「ヒカル、最近ご機嫌だね」 午後の休み時間に、ヒカルに向かって唐突にそう言ったのは、友人の夏樹だった。 「あれ? そう?」 「うん、なんか浮ついてる感じがする。いいことでもあった?」 夏樹は顔に疑問の色を浮かべて訊ねてきた。 小学生のときからの長いつき合いで、今や親友といっても差し支えない間柄の夏樹は、ここ最近のヒカルの変化を敏感に感じ取ったようだ。 椅子に座ったヒカルを見下ろし、眼鏡の奥から興味津々の眼差しを向けてくる。 「え? 何もないよー」 ヒカルはとぼけたが、自分でも多少の自覚はあった。 啓一とのデートから、風邪をひいた彼の見舞い、さらに快気祝いの席での口づけと、このわずか一、二週間ほどの間に、自分でも驚くほど多くの出来事があった。 何しろ、相手は多くの女生徒が思慕してやまない理想の男性、水野啓一である。 その啓一との甘い記憶を思い返すだけで、ついつい頬が緩んでしまうのだ。 そして、誰が見ても有頂天になっている今のヒカルを、ただでさえ詮索好きの夏樹が放っておくはずがなかった。 「何もないわけないでしょ。何があったの、白状しなさい」 「えへへ、実はね……啓一センパイとキスしちゃった」 「ええっ !? あんたまさか、水野先輩とつき合ってんの !?」 肩をつかんで追求してくる夏樹に、ヒカルは嬉々として自分と啓一の仲の進展ぶりを語った。 本当はもっと勿体をつけようかとも思ったのだが、それよりも早くこの口の悪い友人に自慢してやりたいという欲求の方が強かった。 話を聞いた夏樹は、はじめこそ半信半疑だったものの、普段まともに嘘もつけないヒカルの純朴さは彼女が一番よく知っており、啓一と一緒に見に行った映画や、彼の家で開かれた宴会の様子を詳しく聞かされると、さすがにヒカルの言葉を信じないわけにはいかなかった。 「へー、加藤先輩が仲を取り持ってくれたのかあ……。あの先輩もすごい美人だよね。恵先輩とはまるでタイプ違うけどさ」 「うん。いい人だよ、真理奈センパイは。ちょっと自分勝手なとこあるけど」 啓一とヒカルを同席させ、映画や買い物に連れて行ってくれたのは、啓一の友人の加藤真理奈だった。ヒカルがそのことを語ると、夏樹も真理奈のことを知っていたようで、納得したようにうなずいた。 「そりゃあ、この学校じゃ有名な『恋の女王様』だからね。恵先輩とは別の意味で、色々とすごいらしいよ」 校内の噂話をあちこちで聞きかじっては脳内のメモに書き留めている夏樹のことだ、あの派手な女、加藤真理奈についてもあれこれと聞き及んでいるのだろう。夏樹は眼鏡のレンズをきらりと光らせ、意味ありげに笑った。 「しっかしまあ、あんたホントに水野先輩とつき合ってんのかあ。絶対無理だと思ってたんだけど、世の中何があるかわかんないよねー」 「あはは、ざまあみろ。すごいっしょ?」 ヒカルはふざけて舌を出し、照れ笑いを浮かべた。 「まあ、まだ正式な彼女ってわけじゃないけどさ。でも啓一センパイの反応見る限りじゃ、いけるんじゃないかなって思ってる」 「そっか、まだつき合ってるわけじゃないんだ。それなら急ぎなさいよ。早く先輩をものにしとかないと、誰かに盗られちゃうかもしんないから。『この人はあたしのモンですっ!』ってべたべたシール貼っとかないとね」 「もう。何言ってんのよ、あんたは」 冗談のような言い方だったが、夏樹の言いたいことはヒカルにも理解できた。 あらゆる分野において優等生の啓一は、性格も穏やかで人当たりが実に良く、誰彼問わず優しくしてしまうようなところがあった。 