さよなら瑞希 1

 蛍光灯で照らされた部屋の中、俺は後ろから瑞希を抱きかかえていた。
 左手は服の上から控えめの乳房を揉み回し、右手はスカートの中に侵入して、清潔なショーツの上から、感じやすい箇所をじっくりと撫で回す。
「はあ、あふぅ……」
 発情した少女の声が、俺の耳をくすぐった。
 まだ児戯のように触れているだけなのに、もう感じ始めているのは、こいつがエロいからだろう。
 呼吸を乱して声を漏らし、目を細めて俺の愛撫にとろけている。
 俺の腕の中では黒のツインテールの髪がぷらぷらと揺れていて、その持ち主の色っぽい吐息と、俺を呼ぶ切ない喘ぎ声が鼓膜を叩いてくる。
「ゆ――祐ちゃあん……」
「静かにしろ、瑞希。下に聞こえる」
 俺は左手を瑞希の服から引き抜くと、細く華奢なこいつの顎にやり、その顔を横に向かせた。
 高ぶる期待に興奮の色を隠せない瞳を見つめて、その唇を自分ので覆う。
「はふ――ん、んんっ……」
 わざと舌を入れずに、息を止める感じで口だけ塞ぐ。
 唇を引っつけ、軽く触れ合わせる無邪気なキス。
 そうしている間にも、俺の右手は瑞希の下着の隙間から中へと忍び込み、既にじっとり湿り気を帯びる秘所をざらざらとこすり上げていた。
 欲しくて堪らないのか、スケベだな。
 俺の指は遠慮の欠片もなくこいつの肉をかきわけ、汁のしたたる肉壷を責めたてた。
 何度も犯されて俺のモノを受け入れた、卑しい雌の性器。
 そこにかすかな愛着を感じながら、俺は瑞希の秘所を丹念にかき回した。
 熱い肉が俺にまとわりつき、指の関節をキュウキュウ締めつけてくる。
「んん、んむぅっ……!」
 声を出せないもどかしさに瑞希は軽く暴れたが、それしきで解放されるはずもない。
 それに嫌がってみせるのは表面だけで、指に絡むいやらしい肉のスープとうっとりしたこいつの顔は、明らかな歓喜を示していた。
「ん、んん……」
 ゆっくりと口を離し、互いを繋ぐ細い唾液の架け橋を二人で観察した。
 こいつは俺の視線など意にも介さず、いつも通りの顔で笑う。
 まったく、何がそんなにおかしいのやら。俺は指を瑞希の中で激しく往復させた。
「ふあっ……ふあああぁっ !!」
「イカせてやるよ、瑞希」
 耳元に唇を近づけて、冷たい声でぼそりとつぶやく。
 もう一度黙らせるために指を口内に突っ込むと、瑞希は喜んでそれをなめ回してきた。
 俺の右手が瑞希の陰核をつまみ、指の腹で敏感な豆をこすり立てる。
 すっかり肥大した突起を弾くたびこいつの体が跳ね、指が入った口の端からよだれが漏れた。
 その一方で俺の口は、喘いで揺れる黒髪を押しのけ、瑞希の首筋に自分の唾液をべたべた塗りたくっていた。
 瑞希は全身が性感帯にでもなったかのように理性を無くし、俺に抱かれてよがり狂う。
 愛だとか慕情だとかいった立派なものではなく、ただ肉欲だけがこの女を支配していた。
「ふむっ、んむううぅっ…… !!」
 そして、ひときわ大きく瑞希が跳ね、弛緩した体を俺にぐったりもたれかからせた。
 目は開いているが視線は虚ろで、ぼんやりと宙を見上げるのみ。
 指が抜かれた口からはだらりと唾液がこぼれ、服と肌とを濡らしていく。
 俺はといえば、腕の中の少女を無事にイカせた達成感に、満足の息を吐いていた。
「――はあ、はっ、ふうぅ……」
 聞こえるのは少女の荒い呼吸だけ。
 心地よさげにそれに聞き入る俺の耳を、息も絶え絶えの瑞希の声が撫で上げた。
「ゆ、祐ちゃん……」
「何だ?」
「続き、しないの……? 祐ちゃんも、一緒に……」
「いや、無理だ。下にお袋がいるし、それにうちはもうすぐ晩飯だから」
