さよなら瑞希 2

 ……瑞希が死んだ。
 それも俺の目の前で車に轢かれるという、無残な死に方で。
 悪魔のように恐ろしい笑みを浮かべ、瑞希を突き飛ばしたあいつ。
 高速道路でもないのに猛スピードで迫りくる、無慈悲な暴走トラック。
 死の恐怖におびえ、必死に俺の名を呼び、助けを求める少女。
 そして、その瑞希を助けるどころか、動くことさえできずに突っ立っていた俺。
 いつまでも脳内で繰り返される惨劇の記憶が、ひたすらに俺の心を痛めつけていた。
 あいつの通夜にも葬式にも行ったはずなのに、その情景がまるで思い出せない。
 俺は瑞希の親に謝ったのだろうか。
 大事な幼馴染を、恋人を救えなかったことを詫びたのだろうか。
 あのとき誰が俺と会話して、俺が何を喋ったのか、全く思い出せなかった。
 瑞希を殺したあいつ、あの少年はすぐに捕まると思っていたのだが、事態は俺の期待をことごとく裏切った。
 目撃者は俺だけだというのに、その俺の証言が、なぜか警察にはろくに相手にされなかった。
 轢いたトラックの運転手も、「突然、少女が飛び出してきた」と繰り返すだけで、あの少年の姿をまったく見ていないという。
 しまいには、俺が瑞希を突き飛ばしたのかとさえ疑われる始末だ。
 幸いにも俺が罪に問われることはなかったが、あれからあの運転手がどうなったかは聞いていない。
 そもそも俺はトラックの運転手などどうでもよくて、ただあの少年のことが知りたいだけだった。
 あいつが瑞希をトラックの前に突き飛ばして、殺したんだから。
 それなのに、憎むべき相手は忽然と消え失せ、手がかり一つ残っていない。
 無常な現実に俺は何もできず、まさに生ける屍と化して無為の時を過ごしていた。
 親に怒鳴られてしぶしぶ学校には出かけたものの、自分が誰なのかも希薄になっていて、慰めのつもりか、俺に明るく話しかけてくる友人たちも、ただ鬱陶しいだけだった。
「…………」
 授業中ぼんやりと教室を見回すと、俺の席のすぐ近くに、誰も使っていない机と椅子があった。
 クラスの中にできた、不自然な隙間。それが誰の席かは、俺が一番よくわかっている。
 机の上には、花一つ置かれていなかった。あいつの存在など、所詮その程度だということか。
 幽鬼のごとくぼんやりする俺に、教師が注意してきたが、それも些細なことだった。
 逆らう気も起きない。泣き喚く気にもなれない。ただ絶望と諦観だけが俺を支配していた。
 昼休みも何も食わず、椅子に座ってただぼんやりと虚空を眺めるだけ。
 若く健全な体が訴えてくる空腹感に、ふといつもの昼食時の光景を思い出した。
「はい祐ちゃん、今日のお弁当! たくさん食べてね!」
 世話焼きのあいつが作ってくれた昼食は、どんな食べ物よりも美味かった。
 周囲の連中のからかうような視線の中、二人で向かい合って弁当を食べてたっけ。
 ああ、腹が減った。なのに俺は、何も口にする気になれない。
 気がつくと、いつの間にか俺の隣に一人の男子生徒が立っていた。
「祐介……」
 優しそうで理知的な眼差しがこちらを見つめている。
 俺の親友、水野啓一がパンの入ったビニール袋を片手に、そこに静かにたたずんでいた。
「昼抜きなんてどうしたんだ? ほら、買ってきてやったから食えよ」
「いや、いい」
 差し出された袋を俺は突き返した。
 胃は相変わらず旺盛な食欲でもって食物を要求していたが、俺の不安定な理性はそれを許さなかった。
 啓一はもう一度袋を俺の前に持ってくる。その瞳にあるのは同情と……哀れみ。
「食べないと、昼からしんどくなるぞ」
「だからいいって」
「どうしたんだよ、今日のお前? ぼーっとしててさ。まるで抜け殻みたいじゃないか」
「んなことねえよ。ほっといてくれ」
「やっぱり、その……森田さんがいないから、か……?」
