きっかけは、実に些細なことだった。 ヒカルは普段から慌て者で、その上寝起きが悪く、よく友人たちにからかわれている。 そのため朝、遅刻しそうになったり、授業中居眠りをして教室移動に遅れたりすると、ところ構わず全力疾走して、あちらこちらにぶつかって頻繁に生傷を作るはめになる。 意地の悪い友人に言わせると、「安全地帯から見てる分には面白いやつ」ということになるが、当の彼女にしてみれば、横で傍観してないでとっとと起こせと文句の一つも言いたくなるところだった。 その日もヒカルは、休み時間も終わり際になってから、次の授業が行われる校舎の反対側の化学室へ向かおうと、急いで廊下を駆けていた。 何度も通行人とぶつかりそうになりながらも、階段に差しかかったときだった。 下りようとして、盛大に足を踏み外してしまった。 「わあっ !?」 ヒカルは悲鳴をあげて転落し、段差で全身を打撲しながら頭から床に突っ込んだ――はずだった。 しかし、ふと気がつけば、彼女の体は空中でしっかりと抱き止められていた。 たまたま下にいた男子生徒に助けてもらったとわかったのは、その彼が受け止めたヒカルの顔をのぞき込み、「大丈夫?」と優しい声をかけてきてからだった。 「はい、大丈夫です」と答えようとしたヒカルだったが、今まであまり男と接触したことのない自分が、初対面の男に抱かれて至近距離で見つめ合っているというのは、慌て者の彼女の平静を失わせるのに充分な事態だった。 ろくに礼も言えず、真っ赤になってじたばた暴れるヒカルの姿に気づいたのか、男子生徒は「あ、ごめん」と言って彼女の体を放してくれた。 「す、すいません。ありがとうございます」 「大丈夫だった? ケガとかしてない?」 改めて向き合った男子生徒は、どうやら上級生のようだった。 いかにも真面目で人の良さそうな、落ち着いた雰囲気がよく似合う少年だ。 美男子と言っていい凛々しい顔立ちに見とれてしまい、ヒカルは思わず息を吐いた。 「……はあ」 「? どうかした?」 そのまま周囲の時を止めて少年に見入っていたヒカルだが、不意に聞こえてきたチャイムにようやく我に返った。 「げっ、鳴っちゃった!」 慌てて散らばった教科書やノートを拾い集めると、ヒカルは少年に一礼して駆け出した。 「どうも、ありがとうございました!」 男子生徒はにっこり笑ってうなずき、ヒカルを見送ってくれた。 一目惚れだった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「はあ? あんた正気?」 休み時間に夏樹は開口一番、そう言って眉をつり上げ、ヒカルの神経を逆撫でしてみせた。 夏樹は小学校時代からのヒカルの悪友で、歯に衣着せぬ言動を好む。 本人は正直者だからと主張するが、ヒカルにしてみれば、単に口が悪いだけである。 その夏樹の眼鏡に冷たい視線を浴びせ、ヒカルは不機嫌極まりない声で言った。 「いきなり何よ。あたしが男の人を好きになっちゃおかしいっての?」 「んー、一応あんたも女の端くれだし、別に片想いするなとは言わないけどさ……。でもさあヒカル、やっぱりそれ、諦めた方がいいよ」 「なんでよ」 その問いかけに、夏樹は若干の優越感を含んだ顔でヒカルを眺めやった。 何も知らないのだな、と彼女の無知をあざ笑うような表情だった。 「いい、あんた知ってる? 二年の水野先輩だよ。その辺の有象無象とはわけが違うって」 「なに、あの人そんなにモテんの?」 「もー、モテるなんてもんじゃないね」 当たるはずのない超大穴を狙う、無謀な人間を目にした者は、概してこういった顔をするものなのだろう。 ちっ、ちっと人差し指を振って得意げに話を続ける夏樹をいつ張り倒したものかと、密かに思案をめぐらせる。 「二年B組、水野啓一さん。成績は五教科どころか音楽、美術に至るまで隙なしで、毎回学年トップクラス。しかも運動神経も抜群で、あの人がいるからうちの弱小サッカー部はまともに試合できてるようなもんよ。そんでもってあの通りカッコイイから、下級生の間じゃファンクラブなんてできてるし、隠し撮りしたあの人の写真が裏で高価で売買されてるとか、手作りのお菓子がドラッグみたいに闇取引されてるとか、いろいろ噂が絶えないわ」 「お菓子?」 