 そっけない返事に、軽い失望の色を顔に浮かべる瑞希。
 頬を朱に染めて俺を求めてくるその表情は、まさしく一人の女のものだったが、小さな胸も細い手足も、可愛らしい童顔も、その淫蕩な瞳の色には少しばかり似つかわしくなかった。
「そうヘコむなって。今度ゆっくりしてやるよ」
 その俺の言葉に、瑞希は真っ赤になってはにかんだ。
 事実、俺の股間では張りつめた息子がたけだけしい円錐を形作り、若々しい性欲を持て余していた。
 せっかくだし口で抜いてもらうかな、と思ったそのとき、残念なことに階下から夕飯を知らせる母親の声が聞こえてきた。
 もうちょっと早かったら、瑞希もイキそこねていたことだろう。
 まあいいや。今度お袋がいないときにたっぷりするとしよう。瑞希と顔を見合わせて笑う。
 瑞希も絶頂の高揚が収まったらしく、そっと立ち上がって俺に言った。
「ありがとう。じゃあ私、そろそろ帰るね」
「ああ、気をつけてな。また明日」
「気をつけるも何も、私の家、すぐそこじゃない」
 決まりきった俺の返事に小さく笑い、部屋を出て行く。
 不思議と機嫌がいいうちの母親に見送られ、瑞希は斜向かいの自宅へと帰っていった。
 この様子だと、いっそ開き直って本番行為に及んだ方が良かったかもしれない。
 晩飯のカレーライスを食いながら、瑞希んちの夕食は何だろうかと、ついどうでもいいことを考えてしまう俺だった。

 俺は中川祐介、ごく普通の男子高校生。
 先ほどまで俺の部屋にいたあの少女は森田瑞希という、近所に住む腐れ縁の同級生だ。
 平たく言えば幼馴染ということになるだろうか。
 もっとも最近は恋人としてつき合い始め、肉体関係を持つようになった。
 あいつは学年一のチビで童顔、しかもロリータ丸出しの幼児体型なのだが、小さい時からずっとあいつを見てきた俺にとって、そんなのは些細なことだった。
 内気ですぐ真っ赤になるくせに、抱いてやると思いっきり乱れて、俺を求めてくる瑞希。
 ベタベタと俺に甘えてきて、意外と独占欲の強い、可愛らしい瑞希。
 俺はそんな瑞希が大好きだったし、あいつもこんな俺を好きでいてくれている。
 ささやかな幸福を日々感じながら、俺たちは平凡な学生生活を送っていた。
 そう、あの日までは。
 あの日、あの時までは、俺は退屈ながらも幸せな毎日を送る、ごく普通の男子高校生だったんだ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 その日の夕方、俺は瑞希と下校途中の通学路を歩いていた。
 瑞希は気弱な性格で、口数も少ない。俺も幼い頃から無口だったから、二人っきりで歩いていても静かなものだ。
 いつもならよく喋る友人が一緒なんだが、今日はたまたまいなかった。
「雨、降りそうだな」
「うん」
 空を見ると、嫌な灰色の雲が広がりつつあった。ひと雨くるかもしれない。
 今歩いているのは道路脇の歩道で、二人すれ違うのがやっとの狭い場所だ。
 人も車も大して通らないし、車道との間に柵もガードレールも設けられていないから、ついつい油断して道路にはみ出してしまうこともある。
 まあどうせ、交通量なんてほぼ皆無だから、それで危ないというわけでもなかったが。
 車道の向こう側には住宅の塀が並び、そのところどころが、スプレーで落書きされていた。
 俺も瑞希も毎日通る、至って普通の道だ。
 隣にいる瑞希の顔をちらちらのぞきつつ歩いていると、ふと、その俺の肩を瑞希がトントンと叩いてきて、言った。
「ねえ、祐ちゃん。前、前見て」
「ん? なんだよ」
 その言葉に顔を上げて前を見ると、その狭い歩道の真ん中を、一人の男が歩いているのが見えた。
