真由美のオス犬生活 前編

 木本真由美が赤いリードを手に犬小屋に向かうと、ジョンは激しく尻尾を振って主人を迎えた。
「ワン、ワンっ!」
「お待たせ、ジョン。散歩に連れていってあげるね」
 真由美はその場にしゃがみ込み、可愛がっているジャーマン・シェパードの頭を優しく撫でた。首輪にリードをしっかり繋いで家を出る。真由美と散歩するのがよほど嬉しいのか、ジョンは尾を振りながら落ち着かない様子で何度も吠えた。
「ワン、ワンっ! ワンっ!」
「もう、そんなに興奮しないでよ。私と一緒に散歩に行くの、久しぶりだから嬉しいの? ごめんね。ここしばらく、お母さん任せにしちゃって」
 真由美がこうして愛犬を外に連れ出すのは数日ぶりだ。高校の合宿でしばらく家を空けており、その間の世話は母親に頼んでいた。久方ぶりの散歩に、真由美の心も弾む。
 今日は天候にも恵まれ、爽やかな風が夏の田舎道を吹き抜けている。ほとんど車の通らない路上を歩き、真由美はさかんにジョンに話しかけた。
「合宿で行った山の中には、大きな湖があったの。とっても綺麗なところだったわ。いつかジョンも連れていってあげたいな」
「ワンっ!」
「それから、山小屋みたいな小さなホテルに泊まったの。勉強も頑張ったけれど、それだけじゃなくて他にもいろんなことをしたわ。ご飯は全部、自分たちで作ったしね。健一ったら、『力仕事は俺たち男に任せろ』なんて言ってたけど、失敗してばっかり。皆が笑ってたわ。ふふふ……」
「ワン、ワン!」
 手を口に当てて笑うと、ジョンは鳴き声で相づちを打つ。まだ若いオス犬だが、とても賢く主人に忠実で、真由美の他愛ない話も熱心に聞いているように思えた。
「そうだ。今日は健一のところに行こうか。ジョンもベスに会いたいでしょ」
「ワンっ!」
 言っていることがわかるのか、ジョンは真由美の言葉にうなずくと、丁字路を普段とは反対の方向に曲がって主人を先導する。
 狭い通りに入った。左右に同じような外観の一戸建てが立ち並んでいた。ジョンはその一番奥の家の前で止まり、威勢よくひと声吠えた。すると、門の向こうから犬の鳴き声が返ってきた。
 真由美は呼び鈴を鳴らした。
「はい、丸山です」と、馴染みの中年女性の声が聞こえた。健一の母親だった。
「こんにちは、真由美です。健一君はいますか」
「あら、真由美ちゃん? こんにちは。合宿お疲れ様。健一なら今呼ぶから、ちょっと待っててちょうだいね。ホントにあの子ったら、日曜日だからって昼間からゴロゴロして困るのよ」
 健一の母親は相変わらずの早口だった。インターホンが切れ、真由美はジョンと共に待つ。一分ほどして、健一が姿を現した。
「ふああああ、眠い……。よう、真由美。元気だったか?」
 昼寝でもしていたのだろうか。健一は皺だらけのシャツとジーンズという普段着そのままの格好で、寝癖がついた髪もろくに直していなかった。真由美は呆れ果てた。
「もう。元気だったか、じゃないわよ。その格好は何? だらしないの」
「いいじゃないか。合宿から帰ってきたばかりで疲れてるんだから。あー、まだ眠い……」
 健一は寝ぼけ眼をこすりつつ、シャツの中に手を突っ込んで腹や背中を掻いた。とても年頃の女性を前にした態度とは思えないが、幼い頃からほとんど毎日のように顔を合わせている真由美が相手では、つい礼を欠いてしまうのも仕方のないことかもしれない。真由美はため息をついて、足元のジョンの背中を撫でた。
「健一ったら、本当にいつもだらしがないんから呆れちゃうわ。ねえ、ジョン?」
「ワンっ!」
「うるさいなあ。それで、いったい今日は何しに来たんだよ?」
「何って、健一とベスと一緒に散歩に行こうと思って。私たち合宿があったから、しばらくこの子たちの世話をしてないでしょ?」
「ベスか? そういやあいつ、どうしたかな……」
 自分が飼っている犬だというのに、健一は大して関心がなさそうな様子で辺りを見回す。彼のすぐ足元から犬の鳴き声があがった。真っ白い毛皮の塊が健一の周囲を走り回った。
「バウ、バウっ!」
「久しぶり、ベス! 元気だった?」
 真由美はその場にかがみ込み、すり寄ってきたベスを抱きかかえた。ジョンと比べてやや小さいが、同じ中型犬に分類される紀州犬のメスだ。全身が白く、尾が丸まっているのが特徴である。ジョンより年上の四歳で、人間でいえば中年に差し掛かったくらいの年齢だろうか。
 真由美が立ち上がると、今度はジョンがベスに近づき、体の匂いを嗅ぎ始める。ベスは耳や尻尾を垂らし、リラックスした様子でジョンに自分の匂いを嗅がせた。これが日頃の二匹の挨拶だ。
「相変わらず元気だな、お前らは。なんか暑苦しいぞ」
「元気になって当たり前よ。ジョンもベスも、久しぶりにお友達に会えて嬉しいんだもの」
 二匹がじゃれ合う姿を眺めて笑う真由美に、健一は冷めた視線を向けた。
「それで、散歩に行こうって? 合宿明けの貴重な休日に?」
「うん、行こうよ。今日は天気もいいし、絶好の散歩日和よ」
