真理奈のいたずら 5

 教室に鳴り響いたチャイムの音に、森田瑞希は顔を上げた。
 黒板には、授業中に教師が熱心に説明していた内容の板書が残っていたが、瑞希のノートは真っ白のままだ。ちっとも授業に身が入らず、自分が何を聞いていたのかも満足に思い出せないありさまだった。
 教室の後ろの方を向くと、誰も座っていない椅子と机が二つずつ目に入る。片方の座席は、瑞希の彼氏である中川祐介のものだ。もう一方は親友の加藤真理奈の席である。二人とも教室にはいない。
(本当に、祐ちゃんも真理奈ちゃんもどこに行っちゃったんだろう。真理奈ちゃんはともかく、祐ちゃんは授業をサボるなんて真似、絶対にしないのに)
 一番親しくしている同性と異性の不在を、瑞希は怪訝に思った。
 今朝、授業が始まる前はどちらも教室にいて、瑞希と一緒だった。休み時間に二人ともふらりといなくなったとしか考えられないが、あの二人が自分に黙ってそんなことをする理由が、瑞希には思いつかなかった。
(もしかして、こっそり二人で抜け出して、どこかでいちゃいちゃしてるんじゃ……)
 不意に脳裏に浮かんだ想像を、首を振って打ち消す。あの二人の相性の悪さを考えれば、まずありえない話だった。
(祐ちゃんと真理奈ちゃん、めちゃくちゃ仲が悪いもんね。私はあの二人に仲良くしてほしいんだけどなあ……)
 祐介も真理奈も、瑞希に対してはすこぶる好意的だが、間に彼女がいないとすぐに喧嘩を始めてしまう。どちらも瑞希にとっては大切な存在なので、仲良くしてほしいと常々願っているのだが、現実はなかなか思うようにいかない。今朝のようにくだらないことで言い争う二人を見るのは、温厚で気弱な瑞希には甚だ辛いことだった。
「瑞希、先生が呼んでるよ」
「え?」
 突然クラスメイトからかけられた声に、瑞希は振り向く。教室の入り口にスーツ姿の若い女教師の姿があった。クラスの担任ではなく、世界史を教えている升田という教師だった。
「なんで升田先生が私に……いったい何の話?」
「さあ? とにかく呼ばれてるんだから行ってきなさいよ。あの先生はすぐ怒るから、機嫌を損ねちゃったら大変だよ」
「う、うん……」
 瑞希は首をかしげたまま、席を立って教室を出た。
「あの、升田先生。私に何かご用ですか?」
「うん。ちょっと瑞希──じゃない、森田さんに手伝ってほしいことがあるのよ。すぐに済むから、先生と一緒に来てくれないかしら」
 升田はいつになく親しげな笑みを浮かべて、瑞希を誘う。
「はい、それは構いませんけど……」
 うなずきながら、瑞希の表情はますます混迷の度合いを深めた。生徒を手伝わせるのはいいが、なぜわざわざ地味で目立たない自分を選んだのか。
 この教諭とは授業以外でほとんど会話を交わしたことがなく、顔と名前を覚えられていること自体が瑞希には驚きだった。
 升田はにこにこ笑って、弾むような足取りで瑞希を先導する。日頃から生徒に厳しく、些細なことで激昂する升田にしてはやけに上機嫌だ。
(何かいいことでもあったのかな、升田先生──あれ?)
 ふと奇妙な違和感を覚えて、瑞希は女教師の背中を眺める。
 どこがどうとははっきり指摘できないが、何かが普段の彼女と違っているような気がした。
(おかしいなあ。升田先生、いつもと雰囲気が違うような……気のせいかな?)
