真理と愛理

 穏やかだが控え目な日差しが西の空から降り注いでいた。気温は春とそう変わらないはずなのに、何となく寂しい感じがするのは秋の太陽に元気がなく、すぐに沈んでしまうからだろう。
 病室で窓の外を見上げながら、愛理は今日何度目かのため息をついた。
 長い黒髪はツヤがなく、頬はやせこけて顔色も悪い。鏡を見て自分の境遇を哀れんでしまうのも、もうすっかり慣れてしまった。
 赤い日差しの中、ドアが開いて男と少女が姿を見せた。
「や、愛理。元気してるか?」
「――大ちゃん、それに真理……一緒に来てくれたの?」
「うん、駅で一緒になっちゃって。はいこれ」
 そう言って少女は雑誌の入った袋をベッドの横に置いた。実は高校生だが、童顔と小柄な体のせいで小学生に見えなくもない。しかし彼女は明るく優しい娘で、愛理の自慢の妹だった。
「ありがとう。こんなにしょっちゅう来てくれて……」
「何言ってんだよ。早く病気なんて治しちまえ」
 強い口調で男が言った。二十歳くらいの目つきの鋭い男で、その険しい視線で愛理を見下ろしている。
「わかってる。ちゃんと治すって約束したもんね、大ちゃん」
 彼なりの励ましを受けとめて、愛理はうなずいた。
「そうだよお姉ちゃん。ちゃんと退院したら大樹さんのお嫁さんになるんでしょ?」
「えっ……? そ、そんなの昔の話よ……」
 不意に聞こえた妹の言葉に、女は血の気の引いた顔をほのかに赤らめた。
「――懐かしいな、小学生のときだっけ。あの告白。あの頃は愛理も、今の真理ちゃんみたいに元気な暴れん坊だったな」
 少し遠い目をして大樹がつぶやいた。
「大ちゃん……」
「――俺はあのときのお前のセリフ、まだ忘れてないんだぜ?」
「え?」
 驚いて目を見開いた愛理に優しい視線を向け、男が言う。
「だから早く治せ。俺はいつまででも待っててやるから」
「…………」
 女はうつむいて、軽く体を震わせた。
「お姉ちゃん……?」
「――ありがと……大ちゃん……」
 雫がぽたりと垂れ、ベッドに丸い染みを作った。

 見舞いを終え、大樹と真理は病院の廊下を並んで歩いていた。
 病室で愛理を励ましたときとは違って彼の顔は暗く、重々しい雰囲気を漂わせていた。
「大樹さん……どうしたの?」
「いや、何でもないんだ。真理ちゃん」
 首を振る男に少女は食い下がる。
「嘘、何でもないはずないよ。お姉ちゃんのこと、うちのお母さんから聞いたんでしょ? どうなの?」
「いや、別に……」
「お父さんもお母さんも、あたしには何も教えてくれないの。ただ良くなる良くなるって言うだけで……あたし、こんなのやだよ。お願い。あたしにお姉ちゃんの病気のこと、教えて」
「真理ちゃん……」
 厳しい視線を少女に向け、大樹はつぶやいた。
「大丈夫、きっと愛理は治る。俺たちがそう信じてやらないと、あいつだって安心して治療に専念できないじゃないか」
「大樹さんもお父さんと同じこと言うんだね。お姉ちゃん、そんなに悪いの?」
「…………」
 必死で沈黙を守り通しながら、大樹は思い知らされていた。
 自分でも信じてないことを人に信じさせるのは、こんなにも難しいのかと。

 単なる厚意なのか、それとも誤魔化しのつもりか、大樹に家まで送ってもらう途中、真理は喫茶店に連れて行かれた。明るくて可愛らしい内装が密かに評判だとかで、店内は女性客が多い。
「真理ちゃん、ケーキ食べないか? たしか甘い物好きだったろ」
「今日はいいです、好きだけど太るもん」
「大丈夫だって。真理ちゃん充分やせてるじゃないか」
「あたしはやせてるんじゃなくて、ただチビなだけですっ!」
 結局ケーキは遠慮して、オレンジジュースを飲みながら真理は周囲を見回していた。女性客の他にも、恋人同士のようなカップルがちらほらいる。自分たちも周りからはそう見えているのだろうか。
