うちのおかんは同級生 前編

 タケルの両親が入院した。
 ちょうど紅葉が綺麗な、秋の行楽シーズンのことだ。母がテレビの温泉番組を見て、「たまには、ゆっくり温泉にでも浸かりたいわ」と言い出したのがきっかけだった。
「温泉か。よし、それじゃあ休みをもらって、連れていってやろう」
 と、普段は仕事一筋の父が珍しく賛成してくれたのが、母には意外だったようだ。「無理しなくていいですよ」と口では言いながらも、やはり嬉しそうに見えた。
 それからほどなくして、父が二日間の休みをとった。多忙な父が宣言通り平日に休暇を確保できたのは驚きだったが、聞けば大きな仕事が片づいて、少し余裕ができたらしい。「たまには家族サービスをしないとな」と笑っていた。
「タケルもついてこないか。学校は休んでいいからさ」
「俺はいいよ。別に気にしなくていいから、二人で楽しんできて」
 父の誘いを、タケルは丁重に断った。彼も部活やら試験やらでこの時期は何かと忙しかったし、それに、せっかくとれた休暇なのだから、夫婦水入らずで過ごしてほしいという思いもあった。父は残念そうにしていたが、甘えん坊だった一人息子も大人になったものだと言って、最終的には彼の意思を尊重してくれた。
 そうして出かけた夫婦の旅行で事故は起きた。父の運転する車が、車線をはみ出してきた対向車にぶつけられたのだ。すぐさま二人は病院に運ばれた。
「参ったなあ。大変なことになってしまった」
 慌てて駆けつけたタケルに、父はベッドの上で嘆いてみせた。命に別状はないが、骨折のため最低でも一ヶ月は入院する必要があるという。だが、母の方はもっと深刻だった。
「母さん、母さん!」
 タケルがいくら呼びかけても、ベッドに横たわった母は目をつぶったまま一向に返事をしない。医者の話によると、事故の際に頭を強く打ったらしく、いまだに意識が戻らないのだ。
「検査してみましたが、特に異常は見つかりませんでした。いずれ目が覚めるかとは思いますが……」
 医者の言葉に、タケルは不安な表情を隠せなかった。異常はないというものの、事故が起きてからずっと昏睡状態のままなのだから、心配するなという方が難しい。タケルは父と顔を見合わせては、「もしも障害が残ったらどうしよう」「もしかして、もう目を覚まさなかったりして……」などと言い合い、互いの不安を煽りたてた。
「とにかく、母さんは俺が見とくから、とりあえず今日のところは家に帰れ。何かあったらまた連絡する」
 父に言われて、タケルは途方に暮れた顔でうなずいた。悔しいが、自分がここにいてもどうにもならない。このままずっと母につき添っているわけにもいかず、後ろ髪を引かれる思いで帰宅した。家に着く頃にはすっかり夜も更けて、星も見えない曇り空が頭上を覆っていた。どうにも気が滅入ってしまいそうだ。
「母さん、大丈夫だろうか……」
 頭を抱えていると、家の前にひとりの女が立っているのに気がついた。妙にそわそわしながら、タケルの家を塀越しにのぞき込んでいる不審な少女。それはタケルにとって意外な人物だった。
「あれ、荒木じゃないか。こんなところで何してるんだ?」
 少女の名前は荒木リノ。タケルと同じ高校に通う同級生だ。何度か会話をしたことはあるが、決して親しい仲ではない。その彼女が、なぜこんな時間に自分の家の前をうろうろしているのだろう。タケルはしばらく考え込んだが、思い当たる節は全くなかった。
「おい。何をしてるんだ」
「きゃあああっ !?」
 彼が話しかけると、リノはその場で悲鳴をあげて飛び上がった。彼女の慌てふためいた様子に、タケルは驚きを隠せない。
「あのさ、荒木。ここは俺の家だから、そんなにジロジロのぞき込まないでくれないか」
「タ、タケルっ! この子──じゃない。私のこと、知ってるの !?」
「へ? 何を言ってるんだよ。知ってるも何も、今日も昼間、学校で会っただろう」
