真理奈五たび 前編

 告げられた言葉は、簡潔極まりないものだった。
「加藤さん。あなた、追試だから」
「ええっ !?」
 放課後の職員室の中、周囲の教師たちが好奇の視線を向けてくるのにも構わず、真理奈は露骨に嫌そうな声をあげた。
 平凡な公立高校らしく、身にまとっているのは地味でシンプルな冬物のセーラー服だが、彼女はそれが似合わない、長身で派手な雰囲気を持つ生徒だった。
 鮮やかな輝きを放つ短めの茶髪は、校則の厳しい学校ならば、即座に取締りの対象となってしまうだろう。そして顔を飾るくっきりした目鼻立ちが、彼女を実年齢よりも大人びた姿に見せていた。
 二年C組、加藤真理奈。
 顔とスタイルの良さを武器に、あちらこちらに迷惑を撒き散らす、トラブルメーカーの女生徒である。
 いつもは強気な態度を崩さない彼女も、このときばかりは困った様子だった。
 後ろ手に組んだ両の指を落ち着きなく動かし、所在なさげに突っ立っている。
 そんな真理奈の前では一人の女教師が椅子に座り、彼女を鋭い視線で射抜いていた。
「ええっ、じゃありません。あなた、自分の成績わかってるの?」
「え、えっと……そういや、今回はちょっと悪かったかも……」
「ちょっと?」
 世界史教師の升田は、眼鏡の奥で細い目を光らせた。
 まだ若い。真理奈の記憶によると、たしか二十代の後半だったはずだ。黒のショートヘアと、細身の体を包み込むぱりっとしたスーツ、そして縁なしの細眼鏡と、見るからに知的な印象を感じさせる女である。
 升田はデスクの前で椅子をきしませ、真理奈を見上げて言った。
「あなたの基準では百点満点で一桁は、『ちょっと悪い』ということになるのね。じゃあ、『とても悪い』ときはいったい何点なのかしら? コンマ以下? ゼロ? それともマイナス? すごく気になるわね」
「い、いいえ……どーなんでしょ、あははは……」
 真理奈は冷や汗をかきながらも、内心、はらわたが煮えくり返る思いだった。
 こんな嫌味くさい女の説教を、なぜ自分だけ受けなくてはいけないのか。
 升田は、彼女が密かに自分に敵意を向けていることには気づかず、冷徹に真理奈に告げた。
「まったく。この学年で世界史の追試はあなただけよ。少しは恥ずかしいと思いなさい」
「え、あたしだけ?」
「そう、あなただけ。中間で落とした子もちゃんと期末で取り返してるっていうのに、本当にあなたときたら……。少しくらいやる気はないの?」
「すいません……」
 この升田という女教師は厳しいことで知られる。しかも短気で毒舌家だ。
 不真面目な生徒は容赦なく怒鳴りつけ、不出来な者はこうして呼びつけ説教をする。美人で熱心な性格のため、一部には高い人気を誇るが、その厳しさゆえに彼女を苦手とする生徒も多い。
 人によって好みがはっきり分かれる教師と言えた。
 成績が悪く、授業態度もいいとは言えない真理奈にとって、そんな升田は言うまでもなく、あまり関わりたくない相手である。
 だが、試験で赤点を取ってしまったからには、升田の言う通り、大人しく追試を受けなくてはならない。
 しかも追試は彼女ただ一人。必然的に升田と一対一で向かい合い、針のむしろに座らされることになる。
 ようやく二学期も終わろうかというのに、なんと悲惨なことだろうか。
 非は自分にあるとはいえ、真理奈はこの女を憎まずにはいられなかった。
 手のひらの汗を握りしめる真理奈に、升田が相変わらずの冷たい声で言った。
「そういうわけだから、試験範囲は中間と期末で出したところ、全部よ。ちゃんと勉強しておきなさい」
「え……二学期の範囲、全部ですか? それはちょっと……」
「もう期末試験は終わってるんだから、授業もほとんどないでしょ? 頑張って勉強して、今度こそ合格してちょうだい。さもないと単位は出せません」
「う、うう……」
 教師の容赦ない言葉に、少女はうなずくしかなかった。
「話は以上です。試験日はまた連絡しますから、準備しておくように」
「はい、わかりました……」