そのおかげでヒカルも啓一に近づくことができたのだが、いざ自分が彼と親密になると、今度はその美点が欠点に見えてしまう。 勝手な話だが、ヒカルとて一人の人間である以上、人並みの独占欲はある。 「好きな相手に振り向いてほしい」という願いは、「自分以外の相手には振り向かないでほしい」という思いと表裏一体だった。 ヒカルの内心を知ってか知らずか、夏樹はぺらぺら喋り続ける。 「私が思うに、水野先輩って優柔不断なんだよ、きっと。誰か一人に決めちゃえば、少しは群がってくる女の子も減るのにね」 そこまで言って、ふと思い出したように訊ねてくる。 「そういやヒカル、恵先輩のことなんだけど、結局どうだったの?」 「どうって、何が?」ヒカルは机に腰かける夏樹を見上げて、訊き返した。 「だからー、あの二人、兄妹で怪しい関係にあんのかって話よ。私も最初はあんまり信じてなかったんだけど、校内にはあの二人がそういう仲だって思い込んでる人、結構いるらしいのよね。だからこの際、あんたからも意見聞いとこうかと思って」 「え、あー、うーん……」ヒカルはとっさに答えられなかった。 「もしホントにそうだったとしたら、とびっきりのネタよ。どっちも美男美女のパーフェクトな双子なんて、ただでさえ漫画みたいな話じゃない。もしそれが禁断の関係だったなんてことになったら、スクープなんてもんじゃないわ」 いかにも新聞部員らしい発言だった。ひょっとすると夏樹は将来、芸能人を追いかけ回すゴシップ記者にでもなりたいのかもしれない。 そうなったら天職だな、などと思いつつ、ヒカルは夏樹の問いを頭の中で反芻した。 水野啓一と水野恵の双子の兄妹は、いったいどのような関係にあるのだろうか。 以前、夏樹がどこかで聞きかじってきた噂によると、二人は血の繋がった兄妹でありながら、恋人同士の仲だという。 二人をよく知る加藤真理奈もそう言っていた。 だが、それはあくまで根拠のない噂話でしかない。真理奈の話にしても二人の仲については言及していたものの、具体的な内容を訊ねてもまったくヒカルに話そうとはせず、はぐらかすだけだったのだ。 自分で確かめろと真理奈に言われてから今まで、ヒカルはできるだけ啓一のそばにいるよう心がけたが、少なくともヒカルの前であの兄妹が互いの性的関係をほのめかす行動をとったことは皆無だった。 しかし、だからといって水野兄妹がごく平凡な双子かと問われると、疑問が残る。 二人の能力と性格がほぼ同一といってよいほど似通っているのは周知の事実だが、それ以上にヒカルが密かに気にしているのは、あの兄妹と一緒にいるときに覚える、かすかな違和感のことだった。 決して邪険にされるわけではない。無視されているわけでもない。 しかしあの二人の隣にいると、なぜか自分がまるでその場の異分子になったような、場違いな邪魔者にでもなったかのような疎外感が、自然と胸のうちに湧いてくるのだ。 自分は何も悪くないのに、なぜかそこにいるだけで落ち着かなくなって、気後れしてしまう。ヒカルは今までにそれを二、三度経験していた。 理由はわからないが、それはひょっとするとあの二人がお互いに似合いすぎているからではないかと、ヒカルは思う。 啓一には恵が、そして恵には啓一がいて、初めて真に光り輝く。 最初から一対で作られた美術品のような存在が、水野兄妹だった。 それをヒカルは心の隅で認めていたが、それはつまり、自分が何をしたところで啓一の伴侶になれないことを意味していた。 (そんなのイヤだ。あたしは啓一センパイが好きなんだから) 常日頃から思い込みの激しいヒカルである。 