「俺はパス。まだ合宿の疲れがとれないから、行くならお前がうちのベスも一緒に連れてってやれよ」と、勝手なことを言い出す健一。真由美は腰に手を当て、彼をにらみつけた。
「あなたねえ、ベスはあなたの犬でしょ? 飼い主が散歩に連れてってあげなくてどうするのよ」
「散歩なら明日行くよ、明日。とにかく今日は寝かせてくれよ。俺は疲れてるんだ。ふああ……」
「疲れてるって、今日は昼まで寝てたんでしょ !? もう充分じゃない!」
「勉強合宿でたまりにたまった疲れは、ちょっと寝たくらいじゃとれないんだ。それじゃ、俺はこれで……」
「待ちなさいっ! これ以上、昼寝なんかさせないわよ!」
 真由美は力いっぱい健一の腕をつかみ、大声を張りあげた。「おばさーんっ! ベスの散歩に行ってくるので、ちょっと健一君をお借りしまーすっ!」
「いいわよー。うちのベスとグータラ息子をよろしくねー!」健一の母親は顔を出さずに返事をした。
「ちょっと待てよ。俺は散歩なんかに行くつもりは……」
「いいから、いいから。ほら、この子たちも来いって言ってるよ」
「ワンっ!」
「バウ、バウっ!」
「わかった、わかったよ……」
 二匹の犬にしつこくまとわりつかれ、ようやく健一も観念したようだ。しぶしぶベスのリードを取りに家の中に戻る。
「ほら、準備できたぞ。まったく、お前もこいつらも酷いやつだぜ。ひとを酷使しやがって」
 真由美はジョンとベスを代わる代わる撫でながら、「それじゃあ、楽しいお散歩に出発!」と勝利宣言をしてみせた。
 ジョンとベス、健一を連れてもとの散歩道に戻る。昔、通っていた小学校の前を通り、川沿いの道を歩いた。決して大きな川ではないが、夏の川辺は思った以上に心地よい。時々健一と合宿で起きた出来事を語り合いながら、真由美は犬の散歩を楽しんだ。
 健一は真由美の幼馴染みだ。彼女が一歳か二歳、近くの公園でよちよち歩きをしていた頃からのつき合いだから、もう十五年以上になる。家が近いため昔からよく一緒に遊んだが、特に子供の少ないこの町では遊び相手が少ないこともあって、自然と共に過ごすことが多かった。交際しているわけではないが、真由美にとって家族以外で一番親しい異性と言えるだろう。反対に、自分も彼にとってそうであるという自信があった。
 二人の仲がいいのは、共に犬好きであるということも大きい。まだ幼い頃、真由美の父親が知り合いから小型犬をもらってきたことがあり、真由美も健一も随分とそれを可愛がったものだ。その犬はしばらく前に病気で死んでしまったが、ひどく悲しんだ娘のために父親は新しい犬を用意してくれた。それが今飼っているジョンである。
 健一も真由美と同じように犬好きだ。ところが彼は昔からずぼらで、金魚や昆虫を飼ってもろくに世話をせず、すぐに死なせてしまうのが常だった。「俺は生き物を飼うのに向いてない」というのが本人の弁である。それが四年前、健一の母親がたまたま紀州犬の子犬を知り合いから半ば押しつけられる形で引き取ってきた。それ以来、「なんで俺が世話をしなきゃいけないんだ」などと愚痴をこぼしつつも、飼い主として死なない程度に面倒を見てやっている。
「おい、真由美。どこまで行くんだ?」
 彼の質問に、真由美は元気な声で「もうちょっと! 向こうの公園まで」と答えた。川岸から離れて山に入ると公園があり、竹林や池、遊具が小さな山を囲むように配置されている。家からはだいぶ遠くに来てしまったが、何しろ久しぶりの散歩なのだ。たまにはここまで足を伸ばすのも悪くないだろう。ジョンもベスも体力に余裕があり、疲れているのは健一だけだった。
「おいおい……今日のお前、ちょっと張り切りすぎだぞ。犬じゃないんだから、お前がそんなに散歩を楽しんでどうするんだよ」
 息を切らして階段をあがってくる健一に、真由美はぺろりと舌を出した。
「べーっだ。健一ったら、男のくせにもうギブアップなの? だらしないの」
「そんなこと言っても、俺は疲れてるんだって。はあ、はあ……」
 とうとうベンチに座って休憩を始めた健一を置いて、真由美は階段を上りきる。そこには大型の遊具が並んだ広場で、遊歩道は竹林の中に続いていた。自分と同じように犬の散歩をさせている人や子供連れでもいるかと見回したが、今日は誰も見かけない。ジョンのリードを引いて広場の端に立つと、今まで歩いてきた散歩道が見渡せる。夏の明るい光が町を照らしていた。
「わあ……いい眺め。上ってきてよかったね、ジョン」
「ワンっ!」
 すっかり気分をよくした真由美は、ジョンを連れて竹林の中に足を踏み入れた。日光が遮られて薄暗いが、犯罪の少ないこの地域で、真っ昼間から危険に晒されることはそうそうないだろう。ときおり振り返って弱音を吐く健一を笑いながら、真由美は愛犬と共に遊歩道を歩いた。
 そうして散歩を楽しんでいると、ふと前方に人の気配を感じた。遊歩道から外れた竹林の中に竹が生えていない小さな空間があり、そこに人影があった。
「誰だろう。犬の散歩かな?」
 この近辺で犬を飼っている人は、その多くが真由美の顔見知りだ。知っている犬に会えば、ジョンも喜ぶだろう。真由美はジョンのリードを手に、早足で人影に近づいた。男と思しきその人影は、こちらに背を向けて立っていた。
