王女オリヴィア 2

 部屋の壁は白く明るく、穏やかな静寂で満たされていた。聞こえるのは若い女のなめらかな声のみ。
「――そして主はこうおっしゃいました。『三千億の悪魔に三度、世界が滅ぼされようと、わたしは三度、世界と人間を創り直すだろう』と」
「…………」
 あくびを必死でかみ殺し、気のない視線を宙に向ける。優雅な長い銀髪が光を反射して輝く帯を形作った。
「姫様 !!」
 突然の大声に思わずビクリとし、オリヴィアは座ったまま声の主を見上げた。
「――あ、ああ。どうした」
「どうしたじゃありません !! ちゃんと私の話を聞いてらっしゃいますか !!」
「うむ、聞いているぞ」
「いいえ、嘘をおっしゃらないで下さい !!」
 女の勢いに押され、座ったまま後ろに下がる。椅子が傾き、王女は慌てて姿勢を立て直した。
 妖精のように可憐な、小柄な少女である。幼いながらも高貴な顔立ちを不満そうにとがらせ、大声をあげる女を見つめていた。
「どうしたというのですか !! 以前はあんなに真剣に、お勉強に取り組んで下さったのに、最近たるんでらっしゃいます !!」
 立ったままで女は怒鳴り続ける。オリヴィアほどではないが長い金髪を顔の横で二つに編み、優美だがややきつめの顔は怒りで真っ赤になっていた。ゆるやかな紺の修道衣で体型はわかりにくいが、体は細く肉づきもあまり良くないようだ。普段の禁欲的な生活が、見た目からもうかがえる。
「落ち着け、シスター・エリア」
「これが落ち着かずにいられますか !! 私は姫様の教育を陛下から仰せつかっている身、 ちゃんとお勉強していただかねば困りますっ !!」
「わかった、わかった――」
 結局、散々お説教をされたオリヴィアだった。

 真円の黄金が天に輝いている。太陽には及ばぬまでも夜を照らすまばゆい光。豪奢な寝室の窓辺で、オリヴィアは静かに夜空を見上げていた。
 彼女は知っている。陽には陽の、陰には陰の役割があることを。
「――姫様の姿であっても、わたくしは魔導に生きる者。今さら神の教えを受ける事はできぬ……」
 誰にともなくつぶやく。脳裏に浮かぶのは自分を怒鳴りつけるあの修道女。あの娘をこのまま放置するのはオリヴィアの矜持が許さなかった。
「……神は何もしてくれぬ。この世を支配するのは剣であり魔。わたくしはそうやって力と、この姿を手に入れた」
 触れればガラス細工のように壊れてしまいそうな繊細な手で、これも妖精が編んだ銀織物と見紛う白銀の髪を撫でる。いずれも、自分の生と共に与えられたものではなかった。彼女の、いや彼自身の力によって奪い取ったものだ。
 この体の魂は卑しい娼婦の体に封じ込められ、今はどことも知れぬ。ひょっとすると、もうこの世にいないかもしれなかった。
「――そうだな、それがいい……」
 何かを思いついたように、整った可愛らしい口をニヤリと歪める。
「……フフフ、クックックック……」
 オリヴィアの邪悪な高笑いが聞こえた者は誰もいなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 満月の下、街も喧騒が消える夜更けを迎えていた。やがて夜が明ける。酒場も娼館も店じまいの時間だった。一日で最も冷える頃合だが、慣れてしまえばどうという事もない。
「――ふう」
 彼女は口元に杯を傾け、残りの酒を一気にあおった。短く切り揃えられた、炎のように真っ赤な髪はこの国では珍しい。若々しい肌も濃い褐色で、普段からよく人目を引いている。
「今日もお疲れ様でした、ローズさん」
 テーブルの向かいに座った女がローズを労う。彼女と同じくらいの短い栗毛の髪を持つ、化粧の薄い女だった。かなりの美人である。ここで働く女なら当然の事だったが。
「……ふん」
 大きな胸を強調するようにゆさゆさ揺らし、相手を見る。
 ――くそ、やっぱり負けてやがる。
 栗毛の女が持つローズ以上の爆乳を見つめて、彼女は心の中で吐き捨てた。ローズと違って向かいの女は飲んではいないようだ。考えてみれば、こいつが酒を口にする所を見た事がない。
「……あんたは不思議な女だよ、ハンナ」
 沈黙がどうも気まずくなって、ローズは言葉を続けた。
「そんだけ男を惹きつけるカラダを持ってる癖に、話してたら何でかわかんないけど、ちっこいガキみたいに思えちまうんだよね。それもその辺の悪ガキじゃない、どっかのお嬢様みたいだ。真っ直ぐで賢くて、そう……純真、って言うのかね」
 彼女もこの道に生きる女、ハンナに対抗意識がない訳がないが、この娼館の人気ナンバー1であるこの女を見ていると、なぜかそんな事がどうでもよくなってしまう。
「ひょっとしてあんた、貴族のお妾さんか何かだった? いや、何となくそんな気がしたんだけどね」
「――いいえ」
 問われて、栗毛の娼婦は首を振った。
「わたくしは、ただの商売女ですわ。それも、とっても卑しくて下品な――」
 やや下を向いたその整った顔は、少し寂しそうに見えた。
「――そうかい」
 それ以上は深く追求せず、ローズは手の杯をもてあそんだ。娼館の女には、裏話の一つや二つ当たり前である。無理に聞く必要もない。ましてや競争相手なのだから。
「じゃ、お疲れさん」
「……ええ、ではまた」

