俺の愛するクソ姉貴 前編

 冬の夕方、街は既に暗くなっていた。寒波は多少和らいだらしく、いつもなら身を切り裂くように吹いてくる北風も今日は少しだけマシになったような気がする。俺の錯覚かもしれないが。
「あーやれやれ、寒いなぁ」
 俺の右手には夕食の入ったビニール袋がぶらさがっている。もちろん中身はコンビニ弁当。こう寒いと寄り道して外食する気にもなれない。それに今日は家で飯を食うのは俺一人、わざわざ作るのも面倒だ。
 そんな訳で俺は大学が終わると弁当だけ買って真っ直ぐ家に帰ることにし、この寒空の下を一人でとぼとぼ歩いているのだった。
 分厚いセーターにマフラー、毛糸の帽子に手袋と完全装備だったのでそこまで身に染みる寒さという訳ではなかったが、それでも寒いものは寒い。駅からうちのマンションまでは歩いて十分ほどしかないが、充分体が冷えてしまった。
 エレベーターを下りてカギを取り出し、無造作に自宅のドアを開ける。
「たっだいまー」
 暖房の効いた空気に優しく身を撫でられ、思わずくしゃみが飛び出した。玄関にはごつい女物のブーツが鎮座している。どうやらまだ出かけていないらしい。俺はリビングのドアを開け、そこにいた女に話しかけた。
「なんだ姉貴、まだ行ってないの?」
 壁にかかった時計を見ると既に五時過ぎ。いつもの姉貴からすればかなり遅い時間と言えた。どうせもう卒業が決まって大学なんて行かなくてもいいから、時間はたっぷりあるはずなんだが。大きく息を吐き出しそう問いかける俺に、彼女の罵声が飛んできた。
「遅いっ! このグズ、何やってたの !?」
「はあ?」
 意味がわからない。今日は寒いから講義が終わって直で帰ってきたってのに、なんで姉貴に怒られなきゃならんのか。
 上着を脱いで声の方向を振り向くと、流しにもたれかかった長身の女が俺をにらみつけていた。ところどころ黒を残したロングの茶髪は肩まで垂らされ、蛍光灯の光を浴びてきらきら輝いている。つり上がった眉は細く、いつも描くのに気を遣っているらしかった。目つきは悪いが、家族以外の男の前ではそれなりに良くなるらしい。不思議なものだ。
 名前はよしの、由乃と書く。俺の同居人にして尊大極まりない姉貴だ。ちなみに俺の名は大和。この名前のせいで幼い頃は宇宙戦艦と呼ばれていた。二人っきりの姉弟だが、もし弟か妹がいたら名前はイズミにでもなっていたのだろうか。うちの親はどうにも安直というか、あまり子供の名前に悩まないような親だから困る。
 しかし姉貴が尊大なのはいつものことだが、なぜ俺が怒られないといけないのか。訝しがる俺だったが、和室の方からとてとてと歩いてきた女の子を見て合点がいった。
「おにーちゃんおかえりー!」
「なんだ志麻ちゃん、来てたのか」
 パープルのワンピースの上に可愛らしいピンクのジャケットを羽織ったこの少女は、お隣に住んでる女の子で志麻ちゃんという。今年小学校に入ったばかりだ。実に素直であどけなく、俺や姉貴によく懐いているのでこうして遊びに来ることも多い。
 まあお隣の夫婦が共働きであまり子供に構ってやれなかったり、外ヅラだけはいいうちの姉貴がお隣と妙に仲が良かったりと、その辺はいろんな事情があったりする。
 この子がここにいるってことは、また面倒見るように頼まれたんだな、姉貴のやつ。感心したものか呆れたものか、とにかく俺は姉貴に確認した。
「姉貴、今日も飲み会じゃなかったっけ?」
「そうよ、だから急ぎのとこをあんた待ってたのに! 早く帰って来なさいよ!」
 さすがに傍若無人な姉貴でも、預かった女の子をひとり置いて出かけるのは良心がとがめたのだろう。こういうところは常識があるというか無駄に外ヅラがいいから、そのとばっちりを受ける俺にとってはなかなか困ったものだった。
 俺は肩をすくめて姉貴に言い返した。
「それならメールくれりゃよかったのに。志麻ちゃん預かるって聞いてなかったからさ」
「メールしたわよ! あんた見なかったの !?」
「あれ?」