「あの、先生……」
「なーに? 森田さん」
 振り向いた升田の顔を瑞希は凝視する。やはり違和感は消えない。明るい茶色に染まった女教師の髪を眺めて訝しがる。
(あれ、升田先生って茶髪だっけ? たしか髪の色は黒だったような。それに、いつも眼鏡をかけてたような気がする。でも、今はかけてない。変だな……どうして私、こんなことを考えちゃうんだろう)
 理由はわからないが、今の升田を見ていると今ひとつぴんと来ない。つね日頃、見慣れているはずの教師が、なぜか別人のように思えた。
「どうしたの、森田さん。先生の顔に何かついてる?」
「あっ、い、いいえ……何でもないです」
 内心の動揺を気づかれまいと、瑞希は視線をそらした。
 再び歩き出した升田についていくと、やがて校舎を出て裏庭に着いた。ここには物置や園芸部の花壇があるだけで、この時間はまったく人の気配がない。
「先生、こんなところで何をするつもりですか?」
 辺りを見回して訊ねると、升田は唇を歪めて不敵な笑みを形作った。普段の厳格で生真面目な姿とはまったく異なる表情に、瑞希は目を見張る。
「ごめんね、瑞希。痛くはしないから、ちょっと我慢して」
 と言って、升田はいきなり瑞希の顔を押さえつけた。
「せ、先生っ、何をするんですかっ」
 突然の女教師の乱行に、瑞希は動転した。そんな瑞希の顔を升田は両手で挟み込み、力一杯ねじり上げてくる。
 首が折れるかと思った瞬間、瑞希の三半規管が悲鳴をあげた。ありえない角度で視界が傾き、気が遠くなった。
(な、何? いったい何が起きたの?)
 我に返ると、瑞希の手足は一切動かなくなっていた。指の一本すら動かすことができない。動かせないだけでなく、四肢の感覚が綺麗さっぱり消失していた。
 自分は今、間違いなくこの場に直立しているはずなのに、脚にかかる体の重みや、足の裏で地面を踏みしめる感触が無い。あたかも足のつかない深い水に浮かんでいるような、奇妙な感覚だった。唯一残っているのは、自分の頬を押さえている女教師の手の触感だけだ。
(か、体が動かない。私の体、どうなっちゃったの……)
 首さえも曲げられず、瑞希は眼球だけを下に向け、必死で事態を把握しようとする。見下ろした先には、セーラー服を着た小柄な少女が横たわっていた。
 ここには自分たちの他は誰もいなかったというのに、この女生徒はいつの間に現れ、地面に倒れたのだろうか。
 それを考える前に、瑞希の目はその少女の体に首がついていないのを捉えた。驚くべきことに、首無しの女子生徒が倒れているのだった。
「きゃあああっ !? な、何なのこれぇっ!」
「ほーっほっほ! 驚いた、瑞希? そこに倒れてるのはあんたの体よ。自分の背中を観察する機会なんて滅多にないんだから、じっくり見ておきなさい」
 すぐ後ろから聞こえてきた升田の声に、瑞希はぎくりとする。振り向くことができずに難儀していると、升田は瑞希の首をくるりと回して自分と向かい合わせた。不気味に笑う升田の表情に、瑞希は恐怖を感じた。
「先生、これはどういう……」
「ふふっ、まだあたしのことがわかんないの? 仕方ないわねー。術を解いてあげるから、あたしの顔をよく見なさい」
 升田は瑞希の額に手を当てて、指先で小さな円を描いた。何をしているのか瑞希には見当もつかなかったが、その行為が終わった途端、瑞希は自分が大きな思い違いをしていたことを悟った。
「ま、真理奈ちゃん? 升田先生じゃなくて真理奈ちゃんなの……?」
「ふふん、やっとわかったみたいね。そうよ、あたしは真理奈。今まで魔法の力で升田のふりをしてたのよ。全然気づかなかったでしょ? まあ、首から下はホントにあのオバサンの体になってるんだけどさ」
 けらけらと楽しげに笑う女。彼女は世界史の教師などではなかった。その正体は瑞希の友人の少女、加藤真理奈だったのだ。
(ま、升田先生が真理奈ちゃん? 一体どうなってるの……)
 瑞希は真理奈の腕の中で、目を白黒させた。どのような仕組みになっているのか瑞希には理解できないが、今の自分は首だけが体から切り離された状態になっているようだ。
 その瑞希の生首を持ち上げているのは升田ではなく真理奈だった。高校生にしてはややけばけばしい化粧に、光沢のある茶色の髪。実年齢よりも年上に見られがちな、華のある美貌。決して他の誰かと見間違うはずのない親友の顔を、なぜまったく別人の女教師のものだと思い込んでいたのだろうか。