 タケルは細い目でリノの顔を見やった。リノはタケルの言うことがわかっていないのか、ぽかんとして間抜け面を晒していた。
 正直、タケルは彼女のことがあまり好きではなかった。けばけばしい厚化粧とメッシュの入った金髪が彼の好みとは正反対だったのもその一因だが、日頃から授業態度の悪い問題児で、同じような格好の友人たちと群れて騒いでばかりいる彼女は、タケルにとってただ目障りな存在でしかなかった。こんな夜遅くに制服姿のままでいるのも、家に帰っていないからだろう。普段、どういう生活を送っているかがよくわかる。
 学校でも、たまに口を開いてタケルに話しかけてきたかと思えば、「うわ、返事しやがったよ、こいつ。すっげーびっくり」などと言って、手を叩いて猿のように大笑いするのが常だった。いったい何が面白いのか、タケルにはまるで理解できない。まあ世の中にはこういう人種もいるんだなと割り切って、できるだけ相手にしないようにしていた。
 だから、その荒木リノがまさか自分の家にやってくるなどと、タケルは思いもしなかった。いったい何の用かと怪しんでしまうのも、しごく当然のことである。
「悪いけど、今はお前の相手をしてる暇はないんだ。腹が減ってしょうがないから、大人しくそこをどいてくれないか」
「えっ。タケル、ご飯食べてないの?」なぜか目を驚きに見開くリノ。
「うん、今日はいろいろあってさ。それどころじゃなかったんだ」
「じゃあ、待ってて。急いで作るから」
 リノはブレザーのポケットに手を突っ込み、何かを探す仕草を見せた。しかし、すぐにその手を止めると、「あ……鍵、ないんだった」と、奇妙なつぶやきを発して、何とも情けない表情になった。
「ごめん。タケル、鍵開けて」
「はあ? お前、どういうつもりだよ。お前なんかうちに呼んだ覚えはないぞ」
 タケルがきつい口調で言うと、リノは両手をぱちんと合わせて、「お願い、中に入れてっ! ご飯作ってあげるから!」と、必死で頼み込んできた。何を考えているのか全くわからない。何が悲しくて、こんな女に飯なんか作ってもらわないといけないのかと思いながらも、まるで捨て猫のように健気にすがりついてくるリノの姿に、タケルはとうとう根負けしてしまった。
「わかった、わかったよ。ほら、入って」
「ありがとう! じゃあ、急いでご飯の支度するわね」
 ドアを開けた途端、リノは止める間もなく靴を脱ぎ捨て、家主より先に家の中に上がり込んでしまった。
「こら、勝手に人んちの冷蔵庫を開けないでくれ。どこに何があるかわからないだろ? 今、用意してやるから、ちょっと待って」
「うわあ……見事に何もないわ。ああ、そういえば、出かける前にいろいろ始末したんだっけ。しょうがないから、買い置きのうどんでいい? カップラーメンよりはこっちの方がいいわよね」
「全然聞いてないし……なんかお前、おかしくないか? うちのキッチンに馴染みすぎ──っていうか、うちに来たことないってのに、なんで食器とか調味料の場所を知ってるんだよ」
 タケルがぼやいている間にも、リノは手際よくうどんをゆで終えて、彼の元に運んできた。丼から立ち込めた湯気が顔にかかって、忘れかけていた食欲を猛烈に刺激する。奇跡的に卵が冷蔵庫に残っていたらしく、形のいい黄身がつるりと丸い顔を見せていた。
「お待たせ。爪がこんなだから、だいぶ手間取っちゃった。ごめんね」
 リノは自分の手にごてごてと施されたネイルアートを眺め、苦笑いした。何もそんな手で調理をすることもないだろうに。やはり、今の彼女はどこかおかしい。昼間、学校で見たときはいつも通りだと思ったのだが、一体どうしてしまったのか。タケルがいくら考えても、納得のいく答えは見つからない。
「まあ、サンキュ。いただきます。おっ、うまいな」