 形だけぺこりと頭を下げ、真理奈がその場を立ち去ろうとすると、デスクに向かった升田の指に、小さな指輪が光っているのが目に入った。
 そういえば、少し前に結婚したと、校内で噂になった覚えがある。
 私生活について、少なくとも生徒たちには何も語らない無愛想な女だが、こんな鬼教師でも嫁のもらい手があるのかと、真理奈は世の不条理を嘆き悲しんだのだった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

「――っていうわけでさあ。もう最悪。マジ最悪」
 カウンターに力なく突っ伏し、真理奈は息を吐いた。
 それに答えるのは彼女と同じ年頃の、爽やかな少年である。
「それは大変だね。まあ、頑張って勉強してよ」
「あの女と同じこと言わないでくれる !? あー、腹立つ……」
「あっはっは、今日はおかんむりだね」
 少年は冬物の私服に身を包み、座る真理奈の正面に立って、彼女を悠然と見下ろしていた。
 この上なく端正な顔立ちをしているが、不思議と印象は薄く、まるで空気のように存在感がない。どこかとらえどころのない、風変わりな少年だった。
 明るい顔と声で笑う少年に、彼女は不機嫌そのものの声で言った。
「当たり前でしょ !? あんな年増の鬼婆に説教されて、ニコニコできるわけないじゃない!」
「まあまあ、ちょっと落ち着いて」
 ここは住宅地の中に埋もれるような場所にある、小さなドラッグストアだ。
 狭く地味な店内には真理奈一人しか客がおらず、店員らしき人物もこの少年だけだった。
 あまり商売が成り立っているようには見えないが、真理奈はこの店がお気に入りで、よく下校途中に立ち寄っては、何を買うともなしに彼と世間話に興じることにしている。
「はい。これでも飲んで、機嫌直してよ」
 彼女は店の奥から少年が持ってきたコーヒーカップを礼も言わずに受け取ると、湯気の立つミルクティーを喉に流し込んだ。甘いクリームの味が口内に広がり、師走の北風に冷やされた真理奈の体をゆっくり温めていく。
「ふぅ、おいし」
「それはそれは。喜んでもらえて何より」
 両手でカップを持ち、子供のような仕草でそれを口元に傾ける真理奈を、少年が笑顔で見つめている。
 真理奈は貪るように紅茶を飲み干すと、彼にカップを突き出した。
「おかわり」
「はいはい、ちょっと待ってね」
 苦笑した様子で店の奥に引っ込み、またすぐに戻ってくる。
 二杯目の紅茶を慇懃に差し出す少年に、彼女がため息混じりに言った。
「あ〜、それにしてもあの女……マジすっごいむかつくわ。このあたしに追試を受けさせようだなんて、頭おかしいんじゃないの?」
 放課後呼び出された職員室でのやり取りを思い出し、真理奈は吐き捨てた。
 愚痴とぼやき混じりに升田を罵ってみせるが、それも所詮、負け犬の遠吠えでしかない。どう足掻いても追試は受けなければならないし、そのための勉強も必要なのだ。
 向こうは教師でこちらは生徒。この立場の差はいかんともしがたい。
 少年はそんな真理奈の文句を黙って聞いていたが、やがて彼女に問いかけた。
「で、君としてはどうするつもりなの?」
「どうするもこうするも……そりゃー悔しいけど、大人しく追試受けるしかないわね。相手は先生なんだもん。あたしに何ができるってのよ」
「へえ、意外だね。君はそんなに大人しい女の子だったっけ?」
「何よ、その言い方は」
 少年は自分の薄い唇に手を当て、目を細めている。その表情に真理奈は見覚えがあった。
 小学生の頃、クラスの悪童が悪戯を思いついたとき、よくこんな顔をしていたものだ。
 彼女は相手の真意をうかがうように、カウンターの向こうに立つ少年を見上げた。
「……あんたがそんなこと言うからには、助けてくれると思っていいのよね?」
「もちろんさ。実は、以前作った薬の改良版ができてね。実験したいと思ってたんだ。良かったら、君が試してくれると助かるね」
 手に持った小さな紙箱をからから鳴らし、微笑む。
 市販の目薬とほぼ同じ大きさだが、この少年が作ったものとなれば、普通の薬ではないだろう。
