真理奈のいたずら 6

「えっ、もう帰ったって !?」
 祐介の素っ頓狂な声が、休み時間の教室にこだました。
「うん、升田先生は急に体調を崩して帰っちゃったわよ。一体どうしたのかしらね。心配だわー」
 森田瑞希は自分の席に座ったまま、祐介を見上げて言う。突然の教師の早退に彼女も驚いているようだが、祐介にとってはめまいを覚えるほどに衝撃的な知らせだった。
「そ、そんな。それじゃあ、もう校内にはいないのかよ……」
 顔が青ざめ、全身から力が抜けていく。真っ直ぐ立っていられなくなり、瑞希の机に手をついて体を支えた。
(くそ……加藤のやつ、升田先生の体で学校を抜け出しやがったのか。どうしたらいいんだ。あいつがいないと、俺たちは元の体に戻れないのに……)
 慨嘆する祐介の身体は、祐介自身のものではなかった。
 クラスメイトの女子、加藤真理奈の黒魔術によって首をすげ替えられてしまい、真理奈の体を押しつけられてしまったのだ。頭部だけは祐介のままで、首から下は真理奈の体。現在の彼はそんな奇怪極まりない姿だが、奇妙なことに教室にいるクラスメイトたちは、誰一人として祐介の外見に疑問を抱かない。
 これもやはり真理奈のしわざで、今の祐介は周りの人間からは、「加藤真理奈」本人だと認識されているらしい。首から下が真理奈の体とはいえ、顔や髪型はまぎれもなく祐介自身のものであり、とても女性に見えるはずはないのだが、真理奈の魔法はそんな常識をいとも簡単に打ち破った。
 祐介のことをよく知っている友人たちも、毎日顔を合わせている教師たちも、そして彼の恋人である森田瑞希でさえも、今の祐介を真理奈と呼ぶ。真理奈の魔法は、単に祐介の首をすげ替えたばかりでなく、首から下の体に合わせて周りの人間の知覚さえも変えてしまったのだ。まさに奇妙奇天烈としか言いようのない、驚くべき魔性の力だった。
 こうして己の肉体だけでなく、名前や立場さえもそっくり奪われてしまった祐介は、一刻も早く真理奈を見つけて、全てを元通りにさせなくてはならなかった。
 だが、既に彼女はこの学校を抜け出して行方知れずという。
「手遅れか……困ったわ。一体どうしたらいいの……」
 大いに落胆する祐介の隣で、升田がうめいて天を仰いだ。
 世界史の教師である升田も、今回の騒動の被害者だった。真理奈は祐介と肉体を交換したあと、次は升田に襲いかかり、祐介と同じようにして彼女の体を奪い取ってしまったのだ。そのため、今の升田の首から下は、なんと祐介の体になっている。
 黒髪のショートヘアに眼鏡をかけた理知的な女性の顔に男子高校生のたくましい肉体が融合しているのは、実に滑稽な姿だったが、当事者である二人にとっては笑いごとではない。
 全ての元凶である真理奈が姿をくらましてしまったと聞かされて、祐介と升田は顔を見合わせ、憮然として立ち尽くした。
「二人とも、どうかしたの? そんなに変な顔をしちゃって」
 瑞希は途方に暮れる升田と祐介を、不思議そうに見比べる。何も知らない瑞希は、なぜ世界史教師の早退の知らせに「真理奈」と「祐介」がこれほどに意気消沈しているのか、理解できないのだろう。
「ううん、何でもないのよ。森田さんは気にしないで」
 升田が無理やり笑顔を作ってそう答えると、瑞希はますます首をかしげる。
「祐ちゃん、どうしてそんな喋り方をするの? 女の子みたいで気持ち悪いんだけど……」
「あっ。そ、そうね……いや、そうだな。ごめん、気をつけるよ」
 升田はばつが悪い様子で、不承不承、自らの言葉遣いを正した。生真面目な女教師にとって、荒っぽい男の口調で話すのは実に辛いようで、ひとこと喋るたびに顔を赤くして言い直していた。
「あのさ、瑞希。ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
 祐介もできるだけ真理奈らしい喋り方を装って、瑞希に話しかけた。
「何? 真理奈ちゃん」
「俺……いや、あたしは誰に見える?」
「もう、真理奈ちゃんも何を言ってるの? 真理奈が真理奈でなかったら、いったいどこの誰なのよ」
 瑞希はくすくす笑った。祐介の問いをくだらない冗談だと思ったらしい。
「ああ、それはわかってるんだけどさ……あたしの顔、本当に女に見える?」