 ポケットからケータイを取り出すと画面が真っ黒になっていた。そう言えば昨日通話しまくって、充電するのを忘れていた気がする。でもなんでよりによってこんな時に……。俺は自分の迂闊さと運の悪さを嘆いたが、姉貴は許してくれなかった。
「はあ? ケータイが使えませんってあんた猿か何か !? ただでさえグズなのに、ちょっとは姉さんの役に立とうとか思わないわけ !?」
 うちの姉貴は口が悪い。ついでに言うと性格はそれ以上に悪い。だが顔はそこそこで外ヅラも良かったので、周囲からは人気があるようだ。俺はそんな姉貴に虐げられつつ二十年も生きてきたので、まあいろいろ大変だった。大学に入ったら一人暮らしをしたかったのだが、あいにく行きたい大学にことごとく落ちた俺が受かったのは、姉貴の通う三流大学だけ。ちょうどいいやということで親からは姉貴のマンションに一緒に住むよう命じられ、気がつけば姉貴に下僕として仕えてもう二年になろうかとしていた。
 姉貴は今年で大学を卒業するが、既にそこそこの商社に自分の席を確保している。この就職難でよくやったと思う。やはり外見と物怖じしない性格のせいだろうか。俺にとっては小さい頃から鬼でも悪魔でもある姉貴だが、そういうところは素直に尊敬する。
 それはとにかく姉貴もいつまでも俺を罵ってばかりはいられないようで、あたふたと慌てて身支度を整え出かけていった。
「七時に志麻ちゃんのお母さんが迎えに来るから、それまでちゃんと相手したげなさいよ! あとあたしいつ帰れるかわかんないから、お風呂はいいわ」
「はいよ、いってらっしゃい」
 ――バタン!
 こうしてうちの姉貴は嵐のように去っていった。
「……おねーちゃん、出かけちゃったの?」
 玄関に突っ立っていた俺のもとに志麻ちゃんがやってくる。首筋が隠れるくらいに伸ばした髪は姉貴のとは違い、真っ黒でつややかだった。
「うん。今日は帰ってこないだろうから、お兄ちゃんと遊ぼうか」
「いいよ、何して遊ぶー?」
 子供は嫌いじゃない。抱っこしてやったりお絵かきを見てやったり、俺は志麻ちゃんのお母さんが迎えに来るまでこの子の相手をしてやった。
 その日、予想通りのことだが姉貴は帰ってこなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 ――ドンドン! ドンドン!
 次の日の昼前、ドアを乱暴に叩く音で俺は目を覚ました。大学の授業は昼からだし、今日は大して重要でもない講義ばかり。寒いから自主休講でも構わないかな、と思っていた頃だった。
 もぞもぞと布団から這い上がり、ドアに声をかける。
「はーい、どなたー?」
 俺はTシャツと短パンという格好で寝床に入っていたから出るのは少しためらわれたし、いきなり不用心にドアを開けることに対する抵抗はないでもなかったが、どうせうちには盗られるものなんて何もないと開き直って戸を開ける。
 そこには不機嫌極まりない顔をした姉貴がいて、じっとこちらをにらみつけていた。
「何だ姉貴か。カギくらい持ってるだろ? なんで開けないんだよ」
「……うるさいわね」
 そう言ってふらふらと俺の横をすり抜け、和室の布団に倒れこむ。たちまち部屋は酒臭くなった。
 どうでもいいけど、そこ俺の寝床なんですけど。あんたには立派なベッドがあるでしょうが。だが俺の思いも空しく、姉貴は布団にうつ伏せになったまま不満タラタラのご様子だった。いつもは酒量をわきまえる姉貴が珍しく二日酔いらしく、辛そうな声で愚痴をこぼし続ける。発言が支離滅裂なのでよくわからなかったが、要するに飲み会で何かあったようだ。
 正直言っていい気味だとは思ったが、いつまでも放っておく訳にもいかない。寝転がる姉貴の肩をゆすり、努めて優しい言葉をかけてやる。
「姉貴、ほら着替えて。シャワー浴びたらすっきりするから」
「うるさい、余計なお世話よ。ほっといて」
 実に可愛くない発言である。まあ姉貴らしいっちゃらしいけどさ。
「しかもそこ俺の布団だしさ。寝るなら自分のベッドで寝なよ」
「どうでもいいでしょ。いいからあっち行け」
「姉貴、姉貴ってば」
「…………」