 こちらを向いて、ゆっくり近づいてくる。互いの距離は二十メートルほどだろうか。
 よく見るとその男はまだ若く、俺たちと同じくらいの歳の少年に思われた。
 制服ではないがそれに近い、飾り気のないワイシャツとスラックスといういでたちである。
 うちの生徒ではないし、知り合いでもなかった。まったく見覚えのない少年だ。
 それなのに瑞希がわざわざ俺に注意を促したのは、そいつがかなりの――いや、俺も思わず目を見張るほど、完璧な優男だったからだ。
 まさに絶世の美男子といってもいいだろう。
 ちょうど彫刻か絵画のような、人間離れした美しい顔が頭部に張りついていた。
 隣を見ると、瑞希も俺と同様、ぽかんとした顔をして、そいつの美貌に見とれているようだった。
「すごく綺麗な人だね。祐ちゃん」
「ああ……でもあんまりジロジロ見るなよ。失礼だぞ」
「う、うん……」
 道路の脇の狭い歩道で、俺たちとその少年はだんだんと近づいていった。
 十五メートル、十メートル、五メートル。
 非常識なまでの美しい顔立ちが、もはや至近に迫っていた。
 道が狭いため、二人並んで少年とすれ違うことはできない。
 瑞希は何も言わず俺の後ろに回り、そいつのために道を空けた。
 少年は俺たちに一瞥を投げると、俺の横、ごく間近のところを歩いていった。
 俺も瑞希も何も喋らず、無言で少年の隣を通り過ぎた。
 通り過ぎたはずだった。
 しかし、次の瞬間。
 俺はいきなり背後から聞こえてきた悲鳴に、平静を失った。
「きゃあっ !? な、なに !?」
「瑞希っ !?」
 聞き慣れた幼馴染の声に後ろを振り返ると、その少年が瑞希の背後に回り、両腕を押さえつけているのが見えた。
 瑞希の持っていたカバンが歩道に落ち、ドサリと乾いた音をたてた。
「失礼。でも、できたら暴れないでくれると嬉しいね」
 少年は後ろから瑞希の腕を押さえ、完全に動きを封じている。
 不意の暴行に彼女は大騒ぎしたが、小柄な瑞希のこと、その抵抗にもさしたる意味はない。
「おい! 何してんだ、そいつを放せ!」
 俺は声をあげ、瑞希を助けようと少年に飛びかかった。
 いや、飛びかかったつもりだった。
 それなのに、どういうことだろうか。
「おっと、ストップ。君は動けない」
 その言葉と共に少年が片手を突き出すと、別に触れられているわけでもないのに、俺の体がその場にピタリと停止してしまったのだ。
 飛びかかろうとする不自然な姿勢のままで、俺は立ちすくんでいた。
「な――何だよこれ !? なんでだ、どうなってんだ !?」
 自分の体が動かない。まるで金縛りにあったかのように、自分の意思では動けなくなっていた。
 手も足も自分のものではないみたいに、ぴくりとも動かせなくなっている。
 辛うじて動くのは首から上、つまり顔だけだ。
 こんなことはありえない。何をされたわけでもないのに、体が固まってしまうなんて。
 信じられない現象に、俺はうめきながら少年をにらみつけることしかできなかった。
 その少年は、にこにこ笑って俺を見つめていた。
 男でさえ見とれるほどの美少年だが、今の俺はこの美貌に、恐怖を感じ始めていた。
 細く形のいい唇が、透き通った声をつむぐ。
「どうだい、びっくりした? ほら、全然動けないでしょ」
「お前、一体何をした !? 瑞希を放せ、この野郎!」
「放してあげるとも。僕の用事が終わったら、すぐにでもね」
 決して低くはない、どこか中性的な声。
 思わず聞きほれてしまいそうな心地よい響きだが、これもまた、どこか人間離れしていた。
 誰だこいつは、一体なんだ。なぜ瑞希に乱暴する? なんで俺は動けない? 何をされてるんだ?
