダメっ、出るわ。ああ出るっ、月彦、出しちゃうっ」
 口の中のペニスが膨張し、熱い樹液を解き放った。とめどなく口内に発射される月彦のスペルマを漏らさないように必死で耐え、少しずつ飲み下していく。喉に絡む生臭い少年の子種を時間をかけて嚥下し、小さなオルガスムスの波に揺さぶられる。令良のショーツはびしょびしょになった。
「ひょっとして飲んでくれたの? 吐き出せばいいのに」
「仕方ないだろ。バイトの服は汚せないし、ティッシュに吐き出してもゴミ箱に臭いは残るんだから」
 令良は赤面し、目に涙をにじませた。
 お互いの衣装を体液で汚すことが許されない以上、こうするより他に手はない。あとは手洗い場で口をすすげば証拠隠滅ができるはずだ。匂いに敏感な若い女性が多い職場ゆえ、後始末は念入りにする必要があった。
「まったく、あなたったらいやらしいことばかりして……でも、おかげでスッキリしたわ。ありがとう」
「君こそ、もう人前でチンポを硬くするんじゃないぞ。君さえ勃起を我慢できたら、わざわざこんなことする必要はないんだからな」
 と、照れ隠しで言い返し、令良は顔を洗いに化粧室へと向かった。秘所の雫が太ももを伝って落ちていくほど下着が湿り、女の芯がたぎっているのがわかる。
 しかし、体の火照りを彼に打ち明けるのはためらわれた。本来は男である自分が、借り物の処女の体でたくましい肉棒を欲していると知らせるのはプライドが許さなかった。
「しまった……トイレに吐いて流すって手もあったな」
 結局、口をすすいで化粧を直していたら、令良の休憩時間は終わってしまった。彼女は再び店内に戻り、配膳や注文の業務をこなす。店にやってきた男性客たちはみな、精液を飲み下したばかりの若い美貌の巨乳ウェイトレスに劣情の視線を向けずにはいられなかった。

