アリサとジュリアの憑依体験



「廃墟の取り壊し、決まったらしいぜ」
 久々によく晴れた梅雨明けの昼休み、そう言いだしたのは桔平だった。
「廃墟? 廃墟って何だよ」
 陽太は給食のパンをかじり、彼に訊ねた。
 今まで聞いたことのない言葉だった。悪友の口から出てくるのは大抵テレビかゲーム、もしくはインターネットの動画サイトの話ばかりだ。おそらく廃墟を探検する動画でも観たのだろうと思っていると、桔平は机の陰に隠れてスマートフォンを取り出した。
「町はずれの廃墟って知らねえか? 神社のそばの山の上にあるやつ。ほら、何年か前に二人で行ったじゃん」
「ああ、あれか……昔の学校だったところ」
 そのやりとりを通じて、ようやく桔平の言及した場所に思い当たる。彼のスマートフォンの画面をのぞき込むと、見覚えのある廃墟が画面に映っていた。写真を撮ってきたそうだ。
 それは確かに、数年前に桔平と訪れた廃墟だった。元は学校だったというが、どのくらいの間、使われていないのだろう、木造の校舎は古びてぼろぼろだった。誰も近づかないよう周囲に黄色いロープが張られ、廃墟と呼ぶにふさわしい風格を感じさせる。
「懐かしいなあ……あのときは怖くなって、入口で引き返してきたんだっけ」
「そうそう。それでさ、この古い学校、取り壊しが決まったんだってよ」
「そっか。じゃあ、取り壊されて無くなっちまう前に中を探険してくるか」
 以前訪れたときは陽太も桔平もまだ幼く、もしかしたら幽霊が出るのではないかと怖くなり、中に入ることができなかった。しかし、六年生になった今は、そんなものはこの世にいないと知っている。幽霊よりも猪や熊、そして生きている人間の方が怖いと知っている。
 件の廃墟が取り壊される前に中に入って、どんなところなのかこの目で見てこよう。陽太がそう提案すると、桔平は大袈裟に首を振って笑った。
「ふっふっふ、俺はもう行ってきたぜ……独りで」
「ええっ、マジで !? ズルいぞ桔平!」
 驚く陽太に、桔平はスマートフォンの写真を見せてきた。施錠のされていない木製のドア、ところどころ腐った埃だらけの廊下、机も椅子もない空っぽの教室……廃墟になった学校の内部を、桔平は自分の姿と共に得意げに写していた。
「まあ、なんてことなかったよ。明るい昼間だったから幽霊も寝てたんだろうな」
「くっそー、なんか負けた気分だ……」
 生来、負けず嫌いの陽太は、桔平と意地を張り合うことがよくある。そんな陽太にとって、度胸試しで桔平に負けることなどあってはならないことだった。男の沽券に関わる問題だ。
「よし、決めた! 俺もそこに行ってやる! それも夜中に!」
 飲み終えて空になった牛乳瓶を勢いよく机に叩きつけ、陽太は吠えた。
「えっ、夜中に?」
「そうだ、夜中にだ。昼間に行ったんじゃ、桔平と同じことするだけだからな。本物の男なら肝だめしは夜中にやるもんだぜ」
「それはやめた方がいいんじゃないか? あそこ、本当に幽霊が出るらしいぜ。夜中に行ったら幽霊に取り憑かれちまうかも……」
「やる! やるったらやるんだ! ちゃんと夜中に行って写真を撮って、証拠を見せてやるからな!」
「何言ってんの !? そんな危ないことやめなさいよ、陽太!」
「いでぇっ !?」
 思い切り耳たぶをぐいと掴まれ、陽太は悲鳴をあげた。振り向くと柚葉が怒気をあらわにしていた。
「柚葉、話を盗み聞きしてたな !?」
「そんな大きな声出して、盗み聞きも何もないでしょうが! このバカっ!」
 柚葉は陽太の耳をねじり、彼を叱りつけた。学級委員長で真面目な柚葉は、くだらない悪戯や奇行にふける陽太をいつもどやしつけるのだ。陽太にしてみれば、目障りなことこの上ない。
「いつも言ってるだろ。男同士の話に割り込むんじゃねーよって」
「男も女もないでしょ! あんたがしょうもないことしたら私が怒られるんだからね!」
「そんなの知るかよ! 俺はお前の弟じゃねえぞ!」
「何ですって !? 私はあんたのお母さんに頼まれて面倒を見てやってるのに……!」
 いつものように口喧嘩を始めた陽太と柚葉に、周囲の児童は呆れ顔だ。こんな田舎町の小さな学校では一学年に一クラスしかなく、級友たちはこの二人のこんなやりとりを六年間、聞かされ続けたことになる。
「いい? 危ないところに行っちゃいけないっていうのは、ちゃんと理由があってそう言われるの。あんたが危ない目に遭ったら、先生もあんたのお母さんも私も困るんだからね。だから絶対に危ないところには行かないように。いい、わかった !? 桔平くんもわかった !?」
「うん、わかったわかった。ごめんな柚葉、こんなことはもう二度としねえよ」
「ほら、聞いた陽太 !? 今のが正しい返事の仕方よ! わかったらやってみなさい! ほら、早く!」
「へっ、知らねーよ。とにかく俺は、今夜にでも行くったら行くからな!」
「あんた、まだそんなこと言って……! あっ、先生! ちょうどいいところに!」
 担任教諭の桜が教室に戻ってきた。彼女は普段と同じく優しい笑顔で子供たちを眺めたが、柚葉が告げ口をすると顔色を変えた。
「取り壊し予定の学校を夜中に探検する、ですって…… !?」
「ち、違うんだよ、先生! 柚葉のやつが勝手に話をでっちあげて……」
「本当なの、陽太君?」
「は、はい……」
 桜の諭すような視線に、陽太はうなだれた。まだ若い彼女は、とても美人で優しく、級友たちの誰からも母親のように慕われる存在だった。
 桜は決して悪童たちを大声で怒鳴りつけるようなことはせず、悲しそうな目で見つめてくる。すると不思議なことに罪の意識が芽生え、陽太も桔平も自ずから過ちを悔いることになるのだった。
「実はね……先生も子供の頃、この学校に通っていたの」
 陽太が反省したのを見てとった桜は、意外な話を始めた。「皆が言ってる古い学校っていうのは、この学校の旧校舎のことよ。もう二十年くらい前になるかな……まだこの校舎はできていなくて、先生はその山の上の古い校舎で勉強していたの」
「ええっ、そうなんですか?」
 陽太も桔平も、そして柚葉も驚いた。まさか桜先生が、子供の頃こんな廃墟に通っていたとは。
「先生が通っていた頃も、もう凄く古くてボロボロだったけど……いろいろあって、今の校舎に移転したのよ」
「いろいろって?」
「たしかあのとき、何かの事故が……あら? いったい何があったんだっけ……」
 桜はしばしの間考え込んだが、相当昔の話だからか、詳しくは思い出せないようだった。
「ごめんね。先生、すぐに転校してこの町を離れちゃったから、詳しいことはよく知らないの」
「そうなの?」
「ええ。とにかく、そこには絶対に行っちゃダメよ。建物が古くなっていて危ないから。絶対に行かないでね」
「うん、わかった。約束する」
 陽太は桜と指切りをし、決して件の廃墟に行かないことを確約した。



 その夜、日付がかわって家族が寝静まったことを確認し、陽太は家を出た。
 行き先はもちろん、あの廃墟だ。桜の前ではいい子を演じた陽太だが、桔平や級友たちへの体面があり、今さら怖いとか危ないとか言い訳して行かないわけにはいかない。男の勇気を証明するため、懐中電灯とスマートフォンだけを持ち、独り密かに探検を強行するのだ。
 ところが、外出して一分も経たない間に呼び止められた。
「あんた、どこ行くの?」
 ぎくりとして振り返ると、柚葉が彼女の家の前に立っていた。陽太の行動など全てお見通し、と言わんばかりの表情だった。
「あの廃墟には行かないって約束したよね? 明日、桜先生に言いつけてやるんだから」
「いや、その……」
 狼狽していると、柚葉はため息をついて陽太の前までやってきた。「でも、あんたって本当に人の話を聞かないものね。いいわ、私もついていってあげる」
「何だよ、それ……」
 幼なじみの少女の意外な申し出に、陽太は口を尖らせた。「お目付け役気取りかよ。俺はお前の弟じゃねーぞ」
「そんなのわかってるわよ。独りで行かないとカッコつけられないっていうなら、誰にも言わずに黙っといてあげる。あんた独りで行かせるの、なんか心配なのよ」
 柚葉は陽太の隣を歩いた。小学六年生の二人は背丈がほとんど変わらず、どちらも百四十センチほどだ。いつか二メートル近い長身になって、口うるさい柚葉を見下ろすのが陽太の夢だ。
 目指す廃墟まで、歩いて二、三十分ほどか。自販機も街灯もほとんどない田舎町をこんな時刻に歩く者は誰もいない。集落を離れると星が明るくなった。田舎らしく、青臭い木々の香りに獣の臭いがかすかに混じる。
「実はね、ママに話を聞いたの。あの古い学校のこと」
 ふと、柚葉がそんなことを語りだした。「先生の言う通り、二十年前まではあそこが学校として使われてたらしいの。建物が古くなったから建て替えようって話もあったらしいんだけどね……でも結局、今の私たちの学校を新しく建てて移ってきたの」
「そういや、なんで移転したんだろうな? わざわざ引っ越さなくても、建て替えたら済むんじゃ……」
「それなんだけどね……いい、陽太? 落ち着いてよく聞いて」
 頼りない懐中電灯で暗い足元を照らしながら、柚葉が声をひそめた。
「何だよ、やけにもったいぶって」と、陽太は文句を言う。気味の悪い暗闇と虫の声に囲まれ、自分がどこか遠いところへ来てしまったような錯覚を抱いた。実際には、まだ家から一キロも離れていないのだが。
「二十年前にね、この辺りで大きな地震があったらしいの。聞いたことない? 私たちが生まれるずっと前の話だけど」
「そんなのあったかな? 聞いたことがあるようなないような……」
「それでね、町にはほとんど被害がなかったんだけど、その古い学校は結構やられたらしくてね……校舎の中にいた女の子が二人、死んじゃったんだって」
「死んだ !?」
 陽太は目を見開いた。「そんなの嘘だろ。俺を怖がらせて、行くのをやめさせようって魂胆だろ」
「違うわよ! ちゃんとママに聞いたんだもん!」
 柚葉も怖いのか、彼女の声は震えていた。日頃は優等生ぶっているが、本当はとても気が弱いのを陽太はよく知っている。
「どっちかわからないけど、死んだ女の子、町長さんのお孫さんだったんだって。それで、その町長さん、校舎を建て替えるのは嫌だって言って……それで、学校は今の場所に移ったそうよ。でも、その町長さんも去年亡くなって……だからもう気兼ねせずに取り壊しちゃおうってなったらしいの」
「ふ、ふーん……その話がホントなら、女の子の幽霊が出るかもな」
「だから、ねえ……もう帰ろうよ、陽太。本当に幽霊がいたら呪われちゃうよ?」
 柚葉は陽太の腕にしがみつき、必死で彼を引きとめようとする。
 だが、陽太は足を止めなかった。
「大丈夫、大丈夫。幽霊なんかいやしねえよ。もしいたら、ぶん殴ってやっつけてやる」
「ああ、もう……あんたって、いっつもそうよね。それでいっつも迷惑するのが私なんだから……」
 半ば諦めた様子の柚葉を伴い、陽太は山道をのぼっていく。大した距離ではないはずだが、手元の光以外は真っ暗な道を歩くのは勇気が必要だった。梅雨が明けたばかりの夜はじめじめして、歩くと汗を我慢できない。家に帰ったら家族にばれないようにシャワーを浴びる必要があるかもしれない。
 やがて、二人は開けた場所に出た。山の中腹を切り開いてできた平地……危険を知らせる黄色いテープが張られた柵の向こうに、目的の旧校舎があった。真っ暗なこともあり、巨大な化け物が眠っているようにも見えた。
「ねえ、本当に行くの? ここで写真撮って帰ろうよ……」
「ダメだ。桔平はちゃんと中に入って、廊下や教室の写真を撮ってきたんだからな。あいつが行ったのは明るい昼間だったけど、本物の男なら夜中に行くべきだろ。俺は本物の男だ。あいつなんかに負けやしねえ」
「本当にあんたってバカよね……幽霊に襲われたら置いてってやるんだから」
「大丈夫だっつってんだろうが。へへっ、柚葉は怖がりだな」
 軽口を叩いて、陽太は廃墟に近づいた。下駄箱が並んでいる奥に入口があり、ドアは開いているようだった。
 そのとき、涼しい風がピュウと吹いて、陽太の鼓膜を揺らした。