はじめこそ一目惚れではあったものの、このところの啓一との触れ合いを通じて、その慕情は百年の恋とでも呼べるものへと変貌してしまっていた。 啓一が欲しい。彼に優しく名を呼ばれ、この身を強く抱きしめてほしい。衆人環視の中でもいい。むしろ望むところだ。どうせなら皆の前で唇を重ねて、万人に二人の仲を祝福してもらいたかった。 そのヒカルの願望に応えるように、目の前に幻の啓一が現れ、彼女に近寄ってくる。 「ヒカルちゃん。君のことが好きだ」 両の肩に手を置いて告白してくる啓一に、ヒカルは喜びを隠さない。 「嬉しいです、センパイ。こんなあたしですけど、つき合ってくれますか?」 「もちろんさ。こちらこそ、僕の恋人になってください」 そして啓一はヒカルの後頭部に手を回し、情熱的に彼女の唇を奪った。 共に息を止めて口唇を触れ合わせる自分たちに、皆が見とれている。 自分と啓一を取り巻く人々の中には、啓一の妹、恵の姿もあった。 「おめでとう、ヒカルちゃん。啓一のことをよろしくね」 にっこり笑って、けれども少し悲しそうに自分を祝福してくれる恵の前で、ヒカルはゾクゾクするほどの幸福と優越感に包まれていた。 「やったぁ! これであたしは、啓一センパイと――」 いつも通りの妄想を始めたヒカルを、現実に呼び戻したのは夏樹だった。 「おーい、ヒカル! ヒカル、目を覚ませー!」 「ふにゃ?」 パンパンと遠慮なく頬を叩かれ、ヒカルの視界から啓一が消える。 同じく恵もいなくなっており、今までの夢想が儚い幻なのを思い知らされた。 目の前にいるのは啓一でも恵でもなく、友人の夏樹だ。眼鏡の奥の黒い瞳が、呆れ果てた色をたたえている。 「あ、夏樹……」 「もう。人が訊いてるのに、あんたは何やってんの?」 白昼夢を見ていたヒカルに、夏樹はすっかりおかんむりだった。 ヒカルは慌てて首を振り、夏樹に謝った。 「ご、ごめん。なんかぼーっとしてた」 「ヒカル、ホントに大丈夫? 前々から思ってたけど、病院行った方がいいんじゃない?」 「し、失礼ね。大丈夫よ、大丈夫。ちょっといい夢見てただけよ」 「夢ねえ……。なんで人と話しながら夢なんて見れんのよ。どうせヒカルのことだから、水野先輩の妄想でもしてたんでしょ。あんたほどわかりやすいやつっていないよね、ホント。天然記念物もんだわ」 「何だとー !? くそ、夏樹がいじめるー! うわああんっ!」 照れ隠しもあって、ヒカルは机に突っ伏して泣き真似を始めた。 確かに箸が転んでもおかしい年頃ではあるが、これほど表情がころころ変わる娘も珍しい。夏樹は目を細くして、冷たい視線でそんなヒカルを見下ろした。 文句の一つも言いたいようだが、結局、夏樹の口から出てきたのはため息だけだった。 諦めて夏樹がヒカルの前に腰を下ろした、そのときだ。 「よーし、決めたっ!」 ヒカルは急に立ち上がると、教室に響き渡るような大声で言った。 夏樹のみならず、周りの級友たちも何事かと驚いた顔でヒカルを見やる。自分に集まった周囲の視線も全く気にしない様子で、ヒカルは拳を握り締めた。 「あたし、やっぱりちゃんと勝負してくる! 中途半端なのはやだもんっ!」 その言葉の意味を正しく理解できたのは、おそらく夏樹だけだっただろう。他の生徒たちはみな、気張るヒカルを訳もわからず眺めているだけだった。 にわかに静かになった教室の中で、夏樹がぽつりとつぶやいた。 「……やれやれ。ホントにこいつ、頭痛いわ」 もちろんその声は聞こえていたが、ヒカルは気にもしなかった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 「思い立ったら即実行」を座右の銘にするヒカルは、そのあと早速、啓一の携帯にメールを送り、放課後少し時間を割いてもらえないかと訊ねた。 