「家で料理するんだって、あの人。それで人から何かもらったら、お返しに手作りのクッキーとかあげるらしいよ」 「いいなー、それあたしも欲しい……」 ついそんな言葉が口から漏れる。 「とにかくっ!」 夏樹は机の表を、両の手のひらでバンと叩いた。 「どこからどう見ても死角なしの優等生、文句なしの完璧超人ね。あそこまでいくと、何かズルしてんじゃないかって疑いたくなるわ」 「うーん、すごいなあ……」 「わかる? それくらいすごい人なの。誰にでも親切にしちゃうできた人だから、たまたま助けてもらったあんたが毛の生えた心臓をわしづかみにされるのもある意味当然っちゃ当然だけど、そんなの明るい電灯に虫が吸い寄せられるみたいなもんだから、悪いこと言わないからやめときなさい。てかやめとけ」 「あたしはハエかいっ!」 ヒカルは上履きを脱ぎ、それで夏樹の頭をはたいた。 スパンと気持ちのいい音がして、夏樹がかけた眼鏡がずれる。 「痛っ! 何すんの !?」 「うるさいうるさーい! 黙って聞いてりゃ、あたしを身の程知らずのお馬鹿さんみたいに言いやがってー!」 「だって、事実その通りだし」 そう言って笑う夏樹を、またひっぱたいた。 ボブカットの頭を振り乱し、嫌がる夏樹の髪に上履きの埃を塗りたくっていく。 「こらっ、やめてよ! やめろってば、もう!」 「うっさい! 乙女の純情をなんて思ってるんだ、あんたは!」 ヒカルは普段から怒りやすく、一度こうと決めたらそのまま真っ直ぐ突っ走る女だった。 夏樹は「人間、もうちょっと思慮分別があった方がいい」などとしたり顔で言うのだが、今のヒカルにとって、そんな友人の助言だか侮辱だかわからない物言いなど、どうでもいい。 「とにかくあたし、水野センパイの彼女になりたいっ!」 「いや、無理無理。東大に現役合格する方がまだ簡単だから。諦めろってば」 「まだ言うか、あんたはっ!」 「ぎゃっ !? ちょ、ちょっとヒカル、やめ――」 ヒカルは夏樹の首を締め上げ、鋭い目でにらみつけた。 「だいたい夏樹、あんた仮にも友達だったら、あたしの初恋にちょっとくらい協力してくれてもいいでしょ !? なのに何よ、いちいちムカつくことばっかり言ってくれちゃってさ! もしかしてケンカ売ってんの !?」 「あれ、初恋だっけ? なんか似たようなこと、中学のときも言ってた気が――ぐえっ! し、締めるなっ !! 死ぬ、死んじゃうっ!」 「そうだね。あんた、いっぺん本気で死んでみる? 後で校庭の隅っこにでも埋めといたげるから、遠慮しなくていいよ」 ぶんぶん首を振る夏樹から手を放し、もう一度椅子に座りなおす。 必死で呼吸を整える友人の姿を横目で見ながら、ヒカルは憮然として言った。 「まったく……。まあ、あのセンパイがモテモテなのはわかったけど、それだけで挑戦する前から諦めちゃってどうすんのよ。ひょっとしたらあたしみたいな元気で明るい美少女が、もろタイプのど真ん中かもしんないじゃん」 「百万歩譲ってもそんなことありえないから、心配しなくていいわ」 こいつ、いつか殺す。そう思いつつも、ヒカルは別のことを口にした。 「……んで一応聞いとくけど、あのセンパイ、今つき合ってる相手とかいるの? そんだけモテモテだったら、彼女なんて掃いて捨てるほどいそうだよね」 「いや、それがね……」 ヒカルが放った質問に、なぜか夏樹は言葉を濁した。 いつもはっきり物を言う夏樹に似合わない、不思議と困惑した様子だった。 夏樹は見た目こそ地味だが、ヒカルよりはるかに知恵が回り、特に物事の分析を得意とする。 新聞部に所属しており、一年生でありながら情報収集はお手の物だ。 その夏樹がこのような煮え切らない反応を見せるのは、かなり珍しいことだ。 思わせぶりな態度に、ヒカルも好奇心を露にする。 「どしたの。噂好きのあんたのことだから、どーせ知ってるんでしょ? 水野センパイ、今誰とつき合ってるのか、教えなさいよ。気になるじゃない」 「んー、それがね……よくわかんないの」 夏樹の回答はもごもごとしていて、ちっともはかばかしくない。 