「…………」
 俺は沈黙して、虚ろな視線を友人に向けた。
 こいつは頭が良くて優しくて、本当にいいやつだと思う。
 だからその優しさが、今の俺には辛かった。
「ほら、食えって」
「いらねえ」
「いいから食ってくれ。無駄になる」
 何度も繰り返された問答の末に、俺はとうとうパンを受け取ってしまった。
 まるで味はしなかったが、それでも自分の消化器を満足させることはできた。
 こんなときでも食い物を求める自分の胃が憎かったが、今はその憎しみすら憎かった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 何のために生きてるのだろう。
 誰のために生きているのだろう。
 亡霊となってふらふらと通学路をさまよいながら、俺はひとり家路についていた。
 俺の家は学校からちょっと離れたところにあるから、この辺は帰宅する生徒の姿もまばらだ。
 知り合いに今の自分の姿を見られずに済むというのは、幸いなことかもしれなかったが、その俺にとっては至極どうでもいい話だった。
 誰もいない通りを、俺はたった一人で歩いている。
 いつもなら俺の隣にあいつが、瑞希がいるのに。
 それでこちらを向いて、俺に笑いかけてくれるのに。
 いっそ俺もあいつの後を追った方がいいんじゃないかとさえ、俺は思い始めていた。
 こんなにあいつに執着するなんて。あいつが俺にとってこんなに大切な存在だったなんて。
 今さらの発見に感心しつつも、俺はまだ死ぬことはできなかった。
 瑞希を殺したあの少年。あいつだけは生かしておくわけにはいかない。
 絶対に捜し出して、俺がこの手で殺してやる。何度でも何度でも、ぶち殺してやる。
 暗い殺意に満ちた俺がふと前を見つめると――。

 そこに、あいつが、いた。

「――――っ !!」
 まさに獣のような雄叫びをあげ、俺はそいつに飛びかかっていた。
 完全に理性を失くして拳を固め、渾身の力を込めてその頬を狙う。
 そいつは俺を見ながら微笑んで、迫りくる俺を面白そうに眺めていた。
 その優美な唇が開かれ、惚れ惚れする美声をつむぐ。
「それは無理だ。僕は殺せない」
 その言葉にまたも俺の動きが止まり、突き出した拳はそいつの眼前で止まっていた。
 止める気は全くなかった。俺の沸騰した頭はこいつをぶちのめすことで一杯で、寸止めなどという発想がそもそも存在できるはずがないのだ。
 それなのに、俺の腕はまるで空間に縫いとめられたかのようにぴくりとも動かず、忌々しいにやにや笑いからほんの数十センチのところで、無様に停止してしまっている。
 まただ。またしても、俺はこいつに触れられない。
「なん、でだ……!」
 腕どころか足も腰も、体全体が自分のものでなくなったように動かなかった。
 歯軋りして悔しさをにじませる俺の目から一筋の涙がこぼれたが、こいつはその俺を実に楽しそうに眺め、冷たくあざ笑っていた。
「僕は魔法使いだからね。誰にも僕は殺せない。逆らう者は許さない」
 秋の往来に場違いなほどの美貌と、聞く者を魅了する透き通った声音。
 人間ではありえない完璧な存在を前に、俺はまたしても何もできなかった。
「いやあ、この間は君の彼女にいいものを見せてもらったよ、ありがとう。何ていうかあれだね、吹き飛び方がオモチャみたいで、実に面白かった。テレビで流せば、いい視聴率が取れるかもね」
「ふざ、けん、な……!」
 こいつは悪魔だ。人間なんかじゃない、悪魔だ。
 その悪魔が楽しそうに笑っている。一匹の悪魔が、哀れな少女の死を嘲笑している。
 背筋がゾクゾクするほどの恐怖と畏怖に、俺はただこいつを見つめることしかできなかった。
 殺したい相手が目の前にいるというのに、縮み上がって震えるだけ。