 駄目だこりゃ。手の施しようがない。困った俺はとりあえず昼飯にしようと湯を沸かし始めた。
 さてラーメンにするかスパゲッティにするか。米の飯は残ってないしな。
「あーうざい。あいつ何よ、信じらんない……」
 隣の和室では相変わらず姉貴の愚痴が続いている。二日酔いなんだから寝てりゃいいのに。たった二つの年の差なのに、なんで俺は姉貴に逆らえないんだろうか。散々好き勝手言われてこき使われて、褒められるどころか毎日が罵倒の嵐。性格と言ってしまえばそれまでなんだが、いい歳した男としては何とも情けない話だった。
 とはいえ姉貴も就職したらこの部屋から出て行くはずだし、それまでの辛抱なんだけどさ。
 沸騰した鍋に麺を入れつつ、俺は野菜をきざみ始めた。

 夕方になっても姉貴は起きてこなかった。晩飯は食うんだろうか。食うなら二人分のメシを作らなきゃいけないし、姉貴が食わないなら俺は適当にコンビニ弁当で済ませるつもりだった。
 布団で横になった姉貴を揺り起こすが、やはり機嫌は直っていなかった。
「姉貴、姉貴。メシどーすんの。食うなら何か作るけど」
「……どうでもいい」
「どうでもいいって何だよ。食うの食わないの」
「……それじゃ、何か作って」
 姉貴は濁った眼差しで俺を見上げた。あまり目を合わせていたくない瞳だ。俺は内心の苛立ちを隠すように立ち上がり、近くのスーパーに買い物に行こうと上着やマフラー、手袋を用意した。今日も寒いからな。
 本当は冷蔵庫にあるもので一食分くらい作れなくもなかったが、あの状態の姉貴と二人でいるのが嫌だったこともあり、俺は仕方なく家を後にした。
 やれやれ、よくわからんけどあんなんじゃこっちにまで負のオーラが移っちまうよ。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 この寒いのにスーパーの中はそこそこ混んでいた。ここは夕方六時を過ぎるとタイムセールだとかでかなり安くなるのだ。俺は主婦ほど食費にこだわる男でもなかったからあまりいい気はしなかったが、とりあえず目当ての惣菜と卵、数種の生野菜を確保し早々にレジに向かった。
 布団を占領して腐り続ける姉貴のせいで俺も不機嫌だったので、ビニール袋に品物を突っ込むときに思わずため息が漏れた。
「……ふう」
 慣れてることとはいえ、姉貴に振り回されるのはやはりしんどい。どうせ後でまた俺に八つ当たりしまくるに決まっている。それを思うと気分が重かった。
 そんな哀愁の俺に、横から声をかけてくるやつがいた。
「どうしました。うかない顔ですね」
「なに?」
 突然のことに隣を振り向いた俺は――絶句した。
 歳は俺よりいくつか下、制服は着ていないが多分高校生くらいだろう。知り合いでも何でもない少年が俺のすぐ横に立って、じっとこちらを見つめていた。
 だが俺が驚いたのはいきなり声をかけられたことじゃない。そいつの顔、あまりにも整いすぎた美貌に驚愕していたのだ。俺の周囲どころか、テレビや雑誌で有名な俳優やモデルにもこんな美形の男はいやしないだろう。端正すぎる顔は仮面のように人間離れしていて、いっそ作り物かとさえ思わせる。そんなやつが爽やかな笑顔を浮かべて俺の隣にたたずんでいた。
 こんな美少年がその辺のおばさんたちの目に入らないはずはないが、周囲の客は皆、俺とこいつのそばを通り過ぎ、こちらに視線を向けようともしない。あまりの動揺に俺は返事をすることもできず、呆然としてこいつを見つめ返すだけだった。
 立ちすくむ俺に、透き通るような少年の声がかけられる。
「大変そうですね。何かお悩みですか?」
「あ、ああ……いや――」
 何でもない、と言おうとした俺を遮って少年が続けた。
「食材、一人分にしては多いですね。今日は友達か恋人とご一緒ですか」
「…………」
「ひょっとして、さっきのあなたのため息はそれが原因ですね?」
「い、いや……」
 何なんだこいつは、いやに馴れ馴れしい。もしかして高校生探偵か何かか。本来なら怒鳴りつけてこいつをどかせる場面だったが、なぜか俺の体はそうせずに少年のにこやかな笑みにすっかり毒気を抜かれてしまっていた。