啓一はサッカー部員だが、都合のいいことに今日は練習がなく、授業が終わったあと、自分の教室でヒカルのことを待っていてくれるという。 午後の授業を終えたヒカルは、これからいよいよ啓一に告白するのだと緊張と決意の入り混じった顔で、二年の教室に向かった。 放課後の廊下にはどこか弛緩した空気が立ち込め、強張った自分の身体がまるで場違いなものに思えてくる。 これでは夏樹にからかわれるのも無理はない。 ヒカルは一度、大きく息を吸い込んで、可能な限り自分を落ち着けた。 下におりる生徒の流れに逆らって階段をのぼると、そこで一人の女生徒がヒカルを待ち構えていた。 啓一の双子の妹、恵だった。 「ヒカルちゃん、ちょっといい?」 恵は穏やかな瞳をヒカルに向け、訊ねてきた。相変わらずの落ち着いた物腰で、誰にでも好感を抱かせる模範的な態度だ。 こうして一対一で向かい合うと、改めて恵の魅力がよくわかる。 艶のある黒髪は長く、普段からきちんと手入れされているのだろう。まるで自分で輝いているかのように、光を浴びてきらめいている。 体型と肢体はいずれも常人よりわずかに細く長く、不自然ではない程度に色白な肌が、紺の制服によく映える。 しかし、それら外見の特徴よりもなお際立っているのは、恵の持つどこか浮世離れした、神秘的な雰囲気だった。 恵の理知的な眼差しを浴びていると、さもこの女が自分の全てを見通しているような、あらゆる出来事を知っているかのような、不思議な印象を抱いてしまう。 そんな荒唐無稽なこと、あるはずがないというのに。 ヒカルはかすかな息苦しさを感じながら、恵に言った。 「すいません。あたし、大事な用があるんです。また今度にしてもらえますか」 「うん、わかってるわ。それでも私はヒカルちゃんと話したいの。すぐ済むから、ちょっと来てくれないかしら」 珍しく強引な恵の言葉に戸惑う。 だがこの先で自分を待っている啓一を思うと、気がせいてしまう。今は恵になど構っていられないと、ヒカルは再度、首を横に振った。 「すいません、急いでるんです。通して下さい」 邪魔するなと言いたげなヒカルに、恵は優しく微笑んだ。誰しもが好意を持たずにはいられない、清楚な笑みだった。 「啓一なら大人しく待っててくれるわ。だから少しだけ時間をちょうだい」 「恵センパイ、なんで啓一センパイのこと知ってるんですか。まさかセンパイから聞きました? あたしのこと」 どうやら恵は、ヒカルが啓一に連絡したことを知っているようだった。 特に口止めしたわけではないが、これはあくまでヒカルと啓一とのプライベートな問題である。いくら彼の妹とはいえ、首を突っ込まれては愉快になれるはずがない。 ヒカルの心に不快な感情が湧き出した。 恵はヒカルを自分の教室に連れてきた。 恵は二年A組、啓一はB組であり、この隣の教室には啓一がいるはずだ。 ヒカルは一応、礼儀を保って恵に従ったが、早く啓一に会いたいという思いで胸が一杯だった。 終礼も掃除も終わっていて、教室には誰一人として残っていない。おそらく施錠は恵が引き受けたのだろう。教卓の上には教室の鍵が置いてあった。 もう廊下にも人がほとんどおらず、放課後の喧騒がやけに遠くから聞こえた。 恵は手近な机にカバンを置き、ヒカルを振り返った。 「座る?」と訊ねられたが、どうせすぐ啓一のところに行くので遠慮する。 とにかくさっさと話を終わらせようと、ヒカルは口を開いた。 「で、恵センパイ。話って何ですか?」 「ええ。