 それでも動かない体の力を一点に集中させ、必死で声を絞り出す。
「この、人殺しが……! 俺も殺しに来たのか!」
「いや生憎と、その逆だね。僕は君を救いに来たんだ。この間のお話――僕の実験台になってくれないか、って提案だよ。どうだい? 僕を手伝ってくれないかな?」
「馬鹿を……言うな……っ! 誰が協力なんてするか……人殺しめっ !!」
 意味のわからないことを言い出した悪魔をにらみ、精一杯の声をぶつけてやる。
 だがこいつは俺の反応など意にも介さず、へらへら笑って話を続けた。
「もちろん、それなりの対価も用意するよ。というか僕に協力すること自体が、君にとっても相応のメリットになる。決して悪い話じゃない。むしろ破格の報酬と言っていいだろう。君が失った物どころか、それ以上の見返りが得られるんだからね」
 失った物。
 俺が失った「モノ」どころか、それ以上の見返り――こいつはそう言った。
 俺の目の前で死んでいった瑞希のことを、モノ呼ばわりしやがった。
 あまりの怒りに、脳の血管が数本ぶち切れたかもしれない。
 それでもちゃんと罵声をあげられたことは、はっきり言って奇跡だった。
「殺してやる……お前を、絶対、殺してやる……!」
「だからそれはできないんだってば、しつこいねえ。まあいいや。僕の説明を聞けば、君の気持ちも変わるかもしれない」
 少年は忌まわしい笑顔でもって俺に微笑み、信じられない言葉を吐いた。
「君の彼女――森田瑞希さんが生き返るって言ったら、君は信じるかな?」
「何だと…… !?」
 その突拍子もない発言に、俺は呆気に取られてしまった。
 死者を蘇らせる。
 古代から人が願い続けて、ついに果たせなかった空想だ。
 こいつはそんな妄想を、芝居がかった調子で口にしているのだ。
「もちろん、いくら僕でも、死んだ人間を蘇らせることはできない。あくまで擬似的なものさ。でも君が望めば――そして君の頑張り次第で、君の望む瑞希さんが君のもとに帰ってくるよ」
「黙れ! そんなたわごと、誰が信じるかっ !! 殺してやる!」
 狂っている。こいつの言葉が、こいつの声が、こいつの顔が、こいつの全てが、常軌を逸している。
 だがこいつは俺の返答も予想通りなのか、嬉しそうに笑ってみせた。
「まあ待ちなよ。僕を殺しても、瑞希さんが帰ってくるわけじゃない。それに僕は誰にも殺せない。だったら僕に協力してくれた方が、まだ君にも希望が持てると思うんだけどね」
「誰が――くそっ、殺して……やる!」
「あっはっは、だから無理だってば。指一本動かせない君が、僕に何をどうするのさ。殺したいほど憎い相手が目の前にいるのに、殴るどころか触れることさえできないんだよ? それでどうやって、あの子の仇を討つの?」
「くそ……くそっ……」
 たびたび見せられた、こいつの不思議な力。
 やはりこいつは人間ではないのだろうか。本物の魔法使いなんだろうか。それとも超能力者か。
 もしそうだとしたら――こいつの言うことは正しいのかもしれない。
 無力な俺はこいつに逆らえない。どうすることもできない。それは間違いない。
 このまま抗っても無駄なだけだ。瑞希の仇なんてとれやしない。
 だがこいつに従えば、万に一つだが、瑞希を返してくれるかもしれない。
 やっぱり騙されて、俺も瑞希と同じように殺されてしまうのかもしれないが、ひょっとしたら、万が一もしかしたらという思いが、俺の中に湧き上がっていた。
 瑞希が帰ってくる。それは今の俺にとっては、麻薬のように甘美な響きだった。
「愚か者は、それを失うまで自分が大事なものを持っていたことに気がつかない。今の君ならわかるでしょ? 瑞希さんが君にとって、どんなに大切な存在だったか。それを取り戻すためなら、仇の僕に頭を下げるくらい、何ともないんじゃないの?」