「あの、こんにちは──」
「そういうわけで、面倒だろうけどよろしく頼むよ」
 男は竹林の奥に向かって言った。よく見ると、奥の竹の間にもう一つ、大きな黒い影がある。真由美はそちらに目をやり──絶句した。
「わかりました。直ちにご命令通りに致します。それでは、私はこれで」
 黒い影は男に一礼して答えた。真由美が驚愕したのは、その影の大きさだった。人間にしてはあまりにも大きすぎる。そばにたたずんでいる男と比べると、背丈だけで二倍はありそうだ。しかも、影は立っているわけではなく、竹林の中で膝をついて畏まっている。立ち上がればいったい何メートルになるのか、頭の中が真っ白になった真由美では考えることもできなかった。
 人……なのだろうか。巨大な胴体からは二本ずつ手足のようなものが生えており、胴体の上には頭らしきものも確認できる。しかし、その影はとても人と呼べる生き物ではなかった。丸太のように太い手足は真っ黒で、うっすらと毛に覆われている。手足の先だけがキラキラと光っているのは、金属でも身につけているのだろうか。それが長大な爪だとは咄嗟にわからなかった。
 広い背中からは、コウモリのものに似た黒い翼が生えている。翼はやはり巨大だが、それ以上に大きな体を重力に逆らって飛ばせるほどのものとは思えなかった。ただの飾り……というわけでもなさそうで、ときおりゆらゆらと揺れ動いている。まるで犬の尻尾のようだと思った。
 顔も全身と同じく闇夜のように真っ黒で、造作がわかりにくい。それでも、位置からして人であればそこが顔であり、頭部なのだろう。もっとも人間の頭に、山羊のように太い角が左右に生えているはずはないが。
 禍々しい角と翼を生やした、漆黒の巨人。真由美の脳裏に「悪魔」という単語がよぎった。現実には決して存在しないはずの生物が、竹林の中にひざまずいていた。
「うん、ご苦労様。気をつけて帰るんだよ。ここは僕らの領土じゃない。仏と神々が住まう世界の最果ての国だからね」
 自分の十倍もありそうな体格の巨人を相手に、男は何の恐怖も見せずに言った。男といっても、声音からして真由美と同じくらいか少し年下の少年のようだ。白いワイシャツと黒のスラックス姿の、何の変哲もない少年が凶悪な巨人と親しげに話す姿は、すこぶる奇妙だった。しかも、敬語を使っているのは巨人の方なのだ。
「はっ、ありがとうございます。それでは失礼」
 巨人は深々と頭を下げた。その姿がだんだんぼやけ、竹林の陰に溶け込んでゆく。やがて黒い影は跡形も残さず消え去り、その場には真由美とジョン、そして少年だけが残された。爽やかな風が竹林を吹き抜けていった。
「……見たね?」
 少年は振り返り、真由美に笑いかけた。身長は真由美と同じくらいで、健一よりは小さい。男にしては細身だ。顔は信じられないほど秀麗だが、そこにあるのは血の通った人間らしい美ではなく、彫像やコンピュータグラフィックスの美しさだった。先ほどの巨人との会話といい、本当にこの少年は人間なのだろうかという疑念がわいた。
「な、何? 今のは何なの……ひょっとして悪魔っていうの? それとも私、夢でも見たの?」
「見られたからには生かしちゃおけない……なんて、月並みな台詞は言わないさ。むしろ、君がここに来てくれて嬉しいくらいだよ。これで少しは暇つぶしができそうだからね」
 にこにこ笑って少年はこちらに近づいてくる。逃げなくてはならないと真由美の本能が告げていたが、腰が抜けてしまって満足に立ち上がることさえできない。草むらの上に尻もちをついて、真由美は美貌の少年を見上げた。
(こ、殺される……)
 脚がガクガク震えて、涙があとからあとから溢れてくる。真由美は生まれて初めて本当の恐怖を味わった。目の前にいるのがいったい何者なのか理解できず、未知の恐怖におののいた。
「ワン、ワンっ!」
 そのとき、忠実なシェパードが真由美を守るべく前に出た。威嚇の声を鳴らして少年をにらみつけ、いつでも飛びかかれる体勢を整える。ジョンがその気になれば、少年の白い喉笛に牙を立てることも容易だろう。真由美にとっては頼もしいボディガードだ。
「おやおや、可愛いワンちゃんだね。健気にもご主人様を守ろうとしてるのかい?」
「ウウウウウ……!」
「そんなにがっついちゃダメだよ。ちゃんと遊んでやるからさ」
 少年は無造作に足を踏み出す。それを合図に、ジョンが彼に飛びかかった。少女のようにきゃしゃな優男の少年、さらに丸腰となれば、鍛えられたシェパードの敵ではない。彼はそのまま地面に押し倒され、悲鳴をあげてのたうち回るはずだった。
 だが、現実は真由美の予想を裏切った。少年が細い腕を軽く一振りしただけで、ジョンは車にでもはねられたかのように、勢いよく吹き飛ばされた。かすかな悲鳴をあげ、真由美の愛犬は草むらに頭から落ちて動かなくなった。
「きゃあああっ! ジョンっ!」真由美は絶叫した。
「真由美、どうしたっ! 何があった !?」