 混乱する瑞希の黒髪を、真理奈の手が優しく撫でた。
「さっきも言ったけど、今のあたしは魔法使いなの。升田と身体を交換したり、瑞希の頭の中をちょっと操作して勘違いさせたり、その気になれば何でもあたしの思い通りにできるのよ。おーっほっほっほっ!」
「よくわからないけど、こんなの困るよ……早く私を元に戻して、真理奈ちゃん」
 べそをかいて懇願する瑞希に、真理奈は不遜な態度でちっちっと指を振ってみせる。額に円形の文様が描かれ、うっすらと緑色に輝いているのが不思議だった。
「ダメダメ、あたしはもっと楽しみたいの。そのためにちょっとの間、あんたの体を貸してもらうわよ。瑞希」
「え? ど、どういうこと?」
 困惑していると、真理奈は瑞希の頭を小脇に抱え、もう片方の手を自らの顔の方に移動させた。「よいしょ」と短いかけ声が聞こえる。
 何をしているのか瑞希の位置からはよく見えなかったが、しゃがみ込んだ真理奈の腕が抱えているものが視界に入り、思わず息を呑んだ。
 それは真理奈の生首だった。瑞希と同じように、真理奈も自分の首を取り外したのだ。
「ま、真理奈ちゃんの首が取れちゃった !?」
 肝をつぶす瑞希の目の前で、首無しの真理奈は取り外した自分の頭部を、地面に倒れている女生徒の体にそっとあてがう。頭部のない小柄な女子高生の身体。それはまぎれもなく瑞希のものだった。
 だが、その肩に真理奈の頭が載せられた途端、ぴくりとも動かなかった身体が起き上がり、瑞希に見せつけるようにして己の手足を動かし始めた。
「わ、私の体に真理奈ちゃんの頭がくっついてる……」
 自分の肢体と真理奈の首が結合している。そんな奇妙な光景に、首だけの瑞希は吃驚せずにはいられなかった。
「ふふふ、大成功。瑞希の体だから、やっぱり目線が低いわね。あんたの身長、たしか百五十ないんじゃなかったっけ?」
 瑞希の肉体を乗っ取った真理奈は、腕組みをして顔に喜色を浮かべた。腕白な子供が悪戯を成功させたときに見せるものと同じにやりとした表情に、瑞希は激しい胸騒ぎを覚えた。
「真理奈ちゃん、こんなのやめて。私の体を返してよ」
「はいはい、わかってるって。あんたの首もちゃんと体にくっつけてあげるから」
 真理奈は瑞希の頭をひょいと持ち上げて、嬉しそうに頬擦りしてくるが、彼女の不安は消えるどころか、ますます大きくなるばかりだ。
「うーん……でも、あんたの体はあたしが使用中だし、どうしようかしら。おやっ? こんなところに升田先生の首無しボディが転がってるわねー。ちょうどいいわ、瑞希。あんた、この体を使わせてもらいなさいよ」
 わざとらしい口調でべらべらと喋り続けたかと思うと、真理奈は足元にへたり込んでいるスーツ姿の女性の体を指差した。女教師の升田の体だ。
「ええっ !? そんなのダメだよ。先生の体なんて──ああっ、ダ、ダメぇっ」
 思いがけない発言に目を剥く瑞希の頭を、真理奈は無理やり升田の体に載せてしまう。消失していた手足の感覚が唐突に蘇り、瑞希は視線を下におろした。目に飛び込んでくるのはセーラー服を着た小柄な女子高生の体ではなく、肉感的なボディラインをぴっちりしたスーツで包んだ、妙齢の女教師の肉体だった。
「い、いやあっ。私の体が……」
 あまりに変わり果てた自分の姿に、瑞希は失神してしまいそうになる。これが自分の体だと、にわかには信じられなかった。
「なーに暗い顔をしてんの。もっと喜びなさいよ。ちょっと年増だけど、ムチムチしててなかなかセクシーな体じゃない。胸だって、ほら。あんたの洗濯板とは大違い。得したわねー、瑞希」
「そんなあ、こんなのやだよう……」
 早熟の真理奈とは違って、童顔の瑞希は年少に見られやすい。俗にツインテールと呼ばれる二つ結びの髪型もそれの一因となっており、私服で街を歩いていると、小学生に間違えられることさえある。そんな瑞希の顔に、女教師の艶かしい身体が合体しているのは非常にアンバランスだった。
(どうしよう。こんな体になっちゃったら、祐ちゃんに嫌われちゃうよ……)
 面妖な自分の外見を脳裏に思い浮かべて、瑞希はうつむき涙ぐむ。もしもこんな姿を思い人の祐介に見られたらと思うと、背筋が寒くなった。