 満月が西に傾く中、ローズは一人で歩いてゆく。この時間は人もほとんどおらず、必ずしも安全ではないが、いつもの事であるので特に気にはならなかった。褐色の熟れた肉体も、今はコートに包まれ見る事ができない。
 コツ……コツ……。
 ハイヒールの音だけが明け方の近い通りに響く。
「――――?」
 と、その音が突然途絶えた。かがり火と満月が、道の向こうの人影を照らし出している。
「……誰だい?」
 こちらを向いて立ち止まっているその小柄な影に、ローズは用心深く問いかける。
「娼婦か」
 ――さらり、と影から伸びる髪が風に揺れ、月の光を映して金に銀にときらめいた。おとぎ話に出てくる妖精を思わせる、美しい少女だ。
「ちょうどいい、お前にしよう」
「? おいおいお嬢ちゃん、こんな時間に危ないよ」
 とても子供が一人歩きする時間ではない。しかも相手が着ているのは高そうな純白のドレス、まるで誘拐して下さいと言わんばかりである。
「…………」
 少女はローズの言葉を聞いていないのか、一人でうなずきつつこちらを見つめている。
 自分がおとぎの国に迷い込んだような錯覚に陥り、彼女は白いドレスの少女をにらみ返した。
「……何だってのさ」
 訳がわからない、という顔である。
 だが、銀髪の妖精はこちらを見つめたまま動かない。
 ――疲れてるのに、こんなガキと関わってられるか。
 ローズは再び歩き出し、少女の横を通り抜けようとした。異変が起きたのはその時である。
「―――― !?」
 突然、影の中から現れた黒い煙に驚くローズ。こちらに伸びる漆黒の気体は、まるで意思を持つように彼女の豊満な肉体に絡み付いてくる。
「何だよこりゃあ !?」
 得体の知れないガスに危険を感じ逃げようとするが、既に煙はローズの口や鼻に入り込んでいた。
(う……)
 傾く視界に、薄れゆく意識が重なる。糸を失った人形のように、彼女の体がくずれ落ちた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 朝に寝て、昼過ぎに起きる。それが今のハンナの生活だった。
 ――ドン、ドンドン……。
「ん……」
 激しく叩かれるドアの音に目を覚まし、寝床から起き上がる。一筋の栗色の髪がうなじにかかり、唾を飲むほど艶かしい。
 狭い部屋だが、女一人には充分な広さだろう。最低限の家具しかない殺風景な空間に、卓上に置かれた花瓶の花が唯一の彩りを添えている。
「はい――?」
 濃いピンクのネグリジェの中では巨大な双丘が、ぶるぶると下品に揺れる。長い生足を露にしたままでハンナは戸口に立った。
「――ハンナぁっ !!」
「きゃあっ !?」
 ドアを開け、飛び込んできた女に押し倒される。ハンナの寝ぼけた瞳には、若い金髪の女が映っていた。
 ゆったりとした紺の衣が、神に仕える清らかな娘である事を示している。その、ややきつめの美しい顔立ちに、彼女は見覚えがあった。いや、それどころかとても懐かしい――。
「……シスター・エリア !?」