 慌てた様子で健一がやってくる。真由美はその場にへたり込んだまま首だけを動かし、彼に「逃げて」と言おうとした。しかし、恐怖に震える真由美の口は、かちかちと歯を鳴らすだけで、ここにいる少年が非常に危険な存在だと健一に知らせることができない。何も知らない健一もまた、謎の少年の前に立ちはだかった。
「お前、真由美に何をしやがった !? 返答次第じゃタダじゃ済ませねえぞ!」
「いや、僕はただ、そこのワンちゃんと遊んでやっただけだよ。ねえ、そこの君。君は真由美さんっていうのかい? 素敵な名前だね」
「それ以上、真由美に近づくなっ! 本気でブン殴るぞ──うわあああっ !?」
 少年がもう一度手を振ると、触れてもいないのに健一の体が宙に舞い上がり、竹とんぼのように回転して地面に叩きつけられる。まるで映画の一シーンだった。自分がホラー映画の登場人物になってしまったと真由美は思った。
 さらにベスも同じ目に遭わされ、残ったのは腰を抜かした真由美だけになった。誰も止める者がいなくなり、少年はとうとう真由美の眼前に立った。
「ふふふ……真由美さん。そんなに僕が怖い?」
「あ、あなたは何なの……皆に何をしたの……」
「僕はただ遊んでるだけさ。この町に住んでる君ならわかると思うけど、この辺はどうも娯楽が少なくてね。せっかくこうして出会ったんだから、少し僕の遊びにつき合ってくれないかな?」
「い、いや……私は何も見てないから、乱暴しないで。早く皆に救急車を呼んであげて……」
「そんなに彼氏とワンちゃんたちが心配かい? でも大丈夫だよ。皆、ケガ一つしてないから。下手に傷をつけちゃったら、遊べなくなっちゃうからね」
 少年は真由美の手を取った。思わず振り払おうとしたが、少年の手は彼女の手を握って放さない。真由美は彼に促されて立ち上がった。少年は真由美の手を引いて、先ほど吹き飛ばされたジョンに歩み寄った。
「ほら、触って確かめてごらんよ。ちゃんと息はしてるし、ケガもしてないよ」
「ホントだ。ジョン、生きてる。よかった……」
 横たわる愛犬の体を触り、真由美は安堵した。少年の言うとおり、ただ気を失っているだけで、命に別状はないらしい。健一もベスも同じく、大したケガはしていないように見えた。
「安心したかい? じゃあ、今度はいよいよ真由美さんの番だ」
「きゃあっ! な、何するの !?」
 気を抜いた真由美の背後から少年の腕が伸びてきて、彼女の体を拘束した。真由美のものとそう変わらない細腕だが、驚くべき力で真由美を押さえつけてしまった。先ほどの恐怖がよみがえり、真由美は青ざめる。
「もしかして、私にも同じことをするの? あんな風に吹き飛んで、頭から地面に落ちて……」
「同じこと? ううん、もっともっと楽しいことさ。どうやら、君たちはワンちゃんが大好きみたいだからね。せっかくだから、この機会に君たちのワンちゃんともっと仲良くさせてあげるよ」
 わけのわからないことを言って、少年は真由美を押し倒す。彫刻のような美貌に笑みを浮かべて、真由美の腹の上にのしかかった。首に両手をかけられ、絞殺の危機が真由美を襲う。
「いやあっ! 殺さないでっ!」
「いやいや……さっきから、そんな乱暴なことはしないって言ってるでしょ? もうちょっと真面目に話を聞いてくれないと困るよ」
 とぼけた口調で真由美をなだめ、少年は彼女の首を押さえる。ただ軽く押さえただけだ。直ちに絞め殺すつもりはないようだ。では、いったい何をするつもりだろうか。
「じゃあ、始めようか。今日は君たちをたっぷり楽しませてあげる」
 少年の手が淡い光を放ち、その光が真由美の首にまとわりついた。いったい何が始まるのか、理解できずに真由美は震える。またも現実にはありえない不可思議な出来事が起きようとしていた。
「ふふふ……いくよ。それっ」
「きゃあっ !?」
 体が真上に持ち上げられる浮遊感に、真由美は驚きの声をあげた。手足の感覚が唐突に希薄になり、奇妙な違和感に襲われる。自分の身に何が起きたのか、まるでわからなかった。
「ふふっ、うまくいったね。気分はどうだい?」
「わ、私……どうなったの?」
 気がつくと、少年の手が真由美の頬を押さえて、二人は正面から向かい合っていた。人間とは思えないほど美しい少年と至近距離で見つめ合っていることが、真由美から平常心を奪う。だが、それ以上に真由美を動揺させたのは、四肢が全く動かなくなっていたことだった。より正確にいえば、手足をはじめとして全身の感覚が綺麗さっぱりなくなっていたのだ。残っているのは視覚と聴覚だけだ。
「首を動かせないんじゃ、自分がどうなってるかよくわからないよね。見せてあげるよ、ほら」
 少年はポケットの中から小さな鏡を取り出し、真由美に見せつけた。手のひらに収まるサイズの長方形の鏡面には、困惑した真由美の顔が映っていた。
「え? な、何これ。なんでこんな……!」
 真由美は鏡を眺めて戦慄する。鏡が映していたのは真由美の頭部だけだった。鏡が小さいため、それしか映らないというわけではない。なんと、今の真由美は頭だけになっていたのだ。首は顎の下、数センチのところで、鋭利な刃物で斬られたかのようにぷつりと途切れてしまっていた。生首だけの異様な姿が、今の真由美の姿だった。