「うるさい……誰が……」
「君が僕に協力してくれたら、君だけの瑞希さんを手に入れる方法、瑞希さんを取り戻す方法を教えてあげよう。まあ信じるも信じないも君次第だけど、今の君には他に選択肢はないと思うよ? 僕の力を借りて瑞希さんを取り戻すか、それとも全てを諦めるか、二つに一つさ」
「…………」
 黒髪のツインテールと小柄な体格、そして愛らしい童顔。
 そばにいるときは当たり前すぎて意識さえしなかった慕情が、俺の心を緩慢に締めつけていた。
 こいつが俺を弄んでいるということも、充分過ぎるほどわかっている。
 俺に何をさせたいのか知らないが、それが終わったら俺も用済みとばかりに殺されてしまう可能性も、充分にあった。
 だが、逆に言えば俺が殺されない可能性だって、ごくわずかだがあるんだ。
 本当にこいつの言うとおり、瑞希が戻ってくる可能性もある。
 希望。この悪魔が俺にもたらした、かすかな望み。
 それは地獄から別の地獄へと通じる、細すぎるほど細い蜘蛛の糸に過ぎなかったが、今の俺にすがるものは他になかった。
「さあ、どうする? 嫌なら僕は君の前から消え失せるよ。もう二度と会うことはないだろうね」
「…………」
「どうする?」
「……俺は、何をすればいい」
 今までの人生で一番暗い声を、俺はそいつに返していた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 夕方。硬い表情を顔に貼りつけたまま、俺は帰宅した。両親はまだ帰っていない。
 カバンを置いて制服から私服に着替え、落ち着くために水道水を一杯飲む。
 緊張のため口の中がカラカラになっていたので、その潤いがとても心地よかった。
 震える足をゆっくり進ませ、静かに目的の部屋へと向かう。
 コンコン、コンコン。
 そっとドアを叩くと、部屋の中から少女の声が返ってきた。
「……誰?」
「俺だ、今帰ってきた」
 ドアにぶつけた声は、聞こえるか聞こえないかのギリギリのラインだったが、中にいた少女は明るい口調で、俺に部屋に入るよう言ってくれた。
「ただいま……」
「おかえり、お兄ちゃん」
 狭い部屋の奥に置かれたベッドに、パジャマを着た黒髪の少女が座っていた。
 小柄な体と線の細そうな顔立ち、細くサラサラのストレートの長髪。
 中川双葉、三つ下の中学二年生。俺のたった一人の妹だった。
「調子はどうだ?」
「うん、今日はちょっといいかも」
 そう言って、少しだけ赤い顔ではにかむ。
 俺の妹は生まれつき体が弱く、中学生になった今でも休みがちの生活を続けている。入院の経験も多い。
 しかし気性は優しくて俺によく懐いてくれる、可愛い可愛い妹だった。
 瑞希を失った今の俺にとって、双葉は唯一の心の拠り所とも言えるが、それにも関わらず、今俺は、この妹を瑞希のために犠牲にしようなどと考えていた。
 もし俺が正気だったら、きっと罪の意識に耐え切れず、首をくくっていることだろう。
 だが、狂気に取り憑かれた今の俺は、大事な妹を生贄にすることすら厭わない。
 俺はベッドに腰を下ろし、できるだけ平静を装って妹に話しかけた。
「双葉、ちょっと話があるんだ。聞いてくれるか」
「うん、何? お兄ちゃん」
 全く俺を疑っていない顔で、双葉が聞き返してくる。
 兄のひいき目を差し引いても、双葉はとても可愛らしい女の子だった。
 こちらを見やる無邪気な顔は、俺の良心を無言で痛めつけてくるが、脳裏に浮かぶ亡き幼馴染の姿を思えば、俺は鬼にでも悪魔にでもなってやる気でいた。
 俺は双葉の肩に両手を置き、じっと妹と見つめ合った。
 黒くくりくりした瞳が、真っ直ぐ俺を向いている。
「双葉……俺の目を、よく見てくれ」
「何なの、お兄ちゃん? どうしたの」
 間近で俺の視線に射抜かれ、双葉は恥ずかしそうに目を逸らした。