「大丈夫、大丈夫。結構似合ってるわよ。もっと自信を持ちなさいって」
 瑞希とは反対に背の低い女生徒の体になった真理奈が、そう言って慰める。こちらも真理奈の大人びた顔立ちに瑞希の小さな身体が合わさっているので、随分と違和感のある容姿だったが、それでも今の瑞希ほどではない。
「ひどいよ、真理奈ちゃん。私の体を返してよう。ううう……」
 瑞希は地面に膝をついて、子供のように泣き崩れた。自分の体を奪っておきながら、気楽に振る舞う真理奈を恨めしく思った。
「瑞希、そんなに泣かないでよ。悪いようにはしないからさ」
 真理奈は瑞希の首に腕を回して抱きしめた。妖しい光を放つ瞳が、瑞希の目を至近からまじまじとのぞき込んだ。心臓の鼓動が速まる。心がざわめいて、穏やかではいられなかった。
「な、何するの? 真理奈ちゃんの目、なんだか怖いよ……」
「ううん、大丈夫よ。あたしの目をじっと見て。だんだん落ち着いてくるはずだから」
 真理奈の高い声が瑞希の聴覚に染み渡った。彼女の言う通り、こうして大事な親友と目を合わせていると、胸中の不安が少しずつ和らいでいく。
(あれ、どうしたんだろう。なんだかとってもいい気分……)
 赤子が母親に抱かれているのと同種の安らぎが瑞希を包み込んだ。とろんとした彼女の眼差しに、真理奈はさらに笑みを深くする。ひざまずいた瑞希を抱きしめて、耳元に口を寄せた。
「ふふふ、うまくいったわ。これであんたはあたしの言いなりよ。いいわね、瑞希?」
「うん、わかった。私は真理奈ちゃんの言いなりになる……」
 真理奈の尊大な物言いにも、瑞希はあっさりうなずいてしまう。抗う意思も戸惑いも失せて、眼前の娘に服従する喜びだけが瑞希を支配していた。
「よしよし、いい子ね。じゃあ、今からあたしの言うことをよく聞きなさいよ。まず、あんたの首から下についてる体は誰のものかわかる?」
「えーっと……たしかこれ、升田先生の体だよね」
 瑞希はぼんやりとつぶやき、自らの身体を撫で回した。真理奈によって首をすげ替えられてしまったため、瑞希は他人の体になっている。今はこの熟れた女体が自分の所有物なのだと、改めて思い知らされた。
「その通り、あんたの首から下は升田の体よ。瑞希の体はあたしがもらったわ。あんたは今から升田になるの。二年C組の森田瑞希はあんたじゃなくて、このあたし。いいわね?」
「私が升田先生? あれ、そうだっけ。ホントにそれでいいのかな……」
「そうそう、それでいいの。だって手足も胴体も、服だって交換しちゃったんだもん。今のあんたはどこから見ても升田よ。誰も瑞希だなんて思いはしないわ。あたしが森田瑞希で、あんたは世界史教師の升田先生。OK?」
 真理奈の言葉が鼓膜を揺さぶり、瑞希に新たな認識を植えつける。自分は生徒ではなく教師なのだという思いが、瞬く間に心を塗り替えていった。
「うん、いいよ。私は升田先生で、あなたは生徒の森田さんね……」
 瑞希は従順に同意し、女教師となった己の立場を受け入れた。真理奈の話によると、今の自分には魔法がかけられ、他の人間からも升田だと認識されるようになっているらしい。他人の心を操る黒魔術の力が遺憾なく発揮されていた。
「私は升田先生──そうだ、私は先生なんだ」
 目から鱗が落ちたように納得する瑞希を見て、真理奈はにやにや笑っている。
「そうですよ、先生。やっと目が覚めたみたいですね。でも、こんなところでぼーっとしてていいんですか? そろそろ休み時間が終わっちゃいますけども」
 その指摘に彼女ははっとさせられ、慌てて立ち上がる。ちょうど次の授業の開始を告げるチャイムが聞こえた。
「いけない、早く職員室に戻らなくちゃ。森田さんも次の授業に遅れないように急いでね」
「はいはい、わかってますって。先生も授業、頑張って下さいね。ふふふ……」
 不気味に笑う女生徒と別れ、瑞希は豊満な肢体を躍らせて廊下を急ぐ。
(ああ、早く教室に行って授業を始めないと。先生なのに遅刻なんてしたら、生徒たちに笑われちゃう……)
 教師の肉体と立場を与えられた瑞希の頭の中からは、自分の体が真理奈に奪われた記憶は綺麗さっぱり無くなっていた。


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