 ◇ ◇ ◇ 

 レストランの閉店時間が過ぎ、二人はスタッフに挨拶して店をあとにした。
 辺りの店は酒を飲ませるところを除いて、ほとんどがシャッターを下ろしていた。アルバイト中に降っていたにわか雨は既にやみ、アスファルトだけが濡れていた。
 令良は大きな失敗をすることなく、無事にこの日のアルバイトを終えた。
 心地よい疲労を感じていた。きっと今夜はよく眠れるだろう。
「お疲れ様。駅まで送っていくよ。また明日、一緒にバイトだね」
 翌日は休日だが、午後にまたこの店でアルバイトの予定が入っていた。駅で月彦と別れて帰宅し、ぐっすり寝てまた翌日頑張ろうと思った。
 ところが、令良の予想に反し、月彦は駅には向かわなかった。
「私もこれからあなたの家に行くわ」
「え? どうして」
 令良は驚いた。月彦の家はここから電車で数駅分行ったところにあり、もうこの時刻では電車の本数が少なくなっている。終電を逃した場合、歩いて帰るには辛い距離だ。
「今日、友達んちに泊まるって言って家を出てきたの。今夜はあなたの部屋で寝るわ。もともと私の家だから文句はないわよね?」
「ええ……いいのかな、それ。僕、一人で外泊なんてしたことないのに……」
 令良は少し悩んだが、結局、月彦と共に帰宅することにした。たしかに体が入れ替わる前は彼の家だったし、令良は今朝、自分の部屋に侵入してきた彼に起こしてもらったのだ。はた目には一人暮らしの女子高生が恋人の少年を自分の家に連れ込むようにしか見えないだろうが、現在の令良と月彦は類を見ない複雑な問題を抱えており、余人に誤解されるのは無理からぬことではあった。もっとも、そのせいで智絵理に失恋する羽目になったのだが。
 二人は人通りの絶えた夜の住宅街を歩き、令良が住む古びたアパートにたどり着いた。
「ふう、疲れた……」
 令良は彼を家にあげ、畳の上にへたり込んだ。アルバイト中は後頭部でまとめていた髪を下ろし、艶のあるストレートの黒髪を肩に垂らした。
「今日はご苦労様。私のアルバイトをあなたにもさせちゃって悪いわね」
「まあ、体が入れ替わってるからね。僕がバイトしないと、今の僕の生活が成り立たないわけで……大変だけど、元に戻るまでは頑張るよ」
 体が入れ替わっている間は、令良として日々学業と労働に励まなくてはならない。令良の中の月彦は今までアルバイトをしたことがなかったが、今は令良の体から記憶を引き出せることもあって、辛いとは思わなかった。
「そう言ってくれて嬉しいわ。私も働くから一緒に頑張りましょ。二人分のバイト代があれば、少しは生活にも余裕ができるはずよ」
「それは助かるけど、事情を知らない人から見たら僕が君に惚れて一方的に貢いでるって思うんだろうなあ」
「そうね。やっぱりそれは嫌?」
「まあ、別にいいよ。元に戻るまでの辛抱だし……そうだ。戻るまでの辛抱なんだ」
 令良中の月彦は、元の体に戻ってからのことに思いを馳せた。
 二人同時に階段の上から落ちるなどして首尾よく元に戻れたと仮定して、元に戻った月彦はあのレストランでのアルバイトを続けるべきだろうか。
 元の体にさえ戻ってしまえば、令良と月彦は赤の他人だ。友人でも恋人でもない。月彦が令良のためにわざわざアルバイトをしてやる義理はなく、彼女の貧しい暮らしを支えてやる理由もない。
 だが元の体に戻ったあと、以前のように孤独な生活を送るであろう令良と完全に縁を切るのは、非常に後味のよくないことのように思えた。小銭しか入っていない財布の中身や、古本屋の最安値のシールが貼られた文庫本で一杯の本棚、数年前に発売された型落ちのスマートフォンを後生大事に持つ令良の姿を見てしまった今、元の体に戻ったあと、入れ替わる前のように令良と無関係でいられる自信はない。
 それに加えて、月彦の心は令良の脳から幼い日の記憶を引き出してしまっていた。令良の人格形成に多大な影響を及ぼしたであろう、忌まわしい過去の記憶……それを丸ごと盗み見てしまったのだ。悲惨な彼女の幼少期を知ってしまった以上、元の体に戻ったあと知らんぷりを決め込むのは良心の呵責を感じる。
 では、元の体に戻ってからも令良の友人として、あるいはそれ以上の関係を築いて彼女の力になってやるべきだろうか。
 それもまた簡単なことではないように思われた。肉体交換前の令良と月彦はそりが合わず、互いに嫌い合っていた。もともと月彦が好きだった相手は性根が腐った令良ではなく、心優しい智絵理なのだ。元の体に戻ったとして、令良とうまくやっていける保証はない。
 もっとも、それ以前に二人が元の体に戻れるのかどうかを心配した方がいいかもしれない。
 共に階段の上から転落したことが人格交換の原因ではないかと推測されるが、それとて確実な根拠はない。同じことをすれば元に戻れると決まっているわけではないのだ。最悪のケースとして、二人の体が入れ替わったまま二度と元に戻れない可能性も考えられる。
 考えるべきことは多く、令良になった月彦の悩みは絶えない。薄汚れた天井を眺めて思案に暮れていると、月彦になった令良が肩を叩いてきた。
「疲れてるところ悪いんだけど、ちょっといい? 大事な話があるの」
 また勃起したのか……と思いきや、彼はいつになく真剣な表情だった。
「大事な話って何さ。今日は疲れたから、できたらまた今度にしてほしいんだけど」
「あなたが質問に答えてくれたらすぐに終わるわ。あなた、私の記憶をどこまで見たの?」
 静かな迫力をもった月彦の視線に突き刺され、令良は目を見開いた。

 朝の尋問の再開だった。


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