(ううん、違うよね……あたしと大樹さんじゃ、せいぜい兄妹にしか見えないもん)
 彼女は自分の幼児体型と童顔に、軽いコンプレックスを持っていた。
 もう高校生でこれ以上の成長はなかなか見込めないというのに、今でも真理は時々小学生と間違えられてしまう。
 対して姉の愛理は病気になる前、背が高くスタイルも良かった覚えがある。綺麗な服を着こなして大樹とデートに出かける姉を、彼女は羨望の眼差しで見送っていたものだ。
 美しく不健康な姉と、幼くて元気な妹。
 どっちがいいんだろうか、と真理はつい物思いにふけってしまう。
 そんな恋人の妹を心配そうに眺めながら、大樹はコーヒーを口に傾けていた。
 本人が嘆くように確かに子供っぽい外見ではあるが、目や鼻、眉といった顔のパーツは姉の愛理とよく似ていて、美人というよりは可愛い感じの魅力をかもし出していた。
(――そういや小学生くらいのときは、あいつもこんな感じだったっけ……)
 大樹は、病室にいる自分と同じ歳の女との思い出を掘り起こしていた。
 昔は気が強く、体育や運動会を妙に張り切っていたこと。思春期を迎えて普通なら異性との関わりを避けるはずが、なぜかますます大樹と一緒にいる機会が増えていったこと。そしていつの間にか恋仲になって、本当にお互いが好きで愛し合ったこと。
(愛理……)
 だがその彼女は今、不治の病で力なくベッドに横たわっている。
 恋人が病魔に苦しんでいるというのに、彼は何も力になってやることができず、無力感に苛まれた毎日を送っている。
 この前、姉妹の母親に聞かされた話によると、愛理はもう長くないという。一週間か二週間かひと月か、ひょっとしたら明日死んでしまうかもしれない。そんな話を聞かされて、平静でいられる男はそう多くないだろう。
 現に大樹も心の半ばを絶望に支配され、真理を満足に励ましてやることもできていない。
(くそ、俺は……)
 どうしたらいいのか。どうすることもできないのか。もし神仏が存在するならば、祈りたい気分だった。

 相手を不安そうに見ていたのは真理の方も同じだった。
(大樹さん……)
 小さい頃から背中を見ていた、憧れの男性。大切な姉の大事な恋人。その彼が苦しそうに悲しむ姿を見るのはとても辛かった。
 やがて、飲み物をすすっていた大樹がにわかに立ち上がる。
「真理ちゃん、俺ちょっとトイレ行ってくるから、何か欲しいのあったら適当に頼んでていいよ」
「はーい、行ってらっしゃい」
 表面上は明るく言う真理。ジュースは半分以上飲んでいたが、お代わりを頼む気にはなれなかった。
 辺りを見回すと、テーブルを囲む女子高生の集団やにこにこしたカップルが楽しそうに談笑しているのが目に入る。その様子をうらやましそうに見つめ、真理はため息をついた。
 両親や大樹の様子から、姉の病状が芳しくないのはわかっている。だが自分だけ何も知らされないというのは、やはり悲しいことだった。
 聞かされても彼女にできることは何もないが、それでも知りたい。真理はやるせない思いを抱えて、明るい店内をぼんやり見回していた。
 そのとき、少女の目が一点に固定された。
「―――― !?」
 驚いた真理の視線の先から、一人の少年が近づいてきた。年は彼女と同じくらいだろうか、制服などは着ていないが高校生のように見える。
 少女が目を見張ったのは、不自然なほどに整ったその顔立ちだった。美術館や博物館の展示品のように圧倒的な存在感をかもし出している。しかしそれなのに周りの客は誰も少年の方を向かず、店員でさえこの美少年に気づかない様子でその横を通り過ぎた。
(すごい綺麗な人……)
 男相手にこうした表現を使う機会は滅多にないが、真理は心からそう思った。