 汁を一口すすって、タケルは目を丸くした。全く期待していなかったのに、とても旨い。誰でも作れそうな簡単な品ではあるが、白い麺の上に丁寧に載せられた具は、見た目も味も申し分ない。まるで母が作ってくれたかのように慣れ親しんだ味つけだった。
 料理どころか包丁を握ったことさえ無さそうなリノだが、意外と家事には慣れているのかもしれない。人は見かけによらないものだと感心させられた。
「ところで、タケルのご両親はどうしたの? お留守みたいだけど」リノがおずおずと訊いてくる。
「ああ……実は今、入院してるんだ。ちょっと車で事故っちゃってさ」
 タケルは隠さずに打ち明けた。いまだ意識の戻らない母が心配で、自然と声が暗くなった。
「まあ、入院……それで、二人とも大丈夫なの?」
「それが、父さんは骨折だけでピンピンしてたけど、母さんが……」
「お母さんが、どうしたの?」
 タケルが言葉を濁すと、リノはごくりと息をのんで訊ねてきた。普段は何も考えていないようでも、さすがに今は神妙な面持ちだった。
「母さんも一緒に病院に担ぎ込まれたんだけど、まだ意識が戻らないんだ。頭を強く打ったんだって。怪我自体は大したことないみたいだけど、やっぱり心配だな……」
「そう、生きてるの。よかった……まあ、目が覚めないのは当然よね。だって、私がここにいるんだから」
「おい、何の話をしてるんだ? ふざけてる場合じゃないんだぞ」
「ご、ごめんなさい。つい……」
 タケルの不機嫌な声に、リノはハッとした様子で謝った。今夜のリノは、本当に表情がころころ変わって不思議だ。ただ、普段の態度よりはずっと素直で、好感が持てそうではある。
「それで、お前はうちに何しに来たんだ? 大したつき合いもないってのにいきなり来たから、びっくりしたよ」
「あ、別にそういう仲じゃないのね。仲よさそうに話しかけてきたから、私、てっきりタケルの彼女だとばかり……」
「なに、お前が俺の彼女? 冗談はよしてくれ」
 タケルは疲れた顔で首を振った。こんな下品な女を恋人にした覚えは一切ない。外見も性格も、何もかもがタケルの好みの対極にあるような女なのだ。仮につき合ってくれと懇願されても、断固として拒否するだろう。そもそも、向こうもタケルのような地味な男に興味があるとは思えなかった。
「まあ、なんか遊んでそうだものね、この子。タケルがこんな娘さんを連れてきたら、母さんひっくり返っちゃうかも。最近の若い子は何かとすごいから困るわ。ほら、見てよ。このピアス」
 自分の耳を飾る大きな耳輪を見せつけてくるリノ。相変わらず、発言の意味がさっぱりわからない。どうして自分のことを他人のように言うのだろうか。首を傾げるタケルを尻目に、リノは食べ終わったあとの食器を流しに運んで綺麗に洗ってくれた。慣れた手つきだった。
「それでね、タケルにお願いがあるの」
「お願い?」
「そう。明日、私をご両親が入院してる病院に連れていってくれない?」と、先ほどと同じように熱心に頼み込んでくるリノ。
「どういうことだ? お前、うちの親に会ったことないだろう。それが、なんでいきなり見舞いになんか……」
「とにかく行きたいの。ねえ、いいでしょう? お願い、この通りっ!」
 依然として、事情が全く飲み込めない。それでも、こうして必死に頭を下げられては、むげに断るわけにもいかなかった。タケルが不審に思いながらも承諾の返事をすると、リノは安心した様子で笑った。
「よかった、これで元に戻れるかもしれない。最初は私、自分が死んだって思ってびっくりしたんだから」
「だからわけがわからないって……とにかく、用がそれだけなら、そろそろ帰ってくれないか。今日はもう疲れたから、早く寝たいんだ」
「あ、そのことなんだけど……もう一つお願い。今晩、私をここに泊めてくれない?」
「な、何だってっ !?」
 驚愕の申し出に、タケルは飛び上がった。
「お前、ひとの話聞いてたか? 今日、うちは俺ひとりなんだぞ。女なんか泊められるわけないだろ。ちゃんと家まで送ってやるから、帰ってくれ」
