高熱を出して寝込んでいた啓一が、再び登校できるようになったのは、二日後のことだった。 元々の体力に加え、恵の懸命な看病もあって、何とか外出できるくらいに回復した。 まだ少し顔色が悪いが、足取りがふらつくことはない。 恵は時々不安な表情を見せながら、朝、啓一の教室まで付き添ってやった。 親しい友人たちが、早速そんな二人を見つけて集まってくる。 無論、その中には彼を待ち構えていたヒカルの姿もあった。 ヒカルは啓一が欠席している間、何度も見舞いのメールを送りつけており、今も元気になった啓一の姿を前にして、我がことのように喜んでいた。 「啓一センパイ、治ったんですね! よかったあ」 「心配かけたね、ヒカルちゃん。でも、もう大丈夫だから」 啓一が笑って言うと、ヒカルは頬を朱に染めてはにかんだ。 ヒカルは根が真っ直ぐで素直な、悪く言えば単純な娘だ。 「妄想癖と暴走癖がなければいい子」というのは友人の夏樹の弁であるが、このときもヒカルは啓一以外の全員を自己の認識から排除し、完全に浮ついていた。 その様子を横で見ていた恵は何も言わなかったが、一瞬だけ疲れたような表情を浮かべると、小さく嘆息した。「悪い子じゃないけど扱いに困る」とでも言いたげだった。 友人たちが啓一の机を囲んで談笑していると、不意にヒカルが大声をあげた。 「そうだっ! センパイ、パーティしましょう! パーティ!」 「え?」突然のことに、啓一の口から間の抜けた声が出た。 「快気祝いってやつです。もう十二月で、世の中忘年会とかクリスマスとかで盛り上がってるわけですから、あたしたちもパーっとやりましょう!」 そのヒカルの言葉に真っ先に反応したのは、真理奈だった。 「いいわね。その話、あたしも乗ったげるわ。快気祝いとかどうでもいいけど、集まってワイワイやるのは好きだもん」真理奈らしい言い方だ。 啓一は顎に手を当てて考え込んだ。 「うーん、快気祝いか。でもなあ……」 ヒカルの好意はありがたかったが、たかが風邪が治ったくらいでいちいちパーティを開くのも大げさに思う。 啓一がそう口にすると、ヒカルは彼の机を両手で叩いて力説した。 「何言ってるんですか! 皆センパイのこと心配してたんですよ !? お祝いするくらい、当たり前じゃないですかっ! 遠慮しないで下さいっ!」 「そうよそうよ。あんたの風邪とかどうでもいいけど、何か口実を作ってドンチャン騒ぎするのは酒飲みの基本じゃないの」 「……加藤さん、私たち未成年でしょ?」 恵は真理奈の言い草に呆れ果てたが、彼女の頭の中では既に宴会を開くというのが既定事項になっているようだった。 さらにその場にいた他の友人たち、祐介や瑞希も控えめながら賛意を示したこともあり、後日、正式に、啓一の復調を祝ってささやかなパーティが開かれることになった。 一番喜んだのは啓一でも恵でもなく、言いだしっぺのヒカルである。 また、真理奈もヒカルに負けないくらいに上機嫌だった。 普段からかしましい真理奈だが、何かイベントがあるといっそうやる気が出るらしく、周囲によく響くかん高い声で、啓一と恵に向かって言った。 「じゃあ飲み会の場所とか予定の管理は水野兄妹、あんたたちに任せたわ。年末なんだし、試験もあるし、みんな忙しい時期なんだから、ちゃんと全員の都合を聞いて、文句出ないようにすんのよ」 腰に手を当て、半ば命令口調で言ってくる真理奈に、兄妹は顔を見合わせた。 てっきり、やる気満々の真理奈が仕切ると思っていたのだが、彼女は、 「だってめんどくさいじゃん。計画立てたり調整したりの裏方作業は優等生のあんたたち向きなんだから、サボらずきっちりやんのよ」 と笑って、それが当たり前のように二人を指差した。 「大丈夫大丈夫、美味しいもん食べて、適当に騒げたらそれでいいから。