 そんな妹を半ば無理やりに押さえつけ、俺ははやる心で言葉を続けた。
「ちょっとの間、じっとしててくれ。ちょっとでいいから」
「う、うん……わかった。我慢する」
「そう、目を閉じずに、よく見るんだ。じっと俺の目を見て……」
「うん……」
「何が見える? 俺の目が、俺の黒い瞳がよく見えるだろ?」
「うん……何だか、吸い込まれそう……」
「それでいいんだ。もっとよく見てくれ。そうだ、じっと見て……」
 双葉の肩を押さえながら、ひたすらに黒い視線を浴びせ続ける。
 はた目にはにらめっこか愛の告白にしか見えないだろうが、俺は真剣にこの行為を繰り返した。
 俺が力を込めるたび、双葉の目から心が失われていき、だんだんと意思がなくなっていく。
 あいつの言った通り、俺の妹は術にかかりやすい体質だった。実に好都合なことに。
 あいつ、あの美貌の少年の言葉が俺の脳裏に蘇る。
「君もお察しの通り、僕は人間じゃない。特別な力を持つものだ。君たち人間の心と身体を支配し、操作する能力を持った存在だ。今まで君たち人間を使って、色々と遊ばせてもらってたんだけどね。でも、自分だけで遊ぶのもワンパターンで、いい加減飽きちゃってさ。そこで思いついたんだ。もしこの力――他人を操る力をただの人間に分け与えたら、いったいこの力をどんな風に使ってくれるんだろうか。そう思って、君に協力をお願いしたってわけさ」
「他人を操る力……だって?」
 この恐ろしい少年の力を、自分が使えるようになる。俺がこいつの同類になる。
 ある意味では歓迎すべき事態なのかもしれないが、今の俺は恐怖しか感じなかった。
「ああ、君はこう思っているね。そんな力があるなら、わざわざお願いなんかせず、最初から自分を操って無理やり言うことを聞かせればよかったじゃないか。そう思っているだろう? そうすれば、あの子は死なずに済んだのに、ってね」
「…………」
「でも駄目なんだよ。君に与えるのは僕の力のほんの一部と、その使い方だけ。むやみに君をいじくって、心をがんじがらめに縛っちゃったら、面白くなくなっちゃうでしょ? だから君には自分の意思で、力を使いこなせるようになってほしいんだ。そのために、わざわざ君の彼女を消して、目的意識を持たせてあげたんだから」
 俺の心が震えている。怒りと恐怖の間で板挟みになって、悲鳴をあげている。
 こいつはそんな俺の様子が面白くてたまらないのか、笑顔を決して絶やさない。
「だから、宿題だ。君には他人の心と記憶を操る力をあげよう。君はそれを使って、君の理想の瑞希さんを作り直すんだ。それが君の、当面の課題さ。素材は――そうだね。君の妹さんなんて、どうだい?」
「妹……双葉のことか……?」
「僕の見たところ、君の妹さんは心身共に脆く弱い。そして君を全面的に信頼している。なかなかいい素材だと僕は思うよ。心を思い通りに塗り替えるのに、ぴったりの」
 そうして俺は、あの少年から力を分けてもらった。
 人の心を自在に操る、強力無比の力を。
 小さい頃から病弱で、俺を慕っていた妹の双葉。
 その双葉の記憶と人格を否定し、俺の思うように塗り替える。
 神をも恐れぬ所業、とはまさにこういうことを言うんだろう。
 だが、あいつを――瑞希を失った今の俺にとっては、この力がどうしても必要なんだ。
 すまん、双葉。俺はお前を……。
 そんなことを考えている間に、双葉の施術は終わったようだった。
 確認のために妹の名を数回呼び、静かに語りかける。
「双葉、双葉……聞いてるか? 聞こえてるか、俺の声が?」
「……ん、誰……お兄ちゃん……?」
 焦点の合わない瞳が、何もない前方をじっと見つめている。
 どうやら成功したようだが油断はできない。俺は用心深く言葉を選び、妹の耳元で囁き続けた。