いったいなぜだろうか。ヒカルは矢継ぎ早に質問を続けた。 「何でわかんないのよ。あのセンパイ、すごい有名人なんでしょ? だったら誰とつき合ってるかくらい、誰でも知ってんじゃないの?」 「それが、ホントにわかんないのよ。誰にどう聞いても、水野先輩の彼女なんて見たことないって言うんだよー」 「はあ? 何それ、ひょっとしてこそこそ隠してるってわけ?」 「うん……そうかもしんない。あんまり大っぴらにつき合ってると、ファンクラブの子たちが騒ぐとか、そういうの、やっぱりあるんじゃないかな? だから学校の中じゃ、隠してるのかもしれないよ。まあ相手がこの学校の生徒かどうかも、よくわかんないんだけどさ」 「うーん、そっか……。やっぱモテる人って、みんなには隠してんのかなー」 腕組みしてどうしたものかと考え込むヒカルに、夏樹はためらいがちに言った。 「実は一応、一人だけいることはいるんだけどね。水野先輩とすごく仲が良くって、水野先輩と同じくらいに何でもできて、ぴったり釣り合いそうな超美人の女の人が……」 「え、誰それ? ひょっとしてそれがセンパイの彼女で、あたしのライバル?」 「あれ、ヒカル知らないの? もしあの人がそうだったら、あんたなんか百パーセント勝ち目ないよ。何しろ、相手は二年で一番人気のパーフェクトビューティーなんだから」 先ほどと同様、夏樹はヒカルを挑発するような目つきと口調で言ったが、激昂した彼女がつかみかかる前に、自分で自分の言葉を否定した。 「でもまあ、それはありえないか。あの二人がつき合ってるわけないんだし」 眼鏡のフレームを持ち上げ、一人でうんうんうなずいてみせる。 夏樹は頭が切れる娘で、その点はヒカルも頼りにするところではあるが、反面、自分の考えを他人にわかりやすく説明することはあまりせず、そのおかげでヒカルはしばしば、自分が置いていかれているような気分になることがあった。 こういうときはちゃんと指摘して、夏樹が考えていることを聞き出さなくてはいけない。 「ちょいあんた、何一人で納得してんのよ。誰よその、ぱーふぇくとぶーちーって。なんでセンパイとその人がつき合ってないって、夏樹にわかんのよ」 「簡単よ。だってその人、先輩とそういう関係にはなれないもん」 「はあ?」 怪訝な顔をするヒカルに、夏樹は調子よく弁舌を振るった。 「いい? 今の二年には、何でも出来る完璧超人が二人いるの。その片方が、恐れ多くも今回あんたが好きになった、水野啓一さんね。それでもう一人が、いつも先輩と一緒にいる女の人、水野恵さんよ。この二人、この学校の名物にもなってる、超有名な双子の兄妹なのよね」 「双子の兄妹……?」 その言葉を耳にして、ヒカルは顔に疑問符を浮かべた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 翌日の昼休み。 ヒカルはひとり、啓一の教室を訪れていた。 昼食時のことであり、廊下は購買や食堂と教室を行き来する生徒で混雑していたが、ヒカルはドアの隙間から中を覗き込み、食事中の啓一がいることを確認すると、勇気を出して中に足を踏み入れ、彼に話しかけた。 「あのー。すいません、水野センパイ」 できるだけ親しみを込めたつもりだが、実際に口に出してみると、それほどでもなかった。 振り返った啓一がヒカルの姿を見て、少し驚いた声を返す。 「あれ、君は――」 「はい、昨日はありがとうございました」 忘れ去られているかとも思ったが、啓一はちゃんとヒカルのことを覚えていてくれた。 嬉しい気持ちを顔には出さず、ぺこりと頭を下げて、できるだけ自然に訊ねる。 「ここ、いいですか?」 「うん。多分いいんじゃないかな」 ヒカルはうなずいて啓一の隣の席に腰を下ろし、持っていた包みを机の上に広げた。 包みの中から取り出したのは、丸いプラスチックの弁当箱が二段と、赤いセロハンテープが貼られた、菓子入りの小さな紙袋だった。 やや緊張した笑みを浮かべ、その袋を啓一に差し出す。 「これ、昨日のお礼です。どうもありがとうございました」 「いや、そんな大したことしてないよ。