「だって帰ろうにも、私、この子のうち知らないんだもの。もうこの時間だと電車もないし、今さらどこに行けばいいのよ。この歳の女の子に、ひと晩外で過ごせっていうの?」
「嘘つけ。いくら何でも、自分の家の場所を知らないはずがないだろ。第一、いくら行くところが無いからって、親しくもない男の家なんかに泊まるか、普通? 悪いこと言わないから、荒木はもうちょっと常識というか、貞操観念を持て。そんなんじゃ将来、苦労するぞ」
「あら、私に何かする気なの? タケルもやっぱり男の子ねえ。私は別に構わないけど、こういう子を彼女にするのはやめときなさいね。将来、苦労するわよ」と、リノはぱちりと片目を閉じて言い返してくる。
「わけわかんねえし……やっぱり帰れよ」
 ところが、リノはここに泊まると言って聞かない。もう説得するのも面倒になったため、結局、タケルは彼女に一夜の宿を提供することにした。事故に遭った両親のことを考えれば、こんな些末な出来事になど構っていられない。明日は早くから病院に行って、母の容態を確認してこなくては。やはり心配だった。
「じゃあ、もう遅いから、早くお風呂に入ってきなさい。私はいつも通り、あなたの後で入るわね」
「なんか今の荒木って、うちの母さんみたいだよな……よくわからないけど、なんかそんな感じがする」
「あら。母さんみたいじゃなくて、本人よ? こんなに若くなって嬉しいでしょう。うふふっ」
「下手な冗談はやめてくれ。お前みたいなケバい母親を持った覚えはないって……」
 そこで会話を切り上げ、風呂へと向かう。その間、勝手に家の中のものを漁らないようリノにきちんと言っておいたのだが、全く聞いていなかったようだ。服を脱いでいる間にも、「さて……入院となると、着替えとかいろいろ持っていかないとね。明日は大荷物だわ」という彼女の声が聞こえてきて、大いに脱力してしまった。このままでは、あのお節介な少女に家じゅうを引っかき回されてしまいそうだ。早く上がろうとは思いながらも、やはり体に疲れがたまっていたのか、一度湯船に浸かるとなかなか出る気にはなれなかった。
「はあ……それにしても、母さんは大丈夫かな。何ともないといいんだけど。まあ明日は学校は休みだし……ああ、荒木のやつも一緒に連れていかないと。まったく、今日のあいつはどうしたんだ? 昼間とはまるで別人じゃないか。あんなに家事好きの世話焼きだとは思わなかった」
 あれこれ考え込んでいるうちに、タケルの頭が熱気でクラクラしてきた。このままだとのぼせてしまう。文句を言って動きたがらない体を無理やり浴槽から引き上げ、全身を申し訳程度に拭いて戸を開けた。
 ちょうど、そこにリノが立っていた。
「あ、お風呂上がった? じゃあ、私もさっさと入っちゃおうかしら。こんなこと言ったら悪いんだけど、この子の体って、ちょっとばかり臭うのよね。普段、ちゃんとお風呂に入ってるのかしら」
「な、なんでお前がここに……」タケルの思考が停止して、固まってしまった。
「なんでって、あなた、替えのパンツを忘れたでしょう。そこに置いといたわよ。あと洗濯もしないといけないから、大変なのよ。ああ、忙しい、忙しい」
 全裸のタケルの前で、リノが彼の服を漁っていた。学校で同じクラスというだけの間柄の女子高生が、汗ばんだ彼のシャツやズボンを何の恥じらいもなく広げて、無造作にネットに放り込んでいるのだ。顔色ひとつ変えずに男物の下着をつまみ上げる姿は、まるで主婦のような貫禄さえ備えていた。こんな間近で彼の裸を見ても、嫌がる素振りは全くない。それがごく当たり前のような態度だった。
「と、とにかく出てけ! ひとの裸を見るんじゃないっ!」
「何を恥ずかしがってるのよ。今さらタケルの裸を見たからって、別にどうってことないじゃない。小さい頃は顔におしっこを引っかけられながら、頑張っておむつを替えてやったんですからね。少しは感謝しなさい」