 こんにちは

 そんな声が、聞こえた気がした。
「ひいいっ !?」
「な、何よ、どうしたのよ!」
「お、お前……いま喋ったか?」
 飛び上がった陽太は周囲を懐中電灯で照らしたが、柚葉以外に声を出しそうな者はいない。獣やホームレスがねぐらにしているのかもしれないが、少なくとも動くものの気配はなかった。
「何よ、もう怖気づいたの? なら、早く帰りましょ」
「い、嫌だよ。まだ校舎の中にも入ってねーんだぞ。こんなところで引き返せるかよ」
 陽太は深呼吸して、土足のまま旧校舎に足を踏み入れた。電気もきていないようで、中は真の闇だ。手に持っている懐中電灯がなければ何も見えない。
「待って!」
「な、何だよ?」
「手、繋いで」
 陽太は差し出された柚葉の手を取る。少し汗ばんだ少女の手は柔らかく、握っているだけで恐怖が和らぐのを自覚した。
 二人は手を繋いでおそるおそる廊下を歩いた。朽ちかけた木の床が踏むたびギシ、ギシと音を立て、少年少女の恐怖を煽る。やっぱりやめておけばよかったと思ったが、気になる女子の前でとてもそんなことは言えない。
 校舎の構造は単純だった。中に入ってすぐの場所に事務所か職員室と思しき大きな部屋がある。中を見たが朽ち果てた机が二つ三つ放置されているだけで何もない。廊下はそこから左右に伸び、それぞれ突き当たりが階段になっていた。二階建てということは桔平から聞いていた。一階に教室が二つ、二階には四つあるという。
 昔の地震でかなりやられたそうだが、見る限り建物が崩れていたり、壁に亀裂が入っていたりといったことはない。全ての教室に入り、スマートフォンで自撮りの写真をとってくることが今回の探索の目的だった。
 まずは一階の教室の片方に侵入する。ライトで照らしたが、机や椅子は一つもない。人がいなくなり二十年が経過したという古い教室はほこりまみれで、腐った木とカビの匂いがした。
「何もないな。つまんねーの」
 陽太は強がって言った。何も書かれていない黒板は床と同じくほこりまみれだ。子供の頃の桜先生はこの黒板を見て勉強していたのだろうか。ふと、そんな疑問がわいた。
「ここ、何年生の教室なんだろうな?」
「入口に書いてあったよ。六年生だって」
「じゃあ違うな。桜先生、一年生か二年生で転校したって言ってたから……」
 陽太はフラッシュつきで自分の写真を撮った。ついでに柚葉と一緒に映る。聞き分けのいい優等生の柚葉が陽太の悪戯についてきたと桜先生が知ったら、さぞ怒るだろう。いや、悲しい顔をするだろうか。
 六年生の教室を出て、校舎の反対側に向かった。一階にもう一つあるのは五年生の教室だった。どうやら、一年生から四年生の教室は二階にあるらしい。
 五年生の教室でもう一枚写真を撮った。残り四枚撮れば、任務達成だ。
 ところが……。
「よ、陽太っ!」
「何だよ、いきなり」
 震える柚葉の声に振り返り、黒板を光で照らした。
 陽太は息をのんだ。
 この教室の黒板には何も書かれていない……というわけではなかった。

 いっしょにあそぼう

 子供らしいへたくそな平仮名で、そう大きく書かれていたのだ。黒板の端から端まで、下から上までをその文言が占領していた。
「昔の誰かが書いたのかな……?」
「やだ……なんか気味が悪い……」
「落ち着けって。ただの落書きだよ」
 怖がる柚葉の手を引いて、陽太は再び廊下に出た。女子が目の前で怯えるのを見ると、不思議と恐怖が薄れていくのを感じた。明日になったら、柚葉の臆病ぶりを散々からかってやろうと思った。
 二階に上がる階段の手前にトイレがあった。
 ちょうど催してきたところだ。真っ暗ななか独りで用を足して、桔平たちに自慢してやろうと陽太は思った。
「俺、ちょっとションベンしてくる。柚葉はここで待ってろよ」
「ええっ !? 嫌よそんなの! こんなところで女の子を一人にする気 !?」
「わがまま言うなよ。それとも、お前も男子トイレで俺と一緒に立ちションするか?」
「そんなことできないわよ、バカ! もう、待ってるから早く行ってこい!」
 怒って顔を赤くする柚葉を置いて、陽太はトイレのドアを開けた。
 当然だが、中は真っ暗だ。懐中電灯で足元を照らしつつ、片手でズボンと下着の中から一物を取り出す。小水の流れる感覚が、わずかばかりの達成感と満足感をもたらした。
 自分は真夜中の廃墟に忍び込み、何に怯えることもなく小便をしているのだ。この話を聞けば、さぞ桔平たちは悔しがるだろう。もうじきやってくる夏休みに、クラスの有志を集めてここで肝だめし大会をするのもいいかもしれないと思った。
 陽太が指先で小便の雫を切っているときだった。
 悲鳴があがった。
「きゃああああっ!」
 廊下にいるはずの柚葉が絶叫し、遠くへ走っていくのがわかった。どうやら階段を上がって二階に行ったようだが、いったい何があったのだろうか。
(柚葉のやつ……いったい何にビビってんだ? まさか幽霊……いやいや、そんなのいるわけねえって)
 この世に幽霊など存在しない。六年生になった陽太にとって、それが常識であり、この世の摂理だった。
 だが、幽霊はおらずとも別の脅威はあるかもしれない。たとえばホームレスがこの廃墟をねぐらにしていて、柚葉と鉢合わせしたのかもしれない。あるいは、陽太たちがここに入っていくのを見た町の住人が、不法侵入した彼らを捕まえようとしているのか。いずれにしても、用心しておく必要がある。
 トイレを出た陽太は、廊下を見渡した。柚葉はおらず、他の誰の姿も確認できない。二人以外の侵入者が隠れているようには思えないが、いったい柚葉は何に驚いたのだろうか。
 そのときだった。

 いっしょにあそぼう

 そんな声が聞こえて、陽太の心臓が跳ねた。古びた廊下の奥から、あるいは階段の上から聞こえてくる声ではなかった。
 すぐ近く……そう、彼の背後から聞こえたのだ。
 たった今閉めたドアが、ギイイ……と開いた。
 いつの間にかついていたトイレの灯りが陽太の背中を照らしだした。
 つくはずのない灯りがついて、無人のトイレから誰かが出てくる気配がする。
 振り返ってはいけない……陽太はそう思ったが、振り返らずにはいられなかった。
 ドッ、ドッ、ドッ
 心臓の鼓動が速まり、汗が止めどなく湧き出した。
 そして……とうとう後ろを向いた陽太は絶叫した。
 彼が見たのは小さな女の子だった。
 年齢は七、八歳ほどか。長い黒髪に赤いリボンをつけ、青白い照明と同じ色のブラウスとフリルスカートを身に着けていた。
 背丈はやっと一メートルを超えたばかりの、小さな小さな女の子だ。
 だが、陽太は怖くてたまらなかった。
 女の子の顔には両目がない。
 眼球があるはずの場所には真ん丸の大きな穴が開いていた。
 底の見えないその穴から赤い雫が滴る。
 真っ赤な口は耳に届きそうなほど大きい。
 まるで切られたスイカのようだ。
 どこからどう見ても、生きている人間ではなかった。
 そんな異形の女の子が床の上、数センチメートルの高さに浮いていた。
 そして両脚を綺麗に揃えたまま、宙に浮いてゆっくりと近づいてくる。
「う、うわああああっ!」
 陽太は今までの短い人生で一番の大声をあげ、その場から逃げ出した。
 おそらく、先ほどの柚葉もこの女の子を見てしまったのだろう。彼女がいるはずの二階を目指して、階段を二段飛ばしで駆け上がった。

 まって、おにいちゃん
 いっしょにあそぼう

 そんな声が彼を追いかけてくる。陽太は見栄も体面も捨てて逃げ惑った。
(ほ、本物の幽霊だ! やっぱりここにはオバケがいたんだっ!)
 陽太は二階の廊下を駆け抜け、十秒ほどで反対側の階段にたどり着いた。ここを下りて玄関を目指すしかない。後ろを振り返ると、あの女の子が歩くくらいの速度で近づいてくるのが見えた。
「た、助け……ぎゃああああっ !?」
 陽太は階段を下りようとして飛び上がった。
 階段の下に、あの女の子とまったく同じ姿の幽霊がいて、二階に上がってきたのだ。
「校舎の中にいた女の子が二人、死んじゃったんだって」
 道中、柚葉から聞いた言葉が頭をよぎった。
 幽霊は一人ではなかったのだ。
 階段の下にいた女の子が、一瞬だけ足を止めて陽太を見上げた。
 やはり、その目には眼球がない。赤い雫が滴る虚ろな目を向けてくる。

 こんにちは、おにいちゃん
 いっしょにあそぼうよ

「うわああああっ!」
 二人の女の子に挟み撃ちにされた陽太に残された逃げ道は、もはや一番近くの教室にしかない。
 古びて立てつけの悪いドアを無理やり開き、中に飛び込んだ。
 机も椅子も何もない、ほこりまみれの教室を懐中電灯で照らした。
 床に柚葉が倒れているのが見えた。
「ゆ、柚葉っ!」
 最も親しい女子の名前を呼び、陽太は彼女を抱きかかえる。体には傷ひとつないが、すっかり気を失っているようだった。
「ど、どうしよう……もう逃げられねえよ」
 陽太はポロポロ涙をこぼし、振り返った。閉めたドアがガタ、ガタと音を立てて開き、教室の前後の入口の両方から一人ずつ、女の子の幽霊が入ってきた。
 おそらくは双子なのだろう。二人の女の子はとてもよく似ていた。いや、似ているどころか見分けがつかない。顔も声もまったく同じだった。

 くすくす、くすくす
 あそぼう、あそぼうよ

「い、嫌だああああっ! お、俺はオバケなんか怖くねーぞ! あっちいけ! クソっ」
 陽太は女の子を殴りつけたが、やはり幽霊だからか、拳は空を切るばかりだ。
 バランスを崩して、ドスンと床に尻もちをつく。陽太の抵抗はそこまでだった。
「く、くるな、くるな……!」
 どうしようもなくなった陽太にできることは、情けなく泣きわめくことだけ。
 幽霊の女の子たちは陽太の左右に立ち、細く青白い腕を陽太に伸ばした。すると今度は、幽霊に腕を掴まれる感覚があった。
 袖にフリルのついた白いブラウスはところどころ赤い染みで汚れ、顔も洋服も、全身が血塗れのようだ。
 この世のものならぬ少女たちに捕まり、陽太はどうしていいかわからなかった。
 足がガクガク震えて、先ほど出した小便の残りが下着を汚すのを感じた。

 あたし、アリサ
 あたし、ジュリア

 自己紹介のつもりだろうか、幽霊たちはそう言った。
 その拍子に幽霊の顔から赤い雫がぽとりと滴り、陽太の腕に染みをつけた。
 ぽたり、ぽたり
 体にいくつもの染みをつけられ、陽太は赤く染まっていく。

 おにいちゃん、あそぼう
 あそぼう、あそぼう

「い、嫌だ、絶対に嫌だ!」

 なにしてあそぶ?
 おにごっこ? かくれんぼ? それともおままごと?