気を遣わなくていいのに」 「いーえ、センパイに受け止めてもらわなかったら、あたしケガしちゃうとこでした。正直、こんなんじゃ全然足りませんけど、よかったら食後にでも食べて下さい」 「じゃあもらっとこうかな。どうもありがとう」啓一が、黒く深い瞳を細めた。 何でもない感謝の言葉も、彼が言うと幸福の賛歌となるから不思議なものだった。 憧れの少年、水野啓一の凛々しい顔をうっとりして眺め、ヒカルは遅ればせながらの挨拶を始めた。 「あたし、一年の渡辺っていいます。渡辺ヒカル」 「渡辺さんか、よろしくね」 「はい。でもできたら、ヒカルって呼んでくれたら嬉しいです」 「じゃあそうするよ。ヒカルちゃん」 初めて会った相手に対して、少し馴れ馴れしい会話だったかもしれないが、やはり彼に名前で呼んでもらったことに、心の底で喜びを感じずにはいられなかった。 その後、啓一は真面目な彼らしく、改まってヒカルに自己紹介をして、わざわざ自分のところに来てくれたことに対する謝意を表した。 そしてそのついでだろう。啓一は先ほどからずっと自分のそばに座っていた女を指して言った。 「こいつは俺の妹、恵っていうんだ。妹だけど、双子だから同い年」 そこで初めて、ヒカルは啓一の妹、水野恵と顔を合わせた。 「よろしくね、ヒカルちゃん」恵が柔らかい表情で、優雅に微笑みかける。 「あ、どーも。ヒカルです」 ヒカルは会釈を返しながら、油断のない目つきで恵を観察した。 啓一の妹、水野恵は噂に違わぬ清楚な娘だった。 清流のように揺れる艶やかな黒髪を、肩から背中にかけて自然に流し、啓一と同じく、温厚で柔和な雰囲気を漂わせている。 兄妹らしく、整った顔の部品、穏やかな印象がとてもよく似通っていた。 初対面の者であっても、この二人を見れば、血の繋がりがあることは容易に想像できるだろう。 「よろしくです、恵センパイ」 ヒカルの言い方は、せいぜい丁寧と冷淡の中間といったところだった。 普段は初対面の相手とでも積極的に打ち解けようとするヒカルだったが、今はそれよりも、恵はどんな人間なのだろうと身構える気持ちの方が強かった。 もちろん気になる相手の大事な妹となれば、仲良くするに越したことはない。 もし啓一の妹である水野恵をうまく味方にできれば、これからヒカルが彼とつき合う上で、いろいろと都合がいいからだ。 だからまずは、恵がどんな人間か見定めて、可能ならば友好関係を構築するつもりだった。 まさに小姑の前で縮こまる嫁の気分で、ヒカルは水野兄妹と一緒に昼食をとることにした。 啓一の弁当箱をのぞき込み、感心した様子で言う。 「センパイのお弁当、自分で作ってるんですか? なんか美味しそうですねー」 「うん。うちの親は昔っからあんまり親らしいこと、子供にしてくれなくてさ。おかげで自炊にも慣れちゃったし、弁当にすると食費が浮くから、毎朝恵と二人でね。でも、そんなに手の込んだものを作ってるわけじゃないよ。けっこう手を抜いてる」 「ふふっ、おかずは大抵、残り物よね。朝、あんまり時間ないから」 「へー、二人で一緒に料理してるんですか。仲いいんですね」 「もう半分習慣になっちゃってるかな。でもたまに俺が寝坊すると、恵が全部一人でやっちゃったりして、そういうときは後が怖いよ。こいつ結構根に持つから」 そう言って啓一は、綺麗に巻かれた卵焼きを口の中に放り込み、恵をちらりと見て、笑った。 「もう啓一、ヒカルちゃんにあんまり変なこと吹き込まないでよ」 「え、だってホントのことだろ。別にいいじゃん」 恵は啓一を見て楽しそうに笑うと、囁くようにヒカルに言った。 「ヒカルちゃん、聞いて。啓一ってばね、とっても朝が弱いの。今でも毎朝、私が起こしてあげてるのよ。恥ずかしいでしょ」 「あっ、こら恵っ! バラすんじゃないっ!」 「え、だってホントのことでしょ。別にいいじゃない」 「へえ。それはなかなか――ってか、ホントに仲いいんですね。二人とも……」 思わず口からこぼれた言葉は、ヒカルの本音だった。 横で会話を聞くうちに、ヒカルにも、この二人のことが少しずつわかってきた。 そして夏樹が教えてくれた、この啓一と恵に関する噂の意味も。 