あと、あんまりお金かかんないとこがいいわねー」 勝手な注文をつける真理奈は、完全に人任せの様子だった。 「というか、俺の快気祝いじゃないのか……。なんで俺が仕切るんだ……?」 啓一はぼやいたが、真理奈は聞きもしない。 代わりに彼を慰めたのはヒカルである。 「センパイ、あたしでよければ手伝います。何でも言いつけて下さい」 「ありがとう、ヒカルちゃん」 啓一は微笑んでうなずき返したが、内心では、きっとヒカルちゃんには何をしてもらうこともないんだろうな、などと冷めたことを考えてしまった。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ その次の土曜日の晩、宣言通り、啓一の自宅で彼の快気祝いが開かれた。 年末で試験前でもあり、なかなか皆の都合が合わなかったことと、飲み食いにちょうどいい店が確保できなかったことから、両親が留守にしたときに許可をもらい、家でのパーティとなったわけである。 おかげで料理や菓子を用意するのも家主である啓一と恵の仕事となってしまい、その買い物やら調理やらで、二人にとってはますます手間がかかる事態となった。 「まあ、でもいいじゃない。あんたたちがご飯作ってくれたら安くてお手軽だし、それにあんたの家なら、お店と違ってお酒飲んでも文句言われないしねー」 というのは、フライパン一つ握ったことのない真理奈の発言だ。 諦めの境地に達した啓一はそれを聞いても、ため息を一つついただけだった。 「当たり前だけど、経費は割り勘だよ」 「それくらい別にいいわよ。料理するのあたしじゃないしー。あ、何これ !? ビールもチューハイもないじゃん! もう、買っといてよ!」 当日の夕方、テーブルの上に置かれたスーパーの袋をガサガサあさりながら、そう言って口を尖らせる真理奈には、遠慮の欠片も見受けられなかった。 「勘弁してよ、高校生がアルコール買っていいわけないでしょ……」 「ちっ、気のきかないやつね。これだから優等生は」 真理奈は舌打ちすると、別室にいた祐介に声をかけ、コンビニまで走って飲料を買ってくるよう申しつけた。 「ざけんな、なんで俺が。しかも酒かよ」予想通り、祐介は反発した。 「だってあんた、すごい暇そうじゃん。せっかく仕事あげようって言ってんのに、文句あんの?」 「お前の方が暇だろうが。何もしねえ役立たずの分際で」 「なにぃっ !? あんた、中川のくせに生意気っ!」 激しい言い争いの末、結局ジャンケンで敗北した祐介が飲み物の買出しに行かされることになり、彼は不満たらたらの様子で部屋を出て行った。 その頃ヒカルはキッチンで、料理の下ごしらえをする恵と瑞希を手伝っていた。 手伝うといっても、不器用なヒカルが必要とされる場面はあまりない。 せいぜい湯が沸くのを見張ったり、食器を取ってきたりするくらいだ。 ヒカルのそばでは恵と瑞希がエプロンをつけ、楽しそうに話していた。 「この牡蠣、フライにするけどいいよね」 「うん。あ、焼きそばに卵、使っていい? オム焼きそば」 「いいんじゃない? でも今日のメニュー、ちょっとカロリーが気になるわね」 揚げ物の用意をしながら、恵が微笑む。 それからはヒカルが手伝うようなところは特になく、手持ち無沙汰になってしまったヒカルは、ふと啓一の様子が気になってその場を離れた。 すると向こうの部屋から、いつものことながらよく響く真理奈の大声が聞こえてきて、ヒカルは思わずびくりと身を竦ませた。 「うおあー! 何じゃそりゃ、マジムカツクっ !!」 「……真理奈センパイ?」 真理奈がいたのは、八畳ほどの広さの、ごく平凡な和室だった。黒塗りのタンスに、同じく黒いちゃぶ台が中央に置かれている。 真理奈はちゃぶ台の前に足を崩して座り込んでいた。