「こ、これが私なの !? どうして首だけになってるの !?」
「びっくりしたかい? これが僕のマジックだよ。君の首だけを、生きたまま体から切り離したのさ」
 真由美の生首を手に持った少年が、そう説明する。生きたまま首を切り離す──にわかには信じがたい光景が、小さな鏡を通して真由美の網膜に映っていた。首を胴体から切り離されても、真由美は死んでいない。それどころか、息もできるし喋ってもいる。首の切り口からは血の一滴も出ていない。常識では考えられない異常事態が、真由美の身に降りかかっていた。
「そ、そんな。こんなの信じられない……」
「ふふふ、まだまだ驚いちゃいけないよ。本当に面白いのはこれからなんだからね」
 少年はその場にしゃがみ込み、地面に倒れてぐったりしている首なし少女の体を真由美に見せる。脚を大きく開いて倒れているため、スカートの中にあるピンクの下着が丸見えだった。真由美は羞恥に頬を赤らめ、「いやあっ! こんなのいやっ! 早く元に戻してよおっ!」と訴えた。
「まあまあ、ちょっと待って。さあ、お次は君のワンちゃんだ」
 少年は真由美の頭部を静かに草の上に置くと、昏倒したジョンに手を伸ばした。いったい何をするつもりか──真由美が固唾を呑んで見守る中、少年の手が先ほどと同じように光を放ち、ジョンの首を胴体から切り離してしまった。
「あ、ああ……ジョンの首が、私みたいに千切れちゃった……」
「そうだね。特別なおまじないをかけてるから首を切り離しても死なないけれど、こんな風に頭だけじゃ可哀想だよね。早くこのワンちゃんに体をくっつけてやらないと」
 楽しそうに言って、少年は物言わぬジョンの頭をかかえて真由美の胴体に近づく。「ふふふ……ちょうどここに、頭のついてない体が転がってるね。あいにく犬じゃなくて人間の体だけど、このワンちゃんは喜んでくれるかな? どれ、ちょっと試してみようか」
「え? な、何を言ってるの?」
 戸惑う真由美に構わず、彼はジョンの頭部を横たわる真由美の胴体にあてがう。少年の手がみたび妖しい光を放った。
「起きてよ、ジョン。起きて。ほら」
 少年の手に揺り起こされ、真由美の体がむくりと起き上がった。その肩にはジャーマン・シェパードの頭部が載っていた。首を失った木本真由美の胴体に、ジョンの頭部が結合していた。これ以上なく異様な光景に、真由美の顔から血の気が引いた。
「あ、ああ、あああ……そ、そんな……!」
「ウウウウ……ワンっ!」
 ジョンは半ば寝ぼけた様子で首を振り、真由美の体で草むらの上に尻もちをつく。薄桃色のブラウスと膝丈のスカートという格好の女子高生の肉体を動かしているのは、今年で二歳になるオス犬の頭だった。とても繋がるはずのない異なる種の身体のパーツが合わさり、一つの生き物になっていた。
「ジョン、新しい体の調子はどうだい? ちゃんと動かせるかな」
「ワンっ! ワンっ!」
 先刻は少年に対してあれほど敵意をむき出しにしていたというのに、今のジョンはどうだろうか。全く彼に吠えようとせず、それどころか両手を地面につけて畏まり、彼が主人であるかのような態度を見せていた。新しい体を与えられたジョンは、少年のペットになってしまったのだ。
「その体できちんと動けるかどうか、確かめてみようか。ほら、これを取っておいで」
 少年はさっきの鏡を近くの草むらへと放り投げた。ジョンは「ワン、ワンっ!」と嬉しそうに鳴きながら、四つんばいで鏡を取りに行く。首から下は真由美の体だが、動きは犬そのものだ。スカートの中身が見えるのにも構わず、尻を高く持ち上げて鏡をくわえ、持ち帰ってきた。
「よくやった、ジョン。ふふふ……真由美さんの体、ちゃんと動かせるみたいだね。うん、なかなか似合ってるよ。可愛い可愛い」
「い、いやあああっ! 私の体があああっ!」
 真由美は狂わんばかりに絶叫した。首を体から切り離された挙句、嫁入り前の大事な体を犬に使われているのだ。正気を失って当然だった。
「真由美さん、どうしたの? 大好きなジョンが君の体と一つになっているんだよ。もっと喜ばないと」
「いやあっ! いや、いや、こんなのいやあっ! いやだああっ!」
「とってもいい声で鳴いてくれるね。ふふふ……君には素質がありそうだ。可愛いワンちゃんになる素質がね」
 少年は真由美の頭部を持ち上げ、彼女の黒い髪を優しく撫でる。もはや彼女は叫ぶ気力も失せて、ただ涙を流すしかなかった。この悪夢が一刻も早く覚めることを祈って泣いていると、やがて失われた手足の感覚が戻ってきた。体が元に戻ったのか──目を開いた真由美の前に、驚くべき光景が広がっていた。
「どうだい、真由美さん? 気に入ってくれたかな」
「グスッ。な、何よこれ。何なのよこれは……」
 真由美の目の前には少年の脚があった。といっても、彼女は別に寝転がっているわけではない。ちゃんとその場に立っている──そのはずだった。見下ろして確かめてみたが、確かに真由美は四つ足をついて、きちんと草の上に立っていた。

 四つ足?