ヒカルちゃんに聞きたいことがあるの」 細く優美な唇を笑みの形に曲げて、恵が言った。 「啓一のこと、好き?」 ヒカルはその問いに、思わず体を硬くした。 以前、風邪を引いた啓一の見舞いに行ったときは、ヒカルの方がその質問を恵に投げかけた。そのとき恵はヒカルの問いにうなずいた後、 「でも、ヒカルちゃんの『好き』と、私の『好き』は別物よ。私と啓一の仲は、ヒカルちゃんが考えてるようなのとは全然違うから」 などという返答をよこしてきたのだ。 あのときは単に「自分たちは仲のいい兄妹だ」と言いたいだけかと思ったのだが、今回のこのわかりきった質問には、いったいどういう意味があるのだろうか。 ヒカルはわずかな間、恵の前で逡巡したが、最初から自分がこの手の駆け引きに向いていないことはよくわかっている。 下手に小細工をするつもりはなかった。 「はい。前にも言いましたけど、あたしは啓一センパイのことが大好きです」 「それは先輩や友達としてじゃなくて、恋の対象としてつき合いたいってことよね」 「そうです。これから告白しに行くつもりです」 ヒカルの返答は予想済みだったのだろう。恵はうなずいて、今度は別の質問を放った。 「そう。啓一のどこが好きなの?」 「どこって――そうですね。特に優しいところがいいですね」 初対面のときから、啓一はヒカルに優しくしてくれた。 元気が溢れるあまり空回りしがちなヒカルを迷惑がるでもなく、世話を焼いてくれた。 だからヒカルは啓一に恋をして、彼の隣にいたいと思ったのだ。 「見た目とか評判とか、そういうところはどう? それもヒカルちゃんが啓一を好きになった理由かしら」 「え、あー……確かに多少はそれもありますけど、やっぱり啓一センパイの魅力は中身だと思います。優しいっていうか、よく周りのこと見てるっていうか、大人っぽいっていうか……」 「そう。わかったわ、ヒカルちゃん」 その答えに満足したのか、恵はにっこり笑った。 恵の方がヒカルより少し背が高い。ヒカルをわずかに見下ろす恵の視線が、静かに絡みついてくる。 恵の態度には悪意の欠片もないのに、なぜ向かい合っていると酸素が不足しているかのように感じられるのだろう。 ヒカルは考え込んだが、この閉塞感の理由は皆目わからなかった。 恵は惚れ惚れするような笑顔のまま、質問を続けた。 ところがその内容は、ヒカルが思いもよらないものだった。 「じゃあもう一つ訊くけど、ヒカルちゃん。私のことは好き?」 ヒカルは身構えた。質問の意図がわからなかったからだ。 「……意味がわかりません。何の話ですか」 「啓一を好きなのと同じくらい、ヒカルちゃんが私を好きになってくれるかってこと。どう、ヒカルちゃん。私のこと、好き?」 恵はそこまで言って突然、ヒカルに抱きついた。 見た目よりも大きな乳房をヒカルの体にぎゅっと押し当て、細い両腕を回して胴体を優しく締めつけてくる。何かつけているのだろう。花のようなほのかな香りがヒカルの鼻腔をくすぐった。 「なっ !? セ、センパイ、何するんですかっ !!」 不意を突かれたヒカルは慌てふためいて、力いっぱい恵を押しのけた。 恵もそれは予測していたようで、よろめくことなくヒカルから離れる。その表情は、どことなく嬉しそうだった。 「ふふっ、ヒカルちゃん……私の恋人にはなりたくない?」 くすりと笑って、恵が問う。 柔和な笑顔に恐怖さえ感じて、ヒカルは拒絶した。 「や、やめて下さいっ! あたしが好きなのは啓一センパイで、恵センパイじゃありません!」 「あら、どうして? 