 人間離れした雰囲気の少年はゆっくり彼女のところにやってきて、見る者の背筋が震えるような笑顔で少女に話しかけた。
「こんにちは。ここいいかな?」
「あ、え、えと、その、連れが……」
 なぜか自分の向かい、大樹の席に座ろうとした少年を真理は慌てて制止したが、彼は気にもせず、悠然と椅子に腰かけてしまう。
「大丈夫、すぐ帰るから少しだけだよ」
「は、はあ……」
 そう言いつつ彼は店員を呼んでアイスティーを注文する。
 突然現れたこの異様な雰囲気の少年に、真理は呆気に取られるばかりだった。
「――久保愛理さんの妹、真理ちゃんだね?」
「そうです……でも、なんであたしのことを……?」
 少年は自分に危害を加えるような気配はないが、ただひたすらに怪しい。気後れしながらも充分に用心して、彼女は少年を見ていた。
「なに、たまたま通りかかっただけさ。お姉さんの病気、大変みたいだね」
「……そんなことまで知ってるんですか?」
「誤解してほしくないんだけど、僕は別に怪しい者じゃない」
 怪しさと疑わしさの塊のような少年がそう言った。
「ただ、君に協力してあげようと思っただけさ」
「協力……?」
「お姉さんの病状、知りたいんだろ?」
「――知ってるんですか !? お姉ちゃんのこと!」
 彼は害のない笑顔で少女を見つめて答えた。
「僕はこう見えても、いい友人に恵まれててね。その友人が言うには、君のお姉さんは八日後に息を引き取るそうだ」
「――なっ…… !?」
 あまりの内容に、真理は一瞬呼吸が止まってしまった。
「そんな馬鹿なこと言わないで! 冗談でも怒るわよ !?」
「冗談じゃないさ。確かな情報だよ。でもまあ、いきなりこんなことを言われて、信じろって方が無理かもしれないね」
「当たり前よ!」
 少年は運ばれてきたアイスティーに口をつけ、うんうんうなずいている。
「じゃあもう一つ、教えといてあげよう。まず今夜、君のお姉さんの容態が急変する」
「嘘よ! いい加減なこと言わないでよ! そんなの信じないから!」
「でもこれは一旦収まって、一週間近く安定するそうだ。そして八日後、もう一度同じことが起きて、今度は残念ながら亡くなってしまう」
「黙って! もう聞きたくない!」
 真理の投げたお絞りを片手で受け止め、少年が続ける。
 彼女はかなりの大声をあげていたが、周囲は誰も二人を注視していなかった。
「信じるも信じないも君の勝手だけど、もし信じるなら僕は君に選択肢をあげよう。お姉さんを救うための」
「いいからあっち行ってよ !! うわぁぁああんっ !!」
 泣き喚く真理に楽しそうな視線を送り、やっと少年は席を立つ。
 後に残されたのはしゃくりあげる少女と、空になったグラスだけだった。

 大樹がトイレから戻ると、真理は座ったままじっとうつむいていた。
「――真理ちゃん……どうかしたのか?」
 少女はグスグスと泣いているように見える。彼が席を離れていたほんの少しの間に、一体何があったのだろうか。
「な、なんでも……ない……!」
「何でもない訳ないだろ。どうしたんだ?」
「なんでもありません……ほっといて下さい……うぅ……」
「…………」
 彼は愛理との付き合いから、こうなった状態の少女には下手に手を出せないことを知っていた。ただ黙って店員を呼び、飲み物とケーキを追加で注文する。
(愛理……)
 詳しいことはわからないが、泣いているのは彼女のことが原因だろう。大樹は心の中で愛しい女に呼びかけた。
(真理ちゃんはこんなに泣いてるんだぞ。頼むから良くなってくれ……)
 彼の願いも空しくその晩、愛理は容態が悪化し生死の境をさまようことになった。

「…………」
 夜の病院に、年齢よりも幼く見える少女がたたずんでいる。