「うん、見えるわよ。可愛いって感じじゃないけど、凛々しくてカッコいいと思う。もしも真理奈が男だったら、絶対にイケメンになってるわよねー」
 瑞希の答えに祐介は驚いた。今の自分は他人から加藤真理奈の姿にしか見えないのかと思っていたが、それは少し違うようだ。
「じゃあ、髪の毛は。瑞希、あたしの髪の毛は何色に見える?」
「髪? 真っ黒いショートヘアじゃない。え、もしかして髪型を気にしてたの? 大丈夫よ。よく似合ってるから安心しなさいって」
 瑞希は手を伸ばして、励ますように祐介の背中を軽く叩いた。彼女の言葉を信じるならば、今の祐介の顔は真理奈のではなく、祐介自身の顔や髪型のままで周囲に認識されているらしい。
 しかし、それではとても真理奈には見えないのではないだろうか。祐介は改めて現状に疑念を抱いた。
「瑞希、それっておかしくない? あたし、今朝は髪は茶色に染めてなかったっけ」
「あれ、そうだっけ? そう言われるとそうだったような気もするけど、でも違う気をするし……うーん、あんまりよく思い出せないわね。おかしいなあ。他でもない真理奈のことなのに、なんで覚えてないんだろ?」
 瑞希は近視眼者のように目を細くして祐介の顔を見つめ、記憶の中にある真理奈の姿を思い出そうとした。しかし、それもすぐに首を振ってやめてしまう。
「まあ、とにかく今の真理奈におかしなところは何もないから、大丈夫だって。胸はでかいし脚は長いし、ホントに真理奈が羨ましいわー。あたしのお子様体型と取り替えてほしいくらいよ。あっははは……」
 冗談混じりに言って、瑞希は白い歯を見せた。祐介は調子を合わせて笑いながらも、内心では複雑な思いだった。
「ねえ、話があるからこっちに来て」
 瑞希との話が終わったのを見計らい、升田が祐介の手を引いて廊下に連れ出す。
「どうしたんですか、先生?」
「どうしたもこうしたもありません。森田さんと楽しくお喋りするのはいいけど、中川君はこれからどうするつもり? 私たちをこんな風にした加藤さんは、もう学校にはいないのよ。あの子を見つけない限り、私たちは元の体に戻れないのに……」
 周囲に聞こえないよう、小声で話す升田。眼鏡の奥の黒い瞳が不安に揺れていた。
「どうするつもりって……どうしたらいいんでしょう」
「どこに行ったのかわからないけど、とにかく加藤さんを捜しに行く? それとも、また加藤さんが戻ってくるかもしれないって、ここで待つ?」
「うーん……捜しに行くのはちょっと難しそうですね。あいつが学校以外でどこに行くかなんて、見当もつきませんよ」
「やっぱりそうよね。そうなると、このまま学校で待つしか手はない、か……」
 升田はため息をついた。都合よく真理奈が戻ってくるとは限らないが、校外に逃走してしまった彼女をこちらから捜索するのは不可能だ。戻ってくるか、あるいは事態が好転するのを信じて、今は待つしかない。
 相談の末、二人は教室で授業を受けながら、真理奈が戻るのを待つことにした。
「はあ……どうして私が今さら高校の授業を受けないといけないのかしら。しかも女じゃなくて、男の子としてだなんて……」
「我慢して下さい。今の先生は俺になってるんですから。でも、先生はまだましです。俺なんて加藤の体ですよ? こんな格好で授業を受けるなんて、恥ずかしくてしょうがないのに……」
 祐介は自分が身につけている膝丈のスカートをつまんで、がっくりと肩を落とした。
 真理奈の魔術の効果によって、今の彼の格好を誰も不審には思わない。かといって、女の体になっている恥辱が消えるわけでもなかった。
 升田は祐介の情けない表情を見て、くすりと笑う。
「うふふ、そうね。たしかに中川君よりはましかもしれないわ。こうなったらお互い開き直って、いつもとは違う自分を演じましょう。ひょっとしたら加藤さんが戻ってくるかもしれないし、それまで教室で大人しくしておくのがいいわね」
「はい、そうですね……とほほほ」
 祐介は升田と二人で教室に戻り、真理奈の席に腰かける。俺は加藤真理奈、今の俺は加藤真理奈だと胸の内でつぶやきながら、次の授業に備えて真理奈のカバンの中からしわくちゃの教科書とノートを取り出し、机の上に広げた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 放課後、祐介のもとに瑞希がやってきた。