私と啓一で、何が違うわけでもないのに」 「だって、恵センパイは女の人じゃないですか! あたしにはそんな趣味ないですっ!」 「そう、残念ね。外見じゃなくて、啓一の中身がいいって言ってくれた貴方ならわかってくれるかと思ったんだけど、やっぱり無理か。まあ仕方ないわね」 恵は長い黒髪を揺らして、笑顔のまま言った。 「それなら啓一は渡せないわ。ごめんなさい、ヒカルちゃん。啓一は私のものだから、あなたには渡せないの」 「つまり、それが言いたかっただけですか……! 回りくどいことしてあたしをからかって、性格悪いですよ! 恵センパイっ!」 「わかって、ヒカルちゃん。『渡さない』じゃなくて、『渡せない』の」 「何が違うんですかっ !? 啓一センパイは啓一センパイで、あなたなんかとは違います! 勝手にセンパイを自分の所有物みたいに言わないで下さいっ! そんな自分勝手な恵センパイなんて、大っ嫌い!」 「ふふふ。じゃあ、啓一のところに行ってみなさい。それで全部わかるから」 清純な乙女の笑みを浮かべて、恵は言った。 言われるまでもなく、もうこんな訳のわからない女とは話していられない。 ヒカルは全速力でその場を離れ、隣の教室に飛び込んだ。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ヒカルがドアを壊しかねない勢いで中に駆け込むと、入り口に背を向けて窓際に立つ啓一の姿があった。 冬の空は灰色に閉ざされ、寒々とした景色を見せつけてくる。 重苦しい空を無言で眺めながら、啓一は何をするでもなく、ただ立っていた。 「セ、センパイっ! 啓一センパイっ!」 振り向いた啓一は、常のごとく柔らかな笑顔を浮かべて、ヒカルに言った。 「やあ、ヒカルちゃん。待ってたよ」 「す、すいません。呼び出しといて、待ってもらうなんて……」 これも全部、あの女のせいだ。ヒカルは心の中で恵を呪った。 啓一の目の前で立ち止まって、紅に染まった顔で彼を見上げる。 「け、啓一センパイ……。実はあたし、センパイに大事な話があるんです」 「何だい? ヒカルちゃん」 啓一の姿を見つめて、ヒカルは今までの記憶を思い起こした。 あの運命的な出会いから、昼休みに一緒に昼食をとったり、映画に行ったり、彼が体を壊したとき見舞いに行ったり、その後のパーティで口づけを交わしたり、思えばわずかな期間に、啓一とは実に多くの出来事を経験した。 そして今の自分は、心の底から彼のことが好きだと思える。 啓一の気持ちこそわからないが、きっと良い返事をしてくれるはずだ。ヒカルはそう信じて、喉の奥から震える声を絞り出した。 「センパイ――あたし、センパイのことが好きなんです……。好きで、好きで、どうしようもないんです」 「ヒカルちゃん……」 「お願いです、センパイ。どうかあたしと、つき合って下さい……!」 言いたいことを言い終えて、ヒカルは身を硬くして、啓一の答えを待った。 返事を聞きたい。全身全霊を込めて、啓一の言葉を受け止めたい。肯定の返答を待ち望むヒカルに、啓一は落ち着いた声で言った。 彼のことだから、あらかじめ返事を用意していたのかもしれない。 「ごめんね。それはできないんだ」 「センパイっ !?」 全く覚悟していなかったわけではないが、いざ断られるとやはりショックだった。 ヒカルは目に悔し涙を浮かべて、啓一に問い直した。 「なんでですか。なんでセンパイ、あたしを認めてくれないんですか? センパイには彼女なんていないんでしょう? だったら――」 「ごめん、ヒカルちゃん。だけどやっぱり、君の気持ちには応えられない。俺にはあいつが、恵がいるから……。