 ひょっとしてこれを使えば、あの尊大な女教師に目に物見せることができるかもしれない。
 真理奈は少年からその紙箱を受け取り、唇の端を不敵につり上げた。
「いいわ。よくわかんないけど、試してあげようじゃないの」
「話が早くて助かるよ。じゃあ、イタズラの計画を立てるとしようか」
 彼は上機嫌で、真理奈に笑いかけた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 ある日の放課後、水野啓一は放送で生徒指導室に来るようにと連絡を受けた。
 終業式も差し迫った師走の午後である。もう試験は終わっているので授業もほとんどなく、特に部活のない者は昼頃に帰宅することができた。
 啓一はサッカー部に所属しているが、この日は練習もなく、真っ直ぐ家に帰るつもりでいた。
 そこへ突然の呼び出しである。彼が疑問に思うのも無理はなかった。
「啓一、呼び出しって何だろうね?」
 一緒に廊下を歩いていた双子の妹、水野恵が彼に尋ねた。長い黒髪をストレートに垂らした、清楚で落ち着いた娘である。
「さあ、何だろうな。世界史の升田先生だろ? 呼び出したの」
 啓一は窓の外を見ながら、妹に聞き返した。
 十二月の青空には灰色の雲が浮かび、冬らしく寒々とした雰囲気を漂わせている。
 今日も冷えるなとつぶやき、軽く身を震わせた。
「ひょっとして啓一、何かしでかした? それで升田先生に怒られるとか」
「そんなわけないだろ。お前だって知ってるくせに」
 啓一と恵は、二人揃って優等生である。成績は常にトップクラス、さらにスポーツ全般に通じ、その上二人とも、整った顔と均整のとれた肢体に恵まれていた。どちらも負けず劣らず、理想の優等生の兄妹として、教師たちにも受けがいい。当然、素行にも問題などあるはずがなく、今のように生徒指導室に呼び出される理由は思いつかなかった。
「まあ、先生に直接聞いてみればいいか」
「そうだね。そうしよっか」
 二人は目的の部屋に到着すると、ドアを軽く叩き、中で待つ人物に話しかけた。
「失礼します。二年の水野啓一と、水野恵です」
「来たわね。入りなさい」
 啓一と恵が室内に入ると、奥に世界史の担当である升田美佐が座っているのが確認できた。
 狭い部屋で窓はない。その上、資料の詰まった本棚が壁の辺りを占領しているため、四、五人も入れば一杯になってしまいそうだ。
 何の飾り気もない長方形の机が一つ中央に置かれ、そしてその手前にパイプ椅子が二つ並んでいる。
 升田は座ったまま二人を見つめ、穏やかな声を発した。
「二人とも、鍵をかけて、そこに座って」
「はい。わかりました」
 カバンを足元に置き、並んで腰を下ろす。二人は升田と向かい合う形になった。
 いつもの細眼鏡の奥で、鋭い眼光がこちらを見据えている。少々気圧されつつも、啓一は教師に問いかけた。
「それで、僕たちに何のご用でしょう。升田先生」
「ええ、二人に大事な話があるの。聞いてくれる?」
「はい」
 机の上には、メーカーのロゴが入った黒のトートバッグが、無造作に置かれていた。彼女の堅物のイメージには今ひとつそぐわない品だが、成績表か資料でも入っているのだろう。
 兄妹二人にじっと見つめられ、升田は口を開いた。
「あなたたち、二年の加藤真理奈って子、知ってる?」
「え? ええ……一応、友達ですけど……」
 意外な名前を出され、恵が戸惑いながらも答えた。
 真理奈は二人の顔見知りであり、一応は友達と呼べなくもない存在だった。
 もっとも、向こうがどう思っているかは、よくわからないが。
 何しろ勝気なトラブルメーカーの加藤真理奈と、人望厚い優等生の水野恵では、タイプがまるで違う。
 共に人気の美少女だが、真理奈の方は恵を一方的にライバル視している部分があるため、大人しい彼女としては少々困ってしまうというのが、正直な感想である。
 だがそうした複雑な説明を教師にできるはずもなく、恵の返答は当たり障りのないものにとどまった。
「そう。一応ね……一応……」