どうやら正座はできないようだ。 部屋の隅では啓一があぐらをかいて、喚く真理奈を困った顔で見つめていた。 その真理奈の向かいには、ヒカルが見たことのない少年がいて、にこにこ顔で座っていた。 「あはは、残念だったね。まあ、こういうこともあるさ」 「ちょっと待ってよ! 今の無し! やり直しよ、やり直し!」真理奈が抗議する。 「いやあ、そんなこと言われても、こういうのはやり直しがきかないものだから。これからどんなに嫌なことが起きても前向きに受け止めて、諦めずに頑張ってほしいね」 「くそ、綺麗にまとめやがってぇ! あんた最っ低! こんなの二度とやらないからねっ!」 ちゃぶ台の上には長方形のシートと、何枚かのカードが置かれていた。 ゲームでもしていたのだろうか。ヒカルが真理奈の背中越しにのぞき込もうとすると、ヒカルに気づいた真理奈が後ろを振り返り、極めて不機嫌な声をかけてきた。 「ああ、ヒカルじゃない。どしたの」 「い、いえ、センパイの声が聞こえてきたんで、何をしてるのかなーって……」 「ふん、見てわからない? 詐欺師に騙されてたのよ」細い眉がぴくりと跳ねる。 「詐欺師?」 何の話かわからず戸惑うヒカルを尻目に、真理奈は立ち上がった。 男子にも劣らないほどの長身と派手な美貌が合わさって、不思議な貫禄が漂っている。 しかしその口から吐き出されたのは、品のない言葉ばかりだった。 「あー、気分悪い、くそむかつく。しかも中川のやつ、まだ帰ってきてないじゃん。トロくさいわねー。あたしのレモンチューハイ、まだあ?」 「加藤さん、ちょっと落ち着いてよ」 「むっきー! 落ち着けなーいっ!」 このままでは真理奈が暴れだすかもしれないと危惧したのか、啓一は彼女をなだめ、二人で部屋を出て行った。 いかにも気分屋の真理奈らしい行動だが、いったい何があったのだろうか。 ヒカルが呆然としていると、今まで真理奈と話していた少年が、ヒカルに声をかけてきた。 「やあ、こんにちは」 「あ、こんにちは」 ヒカルは少年の顔を見ながら、戸惑った様子で言った。 自分と同い年くらいの、美しい少年である。啓一も充分に美男子の範疇に含まれるだろうが、この少年はそんなレベルではなかった。不自然なほどに、顔が整いすぎているのだ。 白い肌には染みやにきび一つなく、美術の教科書に載っているような石像を思わせる。 そのくせ妙に印象が薄く、そこにいる気配があまり感じられない。不思議な少年だった。 少年はヒカルを見て、にっこり笑った。 無邪気な笑顔は、新しい玩具を見つけた子供のように愛らしかった。 「君は真理奈さんの後輩だね。彼女、あの性格だからつき合うの大変でしょ」 「いいや、そうでもないですよ。いつも本音だから、わかりやすくて安心できます」 「そうかい? まあ、そうかもね」 ははは、と少年は爽やかな声で笑った。 その表情、声や仕草の一つ一つが宝石のようなきらめきを持っていた。 この少年がひとたび微笑むと、どんな女でも赤面せずにはいられないだろう。 ヒカルの頬も自然と紅潮して、恥ずかしさから下を向いてしまった。 少年はそんなヒカルを面白そうに見つめ、自己紹介を始めた。 「僕は啓一君や真理奈さんの友達でね。よろしく」 「あたしはヒカル、渡辺ヒカルです。ヒカルって呼んで下さい」 「ヒカルちゃんだね。わかったよ」少年がうなずいた。 「で、真理奈センパイはなんで怒ってたんですか?」 ヒカルの問いに、少年は落ち着いた声で答えた。 「僕は趣味で占いをやってるんだ。タロット占い」 「へえ、タロットですか」 ちゃぶ台の上には紙のシートが広げられ、その中心には二つの正三角形が上下逆さまに組み合わさった状態で描かれていた。安物に見えるが、きちんとした印刷だった。 たしか六芒星って言うんだっけ、と心の中でつぶやく。 