 あまりの事態に取り乱したが、エリアを家に迎え入れハンナは少しずつ話を飲み込み始めた。
「……では、あなたはシスター・エリアではなく、ローズさんだとおっしゃるのですね」
「そうなんだよぅ……」
 半泣きの顔でうなずく修道女。歳はハンナより少し下くらいだが、年齢では説明できないほどの体格の差が二人にはあった。ぺたんと平らな修道女の胸の真向かいには肩こりを起こしそうな大きさの、形のいい爆乳が鎮座している。
「夕べ、帰ろうとしたら、変なガキに会って……いきなり眠くなって、起きたらこのカッコで城の中にいたんだ。鏡見てもまるっきりアタシじゃないし、それで、訳もわからず逃げ出して、ここに……」
 途方に暮れた声で言う。
「そうでしたか……」
 彼女が見た銀髪の少女とは、まさか自分の体だろうか。だが深夜に王女が一人で抜け出すとも思えない。そしてシスターと入れ替わったローズ……。
 いくら賢いとはいえ、幼いハンナの頭には手に余る難題だった。
 もちろん彼女は、魔導師が自分の肉体を使っている事など思いもよらず、あのままあの娼婦が王女を演じているものと思っている。
「うう……アタシどうしたら―― !!」
 彼女の目の前でシスターはわんわん泣き出した。いつも厳しかったエリアのそんな姿を見るのは新鮮な体験だったが、笑い事では済まされない。いわば、彼女も自分と同じ被害者という訳だ。
「ローズさん、泣かないで下さい。きっと元に戻れますわ」
 根拠などまるでないが、今はそう言うしかなかった。
「だって、だってだって……」
 エリアは泣きながら修道着を脱いだ。白く清潔そうなブラとショーツが露になる。
「……ほらこの胸……ぺたんこじゃない……。お尻も薄くて使い物になんないし……。処女なんだよこの歳で !! 信じられるっ !?」
「は……はあ……」
 自分にも他人にも厳しい禁欲的なシスターだ。体は痩せ、女としての魅力はハンナとは比べ物にならない。
「何でアタシがロザリオなんて持って歩かなくちゃいけないんだよ……うう……」
「お、落ち着いて下さい――」
「……落ち着けだってえ?」
 険悪な眼差しがハンナに向けられる。
「あーあ、あんたはいいわよねえ。こんなデカい胸しててさ。くそ……!」
「……きゃあっ !?」
 泣きながら掴みかかってくるエリアを止める事もできず、ハンナはしばらく体をいじられ続けた。
 とりあえずエリアは自分の、ローズの家に帰った。だがもちろん彼女は娼館で働ける訳もなく、しばらく休む事になる。
「本物のシスター・エリアはどこに行ったのかしら……」
 ハンナは心配したが、娼婦の体をした修道女は夜の街にも娼館にも、どこにも姿を現さなかった。

 シスター・エリアがいなくなった。
 その知らせにオリヴィアは人知れず笑い声をあげ、娼婦と入れ替わった哀れな修道女を嘲った。
「ククク……」
 優美な口元を邪悪に歪め、王女が微笑む。
「これであの女も、姫様と同じく娼婦の仲間入りという訳だ。卑しい生活の中、神の救いなどない事を思い知るがいい……」
 話によると、娼婦の魂が入ったエリアは明け方、自分から城を出て行ったらしい。
 大事な仕事を放棄したあの女はクビとなり、オリヴィアの教育係には代わりの者が来るはずだ。小憎らしいあのシスターでなければ誰でもいい。
「クックック……ハッハッハッハ……!」
 繊細な長い銀髪をなびかせ、オリヴィアの高笑いは続いた。