 深夜に突然連絡があり、真理も父の車でここに連れてこられたのだった。
 ようやく落ち着いたものの、一時は本当に危なかったらしい。本来なら面会謝絶のところを家族の立ち入りを許したのは、医師も半ば諦めているからだろうか。
 暗い廊下から窓の外を見つめ、真理は呆然と立ち尽くしていた。
“まず今夜、君のお姉さんの容態が急変する。でもこれは一旦収まって、一週間近く安定するそうだ”
 ふとあの少年の言葉を思い出し、重い息を吐く。信じる訳ではないが、彼の言う通り姉の容態は急変し、そして持ち直した。
 ということはあと一週間で、愛理の命が尽きてしまうのか。彼女はそんなことを受け入れるわけにはいかなかった。
“信じるも信じないも君の勝手だけど、もし信じるなら僕は君に選択肢をあげよう。お姉さんを救うための――”
「救う……あたしが、お姉ちゃんを……?」
 本当なのだろうか。
 無力な子供に過ぎない自分が、病魔に苦しむ姉を救ってやれるのだろうか。憂いを帯びた秋の風が木の葉を散らすのを、真理の視界は捉えていた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 そして一週間後、愛理は静かに息を引き取った。
 ささやかな通夜と葬式が行われ、誰もが若い彼女の死に涙した。
 一番泣いたのは妹の真理である。
「私……わたしぃっ…… !!」
 両親も泣きながら次女の体を抱きしめたが、彼らも気づかなかった。
 真理が自分のことを“私”と呼んでいたことに。

「うぅ、うぅぅぅ……うぇぇぇん……」
「なあ……真理ちゃん、もう泣くのやめようぜ……? ずっとそうしてるじゃないか……」
 姉の遺影を前にいつまでも涙を流し続ける真理に、大樹が言った。
 彼女の両親は田舎の親戚の家に行って、しばらく留守にするという。真理も連れて行くはずだったのだが、どうしても彼女がここを離れないため、二人は大樹に娘のことを頼み車を飛ばして行ってしまった。
 彼も最愛の恋人をこんな形で失って心が空っぽになっているが、ずっと泣いている真理を見ていると、ほんの少しだけ心が冷静になれる。
「う……うぅ、ごめん……ごめん……」
 畳に涙をこぼし、彼女は涙声で姉に謝っていた。
 それを見て大樹は、なぜ謝るのか訝しがった。
「真理ちゃん、君が謝る必要なんてない。真理ちゃんはあんなにあいつを大事にしてたじゃないか……」
 少女の隣に腰を下ろし、大樹は彼女の顔を上げさせた。丸一日泣きはらした顔はひどく汚れ、彼の心にちくりと棘をさした。
「ほら、顔ふいて……あいつが君を責めるわけないだろ?」
 大樹がハンカチで顔をぬぐってやると、また真理は泣き叫んだ。
「違うのぉ……私、違うのぉぉぉ……!」
「……何が違うんだ、真理ちゃん?」
 ふと様子がおかしいことに気づき、大樹がたずねる。
 確かに今の状況では泣き喚くのも無理のないことだったが、真理が泣いているのは何か違う理由があるように彼には思えたのだ。
 小学生にも見える幼い高校生がしゃくりあげる。
「――大樹……私、真理じゃないの……愛理なの……。あの子、私の代わりに死んじゃったのぉぉぉ……! わぁぁぁん……!」
「……な、何……?」
 いきなり突拍子もないことを言われ、大樹が戸惑う。
 彼の動揺をよそに、真理は自分が愛理だと主張し、幼い頃からの彼との思い出を一つ一つ語っていった。それは確かに彼と愛理しか知らないはずの、半ば忘却に埋もれつつある記憶だった。
「――お、お前、愛理なのか……? 本当に…… !?」
「本当よ、信じてよ大樹ぃ!」
 とても信じられる話ではなかったが、口調や雰囲気の端々、それに愛理しか知りえない知識から、やはり彼女は愛理だと大樹は結論せざるを得なかった。