「ちょっとお話をうかがいましょうか。手短で構いませんから」
 そう言って微笑む少年に逆らうことができず、俺は気がつけば今の状況と、普段から抱いている姉貴への不満を残らずこいつに喋ってしまっていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 店を出た頃には夕方というより夜になっていた。
「う、外に出るとやっぱさみーな……」
 北風に吹かれつつビニール袋をかかえて家路につく。あいつのせいで少し遅くなってしまったが、姉貴はどうしているだろうか。大人しく待っててくれればいいが、また俺に当たってくるかもしれない。
 それにしてもあの少年、普通の人間とはどこか違った不思議な雰囲気を持っていた。俺の話にうんうんとうなずいて同情してくれたっけ。そのまま帰っちゃったけど。
 何者だったのかよくわからないが、まあ過ぎたことはどうでもいい。とにかく急いで帰って晩飯にしないとまた姉貴に怒られる。寒さと恐怖にブルブル震えながら、俺は自宅に向かって急いでいた。

「ただいまー! 姉貴、遅くなってごめん! 今飯にすっから」
 姉貴はきょとんとした顔で布団に座っていた。機嫌を損なった様子は全くない。良かった、この調子だと理不尽に怒られることはなさそうだ。そう安心した俺に、立ち上がった姉貴がいきなり飛びかかってきた。
「おにーちゃんおかえりぃっ!」
「――――っ !?」
 とっさに何が何だかわからんかった。
 俺は中肉中背だが姉貴はかなり長身で、ヒールを履くと目線がほぼ同じ高さにくる。そんな姉貴が満面の笑みを浮かべて俺に抱きついてきた訳で、危うく倒れるところだった。
 しかし、これは一体どういうことだろう。家族の前では唯我独尊を地でいくあの姉貴が、俺に抱きついてあまつさえ頬ずりまでしてくるのだ。自慢じゃないが物心がついて以来、俺はこんなことをしてもらった覚えがない。また酔っ払っているのか、それとも二日酔いが治っていないのか。
 俺は何とか姉貴を振りほどき、テーブルに置いたビニール袋の中身を広げだした。飯は出かける前に炊いていったので大丈夫、いい感じに炊きたてだ。
「ほら姉貴、飯。から揚げ買ってきたから」
「えー、今日はおにーちゃんとご飯ー?」
 姉貴は今まで見たことがないほどのにこにこ顔で楽しそうに笑っている。これはひょっとすると、病気か何かで頭がおかしくなっちまったのだろうか。椅子に座った姉貴の額に手を当ててみるが、特に問題はなく平熱のようだった。外から帰ってきたばかりの俺の手が冷たかったらしく、姉貴はその手をとってまた笑う。
「おにーちゃん、手、冷たいよ! あははは!」
「姉貴、ホントにどうしたんだ……大丈夫か……?」
 酒の飲みすぎで脳溢血にでもなったのか。救急車呼んだ方がいいだろうか。心配する俺を気にもせず、姉貴は無邪気な笑い声をあげてほかほか湯気のたつ茶碗をとった。
「じゃ、いっただっきまーす!」
 ところが心なしか箸の持ち方がおかしい。しかも食べながらよくこぼす。いくら俺の前でも、あの姉貴がここまでだらしなくなるはずはないんだが……。
 俺が本気で心配になってきた頃、うちの呼び鈴が鳴った。
 ――ピンポーン……。
「あ、はい?」
“大和! 私よ私! ここ開けてえっ!”
「……えーと、志麻ちゃん?」
 戸惑いつつもドアを開けると、元気一杯の女の子がうちに飛び込んできた。可愛い顔も綺麗な黒髪もいつも通り。お隣の小学生、志麻ちゃんだった。
 しかし志麻ちゃんはどこか慌てた様子で靴を脱ぐと、俺が止める間もなく勝手にうちに上がり込み、リビング兼ダイニングのドアを開けていた。
「ああっ !! やっぱり私、私がいるっ!」
「あれ? あたし?」
 姉貴と志麻ちゃんは大声をあげてお互いを指し合う。
 ……はっきり言って俺には、何が何だかさっぱりだった。


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