 こいつは誰か、何者なのか。
 ひょっとして魔法使いとか超能力者なのだろうか。
 馬鹿げた問いが俺の脳内を飛び回り、得体の知れない危機感を煽り立てた。
「ゆ――祐ちゃ……!」
「瑞希、待ってろ! 今、俺がっ……!」
「それは無理だね。君は絶対に動けないもの」
 青ざめる瑞希を必死で励ます俺と、にこやかに微笑む少年。
 こいつの言うとおり、俺は全く動けず、瑞希を助けることもできなかった。
 だが、目の前で大事な女が危ない目に遭っているというのに、簡単に諦めるわけにはいかない。
「瑞希、瑞希っ!」
「ちょっと落ち着きなよ。落ち着いて、僕の話を聞いてくれないかな?」
「黙れ! 瑞希を放せっ!」
 少年は首をすくめ、やれやれとつぶやいた。そんな仕草でさえ、たまらなく魅力的な男だった。
「まあ聞いてよ。僕は何も、君を取って食おうってわけじゃない。ただ君に、ちょっと僕の手伝いをしてほしいだけさ」
「誰がそんなことするかよ! 瑞希を放せ!」
「祐ちゃん……」
 こいつの意図など知りはしないが、いきなり道端で人に襲いかかってくるようなやつに、協力できるはずがない。
 俺は再度動かない手足に力を入れたが、やはり俺の首から下は石にでもなってしまったように、ぴくりとも動かなかった。
「中川祐介君。君の経歴や性格、家族構成については調べさせてもらったよ。どうだい? 君は今の自分に満足してるかな?」
「…………」
 俺は叫ぶのをやめ、じっと少年をにらみつけた。
 なんだこいつは、警察か? いや、どう見ても違う。私立探偵……にも見えない。
 わずかな思考の末に俺が出した答えは、「謎の秘密組織のメンバー」なるものだったが、自分でも馬鹿馬鹿しい話としか思えなかった。漫画やテレビの見すぎだろう。
 だが事実として、俺と瑞希は現在、この謎の少年によって拘束されている。
 この辺はいつも人の通らないところで、運良く誰かが通りかかって人を呼んできてくれるというのも、あまり期待できそうになかった。
 くそ、わけのわからないことばかり口走りやがって。さっさと俺たちを解放して、どっか行きやがれ。
 視線に憎悪を込める俺だったが、こいつには無意味だった。
 少年はこちらを向いて楽しげに、にこやかに語りかけてくる。
「両親、学校の先生、そして周りの友達。その中には気に入らない人だっているだろうし、喧嘩することだってあるだろう。でも、もしそうした人たちを自分の自由にできるとしたら、周囲の人々を自らの意思で好き勝手に操れるとしたら、君はどうする?」
「お前、何言ってるんだ? そんなアホくさい話――」
「どうする?」
 俺の言葉を遮って、やつは同じセリフを繰り返す。
 なんなんだよ、こいつは。頭がイカれてるんじゃないだろうか。
 なんで俺が、こんな異常なヤツと会話しなきゃならんのか。
 怒りを通り越して呆れつつも、依然として俺の身体は自由にならなかった。
「自分で言うのも何だけど、僕はそこそこ芸達者でね。ちょうど今、君にこうやってるように、いろんなことができるんだ。わかりやすく言うと……そうだね、魔法使いとでも思ってくれたらいいよ。ミステリアスだけど、どこかお茶目で憎めない、楽しい楽しい魔法使いさ」
「……で、その魔法使いサマが、俺に何の用だ?」
「僕は今、人間の体と心について、いろいろ研究していてね。その一環として、ちょっと君に協力してほしいんだよ。悪いようにはしないから、ぜひ僕につき合ってくれないかな?」
 顔に笑顔を張りつかせたまま、少年は言った。
 だが、その言葉に薄気味悪いものを感じた俺は、全力でこいつを拒絶した。
「誰が協力なんかするか。早く俺たちの前から消えろ」
「いやいや、そんなこと言わないでよ。君にとっても決して悪い話じゃない。僕の魔法の力を分けてあげて、あれこれ実験台に――おっと失礼。とにかく君にも、僕と同じようなことができるようになってもらおうと思ってるんだ。これはホントにすごいことなんだよ。何でもできる、万能の力さ。親でも先生でも、誰だって言うことを聞かせることができて、誰も君には逆らえなくなる。どうだい? すごく魅力的なお話でしょ?」
 ……ちょっと想像してみてほしい。
 いきなり怪しげな自称魔法使いの少年が自分の目の前に現れて、自分を無理やり動けなくしたうえに、大事な女を人質にとって、「協力しろ、その代わりに魔法の力を分けてやるから」なんて言ってきたら、どうする?