「いやあああっ! 私、犬になってるうううっ !?」
「あはははは。新しい身体、気に入ってくれたみたいだね。よかったよかった」
 口に手をあてて笑う少年の顔が、真由美のはるか頭上にあった。それで、ようやく彼女は自分が犬の体になったことに気づく。ジョンの頭が真由美の体と繋ぎ合わされたのと同様、真由美の頭はジョンの身体と合体させられてしまったのだ。今の真由美は、首から下がオス犬の体になっていた。
「こんなのいやっ! こんなのいやっ! こんなのいやあああ……」
「うん、似合ってる。とっても似合ってるよ、真由美さん。似合う似合う。可愛いじゃないか」
 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにした真由美を、少年があざ笑っていた。彼の隣には、人間の体になったジョンが座っていた。少年がその手を引くと、ジョンはすっくと立ち上がった。まるで人間であるかのように、二本の脚で危なげなく直立した。
 首から下がジョンの体になった真由美を、首から下が真由美の体になったジョンが見下ろしていた。体が入れ替わったことを思い知らせるかのように、ジョンは己の細い腰に手をあてて、自分が得た真由美の体を見せつける。可愛がっていた飼い犬の顔を見上げなくてはならない屈辱に、真由美は頭がおかしくなってしまいそうだった。
「なんで私が犬なのよ !? ジョン、私の体を返してよおっ!」
「ワン、ワンっ!」
 ジョンは真由美を叱りつけるように吠えると、足元のリードを手に取った。それは真由美の首輪に結びつけられていた。ジョンが真由美のリードを握っていた。力いっぱいリードを引かれ、真由美の首が締めつけられる。
「く、苦しい……ジョン、やめて。引っ張らないでえ……」
「ワン、ワンっ!」
「ううっ、どうしてこんなことをするの? 私たち、とっても仲良しだったじゃない……」
 真由美の声は届かず、ジョンはリードを振り回して散々に彼女を苦しめた。そこに少年が割って入る。
「ふふふ……僕がジョンに何をしたのか、教えてあげようか。実はね、僕は単に君たちの頭を交換しただけじゃない。ジョンには人間の体でいるのに必要な、いろんなことを教えてやったんだ。二本足での歩き方、獣の前足とは違う人間の手の使い方、今身に着けている人間の衣類の意味、そして、今の自分と真由美さんのどっちがご主人様なのか……ふふっ、どっちなのかは言わなくてもわかるよね?」
「ジョンが私の飼い主になったっていうの? そ、そんな……ジョンは犬で、私は人間なのに」
「今は違うでしょ? 君が犬で、ジョンが人間さ。それも、とびきり可愛い女の子だ。ねえ、ジョン。オス犬から人間の女の子になった気分はどう?」
 少年は唇の端をつり上げ、今やジョンのものになった木本真由美の体を馴れ馴れしくまさぐる。ブラウスの胸元を押し上げる柔らかな乳房を揉みしだかれ、ジョンは「アウウンっ」と甘えた声をあげた。
「やめてえっ! これ以上、私の体をオモチャにしないでえっ!」
「違うね。これはもう君の体じゃない。この綺麗な脚も胸ももうジョンのものなんだから、飼い犬ごときがご主人様のすることに口を出しちゃダメだよ」
 少年の手がスカートの中に侵入し、下着越しにジョンの女性器を撫で回す。止めようと真由美は彼に飛びついたが、またもジョンにリードを引っ張られたうえ、腹を思い切り蹴飛ばされてしまう。真由美は唾液を吐いて草の上に倒れた。
 そのとき、離れた場所で健一が目を覚ました。懸念していたケガはまったくないようだが、まだ意識がはっきりしないのか、頭を押さえてぼうっとしている。
「う、ううん……いったい何がどうなったんだ。あれ、お前は──わああああっ !?」
 健一は目の前に立つ少女を見上げ、その頭部が犬のものになっていることに驚愕した。
「ま、真由美っ !? お前、なんで顔が犬になってるんだ !?」
「ワン、ワン!」
「おや、健一君が起きたようだね。ふふふ……真由美さん。今の自分の可愛い格好を、じっくり彼に見てもらうといいよ。おーい、健一君。こっちこっち」
「い、いやあ……健一、見ないで。お願い、見ないでえ……」
 真由美は地面に這いつくばって泣いたが、痛めつけられた体では健一の視線から逃れることは叶わない。変わり果てた幼馴染みの姿に気づいて、健一は息をのむ。首から下がシェパードの体で、頭だけが人間の奇怪な生き物。それが今の真由美だった。
「ま、真由美……? お前、真由美なのか? 犬に見えるけど、顔は間違いなく真由美だよな。どうしてお前、そんなカッコに……」
「ふふふ……彼女は愛犬のジョンともっと仲良くなりたいって言ってたから、僕がジョンと体を取り替えてあげたのさ。これで彼女にはジョンの気持ちがわかるし、ジョンにも真由美さんの気持ちがわかる。二人はもっと仲良くなれるよ。よかったね」
「てめえ……てめえの仕業かよ。絶対に許さねえっ! 真由美を元に戻せっ!」
 健一は少年に殴りかかったが、やはり結果は同じだった。人外の美少年に敵うはずもなく、健一は再び無様に倒れて、真由美と同じように首を切断されてしまう。無力な生首と化した健一が、少年の手の中でわめき散らした。
「ど、どうなってんだ !? 俺の首が──てめえ、放せっ! 俺たちを元に戻せっ!」
「まあまあ、落ち着いて。せっかくだから、君にも真由美さんと同じ体験をさせてあげよう。この白い犬はメスかい? ちょうどいいね。健一君は今日からメス犬だ」
「な、何をするつもりだ !? やめろ……やめろおっ!」
 どれだけ暴れようとしても、頭部だけになった健一に抵抗のすべはない。彼は真由美の目の前でベスの胴体と繋ぎ合わされ、メス犬になってしまった。雪のように白い毛並みが綺麗なメスの紀州犬が、今の健一だった。
「な、何だよこれは……俺の体が犬になるなんて、絶対にありえねえ。これは悪い夢だ。きっと夢だ……」
「健一、しっかりして。これは夢なんかじゃない。私たち、体を犬と取り替えられちゃったのよ」