「お前は疲れて眠ってしまったんだ。だから今、お前は夢を見ている。これは夢だ」
「これは……夢……?」
「そう、お前は夢の中にいる。夢の中だから、お前以外は誰もいない。今、聞こえているのは自分の声だ。自分の心の声だ」
「心の、声……」
 ぼんやりと目を開けたまま、意識を失くしたかのように俺の台詞を繰り返す。
 俺は内心の興奮を抑え、双葉の心を自分が望む方向に誘導していった。
「自分の心に嘘はつけない。お前は真実だけを言い、真実だけを聞く。これから聞こえる言葉もお前にとっては全て真実であり、絶対に正しい」
「真実……正しい……」
 納得したようにカクンを縦に首を振る双葉。かかりは上々だ。
 俺は双葉の肩から手をどけて身を引き、そっと問いかけた。
「お前は誰だ?」
「私? 私は中川双葉、十四歳……パパとママとお兄ちゃんの四人家族……。体が弱くて学校を休んでばっかりで、とっても困ってる……」
「違う」
「違う?」
 俺は双葉の言葉を否定し、代わりの情報を植えつけた。
「お前は中川双葉じゃない。それはお前に植えつけられた偽物の記憶だ。本当のお前は、違う名前の人間だ」
「偽物……本当は、違う……」
「お前は、双葉じゃ、ない」
「私は、双葉じゃ、ない」
 律儀に俺の言葉を復唱する妹が、どんどん愛しくなってくる。
 だが焦ってはいけない。俺は我慢に我慢を重ね、じっくり双葉に教え込んだ。
「お前は双葉じゃない。それは本当のお前じゃない」
「それなら、私は誰? 私は誰なの?」
「お前の本当の名は、森田瑞希。中川祐介と小さい頃からずっと一緒だった、幼馴染だ。そして今は祐介の恋人。いつも祐介のそばにいないと気が済まない、恋に焦れた一人の女だ」
「森田、瑞希――祐介の恋人……」
 意識のない双葉に、大事なキーワードを埋め込んでおく。
 自分は瑞希であること。そして祐介の恋人であること。その二つは絶対に欠かせない。
「お前は瑞希、森田瑞希だ。だが今は、とある事情で祐介の妹、中川双葉を演じている。お前は本当は瑞希だが、人前では双葉を演じないといけない」
「私は瑞希……人前では双葉を演じる……」
「お前の好きな祐介と二人きりのときだけ、お前は本来の存在である瑞希に戻れる。二人だけのときは双葉をやめて瑞希に戻り、祐介の恋人でいられる」
「祐、介……二人きり……恋人……」
「自分と祐介以外の誰か、第三者がそばにいるときは瑞希に戻ってはならない。それがたとえ自分の両親であっても、自分と祐介以外の人間の前では、祐介の妹、双葉を演じなければならない」
「第三者がいるとき……妹を演じる……」
 最初はこんなところだろうか。俺はそろそろ暗示をかけるのをやめ、双葉を戻すことにした。
 耳たぶに軽く口づけて、ちょうど恋人がするように囁いてやる。
「今から三つ数えるとお前は目覚める。だが目覚めても今の内容は覚えている。普段は双葉を演じ、祐介と二人きりのときに限って、本来の姿である瑞希に戻る」
「…………」
 うなずく双葉に、俺は大きな声で数を数えてやった。
「一、二……三!」
 それと共に双葉の瞳には光が戻り、理性が帰ってきた。
「…………」
 しかしまだ記憶が混乱しているのか、ぼんやりと前を見つめたままだ。
 ひょっとして失敗したのかと危惧する俺に、双葉は虚ろな視線を向けた。
「あっ……!」
 何かを思い出したかのような、はっきりした声。
 次の瞬間、双葉は満面の笑みを浮かべて俺に抱きついた。
「祐、介……? 私、瑞希……!」
 俺はにじみ出る歓喜に己を見失い、思い切り妹と抱き合った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 それから毎日、俺は妹の心を瑞希のものに塗りかえていった。
「俺を呼ぶときは嬉しそうな声で『祐ちゃん』だ。わかったな?」