「けっこう本格的ですね」 「そうでもないよ。これで真理奈さんを占ったら、いまいちな結果になっちゃってね。おかげで気難しい彼女はプリプリとおかんむり、というわけ」 「そうだったんですか」ヒカルはつい笑ってしまった。 少年は慣れた手つきでカードの束を切りながら、ヒカルに言った。 「どうだい。君も占い、やってみない?」 「え、あたしですか? うーん、どうしよっかな……」 正直に言って、ヒカルはこうしたことにあまり興味はなかった。 テレビや雑誌でよく目にする血液型占いも星座占いもどうでもよくて、今まで気にしたことがない。 だがこの少年の美しい笑顔を見ていると、ここではっきり断るのもためらわれた。 まさか金は取らないだろうから、暇つぶしの面白半分で占ってもらおうか。ヒカルはそう思い、少年の申し出にうなずいた。 「じゃあ、お願いします」そう言って、少年の向かいに座り込む。 「OK。何を占いたい?」 「何をって……何をですか?」 初めての体験に、ヒカルは戸惑い気味だった。そのヒカルに、少年が優しく説明する。 「占いをするときは、まず何を占ってほしいのか、最初に明確にしてほしい。健康、恋愛、金運、進路……占う対象は色々あるよ」 「じゃあ今回は、恋愛についてお願いします」 「うん、いいよ。そこで質問だけど、今、君に彼氏はいるかい? 別にいないならいないでいいし、片思いでも構わない」 「え、そんなことまで言わないといけないんですか?」 少年の突っ込んだ内容の質問に、ついつい、顔がまた赤くなってしまう。 「占う内容は具体的な方が、効果があるからね。どうしても言いたくないなら、それでもいいけど」 「うーん……」 ヒカルは上目づかいで少年の美貌を見つめ、考えた。 得体の知れない少年だが、啓一の友人であれば、まあ悪人ではないだろう。 それに絶世の美少年と言っていい外見と穏やかな物腰も、好印象の理由となった。 かなり悩んだ末、ヒカルは正直に相談することにした。 「す、好きな人がいるんですけど……その人とあたしはまだ、ただの友達なんです。できればちゃんとおつき合いしたいって思ってはいるんですけど、なかなか難しくて。それにその人を好きなのはあたしだけじゃなくって、ライバルもいるみたいです。だから、これからあたしがその人とどうなるのか、できたら占ってほしい……かな」 「わかった。じゃあ始めるよ」 軽くうなずき、カードの束を再び切ると、それをヒカルに手渡した。 ヒカルは促されるまま彼と同様にシャッフルして、また返す。 少年はマジシャンを思わせる鮮やかな手つきで、カードを六芒星の頂点に一枚ずつ、裏向きで並べた。 「この星の形のことをヘキサグラムって言うんだ。ダビデの星とも呼ばれる、有名な図形さ」 「はあ、そうなんですか」 最後に七枚目のカードを中央に置く。これでカードが七枚、出揃った。 「これから、カードを一枚ずつめくっていく。それぞれの位置には意味があって、君の過去、現在、未来の内容やこれからの対応策などを示しているんだ」 「はあ、複雑ですねえ」 「そうでもないよ。例えば一枚目……ほら、見て」 少年がめくったカードの表には、中央に描かれた大きな円と、それを何体かで取り巻いている、鳥だか天使だかよくわからない動物の姿が見て取れた。 もちろん知識の全くないヒカルには、何のカードかさっぱりわからない。 長い指で絵を指差し、少年が簡単に説明する。 「正位置の『運命の輪』だね。運命が人の生き方に強く干渉して、変化させる。いい変化のときもあれば、悪い変化のときもある。でも、確実に何かが変わる。おそらく君は以前、その人と、何か運命的な出会いをしたんじゃないだろうか」 そう言われて、ヒカルは啓一と初めて出会ったときのことを思い出した。 