 これで、二人の飼い主はそれぞれ自分の犬と肢体を交換したことになる。真由美の頭はジョンの胴体に移植され、彼女はオス犬になった。健一の頭はベスの胴体に移植され、彼はメス犬となった。反対に、二人の体はもはや犬の所有物だ。ベスの頭は健一の胴体と融合してしまい、ジョンと同じように二本の足で立っていた。ベスは自分の飼い主である男子高校生の体を、完全に我が物としていた。
 いっそ死んでしまった方がましだと思えるほどの屈辱を味わう二人を交互に眺めて、少年はにこにこと笑っていた。天使のように愛らしい悪魔の笑顔だった。
 この美貌の少年に従っていた黒い巨人。あの巨人は、やはり悪魔だったのだと真由美は思う。そして、この少年もまた悪魔なのだ。決して出会ってはならない災厄と、二人はめぐり合ってしまったのだ。自分たちはもはや決して助からない。見てはいけないものを見てしまったため、口封じに始末されてしまうのだという絶望が、真由美の心を支配した。
「ふふふふ……じゃあ、体の交換も終わったことだし、お散歩を続けようか。君たちの家はどっちだい?」
「バウ、バウ!」
 少年に訊ねられ、ベスが健一の指で元来た方角を指す。ベスは健一のリードを握り、ジョンは真由美のリードを持っていた。まさか、この姿で散歩を続けるつもりだろうか。真由美と健一は震え上がり、必死で少年に許しを乞う。
「お願い、私たちを元に戻して。こんな格好をひとに見られたら、もう生きていけない……」
「誰も気にしないから大丈夫さ。さあ、ジョン、ベス、行くよ」
「ワオーンっ!」
 ジョンは真由美のリードを無理やり引っ張り、帰り道を下っていく。先ほどは無人だった公園にも、誰かが散歩に来ていないとも限らない。こんな姿を他人に見られたらと思うと、生きた心地がしなかった。
「ううう、どうして私がこんな目に……一体どうしたらいいの……」
「泣くな、真由美。俺が助けてやる。俺が絶対にお前を元の体に戻してやるから」
 オスのシェパードになった真由美を、メスの紀州犬になった健一が励ます。不慣れな四つ足で歩く人面犬の姿は滑稽だが、自分もそうなっているのだと思うとまったく笑えなかった。一刻も早く元の体に戻りたいと切実に願った。
「ごめんね、健一。私があんな人に出会っちゃったせいで、あなたまでそんな体にされちゃって……」
「いいさ、気にすんなよ。それより元に戻ったあと、あいつをボッコボコにすることでも考えようぜ。そうでもしないと、気が滅入っちまう」
「うん……」
 真由美たちはジョンとベスにリードを引かれ、公園の階段を下った。その途中、早くも恐れていた事態が起きた。ミニチュアダックスフンドを連れた中年女が、こちらに近づいてきた。この近所に住む主婦で、二人とは顔見知りの散歩仲間だった。
(まずい。こんな体になっちゃったのを見られたら……)
 真由美は階段を下りるのを嫌がったが、今やジョンの方が立場は上だ。首が絞まるほどリードを強く引っ張られ、逃げることを許されない。とうとう主婦が話しかけてきた。
「あら、真由美ちゃんに健一君じゃない。お散歩?」
「ワン、ワン!」
 返事をしたのはジョンだった。真由美のリードを引いて、人面犬と化した哀れな彼女を主婦に見せつけた。真由美は思わず目を閉じ、主婦が悲鳴をあげて飛び上がるのを待った。
 ところが彼女の予想に反して、主婦は犬になった真由美を見ても平然としていた。やや肥満気味の主婦は、にこやかな笑みを浮かべて真由美の髪を撫で回し、ふさふさの背中をポンと叩いた。
「んー、今日のジョンはちょっとお疲れみたいね。家に帰ったら、ゆっくり休ませてあげなさいよ」
「ワンっ!」
(ど、どうして? どうしておばさん、私たちを見ても驚かないの !?)
 開いた口が塞がらない真由美に、ミニチュアダックスフンドが近づく。クンクンと真由美の尻の匂いを嗅ぎ、親愛の情を示してきた。ジョンやベスにいつもしている挨拶だ。自分が犬になったことを改めて思い知らされる。
「そういえば、ベスもちょっと元気がないわね。暑いからかしら。体調には気をつけてね」
「バウっ!」
 ベスの頭が載った健一の肩を叩く主婦と、それに元気な鳴き声で答えるベス。まるで日頃の二人を相手にしているときと変わらない様子で、主婦はそのまま自分の犬を連れて去っていった。いったい何がどうなっているのかわからず、真由美と健一は揃って狐につままれたような顔をしていた。
「いったいどうなってるの。どうしておばさん、私たちの格好を見ても平気だったの。まるでいつもと何も変わらないみたいに……」
「あ、ああ。マジでどうなってるんだ……?」
「説明してほしいかい? ふふふ……」
 二人の疑問に答えたのは少年だった。
「今の君たちには、僕のおまじないがかかっている。その効果をひとことで言うと、他の人たちには君たちの頭が入れ替わっていることが認識できなくなるっていうものさ。さっきのおばさんは、真由美さんの体になったジョンを『真由美ちゃん』って呼んでただろう? あれは、彼女の目には実際にそう見えるからなんだ。つまり、皆には君たちが、取り替えた体に合わせた姿に見えるってわけだね。おかげで大騒ぎになって警察やテレビ局の人たちを呼ばれることもない。どうだい、面白いでしょう?」
「そんな……じゃあ、私は皆からジョンに見えるの?」
「そのとおりさ。ついでに言うと、皆には君たちが喋る言葉が犬の鳴き声にしか聞こえないし、反対にジョンやベスの鳴き声が人の言葉に聞こえるようになっている。人間の脳みそってのはけっこう都合よくできていてね。僕がその気になれば、こんなことだってできるのさ」
 少年の言葉に、二人は絶望した。もし彼の説明が正しいとしたら、いくら今の二人がひとに助けを求めたところで、それは絶対に聞き入れてもらえないことになる。二人は己の体を奪われたばかりでなく、立場まで犬のものにされてしまったのだ。この状態で、どうすれば元の体に戻れるというのか。先ほど健一が口にした「俺が助けてやる」という宣言は、到底実現しそうになかった。