「ひいいいいっ!」
 失神した柚葉にしがみついて泣いていると、幽霊たちは彼女にも興味を示したようだった。

 おねえちゃんもあそぼう
 あそぼう、あそぼう

 でも、おねえちゃん、ねてるね
 うん、ぐっすりねてるね

 おねえちゃんのカラダ、かしてもらおっか
 うん、カラダをかしてもらっておままごとしよう

「な、何を言ってるんだ、お前ら……頼むから俺たちを帰してくれよぉ」
 陽太は柚葉の体を抱いてかばおうとしたが、無意味な行為だった。
 幽霊たちが手を伸ばし、柚葉の顔を撫で回した。

 どっちがかりる?
 あたしがかりる

 じゃあ、ジュリアはおねえちゃんだね
 うん、あたしはおねえちゃんだね

 じゃあ、あたしはおにいちゃんだね
 うん、アリサはおにいちゃんだね

 そんな会話のあと、幽霊の片方が柚葉の口を無理やり開けさせた。
 いったい何をするつもりか……陽太が怖くて震えていると、血まみれの女の子は小さなその手を柚葉の口の中に突っ込んだ。
 ずぶずぶ、ずぶずぶ
 不気味な音を立てて、意識のない柚葉は幽霊の手を、腕を、そして体を飲み込んでいく。まるで吸い込まれていくかのように、幽霊の小さな体はつかえることなく柚葉に飲み込まれていった。
「な、何だよ……やめてくれよ。俺の柚葉に何してるんだよ」
 十秒ほどかかって、柚葉は片方の幽霊を丸ごと飲み込んでしまった。そしてぱちりと目を開き、陽太を見つめた。
「ゆ、柚葉っ !?」
 陽太は驚いた。「お前、体は何ともないか !? お前、いま、この幽霊を飲み込んで……」
「うまくいったよ、アリサ」
 柚葉は陽太から視線を外し、宙に浮かぶ幽霊に話しかけた。
 あれほど絶叫して逃げ惑っていたにも関わらず、今は狼狽えることもない。
 陽太は狐につままれた気分だった。
「お姉ちゃんの体、あたしにぴったり。相性いいみたい」
 柚葉はうつむき、そして再び顔を上げた。
 不気味に微笑む柚葉に、陽太は今まで以上に恐れおののいた。その顔は、柚葉の体に飲み込まれた幽霊のものと瓜二つだったのだ。
 つぶらな瞳は無くなり、眼球を失った眼窩から赤い雫が滴った。
 柚葉の顔は人間のものではなくなり、化け物のそれになっていた。

 よかったね、ジュリア

「うん、とってもいいきもち。アリサも早く、貸してもらってね」
「か、貸して……?」
 その発言の意味に思い当たり、陽太は震えあがった。
 二体の幽霊と、二人の侵入者。片方の幽霊は柚葉に取り憑き、彼女を化け物の仲間にしてしまった。
 そして、もう一方の幽霊はこれからどうするか。
 答えは一つしかない。
 陽太に取り憑くのだ。
「や、やめろおおおっ!」
 逃げようとする陽太の両脚に、柚葉がしがみついてきた。
 きゃしゃな少女とは思えない怪力だ。
 日ごろ腕っぷしが自慢の陽太がなすすべもない。

 カラダをかりるね、おにいちゃん

 残った幽霊……たしかアリサといったか。アリサが陽太の口に手を突っ込んできた。
「うごおっ !?」
 何の抵抗もできず、体の中に悪霊が侵入してくる。陽太はだんだん気が遠くなるのを感じた。
(お、俺、このまま死んじゃうのか? そんなの嫌だ……嫌だあ……)
 陽太はひたすら後悔したが、後の祭りだった。彼を助けてくれるものは誰もいない。
 涙ではなく赤い雫を目尻からこぼしながら、陽太は少しずつ陽太でなくなっていった。



 しばらくして気がついた陽太は、自分の体が指一本動かせないことを自覚した。
(な、なんだ……俺、どうなったんだ?)
 首も眼球も動かせず、見えるのは懐中電灯の光に照らされた柚葉だけだ。
 あれは悪い夢だった……そう思ったのも束の間、眼球のない柚葉の鬼気迫る形相に、これが夢でないことを思い知らされる。
「うまくいったよ、ジュリア」
 陽太は仰天した。
 自分の口がひとりでに声を発したのだ。
「よかったね、アリサ」
「うん、よかったね、ジュリア」
 これでおままごとができるね、と陽太は言った。
(お、おままごと……? 俺たち、幽霊のオモチャになっちまったのか……)
 絶望が視界を覆うが、陽太がその目を閉じることはない。おそらくは彼も柚葉と同様、眼球のない空っぽの眼窩から赤い雫を流して笑っているはずだった。
「じゃあ、あたしがママするね。アリサがパパ」
「うん、わかった。子供はいないの?」
「子供はいないよ。お人形さんを持ってくる?」
「ううん、いいや。パパとママの二人きりがいいな」
 陽太はそう言って立ち上がった。そして教室を一旦出て入り直した。
「ただいま! いま帰ったぞー!」
 幽霊に操られた陽太の体は、おどけた調子でままごとを始めた。
 体を動かせない陽太は気が気でない。この狂ったお遊びが一秒でも早く終わってくれることを祈った。
「お帰りなさい、あなた。今日は遅かったのね」
 と、柚葉。ケタケタ笑いながら、ほこりまみれの床に正座して陽太を迎える。その顔からぽたり、ぽたりと赤い雫が滴った。
「ああ、仕事が忙しくてな。今日も残業だよ」
「それじゃあ、ご飯にします? それとも先にお風呂にします?」
「そうだな、それじゃあ……先にお前をいただくぞ!」
 陽太は柚葉を汚れた床に押し倒した。
 柚葉も抵抗せず、うきうきした様子でキャミソールを脱ぎはじめる。ピンクのブラジャーがあらわになった。
「このお姉ちゃん、ブラジャーしてるんだね」
「よく見たら、おっぱいもちょっと膨らんでるね」
「あたしたちのおっぱいも大きくなるかな?」
「なるよ、なる。あたしたちもブラジャー買わなきゃね」
 とうの昔に死んでしまった双子の少女は、もはや決して成長することはない。二十年が経過しても、死んでしまったときのままだ。それを知ってか知らずか、二人は笑って柚葉のブラジャーを剥ぎ取った。
(お、おい、何をしてるんだよ。うう、柚葉のおっぱい、ちょっぴり膨らんで……)
 たとえ顔が化け物になっていても、その体は紛れもなく柚葉本人のものだ。小学校に上がる前は二人一緒に風呂に入ることもしょっちゅうだった。そんな幼なじみの裸体を数年ぶりに見て、陽太は興奮を抑えられない。
 まったく、現金なことだった。幽霊に取り憑かれて死んでしまうかもしれないというのに、気になる少女の裸を見ると命の危機さえ忘れてしまう。
「パパ、ミルク吸う?」
「うん、吸う吸う」
 上半身が裸になった柚葉は、優しく陽太の頭を抱いて膨らみかけの乳房を顔に押しつけてくる。
 陽太は口をすぼめ、柚葉の乳首にしゃぶりついた。
 ちゅぱ、ちゅぱ、ちゅぱ
 恥ずかしい音をたてて柚葉の乳を吸う自分の姿に、陽太はおかしくなってしまいそうだった。
 あまりにも常識外れの現状に、やはり夢を見ているのではという疑いが消えない。
「うーん、おっぱい出ないね」
「うん、出ないね。出せる?」
「うん、やってみるね」
 柚葉は両の乳房を手で押さえて、何度か体を揺らした。そんなことで母乳が出てくるはずもないが、再び柚葉の乳を吸った陽太はたいそう驚いた。
 柚葉の乳頭からじわりと液体がにじみでて、陽太の口の中に広がったのだ。ほとんど味のしないその水のような液体は、どう考えても柚葉の乳房から染み出していた。
(ゆ、柚葉のおっぱい……ミルクが出てるのか?)
 信じられないことが次々に起こり、陽太の正気が蝕まれる。舌の上でミルクをこね回し、陽太はごくんと柚葉の体液を飲みくだした。
「ミルク、出たね。おいしい?」
「うん、おいしい。さすがお姉ちゃんの体だね。ミルク出るんだね」
「お兄ちゃんの体はミルク出ないの?」
「うーん、どうかな? おっぱいは出ないみたいだけど……」
 陽太は自分の頭に手をやり、何ごとか考え込んだ。
 すると突然、ズキズキと激しい頭痛が始まった。
 頭が割れそうなほど痛みが酷くなったが、現在の陽太には叫び声ひとつ発することもできない。
 それから数秒して、また唐突に痛みが治まった。
(な、なんだ? 今のはいったい……)
 不吉な予感に戦慄していると、陽太の体は持ち主の意思に反して服を抜き出した。
 汗ばんだTシャツと、青い短パンが床に落ちた。黒のボクサーパンツと靴下も脱ぎ捨て、陽太は一糸まとわぬ姿になった。
「ミルク、出るみたい」
「えっ、ホント?」
「ホント、ホント。お兄ちゃんのミルクはここから出るんだって」
 と、陽太は腰を突き出し、勃起した一物を柚葉に見せつけた。
(な、何をさせやがる、こいつ !? このスケベ幽霊!)
 陽太は抗議したが、もちろん彼の体を支配する幽霊がその声に耳を貸すはずもない。恥ずかしそうに皮をかむった陰茎を柚葉の鼻先に突き出した。
「これ、何?」
「おちんちんっていうの。男の子の体にはこういうのがついてるんだって」
「変なの。でも面白ーい! あははは……」
「それでね、このおちんちんの先っちょからミルクが出てくるの。このお兄ちゃん、よくそのお姉ちゃんのことを考えてミルクを出してるんだって」
(なっ…… !?)
 羞恥ではなく恐怖に陽太は震えあがった。
 今の発言は陽太に取り憑いているアリサのものだ。
 アリサはおそらく小学一、二年生で死んでしまい、異性の体や生理に関する知識はまったくないものと思われる。
 それなのに、なぜアリサは陽太が柚葉を想ってときどき自分を慰めていることを知っているのか。
 先ほどの頭痛と合わせて考えると、答えは一つしかなかった。
(こいつ、俺の頭の中をのぞき見たのか…… !?)
 そうとしか考えられない。
 陽太の身体を乗っ取った悪霊は、陽太の記憶さえも我がものにしようとしているのだ。
「変なの! じゃあ、このお姉ちゃんはどうなってるのかな? どれどれ……」
 柚葉も陽太と同様、自分の頭を押さえて何ごとか考え込んだ。何をしているのかはもはや明らかだった。柚葉に取り憑いだジュリアが、柚葉の頭の中をのぞき込んでいるのだ。
「あ……このお姉ちゃんも、そのお兄ちゃんのことが好きみたい。毎晩、そのお兄ちゃんのことを考えてオナニーしてるみたいだよ」
「オナニー?」
「そのお兄ちゃんがいつもやってることだよ。おちんちんやおまんこを自分でいじって、気持ちよくなるの」
「うん、やってるやってる。そっか、おちんちんを手でゴシゴシするの、オナニーっていうんだ。あははは……」
(も、もうやめてくれ! 俺たちの頭の中をのぞかないでくれ!)
 陽太も柚葉もお互いのことが好きで、夜な夜な自分を慰めている。邪悪な亡霊たちにその秘密を曝露され、陽太は気が狂ってしまいそうだった。柚葉の意識が今あるのかどうかはわからないが、もし彼女に意識があれば、現在の陽太とまったく同じ思いだろう。
 ところが、現実は非情だった。陽太と柚葉という滅多にないオモチャを手に入れた幽霊たちは、決して彼らを解放しようとしない。もしかしたら、死ぬまで彼女たちに操られるかもしれないのだ。
「じゃあ、おままごとを続けるね」柚葉に取り憑いたジュリアが宣言した。「パパ、おちんちんいじってあげようか?」
「うん、やってやって。あたし、ジュリアの手でしごいてほしいの」
「もう、おままごとなんだから、パパの役をまじめにしてよ」
 不平をこぼしながら、柚葉は陽太の肉棒に手を伸ばした。とうに勃起しきった十二歳のペニスはこのときを今か今かと待ちわびていた。
 柔らかな少女の手の感触が、最も敏感な器官を燃え上がらせた。柚葉の手はたどたどしい手つきで陽太の陰茎を包み、撫で、しごきあげた。
「ああっ、これ、とっても気持ちいいよ」
(こ、これが柚葉の手……ああ、なんて気持ちいいんだっ)
 陽太は今にも射精してしまいそうだった。もっとも、それさえも今はアリサの意のままだろうが。
「あたしも、ジュリアを気持ちよくしてあげるね」
 陽太を操るアリサは、柚葉のスカートを脱がせ、白い下着を剥ぎ取った。いよいよ素裸になった少女の股間に手を伸ばし、既に濡れつつあった秘所を指先で撫で回した。
「気持ちいい。もっと触って、アリサ」
「手を止めないで、ジュリア。あたしのおちんちん、もっと気持ちよくなりたいの」
 眼球のない二体の化け物は、そうして互いの秘所を手で慰めあった。柚葉のたおやかな手が陽太のいきりたったペニスをしごき、アリサのたくましい指がジュリアの陰唇をかきわける。生まれたときから一緒に育った二人の男女は、同じリズムで喘いで燃え上がるのだった。
(だ、ダメだ。こんなところで柚葉の手でイカされるなんて……ダメだよ)
「ああっ、す、すごいの。このお兄ちゃんのカラダ、気持ちいいっ」
「あ、あたしもすごいの。このお姉ちゃんのカラダ、どんどん気持ちよくなっちゃうのっ」
 共に生まれ育って共に死んだであろう双子、ジュリアとアリサも他人の身体でたかぶっているようだ。可愛らしい悲鳴をあげて、初めての絶頂の到来に震えているのがわかった。
 七、八歳で死んだ幼女たちの霊に肉体を奪われ、無理やりオーガズムに押し上げられる……そんな屈辱的な状況にも関わらず、若い体は正直だった。体の底から熱いものが湧き上がり、下腹を経て噴火に至る。
「ああっ、で、出る。ジュリア、出るよっ」
「あ、あたしも……イ、イクっ、アリサとイクのっ」
 忍耐が限界を迎え、陽太の尿道口から樹液が噴き出した。
 粘性の強い白濁が、小学六年生の柔肌を汚す。陽太が自分のために吐き出した精の塊を浴びた柚葉は、乳首から母乳を噴き出しながら背筋を反らした。
 ミルクを垂れ流して絶頂を迎えた少年少女は、満足そうに抱き合い、唇を重ねた。落ち込んだ眼窩から血の涙を流し、二体の化け物はひと組のつがいになろうとしていた。
 二人がキスをするのはこれが初めてだ。陽太と柚葉は、あらゆる初めてを幽霊たちに奪われつつあった。
「ふう、ふう、ふうう……ああ、いい気分だ」
「あたしも、とっても気持ちよかった」
「でも、まだ終わりじゃないんだよな。なあジュリア、あたしとセックス……してみようぜ」
「うん、いいよ。あたしも、アリサとセックスしたい」
(そんなのダメ! もうやめてっ!)
 陽太は心の中で叫んだが、陽太のものだった身体はもはや彼の命令など聞かない。荒い息を吐きながら柚葉を組み敷き、濡れそぼった膣の入口にペニスを押し当てた。
「いくぞ、ジュリア」
「うん……お願い、アリサ」
 仲睦まじい二人を止める者は誰もいない。汗と血にまみれた体をわしづかみにして、陽太は亀頭を柚葉の奥へともぐり込ませていった。
 思春期を迎えたばかりの柚葉の秘所は、初めての侵入者を容易には受け入れない。しかし、陽太が力強く腰を突き出すと、根負けしたかのようにゆっくりと彼のものを飲み込んでいった。
「ああっ、入ってくる。アリサのおちんちんが……い、痛いよ、アリサ」
「ごめんな、ジュリア。ちょっとの間、我慢してな。でもあたし、とっても気持ちいいぞ」
(そ、そんな……あ、あたし……柚葉とエッチしちゃってる。エッチしちゃってるよう)
 陽太は心の中で泣いた。このような形で柚葉と結ばれるとは夢にも思わなかった。幽霊に取り憑かれ互いに体を奪われ、無理やり処女と童貞を喪失する……そんな悪夢に彼は囚われていた。
(こんなの酷いよ。あたし、ちゃんと柚葉に告白して、彼氏彼女になって、初めてはお互いの家で……あれっ !?)
 そこでようやく陽太は気づいた。
 自分の心が、自分のものでなくなりかけていることに。
(な、何よこれ !? あたし、陽太だよね !? なんで、これじゃあたし、まるでアリサみたいに……ああっ!)
 全身の毛が逆立つような怖気と不快感は、初めての性交の快感にとってかわられた。柚葉の膣は痛いほど彼のものを締めつけ、童貞を捨てたばかりの彼に至上の感触をもたらした。汗や血ではない液体が結合部からこぼれ出し、肉と肉の摩擦を少しずつスムーズにする。
 陽太は柚葉のことが好きだった。表面上は口うるさい女だと憎まれ口を叩いていたが、幼い頃から一緒だった美少女のことが憎らしいわけがない。いつかは彼女に告白し、相思相愛になることを夢見ていた。このように柚葉のバージンを奪い、柔らかな肢体を貪ることを夢見ていた。
 いくら悪霊に強制されているとはいえ、性に目覚めて間もない少年が、未知の官能に抗うことなど到底できなかった。猛りきった陰茎が柚葉の奥を叩き、引いてはまた貫く動作を繰り返すたび、脳髄が焼き切れそうな満足感に身も心も支配される。
 それは陽太もアリサも同じことだった。
「ああっ、あっ、す、すごい。これが男の子のセックス……」
(ほ、本当にすごいよ。あたし、柚葉とエッチしてるんだ……き、気持ちよすぎる)
 気を抜けば押し流されてしまいそうな高波が次から次へと押し寄せ、陽太は自分が陽太なのかアリサなのかわからなくなった。口からひとりでに飛び出す喘ぎ声が、自分自身のものなのか自分に取り憑いた悪霊のものなのか区別できない。
 陽太とアリサ。
 少年と幼女。
 十二歳の男子と七歳の女児の魂が融け合い、もう二度と分かつことができないほどに混ざり合う。
 いくら逃れようとしても、自我の一部がアリサを受け入れ、一つになろうとするのがわかった。
 一度彼女の侵食を許してしまった陽太に、アリサを拒絶する力は既になかった。
 幼くして死んだ哀れな幼女に自分の命を提供し、死ぬまで共にいてやるのが人情ではないか……そう思うと、アリサを拒否することはできない。
 それは陽太だけではなく、柚葉も同じようだった。
「ああっ、よ、陽太、あたし……ジュリア、ジュリアになっちゃう。ああっ、あんっ。あたし、あたしじゃなくなっちゃうよおっ」
 破瓜の痛みがあるのかないのか、柚葉は艶めかしい息を吐いて陽太を呼んだ。おそらく彼女も陽太と同様、身体だけでなく魂まで乗っ取られつつあるのだ。
「ゆ、柚葉、あたしも……あたしもアリサにっ、ああっ、アリサになっちゃうっ」
「あたしも、ジュリアに、ジュリアになっちゃうっ。ああ、すごいっ、これ気持ちいいのぉっ」
 陽太も、柚葉も、もう逃れることはできない。
 二人は泣きながら初めての性交に没頭し、己が己でなくなる儀式を続けるのだった。
 陽太の肉棒はリズミカルに柚葉の奥を出入りし、処女喪失の血を床に垂れ流しながら乙女の貞操を丹念に味わう。血の匂いと牝の臭いが鼻をつき、ペニスがいっそういきりたった。間もなく終着点だ。
(あ、あたし、陽太じゃなくなっちゃう。あたし、本当にアリサになっちゃうっ)
 湧き上がる危機感が必死で人間に留まるよう促すが、それも無駄な抵抗でしかない。もはや陽太の自我はアリサに飲み込まれようとしていた。幽霊に取り憑かれ、化け物になろうとしていた。
「ううっ、またイク……ジュリア、いくぞ。中に出すぞっ。おっ、おおっ」
 雄々しい叫び声を放ち、陽太は柚葉の内部を自分の色に染め上げた。もう生理がきていると言っていた彼女の膣内に濃厚なスペルマを浴びせかけ、征服欲に酔いしれる。処女を失ったばかりの陰部の隅々まで、陽太の遺伝子が染み込んでいった。
「あっ、ああっ、中で出てる。アリサのが中に……ああっ、すごい、すごいよぉっ」
 みたび柚葉の母乳が噴き出し、陽太の所有物になった歓喜に沸き立つ。きゃしゃな体が折れそうなほど曲がり、陽太の幼なじみは女になった。
(あたし、ジュリアとセックスしたんだ。気持ちよかった……)
 心地よい痺れが全身に広がり、少しずつ意識が薄れていく。いま気を失えば二度と目覚めないかもしれないと思いつつ、陽太だった心は深い深い闇の底へと落ちていった。