転んだところを助けてもらうという間抜けな話ではあったが、確かに運命的な出会いと言えるかもしれない。 「はい、そんな感じでした」 にわかにこの少年がすごい人物のように思えてきて、ヒカルは彼から目が離せなかった。 「じゃあ二枚目、いくよ」 少年は次々にカードをめくっていき、それらの札に記された意味を解説していった。 時々気になることも言われたが、どうやら全体的に好調らしい。 今まで占いなど完全に興味の外だったヒカルだが、良い結果が出て嬉しくないわけがない。 まるで祝福してくれているかのような少年の口ぶりに、ヒカルは途中から、すっかりいい気になっていた。 そして最後の一枚、六芒星の中央に置かれた七枚目のカードが開かれた。 「さて、最後だ……おやおや、これは」 「何ですか? このカード」ヒカルが訊ねる。 カードには一人の人間が描かれていた。一見すると女性に見える半裸の人間の周囲を、植物の蔓だろうか、円形の線が取り巻いている。四隅には鳥やライオンの顔があった。 女は踊っているようにも見えるが、不思議と動きが感じられない。奇妙な絵柄だった。 少年は表に向けられたカードを見て、意味ありげな笑みを浮かべた。 「『世界』か。大アルカナの最後に位置するカードさ。その意味をひと言で言うと『完結』ってことだね。全てが終わること。恋愛の成就。一般的にはいいカードと言えるね。恋愛関係においては、結婚を意味することもある」 「け、結婚っ !?」 突飛な発言に、ヒカルは目を白黒させた。 驚き慌てるヒカルを前に、少年は唇で優美な曲線を描く。 「まあ、そんな意味もあるってことさ。別に君が、今すぐその人と結婚するってことじゃない。解釈は人それぞれだしね、こういうのは」 「はあ、そうですか……」 彼の言葉にうなずいたものの、なかなか興奮は治まらなかった。 少年は占いを終えると、カードやシートを片づけ始めた。 「というわけで、役に立ったかな?」 「はい、なんか勇気が出てきました。ホントにありがとうございます」 ヒカルは少年に礼を言って、その場を後にした。 別室では買い物から帰ってきた祐介が真理奈とまた口げんかをしていたので、ヒカルが仲裁することになった。 機嫌の悪い二人とは対照的に、ヒカルはすこぶる上機嫌だった。 ヒカルが去った後の和室に、占い師の少年が座っていた。 タンスにもたれかかり、何をするでもなく、手に持ったカードを見ながら笑っている。 そのカードは先ほどヒカルを占ったときにめくった最後の一枚、「世界」のカードだった。 「しかし、このカードが出るとはねえ……」 楽しそうに言って、カードを長い指で挟んでもてあそぶ。 「完結、全てが終わること。どうやらあの子の恋も、ここで終わりみたいだね」 さっきと同じ、そして違う意味の言葉を口にする。 少年は耳障りのよい、透き通る声で、誰にともなく話を続けた。 「まあ最初から、君たちの間に割り込めるわけがなかったんだ。皆がそれをわかってた。わかってなかったのはあの子だけさ」 顔を上げて、視線の先を目を細めて見やる。 そこにはヒカルの憧れの男、水野啓一が無言で立ち尽くしていた。 啓一をからかうように、少年はにやにや笑って言った。 「でも、今まではっきり断らなかった君も、いけないと思うよ。妙な期待を持たせて、結果的にあの子を苦しめることになった」 「……そんなつもりじゃない」 啓一は鼻白んで言い返したが、今は自分が不利であることを認めざるをえなかった。 「ヒカルちゃんのことは好きだ。つき合うことはできないけど、友達としてなら……」 啓一が言うと、少年は彼を小馬鹿にするような表情を浮かべた。 「やれやれ。君は何でもできるけど、そういうところはまるで駄目だねえ。