 すっかり気落ちした二人は、じっとうつむいて犬の体で道路を歩く。道中、二、三度知人と出会うことがあったが、いずれも犬の頭を持った少年と少女に挨拶するばかりで、犬になった真由美と健一に話しかけてくることはなかった。人間の体と立場を奪われた二人は、もはやただのペットでしかなかった。
「う……ちょ、ちょっと待って」
 公園を出て帰り道を半分ほど来た頃、真由美は歩みを止めた。この場で唯一、二人の言葉を理解することができる美貌の少年に、待ってくれるよう頼んだ。
「どうかしたかい? 真由美さん」
「実は……トイレに行きたくなっちゃったの。そこの曲がり角の向こうにスーパーがあるから、そこに寄ってくれない?」
「あ、俺も俺も。さっきから我慢してたんだ」
 真由美の横から健一が口を挟む。犬の体になったからといって生理現象が無くなるわけではなく、二人は尿意を催していた。この近くのスーパーには、備えつけの小さなトイレがある。あまり清潔ではないが、この際、贅沢は言えない。
「へえ、トイレか……真由美さんは真面目そうだから、ワンちゃんを散歩させるときは、もちろんビニール袋や割り箸、シャベルを持ち歩いているんだろうね?」
「何よ、その質問は。それなら、確かにいつも持ってるけど──ま、まさか……!」
「うん、いいことを思いついた。君たちには、おしっこもうんちもここでしてもらおうか。なあに、恥ずかしがる必要はないよ。今の君たちは犬になってるんだから、誰も気にしやしないさ」
 少年の提案に、二人は蒼白になった。犬の体にされて嫌で嫌で仕方がないのに、そのうえこんな町角で糞便を垂れ流せと言われたのだ。傷口に塩を塗りこむような真似をされ、二人の顔が嫌悪に歪んだ。
「そんなの絶対に嫌っ! お願い、トイレに行かせて!」
「何を言ってるんだい? 君たちはどこから見ても可愛らしいワンちゃんじゃないか。ワンちゃんならワンちゃんらしく、電柱にマーキングして歩かないとダメでしょう。ほら、遠慮せずに早くしなよ」
「で、できるわけねえだろ。こんな、通行人に思いっきり見られる道端で……」
「誰も気にしないって言ってるでしょ? 嫌なら仕方ない。ジョン、ベス、君たちのペットがおしっこしたいそうだから、飼い主として手伝っておやり。うんちもするかもしれないけど、後始末はできるね?」
「ワン、ワンっ!」
 少年に命じられ、ジョンはスカートのポケットからビニール袋を取り出す。いつも自分が真由美にしてもらっていたことを、今は逆に自分がやってやろうというのだ。二人は泣いて嫌がったが、電柱にリードを結びつけられては逃げられるはずもない。迫り来る尿意にぶるぶる震えて耐えるしかなかった。
「お、お願い。もう我慢できないの。トイレに行かせて……」
「犬が人間のトイレを使ったら怒られるよ。さあジョン、手伝っておやり」
「ワンっ!」
 女子高生の肉体を持つオス犬がかがみ込み、真由美の尻を強く押さえる。股間に手が伸びてきて、真由美のペニスをつまんだ。真由美は一瞬、自分が何をされたのかわからなかった。
「ああっ。な、なに? この感覚……もしかしてこれって、お、おちんちん……」
「当たり前でしょ? 今の真由美さんはオス犬になってるんだから、おちんちんがついてないとおかしいじゃないか。ほらジョン、君の犬がたくさんおしっこを出せるように、よーくマッサージしてやるんだよ」
「ハッハッハッハッ……」
 ジョンはどことなく嬉しそうな様子で、真由美の後ろ足を片方持ち上げ、か細い手で犬のペニスを刺激する。つまんだ指をきゅっ、きゅっと擦ることで排尿を促しているのだ。初めて味わう犬の陰茎の感覚が真由美を苛む。膀胱の弁が緩み、今にも漏れ出しそうになった。
「い、いやあっ。こんなのいやあ──や、やめて、ジョン。やめてえっ」
「ワン、ワワンっ!」
「ああっ、な、何かくる。もうダメ、おしっこ出ちゃうっ。い、いやあああっ」
 悲鳴があがり、真由美のペニスから金色の液体がほとばしった。体重が三十キロ以上にもなるオスのシェパードは、小便の量も多い。慣れない犬の身体ということもあって、真由美は長い時間をかけて多量の尿を電柱に浴びせかけた。辺りにきつい臭いが立ち込め、犬の体で放尿してしまったことを真由美は実感する。ジョンはその一部始終を、勝ち誇ったように見下ろしていた。
(ああ……私、ジョンの体でおしっこしちゃったんだ。この臭いおしっこ、私のなんだ。私ったら皆が見てる前で、こんなに臭いおしっこを撒き散らしちゃったんだ……)
 どれほど嫌悪していた行為であっても、本能からくる欲求を満たした心地よさは決して否定できない。電柱にマーキングをして少しでも嬉しいと思う自分が悲しかった。
 誰か見ていないかと思って辺りを見回すと、道路の反対側に四、五歳くらいの女児と、その母親らしい若い女の姿があった。女児は真由美を指差して笑った。
「あー、ママ。あのワンちゃん、おしっこしてるよー」
「そうね。大きなワンちゃんだから、たっぷりおしっこしたみたいね。それじゃ、大きなワンちゃんにバイバイしましょ」
「うん。おしっこワンちゃん、バイバーイ!」
 女児と母親は真由美に手を振り、その場を去っていった。排尿の瞬間を見られたという羞恥と、自分が犬にしか見えないという事実が、見えない刃となって真由美の心を傷つける。やはり自分は誰が見てもオス犬のジョンなのだと、改めて思い知らされた。自然と涙が頬を伝い、鼻をすすった。
(私、これからどうしたらいいの。本当に元の体に戻れるの?)
 嘆き悲しむ真由美の後ろでは、男子高校生の体を得たメス犬がビニール袋をぶらさげ、自分と体を交換した少年の糞を片付けていた。健一はメス犬の体で糞便を垂れ流してしまい、凄まじい臭いを放つそれをベスに始末してもらっていたのだ。健一の顔はのぼせあがったように真っ赤で、今にも泣き出しそうだ。犬と首が挿げ替わった二人は、体も立場も何もかもが犬と入れ替わっていた。


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