「瑞希はプリンが好きだろ? 違う、スプーンの持ち方はこうだ」
「覚えてるか? この傷、小三のとき二人で行った、サイクリングのときについたんだぞ」
 思いつく限りの瑞希の記憶を、双葉の耳に注ぎ込む。
 そうしているうちに、初めは明らかに違う人間だった瑞希と双葉が、だんだんと近づいていくように俺には感じられた。
 それに合わせて双葉の体調の方も良くなっていき、別の意味で周囲を喜ばせた。
 相変わらず両親の前では兄と仲のいい妹であり続けたけれど、その関係も少しずつ親密なものになっていった。
 もちろん、自分のやっていることが外道の所業だということも、俺はよくわかっていた。
 大事な妹の人格を、妹の存在を否定し、俺の望むモノに塗り変えようというのだから。
 おそらく、俺は地獄に落とされるだろう。
 しかしそれでも、それでも俺は、瑞希を取り戻したかった。
 たとえそれが偽者であっても、自分で作った都合のいいマネキン人形であっても、それでも俺は、俺の瑞希を取り戻したかったんだ。

 夕食の席で、箸を握った双葉が俺に言う。
「お兄ちゃん、おショーユ取って」
「ああ、ほれ」
「ありがと、お兄ちゃん」
 その晴れ晴れするような笑顔に思わずドキリとして、俺は妹から顔をそらした。
 それを眺めていた親父が横からちょっかいをかける。
「双葉、妙にご機嫌だな。何かいいことでもあったのか?」
「ふふ〜ん、パパには秘密だもんっ!」
「あらあら、この子ったら……」
 一家四人で囲む幸せな食卓。
 だが俺は自らこの幸福をぶち壊し、自分の汚らわしい欲望を充実させようとしていた。
 罪悪感がないと言えば嘘になる。しかしもうどうしようもない。
 日に日に瑞希に近づいていく双葉を手放すことは、今の俺にはとてもできそうにないのだ。
「ごちそうさま!」
 手を合わせてそう言い、席を立つ黒髪の少女。
 不意にその妹の顔に、死んだ恋人の姿をダブらせ、俺は息をひきつらせた。
「ぐ――げほっ! ごほん!」
「どうしたの祐介。喉に詰まった?」
「い、いや大丈夫。ごちそうさん」
 慌てて母親にそう答え、俺もその場を離れた。
 妹の部屋に行くと、双葉が笑顔で声をかけてきた。
「あ、祐ちゃん。どうしたの?」
 普段、俺を「お兄ちゃん」と呼ぶはずの妹は、今はあいつと同じく愛称で呼ぶ。
 すり込んだ記憶が保たれていることに安心し、双葉の髪を撫で上げた。
「ん……何でもない。大好きな瑞希の顔が見たくなっただけさ」
「もう。そんな恥ずかしいこと、真顔で言わないでよ」
 少し赤くなって口を尖らせる双葉。俺の前でだけ、こいつは俺の女、「瑞希」に変わる。
 仕込みを始めて既に三日。順調にその効果は表れていた。
 俺は妹の隣にあった、座布団の上に腰を下ろした。
 横目で双葉を見やると、こいつもこちらを見返して微笑んできた。
 妹が兄を見る目ではない。女が男を――それも、愛する男を見る目だった。
 目を合わせたまま双葉を抱き寄せ、パジャマに包まれた華奢な体と抱擁を交わす。
 俺に抱きしめられたことに喜んでいるのか戸惑っているのか、双葉の声は上ずっていた。
「ゆ、祐ちゃん……?」
「瑞希、瑞希、瑞希……」
 何度も何度もその名を呼ぶ。妹の耳にこすりつけるように。
 そこで双葉の体を離し、仕込みを続けることにする。
 俺の彼女である「瑞希」は、当然、俺と肉体関係にあるわけだから、そっちのテクニックもきちんと覚えさせないといけないのだ。
 俺は座布団の上であぐらをかいたまま、双葉に向かってこう言った。
「瑞希、悪いんだけど、ちょっとフェラしてくれないか」
「ふぇら?」
「そ、口でするやつ。こないだもやってくれたろ? あれ頼む」
「うん、フェラだね……わかった」