世慣れてないというか、甘いというか」 「うるさいな、ほっといてくれ」 機嫌を損ねた啓一にも、少年は涼しい顔だ。 「とにかく、もう時間はないよ。僕がけしかけちゃったから、あの子もそろそろ勝負に出てくるはずだ。きちんと答えてやらないと」 「わかってるよ、くそ」 声を荒げる啓一が面白いのか、小さく笑って立ち上がる。 「おやおや、いい匂いがしてきた。これはご飯が楽しみだねえ」 そう言って部屋を出て行く少年を、啓一は苦々しい面持ちで見送ったのだった。 啓一の快気祝いということで始まったパーティだが、案の定と言うべきだろう、乾杯が終わった時点で、誰もが啓一の風邪のことなどすっかり忘れ去ってしまい、ただのどんちゃん騒ぎと化してしまっていた。 一番大はしゃぎしていたのは、これも予想通りと言うべきか、加藤真理奈である。 「ほーっほっほっ! あたしが女王様よ! ひれ伏せ愚民ども!」 俗に「王様ゲーム」と呼ばれる宴席での余興で、真理奈は他のメンバーに命令権を持つ「王様」役を何度も連続で引き当て、友人たちをもてあそんだ。 きゃしゃで運動音痴の瑞希が腕立て伏せをやらされたり、無口で無愛想な祐介が服を脱がされ晒し者になったりと、夜が更けるにつれ、宴会は更なる盛り上がりを見せていった。 皆が真理奈への復讐を誓う中、王様を引き当てたのは、あの占い師の少年だった。 彼はそれまで一度たりとも王様にも罰ゲームの対象にもならず、ただ横で笑っていただけだったのだが、ついに今回、初めて当たりを引き当てたのだ。 全員が固唾をのんで見守る中、少年は楽しそうに罰ゲームの内容を告げた。 「じゃあそうだね。二番と三番が口づけってことで、よろしく」 「おっ、キスか。いよいよきたわねー」真理奈が笑う。「で、誰と誰?」 ヒカルが手元のくじを確認すると、算用数字ではっきり二と書かれていた。 慌てて抗議しようとした矢先、相手が啓一とわかり、ヒカルは困惑した。 「け――啓一センパイと……?」 「よっしゃあ! ヒカル、遠慮はいらないからブチュッといきなさい、ブチュっと!」 無責任にはやし立てる真理奈の隣で、ヒカルはどうしたものかと困り果てていた。 自分は嬉しいというか、願ったり叶ったりの内容なのだが、啓一の方はどうだろうか。 ひょっとしたら迷惑に思うのではないかと気後れしていると、その啓一が小さな声でヒカルに訊ねた。 「ヒ、ヒカルちゃん……俺とキスとか、嫌だよね?」 その言葉にヒカルは顔を上げて、啓一を見返した。 頬を染めた啓一の顔には、ヒカルに対する気遣いがはっきりと見て取れた。 「センパイ? そ、そんなこと……」思わず訊ね返すヒカル。 「ごめん、やっぱり他の内容にして――」 「いやいやっ! あ、あたしはオッケーですよ! むしろこっちからお願いしますっ! 啓一センパイっ!」 ヒカルはその場で立ち上がると、啓一にすがりついた。 啓一は複雑な表情でヒカルの顔をのぞきこみ、静かに問いかけた。 「……ホントにいいの? ほっぺにちゅっ、とかでよくない?」 「あ、あたしはやっぱり、お口にちゅーしてほしい、です……」 赤い顔で見つめ合う二人を、真理奈が横から煽る。 「ほらほら、何グズグズしてんのよー! さっさとやっちゃいなさい!」 「啓一……」恵が何か言いたげな表情を兄に向けたが、止めることもできない。 とうとう観念した啓一は、ヒカルの肩をぐっと抱き寄せ、目を閉じて唇を合わせた。 「んっ……!」ヒカルが鼻から息を漏らす。 口づけの時間はほんの数秒だったが、ヒカルには長い長い一瞬だった。 出会ったときから憧れ、一途に慕い続けた水野啓一との接吻である。 しかも衆人環視の中でとくれば、興奮しないわけがない。 息を止めて啓一と唇を重ねながら、ヒカルはそっと薄目を開けた。 視界の端には啓一の妹、水野恵の顔があった。 