「マジでお前、何言ってんだよ……俺、もうわけわかんねえよ……」
 泣きそうだった。彼の人生において、今までこうも困惑したことはない。何もかもが彼の理解の外にあった。 マイペースで勝手に話を進めるリノが、憎らしくて仕方なかった。
「はい、これでよしっと。でもお風呂に入るのはいいけど、この子の服はどうしようかしら。制服だから扱いに困るわ。着替えだって私の服や下着じゃサイズが違うから、なかなか大変なのよね。オバサンの服なんて似合わないだろうし、弱ったなあ。明日、何を着ていこうかしら」
 ぶつぶつ言いながら、タケルの前で制服を脱ぎ始めるリノ。羞恥心が欠落しているのか、男に肌を見せることを何とも思っていないようだ。豊満な胸を包む真っ黒なブラジャーが露になって、タケルは仰天した。
「や、やめろっ! 俺の前で脱ぐんじゃない! 早く隠せっ!」
「ふふふ、何よそれ。あなたこの間、私がお風呂上がりに下着一枚でウロウロしてても、何も言わなかったじゃない。本当に変な子ねえ」
「いや、そんなことしてねえし! 勝手に俺の過去を捏造するなっ!」
 タケルの叫びもむなしく、リノはスカートも脱いで床に落としてしまった。下の色もやはり黒だ。レースの入った華やかなデザインで、布地の面積がやけに小さい。いかにも彼女らしいデザインに思えた。思わずまじまじと見入ってしまい、タケルは慌てて顔をそむけた。こんな女を相手に股間を硬くしてしまうのが恨めしい。
「なんだったら、一緒にお風呂に入ってあげようか? いつからだったかしら、母さんと入らなくなったのは。実は、今でもたまにタケルに背中を流してほしくなるのよね。小さい頃みたいに」
「い、いやだ! お前なんかと風呂に入れるわけがないだろうっ! バッカ野郎っ! マジで何なんだよ、お前はぁっ !! くそぉっ!」
 流し目で誘ってくるリノを突き飛ばして、タケルは一糸まとわぬ姿のまま、その場から脱兎のごとく逃げ出した。背後から「あらあら、ちょっとからかいすぎちゃったかしら。やっぱり若い体だと反応が違うわねえ」という彼女の声が聞こえてきたが、タケルは狼狽するばかりで、ただ逃げることしかできなかった。
 本当に、今のリノはわからないことだらけだ。もしもエイリアンと同居する人間がいたとしたら、おそらく今の自分のような困惑に毎日悩まされるに違いない。それはそれで、ひとごととして見ている分には面白いのかもしれないが、自分がそんな立場に置かれるのはまっぴらだった。
「まったく……荒木のやつ、頭おかしいだろ。なんであんな大胆になれるんだ。それとも、もしかして俺を誘ってるのか?」
 ありえない発想だと思ったが、ひょっとすると、あながちそうでもないのかもしれない。今回のリノの行動は、「彼女がタケルに異性としての好意を持っている」と仮定すれば、案外簡単に説明がつきそうだった。いきなり相手の家に押しかけて、料理や洗濯を始める。会ったこともない家族の見舞いに行きたいと言い出す。風呂上がりを見計らって浴室に現れ、素肌を見せて挑発する……どれもこれも、リノが彼に惚れているとしか考えられない行為だ。
「まさか、あいつが俺のことを……ホントか? あの荒木が、俺を? なんか信じられないけどなあ……」
 理屈では説明できても、まだ納得がいかない。タケルは自室に入り、タンスの中から真新しいボクサーパンツを取り出した。下着を一枚身に着けただけで随分と落ち着いた気がする。股間の勃起も収まった。普段はきちんと寝巻きも着るのだが、今は暑くてその気にはなれなかった。
 冷たいものでも口にしようと、また階段を下りてキッチンへと足を運ぶ。氷入りのアイスコーヒーで湯だった体を冷やしていると、浴室の方からドアの開く音が聞こえてきた。リノが風呂から上がったようだ。このままパンツ一枚でいると、また彼女に性的なスキンシップを強制されてしまうかもしれない。タケルは部屋に戻って服を着ようと席を立ったが、それも間に合わず、リノと鉢合わせしてしまった。