 目が覚めると、陽太は廊下に寝転がっていた。
 むくりと身を起こして自分の体を見下ろしたが、見たところ異常はない。Tシャツと短パン、そして床に転がる懐中電灯。いくら眺めても何の変哲もない自分の姿だった。
「ここは……どこだ?」
 記憶がおぼろげだった。とても気持ちのいい経験をしたような気もするが、それが具体的にどんなものか陽太には思い出せなかった。
 辺りを見回し、現在地が学校の中だということに気づく。彼が毎日通っている鉄筋コンクリートの校舎ではなく、古びた木造校舎だった。
 廊下の窓からオレンジ色の光が差し込んでくる。どうやら今は夕方らしい。
 それにしても、どうして自分はこんな場所にいるのか。片手で頭を押さえ、陽太は可能な限りの記憶を掘り返した。
 級友の桔平からちかぢか取り壊される旧校舎の話を聞いた。幼なじみの柚葉からそこで死人が出たことを聞き、教師の桜と決してそこには行かないことを約束した。ところが聞き分けのない陽太は、肝だめしに真夜中にその廃校舎に忍び込んだ。
 そして……。

 めがさめた?

 目の前に小さな女の子が現れた。年頃は七、八歳くらい。長い黒髪に赤いリボンをつけ、白いブラウスとフリルスカートを着ていた。身長はやっと一メートルを超えたばかりの、小さな小さな女の子だ。
 陽太はやっと思い出した。自分と柚葉はここでこの女児、アリサと出会い、彼女がこの旧校舎に巣食う幽霊だと悟ったのだ。
 陽太は逃げなかった。
 どうせ逃げられないとわかっていたからだ。
 目の前に浮かぶアリサは、先ほど見たような死者の形相ではなかった。つぶらな瞳がへたり込む陽太を面白そうに見下ろしていた。思っていた通り、とても整った顔立ちをしていた。
「俺、ひょっとして死んじゃったのか? お前と同じように……」
 アリサに訊ねると、彼女は首を振った。

 おにいちゃんは、あたしとひとつになったの
 だからあたしはおにいちゃんで、おにいちゃんはあたしなんだよ

「そんなバカな……」
 否定しようとして、陽太は己の目を疑った。
 自分の服装が、見る間に変わっていくのだ。ここにやってきたときに身に着けていたTシャツと短パンが、白いブラウスとフリルスカートに変化した。腕っぷしがささやかな自慢だった腕はどんどん細くなり、白い長袖に包まれる。スカートの裾をまくり上げると、きゃしゃな両脚が可愛らしいリボンのついたストッキングに覆われていた。
 短く小さくなる手足とは対照的に、短い髪は肩から背中まで一気に伸びる。おそるおそる頭に手をやると、繊細な髪を飾る大きなリボンの感触があった。
「お、おい、何だよこれは…… !?」
 彼が発した震え声は、声変わりの始まった少年のものではなかった。まるで鈴の音のような、かん高い幼女の声だった。
「そ、そんな。まさかこれって…… !? わあああっ !?」
 突如として現れた太い腕に体を持ち上げられ、陽太は困惑した。何者かが自分を背後から抱き上げ、廊下をゆっくり歩いていく。
 陽太が連れてこられたのはトイレの前だった。手洗い場の上に鏡が取りつけられているが、身長一メートル強しかない今の陽太では、自分の顔を眺めるのは困難だろう。彼の小柄な身体を抱える何者かは、陽太を鏡の前に持ち上げた。
「ああっ !?」
 陽太は鏡に映る自分の顔に仰天した。「ア、アリサ…… !? 俺、アリサになってるのか !?」
「そうだよ、お兄ちゃん」
 嬉しそうに彼を抱いて笑っているのは、もう一人の陽太だった。Tシャツと短パン、そして今の彼よりも四十センチほど高いたくましい体……アリサになった陽太を、もう一人の陽太が抱きかかえていた。
「これでわかった? あたしとお兄ちゃん、ひとつになったんだよ。だからあたしが陽太で、お兄ちゃんがアリサなの。とってもステキでしょ」
「ふ、ふざけるな! 元に戻してくれ!」
「ダメだよ、お兄ちゃん。もう元には戻れないよ。あたしたち、これからずっと一緒なんだよ」
「い、嫌だ! 俺は幽霊になんてなりたくない! まだ死にたくないっ!」
 アリサになった陽太は、陽太になったアリサの腕の中でじたばたと暴れた。だが、きゃしゃな女児と喧嘩の強い六年生の腕力の差は歴然だ。いくら暴れても床に下ろしてくれる気配はない。
「わがまま言っちゃダメ! アリサはいい子でしょ? いい子にしないとお仕置きだよ!」
 陽太になったアリサは膝立ちになると、アリサの背中を左手と膝で挟み込んだ。彼女の体が水平になるように支え、フリルスカートの裾を勢いよくまくり上げた。
「お、おい……まさかこれって」
 これから何をされるのかを想像し、アリサは青ざめた。聞き分けのない幼児に母親が行う仕置きの体勢だった。
「うん、そうだよ。聞き分けのないお兄ちゃんに、今からお尻ぺんぺんするの。いくよぉ……えいっ!」
「ぎゃあああっ !?」
 大きな手のひらに思いきり尻を叩かれ、アリサは悶絶した。
 悪童だったため幼い頃は幾度となく両親にされたこともある仕置きだったが、小柄で肉づきの悪いアリサの体では苦痛が段違いだ。とても耐えられそうにない。
「い、痛い、痛いっ! や、やめろ、やめてくれっ! 謝る、謝るからあああっ!」
 繰り返される臀部への平手打ちにアリサは涙を流し、泣きわめいて許しを乞うた。
 十回ほどぶたれたところでアリサの股間に生温かい感触が広がった。あまりの痛みに失禁してしまったのだ。
 陽太に体を抱えられたまま下着を小便まみれにし、アリサは幼女そのものの仕草でむせび泣いた。
「ううう……ち、畜生、畜生ぉ……」
「もうわがまま言わない? じゃあ、これであたしたち、ずっと一緒だからね」
「ゆ、柚葉……桔平……桜先生……誰か助けてくれぇ……」
「桜先生、ね……」
 陽太の声の質がほんの少し変わったようだった。もっとも、苦痛と恥辱に泣きわめくアリサにはあまり関係のないことだったが。
「お兄ちゃんは頭の中を全部あたしに見せてくれたね。でも、まだあたしの頭の中は見てないよね」
「そんなの、見たくねぇよぉ……誰か、誰か助けて……」
「これからお兄ちゃんに、あたしのことを教えてあげる。お兄ちゃんはいっぱいあたしのお勉強をしてね」
 その声が合図であるかのように、陽太の気配が不意に消失した。