もじもじしてこちらを見つめる恵の姿に、ヒカルはかすかな優越感を覚えた。 恵の前でキスをすることで、彼女から啓一を奪い取ったような気分になったのである。 啓一が離れると、ヒカルは自分の唇をぺろりとなめて、にっこり微笑んだ。 「ありがとうございました、啓一センパイ」 「い、いや――ごめん……」 なぜ謝るのだろう。彼にも喜んでほしいのに。 ヒカルがそう思っていると、次のくじ引きの順番が回ってきた。 またああいう展開になることを心底願いつつ、ヒカルは細いくじを一本、力を込めて引き抜いた。 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 宴会が終わったのは、十時をかなり回った頃だった。 用心のため、男たちはそれぞれ女性陣を自宅まで送り届けることになり、ヒカルはあの美貌の少年に連れられて、啓一に別れを告げた。 「センパイ、今日はありがとうございました。楽しかったです」 啓一の快気祝いという名目を完全に忘却したままでヒカルが言うと、啓一は笑顔と困り顔の中間のような表情を浮かべて、うなずいた。 「気をつけて帰ってね、ヒカルちゃん。また学校で」 「はいっ! おやすみなさーい!」 そうしてヒカルや真理奈たちがその場を後にすると、家には水野兄妹だけが残された。 洗い物やゴミの片づけなど、手伝ってもらった部分もあったのだが、あれだけの乱痴気騒ぎの後始末である。簡単なことではない。 汚れた食器を流しに運びながら、恵が言った。 「啓一、お疲れ様」からかうような笑みだった。 疲労を声に混ぜて、啓一が答える。 「なんか最近、その言葉ばっかり聞いてる気がするよ」 「そう?」恵がころころ笑う。 啓一は部屋に散らばった菓子の袋や割り箸を拾い集め、ビニール袋に入れていった。 「まあ、あいつに言われたからじゃないけど、確かにそろそろ、何とかしないとな。今日のヒカルちゃん、完全に舞い上がってたし」 「でも、いい子よね」恵がつぶやいた。嫉妬も敵意も全くない、静かな声だった。 そのままどちらも何も言わず、黙々と後片づけにいそしんでいたが、不意に恵が先ほどのゲームに使ったくじを見つけて、啓一に見せつけた。 「ねえ啓一。王様ゲームの続き、やらない? 二人だけで」 悪戯好きの子猫のような恵の表情に、思わず呆れ顔を浮かべる。 「おいおい、俺たちがそれやって、何の意味があるんだよ」 「あら、意外と面白いかもしれないよ? じゃあ最初は、私が王様だからね」 くじを引きもせず、恵がささやいた。「命令よ。抱っこして、キスして」 「…………」 啓一はにこにこ笑う妹を無言で見下ろしていたが、やがて大きなため息をつくと、大人しくその命令に従った。 貴族の令嬢でも相手にするかのような慎重な仕草で、恵を横抱きで抱え上げ、唇を重ねる。 当然のように口内に侵入してきた舌に、啓一は熱心に自分のを絡めた。 吐息が交わり、唾液が混ざる。ヒカルのときとは違う、深い深い接吻だった。 たっぷりと啓一を貪った恵は、恍惚の表情で口を離し、言った。 「ふふっ、やっぱり啓一ね。言わなくても、キスの仕方まで私の思い通りにしてくれる」 「当たり前だ」瞳に劣情の色を浮かべて、啓一が返す。「俺はお前の半分なんだから、逆らえるわけないだろ」 恵の体を抱きかかえたまま、ソファに腰を下ろす。 啓一の腕の中で、恵は気持ちよさげに目を細めた。 長い黒髪を撫でてくれるのも、白い腿を揉んでくるのも、兄の全てが心地よい。 「そうだね、啓一は私の半分だもんね。そりゃ逆らえないか」 恵はそう言って笑い、啓一に自分の身を委ねた。 両腕を啓一の首に巻き、幸せそうに微笑んでみせる。 静かに抱擁を交わす二人は、もしもヒカルが見れば嫉妬で狂いそうなほどに、睦まじかった。 続きを読む 前のを読む 一覧に戻る |