「ふう、熱いわねえ。タケル、母さんにも冷たいもの、いれてくれない?」
「荒木っ !? お、お前、服くらい着ろよっ!」
 リノはタケルとまったく同じ格好をしていた。つまり、身に着けているのは先ほどの黒いパンツだけ。ブラジャーさえつけておらず、首にかけた濡れタオルで乳房の先端を辛うじて隠しているありさまだった。
「服? 別にいいじゃない。こんなオバサンの体なんて見ても──あ、そうか。今は違うんだっけ……」
「お前、そんなに俺を挑発したいのかよ……くそ、馬鹿にしやがって。もう許さねえっ!」
 ついに堪忍袋の緒が切れた。タケルは叫び声をあげて裸のリノに飛びかかり、濡れた体を抱きしめた。突然の抱擁にリノは「え? え?」と呆気にとられていたが、タケルの興奮した様子に事情を全て察したようだ。拒絶するどころか、逆にタケルの背中に腕を回して、優しく抱き返してきた。
 母親以外の女の体にこうまで密着するのは、タケルにとって初めてのことだ。まして互いに裸である。胸に違和感を覚えて見下ろすと、リノの豊かな乳房が二人の体に押しつぶされていた。普段から無駄に大きな胸だとは思っていたが、直接触れると、改めてそのサイズを実感する。まるで肉のボールだ。それが自分の胸板に押しつけられてぐにぐにと弾むのは、とても気持ちがよかった。胸が女の魅力だとは思わないが、そう主張する男の気持ちも少しだけ理解できた。
 リノの抱き心地に心を奪われ、タケルが何も言えずにいると、彼女の囁き声が聞こえてきた。
「ごめんなさい、気がつかなくて。タケルだって年頃の男の子だもの。よその娘さんの裸なんて見せられたら、我慢できなくなるわよね」
「わ、わかっててやってたんじゃないのかよ。とにかく、こんなことになったのも、全部お前のせいだからな。今さら言い訳はなしだぞ。責任とれよ」
 タケルはリノの顎に手をかけ、軽く上向かせた。すっかり化粧が落ちていて、普段とはまるで別人のように見える。派手に染まった髪と仰々しいピアスこそそのままだが、顔つきはいつもより穏やかで、年上の女性のような落ち着きと色香を感じさせた。
「お前、こうして見ると、けっこう可愛いんだな。今まで気づかなかった……」
「可愛い……か。まさか息子にそんなことを言われるなんて思わなかったわ。でも、なんだか悪くない気分。ふふふっ」
 リノの唇の端がつり上がり、妖艶な笑みを形作る。毎日タケルのクラスで馬鹿騒ぎを繰り返している浅薄な少女の顔ではない。目の前の男に対する深い愛情を秘めた女の顔だった。
 妖しい光を放つリノの瞳に、タケルは自分が吸い込まれてしまいそうな錯覚を抱いた。鼓動がドクドクと速くなり、頭の中が一つの色に染まっていく。それは男が抱く最もシンプルな感情の色だ。
 わずかに開いて彼を待ちわびる唇をこれ以上見ていられなくなって、タケルはそこにむしゃぶりついた。軽い驚きの気配と共にリノの鼻から息が漏れ、タケルの顔をくすぐった。柔らかな口づけの感触に体が震えてしまうのが、いかにも物慣れない男のようで情けなかった。
 リノは彼とのキスを嫌がるでもなく、大人しく目を閉じて唇を重ねていた。風呂上がりの体がいっそう火照って、タケルに彼女の熱を伝えてくる。きらきら光る安っぽい金色の髪からは、母が愛用しているシャンプーの匂いがした。
「ふう……」
 ようやくタケルの顔が離れ、リノの口からうめきとも吐息ともつかない音が漏れる。唾液に濡れた唇から少しだけ舌がはみ出しているのが蠱惑的だ。
「いきなりキスするなんて悪い子ね。母さん、びっくりしちゃった」
「荒木……俺、なんか変なんだ。お前のことがやけに可愛く見えるっていうか、こう、いとおしいっていうか……」
「もう、母親を口説くつもり? いつまでたっても甘えん坊なんだから……」