 辺りが一瞬真っ暗になり、また明るくなる。トイレの前でお漏らしをして泣いていたはずのアリサは、気がつくと校舎の外に立っていた。
 やはり陽太と柚葉が通っている学校の敷地ではない。山の中腹にある廃校の校庭だ。日は暮れかけ、そろそろ相手の顔がわからなくなる頃合いだった。
「ここは……?」
「アリサ !?」
 可愛らしい声に振り返ると、アリサとまったく同じ外見の女児がすぐそばにいた。
「ジュリア !?」
 アリサの双子の少女、ジュリアは首を振った。
「私、ジュリアじゃなくて柚葉なの。でも、気がついたらこんな格好になってて……」
「柚葉っ !? お、お前、柚葉なのか !?」
 アリサは吃驚した。「じ、実は俺も、アリサに見えるけど陽太なんだ。アリサにこんな姿に変えられちまって……」
 フリルとリボンのたっぷりあしらわれた自分の可憐な服をつかみ、アリサは途方に暮れた。今の彼女を見て、本当は陽太だと気づく者はこの世に一人たりともいないだろう。陽太のことを誰よりも知っている柚葉でさえわからないのだ。
「陽太 !? あんた、陽太なの !? あんたも私と同じようにアリサにされちゃったの !?」
「そうなんだ。俺、もうアリサから死ぬまで離れられないって言われて……うええええ……」
 情けなく嗚咽するアリサを、ジュリアは肩を抱いて慰めてくれた。
「大丈夫、きっと大丈夫よ。私がついてるから、だから泣かないで」
「柚葉、ごめんよう……俺が肝だめしなんかしたせいで、お前まで巻き込んじまって……」
「そんなこと、別にいいわよ。だって私、あんたのことが好きだから。離れ離れになる方が嫌よ」
「ゆ、柚葉、柚葉ぁ……」
 七歳の双子は抱き合ってお互いを慰め合った。
 季節は夏だろうか。古びた木造の校舎には灯りがなく、周囲には人の気配が感じられない。やはりこれも現実ではなく、亡霊たちが見せる夢の中ではないかと疑った。
「アリサちゃん、ジュリアちゃん、どうしたの? 早く行こうよ」
 誰もいないはずの校庭に、知らない女児の声が響いた。
 二人が顔を向けると、そこに彼女たちと同い年くらいの女の子が立っていた。
 見たことのない女児だった。ラフなシャツとミニスカートを身に着け、髪は左右でまとめたツインテール。第一印象ではかなり活発そうな女の子だ。
 つい先ほど周りを見回したときは、確かに彼女はいなかった。あまりにも唐突な出現に、二人は顔を見合わせた。
「だ、誰……?」
「何言ってるの、アリサちゃん?」
 女児は首をかしげたが、大したことではないと思ったのか、二人を置いて校舎へと歩いていく。「早く来てよ、二人とも。じゃないと置いていっちゃうよ!」
「だ、誰だろう? アリサでもジュリアでもない……」
「よくわからないけど、とにかくついていきましょ。どうやら幽霊じゃなさそうだし」
「あ、ああ……でも」
「でも、何よ?」
 ジュリアは怪訝な顔で問いかけた。
「いや……よくわからないけど、俺、なんかあの子を知ってる気がする」
 アリサは女児を呼んで振り向かせ、その顔をまじまじと観察した。やはり、知らない顔ではない。だが誰なのか思い出せなかった。
「私も、なんだかあの子に見覚えがあるような……でも、うちの学校にあんな子いたっけ?」
「いや、いない。少なくとも今年の一年生から六年生にあの子はいないはずだ。もしかしたらあの子は……」
 ふとした思いつきが脳裏に浮かび、それが正解だと確信する。アリサは慣れないスカートで小走りに女児を追いかけ、その肩に手を置いた。
「桜ちゃん!」
「なあに、アリサちゃん?」
 ツインテールの女児は笑顔で答えた。
 アリサの予想は大当たりだった。女児は桜……陽太たち六年生のクラス担任をしている女性教諭、桜だった。
 二十年前、桜はアリサたちとこの校舎に通う友達だったのだ。
 衝撃の事実に直面し、アリサはどうしていいかわからなかった。
(なんだ? これは夢か? 夢なら……なんでこんな夢を見せるんだ?)
 不安が胸の奥から這い上がり、アリサの細い脚を震えさせた。
 しかし逃げるわけにはいかない。
 おそらくこれはあの悪霊たちが見せる夢なのだろう。
 二十年前のこの日、この古い校舎の中で何が起きたのかを知らせるための夢なのだ。
「桜ちゃん、待って! あたし、聞きたいことがあるの」
 足早に校舎の中へと入っていった桜を、アリサは追いかけた。入口の下駄箱に自分の上履きが置いてあるのを彼女は知っていた。真新しい黒のローファーを脱ぎ、白い上履きに履き替え、桜についていく。
「聞きたいことってなあに、アリサちゃん?」
「あたしたち、なんでこんな時間にここに来たの? 誰もいないよね、ここ」
「もう……今さら何を言ってるのよ、アリサちゃん」
 七歳の桜は呆れた顔だった。「夏休みだから肝だめししようって言ったじゃない。夜の学校ってスリル満点よ、きっと」
「肝だめし……」
「そうよ。二人とも、お屋敷で毎日ヒマだって言ってたじゃない。厳しいご両親もたまには許してくれるわよ、きっと」
 その言葉にようやく事情が理解できた。今は夏休みで、三人は誰もいない日没後の学校へとこっそり忍び込んだのだ。暇つぶしの肝だめしで。
(ってことは、これから起こることは、おそらく……)
 アリサは緊張した面持ちで、桜のあとについて痛んだ廊下を歩き、軋んだ階段を上がる。無人の廊下には非常用のぼんやりした灯りがところどころについていて、それがまた不気味だ。遠くから聞こえるセミの声も陰気で、肝だめしによく合っている。
「どこまで行くの?」
「私たちの教室! そこで持ってきたお菓子を食べて、ゲームでもしようよ!」
 無邪気に笑う桜は、まさしくあの女教諭の幼い頃の姿だった。将来はとても美人になるだろうと期待させる可憐な顔立ちだが、深窓の令嬢を思わせるアリサやジュリアとは違って、実に快活そうだ。
「陽太、これってまさか……」
 桜に聞こえないよう小声でジュリアが話しかけてきた。多分、これから何が起こるか彼女も理解したのだろう。
「ああ、わかってるさ。でも、俺たちにはどうすることもできねえよ。過去は変えられねえからな……」
「私たち、最後まで見るしかないんだね……」
 やがて、三人は施錠のされていない一年生の教室に到着した。日頃使っている机と椅子は隅に重ねられ、教室の面積の三分の二ほどが広々と使える。三人はピクニックのように床に敷物を敷き、各々が持ってきたお菓子を広げた。
 それからアリサとジュリア、桜は楽しいひとときを過ごした。桜はとても親切で物知りで、話題に事欠かなかった。アリサとジュリアも頭の中から勝手に記憶が湧いてきて、何を話せばいいか教えてくれる。話せば話すほど楽しくなって、これが悪夢の前奏曲だということを忘れてしまうのだった。
(子供の頃の桜先生ってこんな感じだったんだ。優しい今とは少し違って腕白だけど、可愛いな……)
 宴もたけなわ、ジュースを飲んで酔っ払ったふりをした桜が、教室の端に重ねられた机の上によじのぼった。大人になった彼女なら危ないと制止する場面だが、今の桜は七歳だ。止める者はいなかった。
「見て、見て! 天井に手が届くよ! きゃはははは……」
 そのとき、ぐらり、と床が揺れた。
「地震だ!」 
 アリサは叫んだ。あらかじめこうなることを予感してはいたが、愉快な時間を過ごしてすっかり油断していた。
「きゃああああっ !?」
 桜の悲鳴があがった。重ねられた机の上によじのぼった彼女はバランスを崩し、頭から床に落下しようとしていた。二メートル近い高さから勢いよく落ちたら、命に関わることも充分考えられる。
「桜ちゃんっ!」
 アリサは揺れる床を蹴飛ばし、桜の落下地点に滑り込んだ。ジュリアも同様にスライディングして桜を受け止めようとする。
 だが、落ちてきたのは小柄な体の桜だけではなかった。教室の隅に積み上げられた机と椅子が崩れ、木と金属の雪崩になってアリサとジュリアを飲み込んだ。
 ほんの一瞬だけ、痛みと重みを感じたかと思うと、電源を切られたテレビのように急に目の前が真っ暗になる。

 それが自分の最期なのだとアリサは理解した。



 宙に浮かんでいるような奇妙な空間をさまよい、アリサはまた唐突に床に転げ落ちた。
「痛えっ! こ、ここは……?」
 そこは朽ち果てた教室だった。窓の外は真っ暗で、セミの声が遠くから聞こえてくる。教室の隅には懐中電灯が転がり、弱々しい光を放っていた。
 アリサの目の前に、見覚えのある少年が座っていた。彼女に気づいたようで立ち上がり、こちらを向いた。
 案の定、その少年は陽太だった。

 お、おまえはおれなのか? それともアリサなのか?

 七歳の幼女の声で訊ねると、陽太は優しい顔で微笑んだ。「あたしは陽太、小学六年生の男の子だよ。そしてあなたは幽霊の一年生の女の子、アリサだよ」

 ち、ちがうよ……おれはヨウタで、おまえがアリサだ

「でも、アリサが死んじゃうところを思い出したんでしょ? だったらあなたはアリサよ」
 陽太は自信たっぷりの表情で、床に這いつくばるアリサを見下ろしてきた。きちんと眼球のあるいつも通りの彼の顔だが、どこか普通の人間のものとは異なる気配をまとっているような気がした。
 アリサは自分の体を眺めてはっとした。新品の白いブラウスも、白い長袖に包まれた細い腕も、フリルスカートの裾から伸びるきゃしゃな両脚も、その脚を覆う可愛らしいリボンのついたストッキングも、自分の体の全てが透き通っていた。
 まるで幽霊のように。

 お、おれはユーレイじゃない……
 おれはヨウタで、そのカラダはおれのものだ
 おれのカラダをかえしてくれぇっ!