だから、駄目なんだよ」 「恵さんは関係ないですっ! あの人はただの妹でしょうっ !? 妹さんがいるからつき合えないって、おかしいですよ、そんなの!」 とうとう泣き出したヒカルを前にして、啓一は苦渋の表情で唇を噛んだ。 「今まで黙っててゴメン。だけど、どうしても言えなかった。言っても信じてもらえないと思ったから、言えなかった。実は俺と恵は――」 そこで啓一は言葉を区切り、ヒカルの反応を窺った。 だがここまで話せば、ヒカルにだって啓一の言いたいことくらい理解できる。 やはり啓一と恵は、兄妹でありながら愛し合っているのだ。兄妹の禁断の関係に、自分が割り込む余地は最早残されていないのだろう。 そう思うと、ヒカルの目から自然と涙が溢れ出た。 ところが啓一の口から出てきたのは、ヒカルの予想とは全く違う言葉だった。 「実は俺と恵は、同じ人間なんだ」 「……はい?」 唐突に訳のわからないことを言い出した啓一に、意図せずヒカルの涙が止まった。 同じ人間とは、いったいどういうことなのだろうか。頬を涙で濡らしたヒカルを見下ろして、啓一が続けた。 「同じって言っても、別に俺が女装して一人二役をやってるわけじゃないよ。俺の体も恵の体も、ちゃんと別々になってる。同じっていうのは体じゃなくて、中身のことさ」 「中身が、同じ……?」 「そう、特異体質でね。俺と恵は生まれたときから心が繋がってる、一人の人間なんだ。だから俺は恵から離れられない。いくらヒカルちゃんが俺のことを好きだと言ってくれても、恵を拒絶する君とは一緒になれないんだよ」 「あ、あの、センパイ……何のことですか? いったい何の話をしてるんですか? 啓一センパイと恵さんって、いったいどういう――」 「まだ、わからない?」 啓一は手を伸ばし、ヒカルの顔に優しく触れた。 待ちに待った啓一の感触だというのに、今のヒカルはそれを嬉しがるでもなく、呆けた表情で啓一の微笑みを見上げるだけだった。 「まだわからないの、ヒカルちゃん? 私がいったい誰なのか」 惚れ惚れするような笑顔で、啓一が言った。 「け、啓一センパイ……?」 短い黒髪も、凛々しい顔立ちも、引き締まって力強い肉体も、いずれを見ても、目の前の人物は水野啓一以外ではありえない。 しかしヒカルには、ここにいる彼がまるで別人のように感じられた。 「啓一センパイ……どうしちゃったんですか? なんでそんな、女の人みたいな喋り方して……」 「啓一なんてどこにもいないわ。最初からいなかったのよ。あれは全部私の演技」 啓一はヒカルの頬をゆっくり撫でて、笑った。 つい先ほどまではこの感触を待ち望んでいたというのに、今は啓一の言葉、啓一の仕草にヒカルは恐怖さえ覚える。 「啓一はね、生まれたときから心がなかったの。頭にも体にも、何も異常はなかったんだけどね。でも、心が生まれなかったの」 まるで乙女のように柔和な笑みを形作り、啓一は語り続けた。 ヒカルは逃げ出すこともできずに、ただ啓一を見上げるだけだった。 自分の前にいるこの男は誰なのだろう。いや、本当に男なのだろうか。話し方も表情も、慎み深い令嬢のように柔らかだった。 「啓一には心がなかった。だけど私にはあった。それでね、ヒカルちゃん。私の特異体質ってのはね、心がない啓一の代わりに、私が啓一の体を自由に動かせるってことなの。いつでもどこでも、一日中ね」 「え? セ、センパイ、センパイは――」 「そう、やっと気づいた? 私は恵。さっきあなたに嫌われたばかりの、水野恵よ」 啓一の顔で、啓一の声で、そいつは楽しそうに笑った。 