 升田はその言葉を噛みしめるようにつぶやき、眼鏡を指で整えた。
 ひょっとして気に入らない返答だったか、と二人は緊張したが、構わず彼女は後を続けた。
「実はね、加藤さんが追試を受けることになっちゃったのよ」
「はあ……追試ですか……」
「頑張って合格してもらわないと、先生も困るのよ。わかる?」
「はい、わかります」
 啓一はうなずきつつも、話の流れがどうにも読めず、教師の顔を見ながら眉を曇らせた。
 規定の点数に満たない者は追試を受けることもあるのだろうが、優等生の二人はそんなものに縁はない。
 啓一も恵も、他人の点数をあまり気にしたことはなかったので、なぜこの場で真理奈の成績のことが話題になるのか、二人して首をかしげるばかりだった。
「しかも、二年で追試に引っかかったのは加藤さん一人だけなの。可哀想だし、何とか助けてあげたいじゃない?」
 二人はますます訝しんだ。
 真理奈を助けてやりたいと言うが、担当教師の升田にしてみれば、簡単な話だろう。
 形だけ追試を受けさせて合格にすればいいし、あるいは追試そのものを免除し、試験の点数に救済措置を施して――要は下駄を履かせて、無理やり合格にしても構わない。
 つまりは、升田さえその気なら、真理奈の成績などどうにでもなる。
 それなのに、なぜ彼女とは直接関係がない二人が、わざわざここに呼ばれたのだろうか。
 脳内で疑問符を点滅させる双子の兄妹を見やり、升田はようやく本題に入った。
「それでね。あなたたちに、ちょっと協力してほしいの」
「協力……ですか? それはいいですけど、いったい何をすれば……」
 追試の対策のため、真理奈の試験勉強につき合えとでもいうつもりだろうか。
 二人は世界史の成績も極めて良かった。必要ならば、彼女の勉強を手伝ってもいいと思う。やや相性の悪い面もあるが、一応、真理奈は二人の友人だ。困っているなら助けてやらねば。
 口を開こうとした恵を制止し、升田はトートバッグの中に手を差し入れ、あるものを取り出した。
「あなたは、これを使ってちょうだい」
「え?」
 恵はそれを見て、驚きの声をあげた。
 升田が取り出したものは、家庭用のビデオカメラだったのだ。
 黒いボディは小ぶりで持ちやすいサイズだが、レンズは大きく、無言の光沢を放っている。
「使い方わかる? なんか色々機能ついてるけど、まあそんなのはどうでもいいわ。とりあえず撮れたらオッケーだから」
「は、はあ……。多分使えると思いますけど、でもなんで……?」
「いいから、今からしばらくの間、それで先生を撮影してちょうだい」
「…………?」
 啓一と恵は顔を見合わせて互いの疑問を視線で交換したが、教師の唐突で不可解な命令に、どちらも腑に落ちない表情だった。
 手渡されたビデオカメラをいじりながら、どうしたものかと躊躇する恵に、升田が厳しい口調で言う。
「早くしなさい! 先生の言うことが聞けないの?」
「はっ、はい……。わかりました……」
 唾を飛ばして怒鳴る升田の姿に身を竦ませ、仕方なく彼女はカメラを構えた。
 家にあるものと似たような型なので、大体の操作方法はわかる。恵は教師にレンズを向け、スーツ姿の女教師の姿を撮影し始めた。
 それを確認し、升田はにやりと笑ってみせる。
 冷徹な彼女に似合わないその笑みに、二人は驚きを隠せなかった。
「そう、それでいいの。あなたはしばらくそのまま、撮り続けてね。絶対よ」
「はあ……」
「で、先生。僕の方は何をすれば……」
 戸惑いながらも尋ねてくる啓一に顔を向け、彼女は楽しそうな声を出した。
「うん。あなたには、もっと大事な仕事があるの。ちょっとこっちに来て」
 彼はその言葉に従い、立ち上がって机の向こう側に移動した。
 升田も席を立ち、狭い部屋の中、啓一の隣に並んでみせる。
 彼女はそこそこの長身で、啓一との身長差はあまり感じられなかった。恵よりは高く、啓一より少し低いくらいだろうか。スレンダーな体のラインにぴったり合った黒のスーツが、眼鏡をかけた知的な風貌と合わさって、静かな大人の女の魅力をかもし出していた。