 ということは真理になった愛理の言うとおり、代わりに真理が死んだということになる。
 いくら姉を助けるためとはいえ、自分の命を投げ出した少女に、彼は深い衝撃を受けた。
「ま、真理ちゃん……なんでこんなこと…… !?」
「うぅ……真理、ごめん……本当にごめんなさい……!」
 あまりの事実に大樹は呆然として、泣きじゃくる少女の体を抱きしめてやることしかできなかった。

 その少し前、暗い病室の中で二人の人物が話していた。
 片方はいかにも病人といった感じの、やせ細った長髪の女。
 もう一人は形容しがたい異様な雰囲気を持った、端正な顔の少年だった。
「――これで君の代わりにお姉さんは助かる。満足かい?」
 女は大人に似合わぬ子供っぽい仕草でうなずいた。
「うん。だってあたしより、お姉ちゃんに生きててほしいから……」
 こうしている間も病魔は女の体を蝕み、耐え難い苦痛を与えてくる。止まない痛みと乱れる呼吸に顔をしかめながら、愛理は顔を上げた。
(痛い……お姉ちゃんの体、こんなになってたのね……)
 姉は横から見守るだけの自分に、この痛みの中で笑顔を向けていてくれたのだ。それを思えば、死への恐怖はあっても後悔はなかった。
 今、真理の体は家で眠りについているはずだ。
 そして目覚めて事態に気づいた頃には、自分はもうこの世にいない。
 別れの手紙は書き残してきたが、ちゃんと彼女は読んでくれるだろうか。ひょっとすると、また小さい頃のように罵られるかもしれない。
“この馬鹿! お姉ちゃんに黙って勝手なことしちゃ駄目でしょ!”
 あの頃はそう言われるのが日課だった。
 愛理は暗い病室で笑顔を浮かべ、昔を懐かしんだ。
 ベッドの隣の椅子に腰かけ、明るい声で少年が問う。
「一応聞いておくけど、本当にいいのかい? 今ならまだ間に合う。君の歳でわざわざ死ぬこともないと思うけど」
「ううん……もう決めたの。お姉ちゃんを助けてくれてありがとう。お姉ちゃんと大樹さんによろしく言っといて」
「そうか。伝えておくよ」
 少年は穏やかな笑みを見せた。どこの誰かも、そもそも人間なのかもわからないが、彼は姉を助けてくれた。それだけで彼女には充分だった。
 夜空には丸々とした黄金の月が輝き、魔性の光を大地に注いでいる。その月光を背中に浴び、少年は笑顔を浮かべていた。その姿は神々しい天使のようにも、逆に恐ろしい悪魔のようにも見える。
「最期に話をしようか。冥土の土産と思って聞いてほしい」
「うん、いいよ」
 病人はうなずいて、再び体をベッドに横たえた。
「君は自分とお姉さんの身に起こったことをどう思う? なんて表現すればいい?」
「え?」
 意外な質問に面食らい、愛理は少年を見上げた。
「うーん、そうねえ……心と体が入れ替わっちゃった?」
「あはは、両方入れ替えたら元に戻っちゃうよ。どっちかにしないと」
「じゃ、体の交換!」
 少年がうなずく。
「そうだね、その表現だと人間の本質は心にあることになるね。今の君は『お姉さんの体を持った真理ちゃん』だから本物の真理ちゃんって訳だ」
「うん」
 暗い部屋の中で、透き通った少年の声が響く。
「じゃあ仮に、僕がやったみたいに他の人に君の心を植えつけたらどうだろう? 大樹さんや君のお父さんお母さん、みんなが君の心そっくりになったら、どれが本当の君だと思う?」
「え……そんなの、みんなあたしになるんじゃないの?」
「うん。そういう答えもあるね」
 愛理は不思議そうに虚空に視線を送る。その様子は物慣れない少女のような可愛らしいものだった。
「大樹さんの体を持つ君、愛理さんの体になった君、そして元通りの真理ちゃんの体を持った君。何人いても全部本物の君なんだね?」
「うー……そ、そう、かな……」