普段なら魅力を感じるソフトな笑顔も、今はヒカルの困惑と恐怖を煽る効果しかない。 ヒカルの体が小刻みに震え、再び涙がにじんできた。 啓一の姿をしたそいつは、恐れにガタガタ震えるヒカルを楽しそうに見つめて、言った。 「どうして啓一が何でもできて、優しくて、カッコいいのかわかる? どう考えても不自然よね。何かズルしてるんじゃないかってくらいに」 そこで一拍、間を置いて、ヒカルの泣き顔を観察してから、話を続けた。 「なんでかって言うとね、この啓一は私の理想の姿なの。女の子が憧れる完璧な男の子なんて、どこを探してもいないわ。でも女の私なら、中身のない啓一に、自分の理想の男のイメージを投影できる。そうやって私は子供のときから時間をかけて、啓一を自分の思い通りに作り上げたの。ヒカルちゃん、わかる? 随分難しい話をして、ホントにごめんね」 ヒカルが慕う啓一の全てを、啓一自身が否定しようとしている。 それもヒカルが全く予想しなかった方法で、だ。 冬の空は急速に暗くなりつつあり、ヒカルを奈落の底へ突き落とそうとしていた。 「わ、わかんないです……センパイが何を言ってるのか、わかりません。啓一センパイは、啓一センパイで……恵さんとは違います、よね?」 「ううん、違わないわ。私は啓一だけど、恵の一部でしかない。そうね――恵の思い通りに動く、出来のいい人形ってところかしら。ヒカルちゃんにはわからないでしょうね。体が二つあるなんて感覚は」 「わかりません。そんなの、あたしにはわかんないです……!」 ヒカルは啓一から身を引いて、両手で自分の顔を覆った。これ以上啓一を見ていたくない。彼の話を聞きたくない。 けれども今逃げ出してしまうと、もう二度と啓一に近づけなくなるだろう。 今にも切れそうな細い糸の上で、ヒカルは頼りなく揺れる。 「わからないならそれでいい。でもね、ヒカルちゃん。啓一は好きだけど恵は嫌いっていうあなたのセリフ、どれだけひどい言葉かわかる? たとえばヒカルちゃんが男の子に、『お前の顔、可愛くて好きだ。首から下は要らないけどな、ははは』なんて言われたら、どう思う? そんな相手をヒカルちゃんは好きになれる?」 ヒカルは答えない。頭が状況についていけないのだ。彼女でなくとも、普通の人間ではこの話についていけないだろう。 ヒカルの前にいるのは、そんな異常極まりない生き物だった。 「だからヒカルちゃん、私はあなたとつき合えない。啓一の体も心も、全部私のものよ。あなたなんかに譲れない。それともこう言ってほしいの? 『この泥棒猫、私の啓一を横取りしないで』って」 「啓一センパイ、あ、あたし――」 「帰って。そしてもう二度と私に近づかないで。もう君の顔なんて見たくないんだ。帰ってくれ、ヒカルちゃん」 その言葉がとどめを刺すことになった。 ハンマーで殴られたかのようにふらふらとよろめいて、ヒカルはその場を後にした。 混乱した頭と濡れた視界が、元より不安定な平衡感覚を奪う。何度も転び、壁にぶつかり、廊下に鈍い音を撒き散らしながら、ヒカルは這々の体で逃げた。大好きな啓一から逃げて、逃げて、ひたすら逃げた。 どこをどう歩いたのか記憶にないが、気がつけばヒカルは校門の前にいた。 冬物の制服はあちこち薄汚れ、膝のすり傷からは血が滴っていた。カバンはさっきの教室に置き忘れている。今の彼女の手には何もない。 昨日までは幸せの極致にあったというのに、見るも無残な有様だ。 どうしてこんなことになってしまったのだろう。考えてもわからない。本当に惨めだった。 まさに、天国から地獄へと突き落とされた思いだった。 続きを読む 前のを読む 一覧に戻る |