 校内を流れる噂によると、最近結婚したらしい。特に聞いてはいないが、苗字は変わったのだろうか。
 二人が升田を見ながら、ぼんやりとそんなことを考えていると、女教師が次の動作に移った。
「啓一君、こっち向いて」
「はい――って、んっ…… !?」
 升田は啓一の首に両手を回して背伸びをすると、無防備な彼の唇に自分のを重ねた。
 突然のことに唇を奪われた啓一も、それを撮影していた恵も、驚愕のあまり硬直してしまう。
「ん、ううんっ……んむっ、んん……」
 女教師の舌が生徒の唇に割って入り、彼の口内に侵入する。
 柔らかな侵入者の感触に、彼は両腕を力なく垂らしたまま、動くことができなかった。
 新妻の教師とその生徒の激しい接吻が、ビデオカメラの前で繰り広げられる。
「け、啓一…… !?」
 恵は異様な事態に狼狽しつつも、言われた通りに撮影を続行した。
 途中で撮るのをやめると怒られると思ったからだが、やはり多少の好奇心も否定できない。
 升田の舌が啓一のそれに絡みつき、彼の中に唾液をたっぷりと流し込む。
 なぜ真面目な教師がこのような振る舞いに及んだのか。啓一も妹と同様に狼狽していたが、相手が教師ゆえ乱暴に引き離すわけにもいかず、されるがままに口内を貪られるしかなかった。
「ん……ちゅ、くちゅっ――ぷはぁっ……」
 やがて満足したらしく、升田は啓一の口から離れると、二人の唇を繋ぐ唾液の線を指で拭い去った。
 いつも雪のように白い頬は朱に染まり、冷徹な瞳には彼が見たことがない、淫蕩な色が浮き出ている。
 なぜ。いったいなぜ。心の疑問が解けぬまま、彼は升田にきつく抱き締められていた。
 普段は授業を淡々と進めるその唇が、思いもよらぬ言葉を発する。
「ん……やっぱディープなキスは最高ね。どう、あたしのツバ美味しかった?」
「せ、先生……な、なんでこんな……」
「そんなの、あんたがイケメンだからに決まってんじゃない。他に理由ある? いいから大人しくしてなさい。あんまウジウジ言ってると、このまま逆レイプしちゃうわよ」
「升田先生……ど、どうしちゃったんですか……?」
 カメラを下ろして問いかける恵を、女教師は眉をつり上げて怒鳴りつけた。
「こらそこっ! ちゃんと撮っとけって言ったでしょ !? 何のためにあんたを呼んだと思ってるのよ! ほら、カメラ構えて!」
「せ、先生、ホントにどうしたんですか……?」
「早くしなさい。あたしの言うこと、聞けないの?」
 升田は一旦啓一から離れ、恵に予想外の言葉をぶつけた。
「あたしに逆らったら世界史の点数は0点になるわよ。あんたも追試受けたい?」
「ええっ !? な、なんでそうなるんですか! 横暴です!」
「嫌なら大人しくカメラ回しとくのね。それに、あんたも興味あるでしょ? いつも無愛想なこの女のエッチな場面なんて、滅多に見れるもんじゃないわよ」
 にんまりと口を三日月の形に開き、奇妙な台詞を放つ升田。まるで別人になってしまったかのような女教師の変貌ぶりに、二人は声も出ない。
 升田は訝しがる兄妹を満足げに眺めながら、自分の服を一枚ずつ脱いでいった。上着から腕を引き抜き、厚手の白いシャツを脱ぎ捨て、膝丈のスカートを床に落とす。
 そして露になった自分の下着姿を見下ろし、彼女は感心した様子で言った。
「へー、意外とエッチなもんつけてるじゃない。やっぱ新婚だからかな?」
 腰のベルトから吊り下げられた、薄いベージュのガーターストッキング。ショーツとブラジャーはそれよりやや濃い色で、派手なフリルのデザインだった。細身だが尻や胸の肉づきは決して悪くなく、柔らかな体のラインがありありとわかる。
 恵や真理奈とは一線を画した妖艶な裸体から、啓一は目を離すことができなかった。
「な、なんで脱ぐんですか、先生……」
「そりゃー、今からあんたと楽しいことするからに決まってるじゃない。うふふ♪」
「そ、そんな……やめて下さい……」
「ふーん、まだそんなこと言うんだ。あんたたち、一緒に破滅したいの?」