 今、俺の心の中では、困惑と疑念と、こいつに対する反感が渦巻いていた。
 誰がこんなやつの言うことを聞けるか。うなずいたら即、魂を持っていかれるわ。
 そりゃ俺だって、普段の生活にまったく不満がないと言えば嘘になるが、だからってこんな怪しさ全開のうさん臭いやつの力を借りてまで、好き勝手しようなんて思わない。
 俺とこの少年の会話は、どこまでも平行線だった。
「そんなものいらん。いいから俺たちの体を動くようにしろ。それで瑞希を放せ」
「うーん。君は無欲だなあ、困ったね……。まあ、だからこそ君を選んだんだけどさ」
 俺の目をじっと見つめて少年が言う。
「ねえ、どうしてもダメかい? もう一度よく、じっくり考えてみてよ」
「断るっ! 早く俺と瑞希を放せっ! 何度聞いても無駄だ!」
「ふむ、にべもなしか……残念だよ」
 すると少年は軽くため息をついた後、一転、鋭い視線で俺を射抜いた。
 人をゾクリとさせる、何よりも冷えた黒の瞳だ。
 俺は恐怖のあまり、喉まで出かかった罵声を飲み込んでしまった。
「じゃあ、こうしようか」
 視線を俺から手元の瑞希に移し、少年が言う。穏やかだが、冷酷な声だった。
「僕の言うことを聞いてくれたら、この子――森田瑞希さんを解放してあげよう。でも、君が僕に協力してくれなかったら、瑞希さんは……そうだね。今、ここで消えてもらおうか。どう、この取り引きは? 単純でわかりやすくて、それにとっても効果的でしょ」
「くっ……!」
 今度は人質の瑞希を使い、俺を脅迫してくる。
 なんだこいつは。いったい何なんだ。いったい何をしようってんだ。
 わけもわからず危機的状況に直面させられ、俺はうめくことしかできなかった。
「ゆ、祐ちゃあん……」
 見ると、瑞希は恐怖に青ざめ、ぼろぼろ涙を流していた。
 人一倍臆病な瑞希が、いきなりこんな異常な状況下に放り込まれたのだ。無理もない。
 幼馴染の少女の泣き顔が、俺の心を激しく揺さぶった。
 もしこいつに何かあったら。こいつを失うことにでもなったら。
 そんな懸念を抱いてしまうほど、この少年の声は冷たかった。
 こんなイカれたやつなら、本当に今、ここで瑞希に危害をくわえかねない。
 とにかくここは、言うことを聞いておかなくては。
 俺はかすかに震える声で言った。
「わ、わかった……俺にできることなら何でもやってやる。だから瑞希には、手を出すな」
「祐ちゃあん……ごめん……」
「泣くなって。お前が悪いわけじゃないんだから」
 悪いのは全部この野郎だ。瑞希を泣かせやがって、絶対許さねえ。
「うん、わかってもらえたようで嬉しいよ。ありがとう」
 俺の答えに、にこにこした顔でうなずく少年。
 だが俺は、こんなやつに従う気は欠片もなかった。
 今は油断させておいて、何とか隙を見つけて逃げ出すなり、反撃なりするつもりだった。
 魔法使いだか何だか知らないが、見てろ。瑞希の安全さえ確保できたら、すぐにでも――。
 しかし、少年の次の言葉を、俺はとっさに理解できなかった。
「ところでさっきも言ったけど、僕は多芸でね。ある程度なら、人の考えてることがわかるんだ」
「……なに?」
「面従腹背、か。君は嘘をついたね。僕は嘘が大嫌いなの、知ってるかな?」