「想像してみてほしい。君がその中の一人になったとして、周りには色んな姿になった君がいて、君と同じ口調で喋るわけだ。君から見て、周りにいる人たちは自分かい? それとも他人かな?」
「ええ……どうなんだろ?」
 少年はにっこり笑って話を続ける。
「お互いに独立した意思を持ってるなら、それはやっぱり他人だよ。君の心を数十人にコピーしても、みんなこう思うに違いない。『ああ、この人たちはコピーで、あたしが本物なんだ』って。さあ、本物の君はどれなんだろうか?」
「うーん……?」
 困り果てた愛理に、優しい声で少年は言った。
「じゃあ、今度は逆に体をコピーすることを考えようか。真理ちゃん、想像して下さい。コンビニのコピー機のような機械で人間を分析すると、見た目も心も本物そっくりのコピー人間が出てくるとします」
「うん、考えたよ」
「そのコピーは君自身、本物の自分であると言えるかな?」
「うーん、心まで完全にコピーしてたら本物なんじゃないかな」
 深く考えず、思ったことを口にする。
 その発言が少年を喜ばせているようだが、この際どうでもよかった。
「じゃあ、ここには本物の君が二人いることになるね」
「そうだね」
「なら一人じゃなくて百人コピーしたら、本物は百一人いるってことだね」
「そう……なんじゃないの?」
 少年は疲れも見せず、嬉々として話を続ける。
「じゃあ、今度はコピーの元になった君から見た話を考えよう。百人のコピーたちは本当に君自身かい?」
「えっ? 今そうだって……」
「それは本当かな? コピー元になった君から見れば、百人の他人なんじゃないの? 自分と同じ顔をして、自分と同じ声を出して、自分にしか見えない他人さ。仮に機械で本物の君自身を増やせるとしたら、後でコピー元の君を殺してしまっても構わないよね? 本物の君はいくらでもいるんだから」
「え……え、え、え……あ……」
 いつになく早口な少年の言葉に押され、言い返すことができない。
「ここで大事なことは『肉体は物質的な裏づけがあるけど、心にはそれがない』ってことだ。心はいくらでも変わりうるし、同じ心というのをいくらでも考えることができるけれど、体はそうじゃない」
「そうなの? 何が違うの?」
「体、つまり物体は全く同じ物が存在しない。全く同じように見える同じ製品のペンだって消しゴムだって、それぞれ違う物体なんだ。例えば、もし誰も見分けがつかないくらい精巧に『モナ・リザ』をコピーすれば、コピーも本物ってことになるかい? レオナルドが描いた絵は一枚だけだっていうのに」
「うーん……たしかに、絵に本物が増えたら困るよねえ……」
「それと同じで、どんなに同じように人間の体をコピーしてもそれはあくまでコピーであって、本物は一人だけなんだ。でも心はそういったものじゃなく、コピーを考えて増やすことができる。何しろ心には、時空的、物質的な裏づけがないんだから」
 それでも愛理は食い下がった。
「じゃあ、心もずっとあたしの心だったって言えたら本物なんじゃない? コピーじゃなくて、小さい頃からお父さんお母さんに育てられたあたしの心なら本物のあたしの心って言えるんじゃないかしら」
 だが少年は笑顔をやめず言い放つ。
「なるほどなるほど。いきなりコピーで作り出された心じゃなくって、ちゃんと時空的に連続して存在していた心なら本物なんじゃないかって話だね。でもそれだと心の内容はどうでもよくって、心が入っていた入れ物、つまり体とか脳とかで『本物の自分の心』を決めてるってことじゃない? それならやっぱり本物の君の心は、体に依存することになるよね」
「う〜……」
 反論を全て言い返され、愛理は口ごもった。
 何となくおもちゃにされているようで、面白くない。今生の名残がこんな会話では浮かばれそうになかった。