 数日した昼過ぎ、買い物に行こうとハンナが身支度をすると、またしてもエリアがやってきた。
「ローズさん…… !?」
 あまりの驚きに、栗毛の娼婦が声をあげる。
「……へへ、やっぱりアタシはこうでなくっちゃね」
 硬そうな黒い革のブーツと、大きな毛皮のコートを身に着けた修道女がそこにいた。ゆるく曲線を描く口には濃いルージュがひかれ、大きく前の開いた、布地の少ない黒の衣装からは発育の悪い貧相な胸がのぞいている。
 以前の清楚なシスター像とはほど遠い、けばけばしいド派手な格好をしたエリアに、ハンナの口が塞がらない。
 ハンナは彼女を家に上げ、再び茶を振舞った。
「――という訳でね」
 へそを丸出しにした修道女が言う。
「また、店に戻る事にしたのさ」
「――え !?」
 驚きの増した叫びをハンナはあげた。
 この姿になった理由はわからないが、今までずっと娼館でやってきた自分が修道女などできるはずがない。いくら細く痩せていても若い女の体には違いなく、頑張れば何とか今までの仕事をこなせるだろう。
「――ま、一からやり直しって訳さ。客も減るだろうけど、何とかするさね」
「はあ……」
 今まで勉強を教えてもらった、厳しい堅物の修道女に娼館の仲間になると言われ、複雑な表情をハンナは浮かべた。
 だが、この様子では止めるだけ無駄だろう。
 痩せてはいるがエリアは充分に美人だったし、いつ元に戻れるともわからない。ハンナのように、ずっとこのままかもしれないのだ。
「……わかりました。それでは、これからもよろしくお願い致します」
「あいよ、じゃあ早速出かけようか」
「どこにですか? お仕事にはまだ早いですれけど」
 意外そうに聞き返すハンナに、金髪の修道女は営業用の笑顔を浮かべてみせた。
「――男を引っ掛けにさ。さっさと初めてを済ませておかないとね」

 ドアをノックする音に、オリヴィアは顔を上げた。読んでいたつまらぬ書物を放り出して扉に向かう。
「……姫様」
 侍女だった。新しい教育係が決まったので呼びにきたという。
「わかった、すぐに行く」
 見かけは平静を装っていたが、内心では笑いが止まらなかった。あの忌々しい教育係が、今は娼婦として夜な夜な女を売っていると思うと、にやけずにはいられない。新しい教育係もどうせくだらぬ退屈な輩だろうが、偉そうに自分を怒鳴りつけるあれに比べればまだ我慢できるはずだ。
 王女はにこやかに微笑んで勉強部屋に向かった。
「――はじめまして、オリヴィア様」
「な…… !?」
 頭を丁寧に下げる修道女を見て、王女が驚愕する。
「このたび、姫様の教育係となりましたシスター・ローズです」
 シスターはそう言い、燃える頭を上げた。そのはずみで、豊満な一対の球体が修道着の胸元で揺れる。
 顔を見る。濃い褐色の肌はこの国では珍しいが、充分な美人と言える。紅もつけていない口を一文字に引き絞り、ニコリともせず堅物そのものという雰囲気でこちらを見つめていた。
「私、この間まで卑しい娼婦だったのですけれど――」
 真面目な口調でローズが話す。
「このままではいけないと、教会に行き神におすがりしたのです。以前、神学を学んでおりましたため、幸いにも司教様のお目に留まり、分不相応にも姫様の教育係という大任を仰せつかりました」
「そ、そうか――」
 馬鹿な。そんな馬鹿な。ローズの話に相槌を打ちつつ、オリヴィアは密かに戦慄していた。
 彼女の計画では、今頃この女は下賤な商売女として、よがり声をあげながら男に抱かれているはずだった。想像もできなかった事態に王女の美しい銀の髪が震え、力なく白いドレスに垂れ下がる。
「既に前任の者よりお話は承っていますのでご安心下さい」
「う……」
「姫様には、特に神学を念入りに勉強して頂きます。では早速、教典をご用意下さいませ」
 地獄の再来に、オリヴィアの白い顔から血の気が引いた。
「――ほら、早く !!」
「なぜだぁああぁあっ !?」
 少女の鈴の音の悲鳴が、空しく城に響き渡った。


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