 紅の入った自分の唇をぺろりと舐め、升田が笑う。
「今ここで大声出したら、あんたたち、どうなると思う? しかもビデオなんて回しててさ。二人がかりであたしに乱暴して、その映像を脅迫材料に――なんて思われちゃうかもね」
「そんな……!」
 二人は歯噛みして、女教師をにらみつけた。
 冷静に考えれば、カメラの中には升田が啓一を誘惑するシーンが収められているため、そのような展開はありえないはずだが、それでも教師との淫らな関係を疑われ、今まで模範的な学生だった啓一の名前に傷がつく可能性はあった。
 二人を追い詰めるように、升田が続けた。
「それにあたしは知ってるのよ? あんたたち兄妹が、実は好き合ってるってこと。血の繋がった実の兄妹、双子同士で犬みたいに絡み合って……やだやだ、不潔だわ」
「!? ど、どこでそれを……!」
 啓一と恵、双子の兄妹の間に戦慄が走った。
 確かに彼女の言う通り、周囲に内緒でこっそりと恋人つき合いをしている二人だが、その関係を知る者は極めて少数で、彼らとほとんどつき合いのない升田が、このことを知っているはずがなかった。
 女教師は、自分の豊満な乳房をブラジャー越しに撫で回しながら、彼らに問いかけてくる。
「わかんない? まだわかんないの? あたしのことが」
「…………」
 啓一はにやけ顔の升田を見返し、思案に暮れた。
 とにかく事態が異常すぎて、なかなか理解が追いつかない。
 突然升田に呼び出され、彼女から肉体関係を強要されつつあるということ。
 彼女は人が変わったように非常識な態度を見せ、さらに啓一と恵の関係も知っているということ。
 そして最初に話題に出てきた、加藤真理奈の追試の件。
 加藤真理奈。その名前に啓一は引っかかるものがあった。
 彼女はたしか、奇妙な薬を持っていたはずだ。飲んだ者同士の精神を入れ替える、不思議な錠剤。
 真理奈はそれを使い、よく悪戯を繰り返していた。
 ということは、まさか――。
 啓一はようやくその結論にたどり着いた。
「あんたもしかして、加藤さんなのか……?」
「ピンポーン♪ やっとわかったわね、遅いわよ?」
 升田は下着姿のまま腰を振り、その場で得意げにくるりと一回転した。
 とても普段の彼女からは考えられない、分別を欠いた行動。
 自分たちとほとんど接点のない彼女が、二人の重大な秘密を知っている理由。
 それらは全て、升田の姿をしたこの女の正体が学年一の迷惑娘、加藤真理奈であるとすれば納得がいく。
 おそらく、またあの薬を使って升田と入れ替わったのだろう。
 しかしそれにしても、なんと迷惑なことを。啓一は歯軋りせずにはいられなかった。
 対照的に、升田は楽しくてたまらないといった様子で不敵に笑っている。
「新しい薬が手に入ってさ。今度は入れ替わるんじゃなくて、あたしが一方的にこの女の体を使ってるの。すぐバレるかと思ったんだけど、意外とあんたたちも鈍いのねえ」
「なんで……なんで加藤さん、こんなことするの?」
 律儀にカメラを構えたまま、恵が問う。
「だってこの女、前々からうるさかったし、あたしを捕まえて追試受けろとかウザすぎなんだもん。だからこうして弱みを握って、楽していい成績をいただいちゃおうってわけ」
「弱み?」
「そうよ。新婚ホヤホヤの女教師が教え子に手を出すなんて、面白いネタだと思わない? 学校に暴露するって脅してもいいし、旦那さんにバラすって脅かしてもいいし、どっちにしても、なかなか楽しいスキャンダルだわ」
 つまりは、ここで升田の姿をした真理奈と啓一が性を交え、その現場を撮影して、後で升田を脅迫しようというわけだ。
 たかが学校の成績一つで、まさかここまで大それたことを考えるとは。
 そのやり口に顔が青くなった二人は、何とか彼女を説得しようとするが、女教師は止まらない。
「せ、先生を脅迫するつもり…… !? そんなことやめようよ、加藤さん……」
「そうだよ、もしバレたら進級どころじゃない。大人しく試験受けよう、加藤さん」