 アリサは半泣きになって陽太につかみかかったが、その手が陽太の体に触れることはなかった。半分透き通った今のアリサは決して陽太に触れられないのだ。
「ホントはあなたとずっと一緒にいようと思ったんだけど、その前にやることができちゃったの。だからあなたは少しの間、あたしの代わりにここでお留守番しててね。アリサはいい子でお留守番、できるかな?」

 な、なんだよそれ
 おれをここにおいていくつもりか?
 そんなのイヤだよ……

 真っ青になってアリサは陽太にすがりついたが、やはり彼には触れられない。何かコツでもあるのかもしれないが、今の彼女では何をどうしても陽太の体に触ることはできなかった。
「あなたは幽霊だからここから出られないけど、ほんの少しの我慢だよ。あたしがここに戻ってくるまで……そうじゃなかったら、この学校が取り壊されちゃうまで我慢だよ」
 アリサの顔から血の気が引いて、失神してしまいそうになった。
 陽太に置いていかれる……その恐怖にアリサの胸ははりさけそうだった。
 このまま置いていかれたら、自分は彼女の代わりにここの地縛霊になってしまうように思えた。
 陽太は教室の隅に転がる懐中電灯を拾うと、絶望するアリサに背を向けた。
 すると、教室のドアが軋んで開き、柚葉が入ってきた。
 アリサは聖人に許しを乞う罪人のように柚葉の前に飛び出し、這いつくばった。

 ユ、ユズハ、たすけてくれっ
 おれはヨウタだっ
 このこにカラダをぬすまれちまって……

「そっちもうまくいったのね、アリサ」
 陽太の肩を叩いてにやりと笑う柚葉に、アリサはぽかんとした。
「うん、うまくいったよ。これでこの体はあたしのもの……生き返れるなんて思わなかったな」
 陽太も柚葉と同じ表情で笑い、馴れ馴れしく彼女の肩に腕を回した。
「でも男の子になっちゃって、アリサはそれでいいの?」
「うん、いいよ。大人になったら結婚しようね、ジュリア」
 そして陽太は柚葉にキスをすると、彼女を連れて教室を出ていった。
「それじゃあ元気でね、お兄ちゃん、お姉ちゃん」

 ま、まってくれっ
 おれのカラダをかえして……
 ユズハのカラダをかえしてくれぇっ

 静かになった廃校舎に、七歳の幽霊の金切り声があがった。
 あとに残されたのはアリサと、アリサと同じ姿をしたもう一人の幽霊だけ。
 生あるものがいなくなった真っ暗な廃墟の中、アリサは寂しくすすり泣くのだった。

 ◇ ◇ ◇ 

 桜に電話がかかってきたのは、夏の陽が沈んでしばらく経ってからだった。
 かけてきたのは彼女が受け持つクラスの学級委員長、柚葉だ。
「助けて、先生!」
 いつになく切羽詰まった様子の柚葉の声に、ただ事ではないと桜は察知した。
「陽太がやっぱりあの廃墟……古い学校に行くって聞かなくて、私は止めたんですけど、結局来ちゃったんです。私はあいつが怖いことしないか心配でついてきて……そしたらあいつ、腐った床板を踏み抜いちゃって……足を挟まれて、血が、血が……陽太が死んじゃう!」
「落ち着いて、柚葉さん! いま廃校跡にいるのね !? 今から先生がそっちに行くから、待っていて!」
 桜は急いで着替えを済ませ、自宅のアパートを飛び出した。
 大変なことになった。恐れていたことが起きたと思った。
 彼女の生徒……悪戯好きな陽太が古い学校跡に侵入し、中でケガをしてしまったという。どの程度のケガかはわからないが、速やかに病院に連れていってやるべきだろう。一瞬、陽太の悪戯かもしれないと思ったが、まさか真面目な柚葉が嘘をつくとは考えられない。
 問題は、この辺鄙な田舎町に救急車がないことだった。病院のある街は遠く、以前、急病人のために救急車を手配したところ、片道三十分、患者が病院に到着するまで実に一時間以上を要した。もしもケガ人が出て一刻を争うのであれば、救急車を呼ぶよりも、住人が自動車を出して街の病院に運んだ方が早いのだ。
 他の教諭たちはみな街からの通勤で、呼んでもすぐには駆けつけられない。危機に陥った児童を助けられるのは、この町に住む自分だけだ。
 件の旧校舎跡は山の上にあり、そこに続く細い道路は随分前に土砂崩れで塞がっていた。歩いて通る分には大して問題ないが、自動車の進入は困難だ。つまり、桜がそこに行く手段は自分の脚しかない。
(どうしてあんな場所に……陽太君、行かないって約束したのに)
 怒りと悲しみで胸をいっぱいにして、桜は山道を走った。動きやすい半袖のブラウスと細身のジーンズを選んできたが、夏の夜の蒸し暑さは運動に向かない。廃校に到着したときには、全身汗だくになっていた。
 古びて廃墟になった校舎の前に立つと、懐かしさがこみ上げてきた。
 二十年前、小学一年生だった桜は、確かにこの校舎に通っていた。
 だが、なぜかそれ以上のことは思い出せない。どんな友達と一緒だったか、さっぱり覚えていない。
 ほんの数ヶ月だけ通い、街の学校へと転校してしまったのだ。そのせいかもしれないと桜は思った。
 廃校の周囲には街灯も非常灯もなく、辺りを照らすのは星明りと桜のスマートフォンの光だけだ。画面のバックライトを懐中電灯の代わりに使うこともできるが、あまり長時間はもたないだろう。中にいる柚葉と陽太を急いで救出し、病院へと運んでやらねばならない。
「柚葉さん、陽太君! どこ !? どこにいるの !?」
 朽ちかけた廊下を歩きながら、桜は生徒の名を呼んだ。
 返事はない。
 一階にある教室や職員室、トイレには誰もいなかった。歩くたびにギシ、ギシと音をたてる階段をのぼり、二階に向かった。
 二階にある教室は四つ。
 四年生の教室は空っぽだった。次に三年生、二年生……やはり誰もいない。
 残るは最後の教室、一年生の教室だけだった。
 古びた戸を開くと、はたして柚葉と陽太が汚い床の上に座っていた。教室の隅には懐中電灯が置かれ、二人を横から照らしていた。
「柚葉さん、陽太君! 大丈夫 !?」
「桜ちゃん、来てくれたの」
 柚葉はにっこり笑って言った。
 桜は疑問に思った。柚葉の表情も言葉も、どこかおかしい。日頃の彼女のものとは少し異なる気がした。
「陽太君、ケガをしたんですって? 大変……早く病院に行かないと。歩ける?」
 腐った床板を踏み抜いてケガをしてしまったそうだが、外から見る限りにおいては陽太に大きな傷も出血もなさそうだった。桜はひとまず安堵した。
「桜ちゃん……ここ、懐かしいって思わない?」
 駆け寄った桜に、陽太はそう訊ねた。「ここ、一年生の教室なの。昔、桜ちゃんはここでお勉強してたのよ。覚えてない?」
「え? ええ……そう、だったかしら。でも、今はそれどころじゃ……」
「本当に覚えてない?」
「ど、どうだったかしら……よく覚えてないかも」
「そっか、桜ちゃんは忘れちゃったんだ。仕方ないよね。もう二十年も前のことだもんね」
 妙に透き通る声で語る陽太は、いつになく不気味だった。
 本当にこの少年は陽太だろうかと桜は訝しがった。安物のTシャツと短パン、ところどころ刈り上げた短い髪、腕白そうな顔立ち……間違いなく陽太のはずだ。
 だが、何かが違う気がする。
「桜ちゃんはね、一年生のときこの教室でお勉強してたのよ。とっても仲のいいお友達が二人いたの」
「アリサとジュリア。覚えてない? とってもおしゃれな服を着た双子の女の子よ」
 奇妙なことを話す二人に、桜は異変を察した。
 アリサとジュリア。
 どこかで聞いたことがあるような……桜はその名前を思い出そうとして、やめた。
 思い出してしまえば、後悔するかもしれない。いや、きっと後悔する。
 何の根拠もないが、桜はそう思った。
「ごめんなさい、思い出せないわ。それにしてもそんなこと、誰から聞いたの? 先生も思い出せないような昔の話をして……」
「桜ちゃんが忘れてしまっても、あたしたちは覚えてるよ」
「そうだよ。あたしたちは絶対に忘れないよ、桜ちゃんのこと」
 陽太と柚葉はうつむき、クックッと同じ声で笑った。
 ここにいてはいけない……桜の心の中で警報が鳴り響いた。
 これ以上、ここにいてはいけない。しかし、彼女の脚はまるでその場に縫いつけられたように動かなかった。
 いつの間にか、蒸し暑さが消えていた。セミの声も聞こえなくなり、汗ばんだ体が一気に冷えていく。
「どうしたのよ、二人とも? 早くここから出ましょう。ケガをしたなら病院に行かないと……」
「桜ちゃんは、あたしたちを病院に連れていってくれなかったね」
「たくさんの机と椅子の下敷きになったあたしたちを、置いてけぼりにしたね」
 そして、陽太と柚葉は顔をあげた。
「いやあああああっ!」
 桜は絶叫した。
 陽太と柚葉の顔に大きな穴が開いていた。
 両の目があるはずの場所にぽっかりと丸い穴が開いていた。
 底の見えないその穴からは赤い液体が垂れ、ぽたり、ぽたりと床に落ちる。
 口は普段の二倍、三倍の長さに裂け、耳にまで届きそうだ。
 それは生きた人間のものではありえない、化け物の顔だった。
「二十年前、あたしたちはここで死んじゃったの」
「桜ちゃんに呼び出されて、桜ちゃんの乗った机が落ちてきて死んじゃったの」
「桜ちゃんがここに呼ばなきゃ、あたしたちは死ななかったのに」
「桜ちゃんがここに立たなきゃ、あたしたちは死ななかったのに」
「い、いやあああっ! こないで、化け物ぉっ!」
 桜は見苦しく泣きわめいたが、彼女の脚はかつてない危険から逃げることを拒否していた。
「ほら、アリサとジュリアがきたよ」
「アリサになったお兄ちゃんと、ジュリアになったお姉ちゃんがやってきたよ」
 化け物たちの声に誘われるように、桜の背後に何者かの気配が出現した。ハア、ハアと荒い息をついて、少しずつ桜に近づいてくる。気が狂ってしまいそうだ。

 せんせい、さくらせんせい
 きてくれたんだね、さくらせんせい
 こわかった、くらかった
 さびしかったよう……

 幼い女の子の声が二つ、桜の耳元から聞こえてきた。
 振り返ってはいけない。
 振り返ってはいけないと思いながらも、桜の首は古い石臼のようにゆっくり回った。
 そして、彼女が見たのは……血まみれになった二人の女の子だった。

 せんせい、おれ、アリサになっちゃった
 わたし、ジュリアにされちゃったの
 おれのカラダをかえして……
 わたしのカラダをとりかえして……

「い、いやあああっ! あああああああっ!」
 宙に浮かぶ女の子たちは姿が透き通り、明らかにこの世の存在ではなかった。
 桜はその場にうずくまり、耳を両手で押さえて泣きわめいた。
 悪戯がばれた子供のような仕草だった。
「あ、謝る! 謝るから許して! アリサちゃん、ジュリアちゃんっ! あたしを許してえええっ!」
「思い出したかな? あたしたちのこと」
「思い出したんじゃない? あたしたちのこと」
「二十年も忘れたままなんて、ひどいよね」
「あんなに仲良しだったのに、ひどいよね」
「桜ちゃんにお仕置きしないといけないね」
「二人と同じにして、お仕置きしないといけないね」
「きゃあっ !? や、やめてぇっ!」
 次の瞬間、桜は陽太に突き飛ばされた。無様に床に倒れたところを、柚葉に押さえ込まれた。
 どちらも信じがたい腕力だった。とても小学六年生とは思えない。
 柚葉に胸ぐらを掴まれ、乱暴に顎を引っ張られる。閉じようとした口を無理やり開かされた。
「い、いや、いやあああ……!」
 桜は女児のように泣いて命乞いをしたが、化け物たちに慈悲はない。開いた口に透き通った童女たちが手を突っ込んできた。
「お仕置きだよ、桜ちゃん」
「楽しんでね、桜ちゃん」
 自分の大事なものがわしづかみにされ、体の外に引っ張られていくのを桜は感じた。
 このままではいけない……本能が警笛を鳴らしたが、もはや逃れるすべはない。桜は亡霊たちに自分自身を引き抜かれ、気絶して床に転がった。