 リノは頬を赤く染めて、タケルと深く目を合わせた。タケルと同じく、彼女の瞳も淫猥な色に染まっているのがわかる。だが、そこにはもう一つ、別の感情が混じっているようにタケルには思えた。それがいったい何なのか、見当もつかないが。
「まだまだお子様だけど、ここは大人になったわね。熱くて、硬い……」
 リノの手が伸びて、タケルの下着の中に侵入してきた。細い少女の指に性器の表面を撫で上げられ、背筋がゾクゾクと震えてしまう。
「ねえ、したいの? 私と……母さんと、セックスしたい?」
「訊くまでもないだろ。ここまで挑発されて、今さらやめられるかよ。でも、母さんの真似だけはやめてくれ。悪趣味だ」
「本当にいいのね? 一度しちゃったら、もう戻れないかもしれないわよ」
 やはり彼女の言葉の意味はよくわからなかったが、つまりは「自分なんかと深い仲になっていいのか」と確認しているのだと、タケルは解釈した。確かに、今まであまり親しい間柄とは言えなかったリノと、突然ねんごろになるというのは、相当に突拍子のない話ではあった。昨日までのタケルであれば、「何を馬鹿なことを」と一笑に付してしまっていただろう。それが、今の彼はほぼ真っ裸で彼女と抱き合い、男女の契りを交わそうとしているのだから、世の中というのはわからないものだ。あるいはタケルが知らないだけで、世間の男女においてはこういうことも珍しくないのかもしれない。タケルはリノの言葉の意味を噛みしめて、重々しくうなずいた。
「ああ……俺、お前を抱きたい。荒木とセックスしたい」
「ふふっ、しょうがない子。ごめんなさい、荒木さん。勝手にあなたの体を使っちゃうけど、どうか許してちょうだいね」
 リノは謎のつぶやきを漏らすと、軽く背伸びをして、再度タケルと口づけを交わした。
 唇を割って入ってくる舌の感触に、タケルの目が大きく見開かれる。女性とキスをするのも今日が初めてのこと、ましてこのように大胆な接吻の経験などあるはずがない。自分の口内で舌を淫らに蠢かせて唾液を注ぎ込んでくるリノの攻めに、タケルはされるがままだった。
「うふふ、気持ちいいでしょう。これが大人がするキスよ」口を離して、リノがいたずらっぽい笑顔で言った。
「お前、すごいな……やっぱり経験豊富なんだな」
「そりゃあ、これでも子持ちだもの。若い頃はお父さんがメロメロだったんだから」
「ええっ、妊娠したこともあるのか !? しかも相手は実の父親とか……正直、ありえないだろ」
 さすがに本当の話とは思えないが、リノがこうした行為に慣れているのは確かなようだ。だが、いくら経験の差があるとはいえ、同い年の少女にリードされるのは男の沽券に関わる。タケルはリノの体を抱きながら、背中や尻を撫で回すことで反撃にでた。
「あんっ……タケルの手、いやらしい」
「いやらしいのはお前の方だろ。こんなデカパイだし、尻だってぷにぷに柔らかくて……すごくエロい」
「待って。ここから先は、ちゃんとベッドの上で……ね?」片目を閉じて、がっつくタケルをたしなめる。
「ちぇっ、わかったよ」
 タケルは中腰になると、リノの背中と脚に腕を回して彼女の体をかつぎ上げた。「きゃっ」と驚きの声があがり、ようやく一矢報いた気分になる。
「いやだ、こんな格好……下ろしてちょうだい。恥ずかしいわ」
「ほら、お姫様抱っこだぞ。これで運んでやるから、しっかり俺の首につかまっててくれよ。さもないと落ちるぞ」
「無理しちゃって。普段、力仕事なんか嫌がってやらないくせに……」
 リノは呆れ顔でぼやいていたが、少し躊躇したあと、結局タケルに抱きついてきた。恥ずかしさで顔が真っ赤になっているのがいじらしい。学校では決して見ることのない乙女の表情だった。


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