「真理奈ちゃん、一緒に帰ろうよ。祐ちゃんと一緒に、三人でさ」
「え? あ、ああ……わかった」
 祐介は戸惑いながら瑞希を見返す。小柄な少女の隣には、男子生徒の制服を着た女教師の姿があった。その表情からは、今の状況に対する彼女の失望が窺える。
 結局、あれから真理奈が学校に戻ってくることは一切なく、祐介も升田も手の打ちようがなかった。仕方なく教室で授業を受けていたのだが、教師の話はほとんど何も聞いていなかった。ただ呆然として時を過ごした。
「加藤さんがどこにいるかわからないんじゃ、どうしようもないわね。とりあえず、今日のところはこのまま帰りましょう。私は中川君の家に帰るから、中川君は加藤さんの家に行きなさい。今の私たちは入れ替わってるんだから、そうしないと不自然よ」
 先ほど、升田はそんな提案を密かに祐介に伝え、祐介もそれを了承していた。自分が真理奈の家に行き、見知らぬ人間の前で彼女を演じるというのは非常に不愉快なことだったが、今の祐介は誰からも「加藤真理奈」としか認識されないため、他に選択肢はない。
 頭部以外の肉体と立場を交換させられてしまった以上は、升田は祐介として振る舞い、祐介は真理奈になりきるしかなかった。
(いったい俺は、いつ元の体に戻れるんだ。加藤のやつ、絶対に許さねえ……)
 沸々とこみあげる怒りを胸に秘めて、祐介は瑞希と升田のあとに続いて教室を出た。自分が女の体になって、白と紺のセーラー服を着ていることに激しい嫌悪感を覚えた。まして嫌いな相手の体であれば、ますます苛立ちが募る。
「真理奈ちゃん、どうしたの? そんな怖い顔して……何かあった?」
 前を歩く瑞希が振り返り、怪訝な表情を浮かべた。祐介は「何でもない」と首を振る。本当は自分が祐介なのだと訴えたかったが、瑞希は彼のことを真理奈だと完全に信じ込んでいる。歯がゆい思いで少女の背中を見つめた。
 祐介の気持ちも知らず、瑞希は隣を歩く升田と手を繋いで笑っている。
「ねえ、祐ちゃん。帰りにうちに寄っていかない? 勉強でわからないところがあるから教えてほしいのよ」
「わ、私──じゃない、俺に言ってるの?」
 升田は突然のことに面食らい、まばたきを繰り返した。
「当たり前よ。祐ちゃんはあたしの彼氏なんだから、かわいい彼女の勉強につき合ってくれたっていいでしょ?」
「お、俺が森田さんの彼氏 !?」
「そうよ。今さら何言ってるの? あたしと祐ちゃんは相思相愛の恋人同士じゃない。『森田さん』なんて他人行儀な呼び方しないで、ちゃんと瑞希って呼んでよ」
 瑞希は微笑んで升田の体にもたれかかる。
 自分に向けられるべき少女の好意が、まったく関係のない女教師に向けられていることに、祐介は不満を隠せない。
「瑞希、俺も──いや、あたしも瑞希の家に行っていい?」
 二人を見ていられず、そんなことを口走っていた。瑞希は笑顔でうなずく。
「真理奈ちゃんも? うん、いいよ。皆で仲良く勉強しよっか」
 すると升田が祐介に近づき、彼の耳にそっと口を寄せてきた。
「ねえ、中川君。森田さんとはどういう関係なの?」
「どうもこうも……まあ、一応はつき合ってますよ。互いの家が近くて、小さい頃から学校とかずっと一緒だったんで、いつの間にかつき合うようになったんです」
 デリケートな話題に触れられて、祐介は仏頂面で答えた。
 自分のプライバシーを教師に明かすのには抵抗があったが、この状況下ではやむを得ない。
「ふうん……まあ、交際するのはいいけど、気をつけなさいね。あの子、けっこう遊んでそうな顔をしてるから、二股かけられたりしないように」
「な、何を言ってるんですか。うぬぼれるわけじゃありませんけど、あいつは俺一筋です。  他の男と遊ぶなんて真似、瑞希には絶対にできませんよ!」
 升田の口調がしゃくにさわり、祐介はむきになって言い返した。あんなに内気で臆病な少女をつかまえて、何という言いぐさだろうかと腹が立った。
「あら、そうかしら? こんなことを言ったら悪いけど、森田さんって何だか派手だし、喋り方にも品がないし、あんまり信用できそうにないのよね。最近の高校生って、皆あんな感じなのかしら」