 意識を取り戻すと、そこには自分以外に誰もいなかった。
 住み慣れた自宅のアパートではない。広い空間の真ん中に横たわっていた。
「私……どうしたのかしら」
 身を起こして、周囲を見回す。
 どこにも灯りはなく、光といえば窓の外の星だけだ。自分の姿さえもろくに見ることができなかった。聞こえる音も、自分の心臓の鼓動と、遠くのセミの声だけだ。
「ここ、どこ? 私、なんでこんなところにいるんだっけ……」
 じっとしていると少しずつ目が慣れてきて、自分が古びた木造の校舎、朽ち果てた教室にいることを知る。
 自分がなぜここにいるのか……それを思い出そうとすると頭痛がした。
 なんだか悪い夢を見ていた気がする。とてもとても悪い夢だ。
 全身がじっとりと汗ばんでいた。それにほこりまみれになっているのが臭いでわかる。
 早く家に帰ってシャワーを浴びたいと思った。自分は教師なのだ。生徒たちの模範になるべく、服装や清潔さには常に気をつけていなくてはならない。
 ふらふらと立ち上がって教室の外に出る。
 真っ暗な廊下、それも廃屋と化した校舎の内部は非常に薄気味悪かった。
 早く外に出ようと歩き出した瞬間、びくんと震えて飛び上がった。
 声が聞こえるのだ。
 女の声だ。
 泣いているような、笑っているような……一定のリズムを刻んで何ごとかの音声を発している。
 逃げ出そうとする危機感と、いったい何者なのか確かめたい好奇心……その二つがせめぎ合い、辛うじて好奇心が勝利する。いい年の大人として、子供のように逃げ出すわけにはいかない。何が起きているのか確かめる必要があった。
 慎重に歩を進め、ギシ、ギシと音をたてて廊下を歩いた。
 女の声は廊下の端にある教室から聞こえてくる。
 少しずつその場所に近づくにつれ、心拍数が大きくなる。
 古いボロボロの戸を引いて、教室の中をのぞき込んだ。
 果たして、中にいたのは女だった。
 子供ではない。長くすらりとした四肢と髪がまぶしい大人の女だった。
 教室の隅に懐中電灯が置かれ、彼女の繊細な肌を横から照らし出していた。
「ああっ、す、すげえ。気持ちいい……先生の体、すっげえ気持ちいいよう」
 女は裸だった。ほこりまみれの床の上にへたり込み、長い指で己を慰めていた。
「な、何なの !? あなたは誰 !?」
 気が動転して叫んだ。
 そこにいたのが見知らぬ痴女だったからではない。
 むしろ、彼女のことはよく知っていた。
 いや、知っているどころではない。
 教室の中央で自慰にふけっていたのは、若い女教諭の桜……自分自身だったのだ。
「あ、目が覚めた? 俺、待ちきれなくてひとりで先に始めちゃってたよ。ごめんごめん」
 桜は悪びれもせず、立ち上がって近づいてきた。体液に濡れた裸体が光り、息をのむ。
 すらりとした長い手足も、形がいい自慢の巨乳も、束ねて肩に垂らした髪も、そのすべてが桜そのものだ。
 ありえないと思った。
 自分がここにいるのに、なぜ桜が目の前にいるのだろうか。
「あ、あなたは誰? どうして私と同じ格好をしているの……」
 震える声で問いかけた。
 ドッペルゲンガーという言葉が思い当たった。この世には自分とまったく同じ姿をしたドッペルゲンガーという化け物がいて、出会うと命を落とすのだという。馬鹿馬鹿しいと思っていた子供たちの噂話だが、まさか本当の話だったのだろうか。
「俺? 俺は桜だよ。学校の先生をしてるんだ」
「何を言ってるのよ? 桜は私よ! 偽者のくせに、私のふりをしないで!」
 精一杯の虚勢を張って、桜を見上げた。
 そこでふと疑問がわいた。本当に相手が自分と同じ姿をしているのであれば、なぜ相手の方が背が高いのだろうかと。二人の身長の差は頭一つ分はある。
「違うよ、お前は桜先生じゃない。桜先生はこの俺だ。お前は陽太……俺が受け持つクラスにいる、六年生の男の子だよ」
 桜はどこからか手鏡を取り出し、差し出した。ひったくるようにそれを受け取り、自分の顔を確かめる。
 小さな長方形の鏡に映っていたのは……桜の顔ではなかった。
 鏡の中にいたのは陽太だ。
 自分が桜ではなく、陽太になっていることを理解した。
「よ、陽太君……? どうして鏡に陽太君が映ってるの」
 つぶやく声も、成人女性のものではない。声変わりの始まった少年の声だ。見下ろすと、自分がTシャツと短パンを身に着けているのがわかる。いずれも桜の特徴ではなく、陽太のそれだ。

 いいなあ、ヨウタ
 せんせいのカラダになって……

 耳元で女児の声がして、陽太は飛び上がった。振り返ると、長い黒髪に赤いリボンをつけた小さな女の子が宙に浮かんでいた。
 その体は透き通っていて、明らかに生者の姿ではない。
 陽太は悲鳴をあげて転倒した。
「いやあああっ! ア、アリサちゃん? アリサちゃんなの…… !?」
 陽太はかつての友達……二十年前、友達だった幽霊に訊ねた。

 ちがうよ、せんせい
 あたしはジュリア
 ユズハだったけど、ジュリアにされちゃったの……

 ジュリアと名乗る幽霊はめそめそと泣き出し、赤い雫を床にこぼした。
「た、助けてええっ! 成仏してええっ!」
「元はと言えば、先生が悪いんだぜ。半分は地震のせいだけど、半分は先生のせいだ」
 桜はそう言って、這いつくばる陽太を抱き上げた。女の甘い匂いがした。
「や、やめて、許して……殺さないで」
「俺は殺さないよ。あの二人がどうするかは知らねえけどさ。俺はこの先生の体で気持ちよくなることだけ考えてるんだ」
 と、桜は陽太の短パンをずりおろした。下着の中から顔を出した男性器は、哀れなほど縮こまっていた。
(私、本当に陽太君になってるんだわ……体におちんちんがついてるなんて)
 これは夢か幻か。
 だが、白魚のような指にペニスを撫で上げられる感触は、夢でも幻でもなかった。
 背筋が震えて、思わず息を吐いてしまう。
「ああっ、や、やめて。あなた、陽太君よね? お願い、先生の体を返して……」
「ダメだよ、先生。俺も柚葉も、アリサたちに体をとられちまったんだ。先生にも同じ目に遭ってもらうよ。体を盗まれて、エッチなことに夢中になるんだ」
「そんなのイヤぁ……あっ、ああっ、あああっ」
 少年のペニスの皮が剥け、ピンク色の亀頭があらわになった。
 その可愛らしい男性器が自分のものだと、陽太はどうしても信じられない。
 女教師は日頃からそうしているかのように慣れた手つきで、不慣れな少年の肉棒をしごいた。桜の長い指が艶めかしく上下するたび、陽太の先端は雫を漏らして歓喜するのだった。
「あっ、ああっ、あっ、ダメぇ……おちんちんゴシゴシしないでっ」
「気持ちいいだろ? 柚葉の手もいいけど、先生の手はもっと気持ちいいだろうよ」
「あっ、ああっ、あひっ、あふっ」
 陽太の腰がひとりでに浮き上がり、更なる快楽を求めて跳ね回る。初めて体験する異性の官能に陽太は翻弄されるばかりだ。
(ダ、ダメ。しっかりしなさい、私は教師なのよ。こんな男の子の体で気持ちよくなっては……あっ、ああっ、ああんっ)
 陽太の中にいる桜は、少しずつ忍耐を削られていった。どんどん理性を蝕まれ、このまま誘惑に身を委ねることが正しいのではないかと思えてきてならない。
 陽太の興奮に比例するように、桜の手の動きもその速度を増した。親指の腹で笠の膨らみを摩擦し、シュッ、シュッと音をたてて陽太をエクスタシーに追いやろうとする。下腹が熱くなり、限界が迫っていることを陽太は自覚した。女の汗の匂いがつんと鼻をつき、抵抗の意思をいっそう削ぎ取る。
「ダ、ダメ、何かくる。何か出ちゃうわ。とっても熱いものが私から……おっ、おほっ、おほおおんっ」
 とうとう耐えきれなくなった陽太の尿道口から、新鮮な樹液がほとばしった。白い粘液が次から次へと噴き出し、床と桜の手を汚した。
 それは陽太の種だった。自分が男として、女を孕ませる液体を放出したことを陽太は知る。二十七歳の女が、十二歳の少年として射精したのだった。これ以上ない快感に、陽太の鼻の穴が膨らんだ。
「うわあ、たっぷり出たなあ。いつものオナニーより遥かに多いぜ」
 桜は嬉しそうに言うと、ひと仕事終えたペニスを愛しげに撫で回した。若い陰茎は憧れの女性の手でたちまち奮い立ち、再び勃起した。
「はあ、はあ……俺、射精したの? もうやめて……俺の体を返してくれよぉ」
「ダメだね。とっても気持ちよかっただろ? それに……」
「それに、何だよぉ?」
「先生も俺に染まってきてるぜ。ひとの体でエッチなことをすればするほど、体に馴染むんだってさ」
「な…… !?」
 陽太は仰天した。
 自分は陽太ではなく桜だ。そう思ってはいても、得体の知れない違和感があることに気づく。
(お、俺、陽太じゃなくて桜だよな? あれ、俺、何歳だったっけ……二十六、それとも七……?)
 戦慄が全身をはしり、陽太の顔から血の気が引いた。
 陽太の肉体に注ぎ込まれた桜の魂が、以前の記憶を失いつつある。
 桜として生きてきた二十数年間の記憶が薄れ、まるで他人の話のように実感を伴わないものになっていた。その代わりに思い出すのは陽太のことだ。クラスメイトの桔平と喧嘩をしたりゲームをしたり、悪戯をして柚葉に叱られた日の晩、彼女の写真を見ながら自分を慰める少年の記憶が、まざまざと思い浮かぶ。
 陽太は恐怖した。このままでは、自分は桜ではなく陽太になってしまう。
「あはは、とってもいい感じ。桜ちゃんが桜ちゃんでなくなるの、とっても愉快だわ」
 と言って、教室に柚葉が入ってきた。彼女も桜と同じく全裸だ。懐中電灯の黄色い光に照らされた小学六年生の素裸に、陽太のペニスが硬くなった。
「お、お前は誰だ !? 柚葉じゃないのか !?」
「あたしはジュリア。このお姉ちゃんの体をもらって、柚葉になったの。代わりに柚葉はジュリアになったよ。ほら、さっきからあなたの隣にいるでしょ」
 柚葉に示された先を向くと、フリルスカートの女児の幽霊が浮かんでいる。彼女が柚葉で目の前の少女がジュリアだというが、混乱した陽太には半分も理解できなかった。
「あたし、このお姉ちゃんの体、気に入っちゃったな。桜ちゃんはそのお兄ちゃんの体、気に入った?」
「そ、そんなわけないだろっ! 俺の体を返せよ!」
「ふふっ、そんな強がり言って……でも体は正直よ? ほら、おちんちんがこんなに硬くなってる」
 柚葉の可愛らしい手が伸びてきて、陽太の勃起をつまみあげた。
「おおっ、や、やめてくれぇっ。ああ、うんっ」
 気になる女子に敏感な箇所をつつかれ、陽太は情けなく喘いでしまう。
 自分が成熟した女性でなく、未熟な少年であることを思い知らされた。
「あなたはもう桜ちゃんじゃなくて、陽太なの。本当はあなただってそう思ってるでしょ?」
「そ、そんなわけないっ、俺は桜……ああっ、で、出るっ、出るううっ」
 二度目の射精は早かった。同い年の少女に幹をしごかれ、白いマグマが噴出した。自分の大切なものが体の外に流れ出していくような錯覚を抱いた。
「好きだよ、陽太。私の手でもっともっと気持ちよくなってよ」
「ああ……柚葉、やめろ。俺を陽太にするのはやめてくれええっ」
 連続したオーガズムを経ても柚葉の手は止まらない。悪戯っぽい笑みを浮かべ、陽太の一物を愛しげに撫で回した。三たびペニスが立ち上がり、陽太は己の性欲の強さを痛感する。
 陽太は怖かった。自分が自分でなくなって、身も心も別人になってしまうのが怖かった。それは死んでしまうことよりも恐ろしいかもしれない。
 柚葉が愛撫を続けていると、もう一本の女の手が陽太に伸びてきた。桜の手だ。
「へへっ、また出しやがったな。でもまだまだ元気だ。俺の性欲は底なしだぜ」
 優しい女教諭が決して口にしない言葉を陽太の耳に吹きかけ、桜は彼の陰茎をもてあそんだ。
 柚葉だけでなく桜にもしごかれ、陽太は声を抑えられない。元は自分の手のはずなのに、とても柔らかくて気持ちがいい。形のいいピンクの爪で亀頭をつつかれるのもたまらない。
「や、やめろ、また出ちまう……ううっ、やめ、やめろぉっ」
 またも射精の予感が迫ってきたそのとき、ようやく二人は手を止めた。
 急に愛撫を中断され、陽太はもどかしい思いだった。いっそ出させてくれたらと本気で考えた。
 だが、二人は陽太を責めたてるのをやめたのではなかった。むしろその反対だ。
 汚い床にへたり込む陽太の前に、桜が中腰になった。つんと上向いた豊かな乳をさらけ出し、女教師は少年の上にのしかかる。
 これから何をするかは言うまでもなかった。
「や、やめろよ、桜先生。こんなの、本当のセックスじゃないか……」
「いいじゃねえか。俺、この体でセックスしてみたいんだ。お前だってしたいんだろ? 白状しろよ」
「お、俺はしたくない……」
「ふふっ、嘘おっしゃい。陽太君は先生のことが好き。そうでしょう?」
 妖艶な表情で微笑む桜に、陽太はどきりとした。
「ち、違う……俺が好きなのは柚葉だよ」
「そうね。でも柚葉ちゃんの次に好きなのは先生でしょ? 先生、知ってるんだから。柚葉ちゃんと同じように先生の写真を隠し撮りして、ときどきオナニーしてるんでしょ」
「なんでそれを…… !?」
 絶対に隠しておきたかった秘密を暴かれ、陽太の目の前が真っ暗になった。「ち、違う! それは俺のしわざじゃなくて……!」
「何も違わないわ。スケベな陽太君は桜先生をオカズにオナニーしてるのよ。当然、セックスだってしたいでしょ? ほら、見なさい。先生の毛むくじゃらのアソコが陽太君のおちんちんを飲み込んでいくわ」
「あ、ああっ、そんな……」
 陽太は声を震わせたが、それは拒絶からではなかった。だらしなく頬を緩ませ期待に震え、憧れの女教師との結合を待ちわびていたのだ。
 大人らしく整った陰毛の生い茂った桜の秘所は少しずつ下りていき、男と女の先端が触れ合う。それだけで達してしまいそうな衝撃がもたらされたが、続く快感はいっそう蠱惑的だった。
「は、入ってくる。ああっ、硬い……」
 桜はうっとりした様子で嘆息した。「女のセックスって、こんな感じなんだ……すげえ」
 一方の陽太も、初めて味わう挿入の心地よさに爆発する寸前だ。
 濡れそぼった肉びらが陽太の細長いペニスに絡みつき、少しずつ奥へといざなう。顔に押しつけられた桜の乳房が甘い香りを放ち、陽太のタガを外してしまう。
「ううっ、また出る。もう出ちゃうよ、先生っ。ああ、出るっ、出るうっ」
 童貞を捨てて間もない少年の忍耐は、お世辞にも強いとは言えない。陽太は桜の膣内に樹液を撒き散らし、妊娠に最適な年齢の女体に己の遺伝子をたっぷりと注ぎ込んだ。
「なんだ、もう出たのか? でも、まだ硬えじゃねえか。もっと先生を満足させなさい、ほら、ほら」
 陽太の肉棒が萎えないことに気をよくした桜は、規則正しく腰を上下させ、男女の結合部をかき回した。浅い部分をつついたかと思えば、一気に深々と貫く激しい動きに、陽太は翻弄されるばかりだ。
 少年は自分が大人の女だったことも忘れて、男の性交にのめり込んだ。魂を引き抜かれ肉体を交換した男児と女性は、はじめから自分がその姿だったかのように力いっぱい腰を動かし、倒錯的な官能を貪った。二度、三度と膣内射精を繰り返し、受精のリスクも恐れず愛しあった。
「ふふっ、私の分も残しておいてくださいね、桜先生」
 陽太の尻の穴に指を突き刺しながら、柚葉が言った。その隣では宙に浮いた女児の幽霊が、所在なさげに男女の営みを眺めている。