「啓一先輩も恵先輩も、誰か特定の相手とつき合ってる様子がまったくないらしいのよね。よっぽど皆に隠したいのか、それとも誰ともつき合う気がないのか……。あれほどモテてるってのに、よくわかんない話だよねー」 啓一もそうだが、恵も彼に劣らず、いや彼以上に人望があるようで、夏樹に聞いた話では、一部の下級生にとって水野恵は、「素敵なお姉さま」として半ば神格化されているのだという。 ヒカルにはそういった趣味はなかったが、本人の可憐な顔と淑やかな振る舞いを目の当たりにすると、まあそういう憧れや願望を抱く生徒もいるのだなと納得できた。 しかし、その恵にしても、啓一にしても、今まで誰かと恋愛関係にあったという話はないらしい。 「それって、どういうこと?」 「さあ、私にもわかんない。中にはあの二人が『そういう仲』なんじゃないかって真面目に疑ってる人もいるくらいよ。兄妹でそんなこと、あるわけないのにね」 兄妹でそんなこと、あるわけない。その話を聞いたとき、ヒカルもそう思っていた。 まともな人間なら決して取り合わないような、ゴシップの類に属する噂だ。 だが実際に啓一と恵の姿をこの目で見て、ヒカルが抱いた感想は、その疑惑を肯定するものだった。 二人が自らそう漏らしたわけではないし、何か具体的な証拠を見つけたわけでもない。 だが――ヒカルは勘の鋭い方ではないが、二人を見て漠然と思っていた。 (なんかこの二人、ずっと一緒に暮らしてきた夫婦みたい……) 恵が喋り、啓一が返す。啓一の言葉に恵が突っ込む。 生まれた子供たちが全員一人立ちして、古びた家に残された老夫婦のような、ぴったり息の合った会話。 「あれ」「これ」だけでも意思疎通が成立しそうな、そもそも言葉さえ必要ないほどに、啓一と恵のやり取りは滑らかで自然なものだった。 いくら実の兄妹とはいえ、ずっと一緒に過ごしてきた双子とはいえ、二人の雰囲気がこれほど調和しているのは、奇妙なことのようにヒカルには思われた。 まるで自分が、この二人の間に割り込んだ異物であるかのような錯覚さえ覚えるほどだ。 会話の中で啓一が時おり見せる屈託のない笑顔に、ヒカルの胸は温かくなり、そして冷えた。 啓一の笑顔を間近で見ることができたから。 そして、その笑顔が自分に向けられてはいなかったから。 啓一の言葉も笑顔も関心も、その全てが実の妹である恵を対象にしていた。 また恵も同様、自分の世界の中心に兄である啓一を配置しているようなところがあった。 周囲には優しく、礼儀正しく振る舞ってはいるが、この兄妹は、自分たちとその他大勢との間に、太い一線を引いている。 自分たちとその他大勢とを、明確な何かで区別している。 この二人を前にしていると、それを嫌でも思い知らされることとなった。 おそらくこの二人が異性とつき合わないのも、これが理由なのだろう。 夏樹が口にした「あんたじゃ無理」という言葉が、ヒカルの脳裏に浮かび上がった。 しかしヒカルは一途な性格で、そのうえ諦めが悪かった。 たかが妹が、いったい何だというのだ。 いくら仲が良くとも、実の兄妹では恋愛も結婚もできない。 啓一の伴侶になる資格は、赤の他人である自分にこそあるはずだ。 自分が好意を抱いた相手、水野啓一との距離を少しでも縮めたい。 そのためには、とにかく啓一に関する情報を少しでも多く収集し、啓一と共にいる時間を少しでも多く確保しなければならなかった。 昼食を終えてからもしばらく談笑し、啓一を質問攻めにした後、帰り際にヒカルは言った。 「じゃ、あたし帰ります。どうもありがとうございました」 「ううん。こっちこそお菓子、ありがとうね。ヒカルちゃん」 「あの、センパイ……またちょくちょく、ここにご飯食べに来ていいですか?」 その言葉を発するのには多少の勇気が必要だったが、啓一は気さくにうなずいてくれた。 「いいよ、いつでも来てよ。ヒカルちゃん」 「やった、ありがとうございますっ!」 恵も優しい笑顔を浮かべ、啓一の後ろから穏やかな視線を送ってきている。 いつか自分もこの女のように、啓一の隣にいられる日がくるのだろうか。 ヒカルは啓一と恵を交互に見比べ、慌しく教室を後にした。 続きを読む 一覧に戻る |