「そんな馬鹿な。あいつが派手だなんて、そんなはずは──」
 反論しようとした祐介だが、振り返った瑞希の顔を見て、あとに続く言葉を飲み込んでしまう。
 理由はわからないが、こちらを向いて不敵な笑みを浮かべる少女の姿に、得体のしれない何かを感じた。
(なんだ? 瑞希のやつ、なんだかいつもと雰囲気が違うような……)
 十年以上も共に過ごした幼馴染みの顔を、しげしげと眺める。
 高校生にしては少し派手な化粧も、明るい茶色に染められたミディアムヘアも、にやにや笑う華のある顔立ちも、彼女の全てが祐介の恋人である森田瑞希のものに間違いなかった。
(いや、やっぱり俺の勘違いだな。瑞希はいつもの瑞希だ。当たり前じゃないか……)
 どうやら自分の思い過ごしだったようだ。瑞希のことを悪く言われ、冷静さを欠いてしまったためだろう。
 突然大声をあげたり、ひとりで納得したりする祐介に、升田は呆れた顔をしていたが、再び瑞希の隣に移動すると、他愛のないお喋りを始めた。祐介はその様子を後ろから眺め、静かに物思いにふける。
(そうだ、早く俺の体を取り戻さないと、瑞希も困るだろうな。何しろ今の俺たち、女同士だもんな……)
 自分が着ているセーラー服の胸元で揺れる、豊かな膨らみを撫でる。
 この二つの大きな乳房は、本来は加藤真理奈のものだった。堂々たるサイズを誇るこの胸を、真理奈はしばしば瑞希に自慢していたものだ。背が低くて幼児体型の瑞希は、それを羨ましそうに眺めるのが常だった。
(あーあ、こんな馬鹿でかい胸、瑞希にくれてやりたいよ……)
 祐介は嘆息した。肩が凝りそうなほどの乳の重みが疎ましかった。
 そのうちに一行は瑞希の家に到着した。瑞希の母親は買い物に出かけているらしく、家には誰もいない。「ラッキー、ちょうどいいわ」と、瑞希が口笛を吹いた。
「何がちょうどいいの、瑞希?」
 祐介が問うと、瑞希は舌をぺろりと出して笑った。
「ううん、何でもない。ママがいないから、冷蔵庫の中を漁り放題だなって思っただけ。飲み物とお菓子を持っていくから、二人は先にあたしの部屋に行っててよ」
 その言葉に従い、祐介は升田を連れて瑞希の部屋へと向かう。ほどなくして盆に載ったアイスコーヒーとチョコレートケーキが運ばれてきた。
「ところで瑞希、勉強を教えてほしいって言ってたけど、何の科目がわからないんだ? いや、わからないの?」
 ケーキを口に運び、祐介は訊ねた。日頃、甘いものはそれほど好きではなかったが、今はとても旨いと感じる。首から下が真理奈の体になったことと、何か関係があるのかもしれない。
「うーん、そうねえ……じゃあ、世界史にしとこうかしら。世界史がさっぱりわかんなーい、ってことで」
「『じゃあ』って何だよ。あんなもん、適当に暗記しておけばそれでいいだろ。いや、いいでしょ」
「いいえ、それは違うわ。あなたたちは勘違いしてるみたいだけど、歴史は単に人物や出来事の名前を覚えたら、それでいいってものじゃないのよ」
 急に横から割り込んできた升田の声に、祐介は驚かされる。この堅物の世界史教師にとって、今のは聞き流せない発言だったようだ。
「森田さん、ノートを見せてちょうだい……ううん、見せてくれよ。俺がわかりやすく教えてやるからさ」
「うん、ありがとう。頼りにしてるわよ、祐ちゃん」
 瑞希は嬉しそうに世界史のノートと座卓を取り出し、元女教師の男子高校生に教えを乞う。熱心に指導を始めた升田を前にして、祐介の出る幕はなかった。
(ちえっ、瑞希のやつ、俺のことを無視しやがって……まあ、しょうがないか。何しろ今の俺は、馬鹿のお調子者で有名な加藤真理奈になってるんだもんな。瑞希が加藤に勉強を教えてくれなんて、言うわけないか)
 祐介はその場で仰向けに寝転がる。急に眠気を感じて、無性に横になりたかった。
(あれ、何だかやけに眠いな。どうしたんだ、俺。疲れてるのか? まあいい。ここは升田先生に任せて、俺はひと眠りさせてもらうか……)
 目を閉じて心地よいまどろみに身を委ねる。
 柔らかなカーペットの上で祐介は意識を手放し、安らかな寝息をたて始めた。


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