 いいなあ、ヨウタ
 あたしもカラダがほしい……

 ジュリアという名の幽霊がつぶやくと、柚葉は空いている方の手で透き通る彼女の手をとった。なぜ触れられるのかはわからないが、確かに柚葉はジュリアの手を握りしめていた。
「なら、代わってもらおうよ」
 驚く女児の亡霊の手を、柚葉は桜に押しつけた。そのとき、ちょうど桜が陽太の上で幾度目かのオルガスムスの声をあげた。獣のように吠えたあと、桜の表情は驚きに満たされていた。
「わ、私、どうなったの? この胸……まさか先生の体になっちゃったの?」
「ええ、そうよ。お姉ちゃんの魂を桜ちゃんの体に移し替えたの。そしてお兄ちゃんの魂は……」
 柚葉は手を引き、フリルのスカートをはいた女児の幽霊を桜に見せつけた。ジュリアの可憐な顔もまた驚愕に支配されていた。

 お、おれ、またアリサになったのか?

「違うよ、ジュリアだよ。お兄ちゃんはジュリアに、ジュリアはお姉ちゃんに、お姉ちゃんは桜ちゃんに、桜ちゃんはお姉ちゃんになってるんだよ。面白いでしょ」

 そんな……おれ、もうユーレイにはなりたくないよ……

「桜ちゃんの体はお兄ちゃんとお姉ちゃん、かわりばんこで使ってね。あたしはお姉ちゃん、アリサはお兄ちゃんの体がお気に入りだから。そして桜ちゃんは……」
 この世のものとは思えない凄惨な笑みを浮かべて、柚葉は陽太を見つめた。何度達しても解放されない哀れな少年の肩をつかみ、ぐいと引っ張る。
 それが、この狂った宴の終わりになった。

 ◇ ◇ ◇ 

 朝、桔平は少し早めに登校した。
 今日は彼がクラスの日直で、朝一番に教室の鍵を職員室からとってきて、扉を開けなくてはならない。夏休み明けの初日にこんな雑用をさせられ、面倒なことこの上ない。
「おはようございます、失礼します」
 と挨拶して職員室に足を踏み入れると、担任の桜の姿があった。丁寧にアイロンがかけられた白いブラウスと、細身の黒いタイトスカート。美人で優しい女教諭が彼に微笑みかけた。
「よう、桔平。今日は早いな。日直か?」
「え?」
 桜の挨拶に桔平は面食らった。とても普段の彼女が口にしない台詞だった。
 自分の発言がおかしいことに気づいたのか、桜は慌てて手を振った。
「ううん、気にしないでちょうだい。ところで、桔平君は夏休みの宿題はちゃんとやったかな?」
「はい、全部やりました」
「いい子ね。宿題するだけじゃなくて、遊ぶこともしっかりした? 小学生最後の夏でしょう。全力で遊んで、全力で勉強するのが、先生はいいと思うの」
「はい、しっかり遊びました。でも……」
「でも、何?」
「友達の陽太が全然遊んでくれなくて……あいつ、夏休みの前は遊びに行こうって約束してたんですけど」
 桔平は残念がった。夏季休暇の間、悪友の陽太を何度か誘ったのだが、一度も姿を見せなかった。喧嘩と悪戯、遊ぶことが大好きな陽太がまったく誘いに乗ってこないなど、考えられないことだった。何か悪いものでも食べて病気になったのだろうかと思った。
「あら、それは残念ね。でも陽太君も、桔平君のことが嫌いになったわけじゃないと思うな。きっと何か理由が……」
 話の途中、いきなり桜が立ち上がった。そのまま桔平を突き飛ばすようにして洗面所に向かい、もたれかかるようにうつむいて苦悶の声をあげる。桔平は目を白黒させた。
「ううっ、うげえええ……ご、ごめんなさいね。先生、急に気分が悪くなっちゃって……」
「だ、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫よ。もうすっかり良くなったわ。原因はわかってるの。大したことないから心配しないで」
 桜はいつもの慈愛に満ちた笑みを桔平に見せた。「ほら、早く教室の鍵を持っていきなさい。クラスの皆が待ちぼうけよ」
「は、はい! じゃあ、また後で」
 鉄平は頭を下げて職員室をあとにした。閉めたドアの向こうから、桜の独り言が聞こえた気がした。
「ううっ、気持ち悪い。でも、赤ちゃんにされちまった先生を、俺がしっかり産んでやらないとな……」

 桔平が鍵のついた出席簿を教室に持っていくと、廊下に陽太の姿があった。
「おい、陽太! お前生きてたのか !?」
「いきなりご挨拶だな、桔平。俺はこの通りだよ」
 陽太は何ごともなかったことをアピールするように片手を上げ、悪友の軽口に応えた。体調を崩したようにはまったく見えない。誰が見ても夏休みの前と同じ陽太だった。
 陽太の後ろにはクラスメイトの柚葉の姿があった。よく見ると、二人はしっかりと手を繋いでいた。
 桔平は驚愕した。思春期を迎えて複雑な年頃だ。男女が仲良くしていると、すぐ級友たちのからかいの的になってしまう。それは二人もわかっているはずなのに、こそこそするどころか、むしろ反対に周囲に見せつけるかのように肩を並べ、手を繋いでいた。
「なんだ。陽太のやつ、彼女ができたのか。裏切り者め……」
 この数週間の疑問が氷解し、桔平はため息をついた。
「私、アリサと離れた席に座るの、嫌だな」
「仕方ないだろ。昼休みになったら俺の隣に座れよ、ジュリア」
 べたべたする陽太と柚葉に、桔平は嫉妬混じりの怒りを覚えた。驚いたことに二人はお互いをあだ名で呼び合い、人目もはばからずスキンシップを繰り返していた。体を触ったり頬に口づけたりする男女を見て、周囲の児童たちは大声で騒ぎ立てるのだった。
「何だろう……陽太のやつ、やっぱり別人になっちまったみたいだ。女は魔物だ……」
 陽太と軽口を叩きあうこともなく、桔平は孤独な一日を過ごした。
 そんな寂しい彼の元に、放課後、陽太がやってきた。
「桔平……お前、今夜ヒマか?」
「何だよ、俺に話しかけるなよ。軟弱者め……」
「何言ってんだ? 俺はちゃんと男らしさを証明したぞ。ほれ」
 と、陽太が見せてきたのはスマートフォンで撮影した写真だった。それは夏休み前に桔平が探検して彼に自慢した、山の上の廃墟のものだった。
 桔平が行ったときは昼間だったが、陽太の写真は夜のもので真っ暗だ。フラッシュの光と懐中電灯で撮影した廃墟の内部の写真は実に気味が悪く、もしも桔平がその場にいたら恐怖で腰が抜けてしまうかもしれない。
「お、お前……あの場所に行ったのか !? すげえ、真夜中じゃん!」
「ああ、なんてことなかったよ。まあ長いこといたからな、あそこには」
「くっそー、俺も負けてらんねえぜ! 今夜にでもこっそり行って、写真を撮ってきてやる」
「残念だったな。もうあそこ、取り壊されちまったよ。夏休みの間にな」
「え、そうなのか !? くっそー……それじゃ勝てねえじゃん……」
 男の度胸だめしに敗北したことを思い知らされ、桔平は天を仰いだ。つまらないことで意地を張り合うのが年頃の少年の特徴だ。
「それでさ。俺、別の場所に古い建物を見つけたんだよ。今夜、肝だめしに行ってみようぜ」
「ああ、行く行く! どこだって行ってやるさ! 夜中に連絡するから待ってろよ! 俺は絶対に負けねえからな!」
 桔平は黒いランドセルに急いで荷物を詰め込んだ。久しぶりに陽太と遊べると思うと、つい嬉しくなってしまうのだ。
「あらあら、アリサ、あの子も食べちゃうの? 趣味が悪いわね、ふふふ……」
「まあ、いいじゃねえか。ついでに先生も誘って、今夜はみんなで楽しもうぜ。ひひひ……」
 不気味に笑う陽太と柚葉の会話を聞き流しつつ、桔平は今夜開かれるという肝だめしに備えて帰路につく。
 陽太と柚葉、そして桜の中身が永遠に変わってしまったことに彼が気づくことはとうとうなかった。



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