「何言ってんの。今のあたしは正真正銘、あの偉そーな女教師なのよ? バレるわけないじゃん。だいたい追試とかさー、あたしがまともに勉強するとか思ってる? まあそういうわけだから、あたしが無事に進級するためにも、ね、協力してちょうだい」
「勉強するなら手伝うからさ……お願いだ、加藤さん。こんなことやめてくれ」
「イ・ヤ♪ さあ水野君、先生と愛し合いましょ……ふふふ」
 半裸の升田が自分の胸を揉みながら、啓一に近寄っていく。
 恵はカメラを机の上に置くと、双子の兄を助けようと立ち上がった。
「加藤さん、馬鹿なことはやめて! このことは誰にも、先生にも言わないから、だからやめなさい! 追試を受けたくないからって、何もこんなことする必要ないじゃない !!」
「成績の話だけじゃないわ。はっきり言っとくけどね、あたしはこの女が大嫌いなの。年増のヒステリーの分際で、この真理奈様にケンカ売ろうなんて百万年早いわ」
「加藤さんっ! いいからやめるんだっ!」
 狭い室内で、恥じらいもなく下着姿になって妖艶に笑う女教師と、それを挟んで説得を続ける二人の生徒。
 三人の口論を中断させたのは、突如として部屋に響いた、穏やかな声だった。
「まあまあ。二人とも、いいじゃないか。たまには真理奈さんにつき合ってあげなよ」
「…………!」
 その声に三人が振り返ると、粗末なパイプ椅子の上に、あの少年が優雅に腰かけているのが見えた。
 いったいいつの間に、この密室の中に侵入したのだろうか。常ながら人知を超えた、非常識な存在である。
 双子は少年に気づくと、どちらも納得した表情を顔に浮かべた。
「そうか……加藤さんをけしかけたのは、あんただったのか……」
「その通り。ちょうど以前の薬を改良したから、つい試してみたくなってね。啓一君は覚えてるかい? 君の叔母さんが従妹の希ちゃんに乗り移った、あの薬だよ」
「あのときの……!」
 彼の言葉に、啓一は思わず唇を噛んだ。
 以前、彼が叔母の家に立ち寄った際、叔母は謎の薬を飲んで実の娘、啓一にとっては従妹にあたる 希という少女に乗り移り、そのまま成り行きで啓一と交わってしまったのである。
 あのときは半信半疑だったが、この少年が裏で手を回していたと聞けば納得がいく。
 しかし自分たちどころか、その親戚まで薬の実験台にされていたとなれば、とても愉快な気分にはなれなかった。
 升田は少年と啓一を見比べ、怪訝な顔をしている。
「なんだ。あんたたち、知り合いだったの?」
「うん。啓一君も恵さんも、僕の大事な友達だよ」
「…………」
 啓一と恵は、反応に困るとでも言いたげに肩をすくめた。
 過去、彼ら兄妹とこの少年の間に、いったい何があったのだろうか。
 升田は多少の関心を示したが、今の彼女にはそれよりも優先すべきことがあった。
「ま、来てくれたんならちょうどいいわ。あんたからもその二人に言ってやってよ。この女教師をハメ撮りするから手伝えって」
「ということらしいよ?」
 少年は椅子に腰かけたまま、啓一と恵に笑いかけた。
 男であれ女であれ、見る者を虜にしてやまない美貌が、柔らかく微笑して言った。
「君たちに迷惑はかけないようにするから、ぜひ協力してくれないかな」
「いや、でも……」
「だって、先生の体を勝手に……」
「大丈夫だよ。君たちの身の安全は、僕が保証するとも」
 二人は顔を見合わせた。
 この少年は基本的に嘘はつかない。安全を保証すると言ったら、本当に後腐れのないように取り計らってくれるのだろう。
 だが、自分たちが教わっている教師をもてあそんで脅迫するなど、二人とも、そう簡単にうなずくことはできなかった。
 一方、少年と升田――女教師の姿をした真理奈のしつこさはそれ以上だった。
「ほら、何事も勉強だよ。それに友達を助けるためでもあるんだよ?」
「いいからあんたたち、手伝いなさいって。さもないと絶対に後悔させてやるんだから」
「…………」
 結局、啓一と恵は二人揃って、ため息をつくしかなかった。


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