 澄んだ湖水のようなその声は、どこまでも暗く、冷たかった。
 聞くだけで俺の顔から血の気が引き、背中に冷ややかな何かが這い上がってくる。
「君はもうちょっと話がわかる人だと思ってたんだけど、残念だよ。仕方がないから、やっぱり君には一回、壊れてもらおうと思う。そうした方が、僕にとっても都合がいいしね」
 そう言うと、少年は羽交い絞めにした瑞希の体を手放し、軽く突き飛ばした。
 歩道から、そのすぐ隣の道路へと。
「きゃあっ !?」
 普段はろくに車も通らない、通学路の脇道だ。
 そこへ足を踏み入れたからといって、何がどうということもない。そのはずだった。
 だが、そのときだ。一台のトラックが道路を突っ走り、こちらにやってきた。
 引越し社の車で、側面には明るい感じの動物のイラストが描かれていた。
 一車線の狭い道路を、トラックは何かに急き立てられているかのように、猛スピードで走ってくる。
 そしてその道路の真ん中には、当然のように、今押し出されたばかりのツインテールの少女がいた。
 瑞希は動かない。驚いて硬直してしまっているのか、それともあの少年に動けなくされたのか。
 道路に突っ立ったまま、自分に向かって接近してくるトラックを見つめている。
 まずい、ここままじゃ――!
 俺は恐怖を感じて、喉から声を絞り上げた。
「瑞希ぃっ! 逃げろぉっ !!」
 その叫びに、瑞希が首だけを俺に向けて叫び返した。助けを求めて、俺の名を呼んだ。
「祐ちゃ――」
 だが俺は相変わらず微動だにできず、手を伸ばすことさえできない。
 動けない俺の目と、同じく硬直した幼馴染の瞳が合った。
 秒単位でしかない、ごくわずかな時間だが、確かに見つめ合った。
 トラックはそのままブレーキ一つ踏まず、瑞希に向かって突っ込んできて――。

 音は、聞こえなかった。

 無音の世界の中、小柄な少女の体が跳ね飛ばされるのが見えた。
 手を伸ばしたまま、空中でくるくると、冗談みたいに回転しながらはね飛んでいく。
 俺はその一連の動きを、目の前の情景の全てを、コマ送りのように見届けていた。
 一秒が数十に分割された静寂の世界では、全ての思考と感覚が鈍くなっていた。
 ぶつかられて、飛んで、回って、落ちた。
 音の消えた静かな空間で、唯一聞こえてきたのは、よく透るあの少年の声。
「いやあ、よく飛んだねえ。いいものを見せてもらったよ。僕に逆らうとどうなるか、これで君にもわかってもらえたかな? 今日はもう帰るけど、さっきの話、ちゃんと前向きに考えておいてね」
 その言葉と共に、少年は消えた。
 その場から消えるように、まるで最初からいなかったかのように消え失せた。
 あるいは、俺がやつの姿を認識したくなくなっただけかもしれない。
「…………」
 ようやく停止したトラックの、少し後方。
 道路の脇、コンクリートとアスファルトの境に「それ」が転がっていた。
 もう二度と動かない、ただの肉と骨の塊。
 俺はその物体を、呆けた視線で眺めることしかできなかった。


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