 病弱のため、今まで性に関する知識が皆無だった双葉だが、この三日間、随分と頑張ってくれていた。
 まだ本番には至っていないが、俺を気持ち良くさせる行為は真っ先に教え込んである。
「じゃあ祐ちゃん、やってあげるね」
 双葉は俺の下半身に覆いかぶさり、ベルトとズボンのチャックを外した。
 そしてトランクスの中から、だらりと萎えた肉棒を取り出してみせた。
 不慣れなはずなのに白い指でためらいもなく陰茎を挟み、上を向かせた亀頭を口に含む。
 パクッ――魚が餌に食いついたような音が、俺の脳内に鳴り響いた。
「んっ、ちゅるっ、んんっ、ん……」
 双葉の小さな口が俺のモノをくわえ、口内で粘膜を絡めてくる。
 妹の体温と唾と、たどたどしくも献身的な舌の動きが俺の性器をしごき上げる。
 なかなかに気持ちがいい。たちまち俺は勃起してしまった。
「ん、んんっ、んぶぅっ」
 双葉の声がやや苦しげな響きを帯びる。
 くわえ込んだ肉棒は硬く張りつめ、双葉の頬を内側から膨らませた。
 俺のは特に巨根ではなく、年頃の男としてはごくごく平均的なサイズのはずだが、それでも妹の狭い口腔を満たすくらいの大きさにはなる。
 舐めづらいだろうに、それでも口の中で必死に舌をすりつけてくる双葉の姿に、兄として、男として感動しないわけがない。
 俺は妹の頭を優しく撫でながら、その口淫を存分に堪能した。
「んっ、ずうっ、んん、んんっ」
「気持ちいいよ……瑞希」
「ん、んんっ?」
 俺の言葉に双葉は顔を上げ、上目遣いにこちらを見やった。
 薄桃色の唇を目一杯に開き、いきり立った兄の性器を熱心にしゃぶる俺の妹。
 罪の意識は確かにあるが、それ以上に心地よさと興奮が強かった。
「じゅるっ、ずず、ずずずぅっ!」
「うっ、ううっ!」
 今度は亀頭を重点的に攻め、袋を揉みながら激しく尿道を吸い上げてくる。
 突然のことに俺は情けない声を上げ、陰茎をブルブルと震わせた。
 双葉のやつ、こんなテクニックをどこで――って、俺が教えたんだったか。
 さすがの俺も余裕を失い、射精が間近に迫っていることを自覚させられた。
 妹の髪を指で軽くとかしつつ、俺は震える声で告げる。
「瑞希……俺、そろそろ出そうだ。飲んでくれるか……?」
「ずっ、じゅるっ、ん、んんっ!」
 双葉はコクコクとうなずいて、ますます俺を責めたてる。
 早く出せ。妹の口に射精しろ。手と舌でそう言っている。何を遠慮することもない。
 俺の両手が双葉の頭をがっちり押さえ、ガクガク前後させて脳みそをシェイクした。
「うっ、瑞希、出すぞっ……!」
 喉の奥まで思い切り肉棒を突っ込み、欲望の塊を噴射する。
 尿道から新鮮な子種が噴き出し、双葉の食道から胃に流れ込んでいった。
「んんっ、んぐっ! げほっ、ごほっ!」
 双葉が俺から身を離し、激しく咳き込む。
 いかんいかん、ちょっとやり過ぎたかもしれない。
 俺はうつ伏せで悶える双葉の背をさすり、謝罪の言葉を述べた。
「すまん瑞希……。大丈夫か?」
「げほっ! かはっ、ごほん! うう……最後の、苦しかったよう。祐ちゃん」
 恨めしげにこちらを見つめてくる妹の頭をナデナデしてやり、ご機嫌取りに励む。
 涙目の双葉はとても可愛かったが、かなり機嫌を損ねてしまったようだ。
 こうなるとなかなか笑顔になってくれない。まったく困ったものである。
 仕方ない。今回はここまでにしておこう。
 名残惜しくはあったものの、俺はもう一度双葉の頭を撫でてやってから、自室に戻った。
 風呂の間も寝床に入ってからも、思考の大半を占めるのはこれからのことだった。
 すなわち、どのように妹を仕込んでいくか。そのことで俺の頭は一杯になっていた。


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