「だからそういった意味で君はやはり愛理さんであって真理ちゃんじゃないんだ。強いて言えば『自分を真理ちゃんだと思っている愛理さん』だね」
 女は不満そうに頬を膨らませる。
「え〜、でもやっぱりあたしが真理だよ。中身はお姉ちゃんじゃないよ。あたしがお姉ちゃんで、あっちが本当のあたしだったらやっぱりお姉ちゃんは死んじゃうから、入れ替わった意味がないじゃない」
「その体はまぎれもなく久保愛理さんのものだよ。君たちは心が違うと違う人間ってつい思ってしまうけれど、人間の本質は心や魂ではなく、体にあるんだよね」
「じゃあ……やっぱりあたしがお姉ちゃんってこと? あたしは真理じゃなくて、お姉ちゃんなの?」
「さて、どうだろうね? でも君が心で本物を決めるんだったらそれでいいと思うよ。いつか真理ちゃんそっくりの心を誰かに植えつけてあげる。そうしたら君の心も救われるんじゃないかな?」
「それ――」
 そのとき、何か言い返そうとした愛理の顔が苦悶に歪んだ。
「う……うあ…… !?」
「――残念だけどタイムリミットだ。もう君はここにはいられない」
 少年は穏やかな声で、女に死の宣告を告げた。
 女は苦しそうに息を漏らし、虚空に呼びかけている。
「あ、あたし……あたし、お姉ちゃ……!」
「さよならだ。今日は楽しかったよ。もう今の君と会うことはないだろうけど、後のことは任せてほしい」
 彼は立ち上がると、軽やかな足取りで病室を出て行った。
 満月は煌々と西に輝き、夜明けが近い。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 ごく普通のマンションの一室に、男と女がいた。
 ベッドの中で素裸で抱き合い、愛の営みを行おうとしている。
「愛理……」
 男が女の名を呼び、そっとその唇を奪った。
 舌を絡め唾を混ぜあい、熱っぽい視線でお互いを見つめている。やがて女は口を離し、愛しげに男によりかかった。
「うん……大ちゃん……」
 そのとき、にわかに男が身を起こし妻にそっと囁いた。
「――ちょっと待て。外に悪い子がいるから」
「ふふふ、あの子も懲りないわね……」
 男はベッドから出て、部屋の入口に向かうと勢い良くドアを開けた。
「――きゃあっ !?」
 そこには二、三歳くらいの幼児がいて、バランスを崩して室内に倒れこんだ。
「……いったぁ〜い……」
「こら真理。覗いたら駄目だっていつも言ってるだろ」
「え〜、別にいいじゃない大樹さん。ねっ、お姉ちゃんからも何か言ってよ」
 寝床で全裸になっていた女は、にやにや笑って娘の愛理を見つめている。その体は二十代の子持ちの人妻だというのに背が低く胸も平らで、まるで小学生のような体型であった。
「まあいつものことだし、いいんじゃない? 大ちゃん。それにこの体はあんたのだしね、見るくらいはいいと思うの」
「おいおい、中身は真理でもこいつは実の娘なんだぞ? 教育上良くないだろ」
 幼児は父親の足に抱きついて甘えてみせた。
「ね〜え、お願い大樹さん、ちゃんとパパって呼ぶからぁ〜。あたしにも二人のセックス見せてよぉ〜」
「……とてもおむつが似合う幼女の言葉とは思えんな」
 呆れたように大樹は言うと、娘を置いてベッドに戻った。
「ふふ、なんだかんだ言ってパパは甘いんだから……」
 母親は妖艶な笑みを浮かべ、火照った小柄な体を夫に見せつけた。男は手を伸ばしてかすかな膨らみを揉みしだき、妻を喘がせる。
「あんっ……大ちゃん、いいわ……」
 その様子をベッドの横から見上げ、愛理は面白そうに言った。
「お姉ちゃん、気持ちいいの?」
「うん……見れば、わかる……でしょっ……」
「へえ、小さくても感度はいいんだ。あたしの胸、ずっと小さかったからお姉ちゃんが羨ましかったの」
「それなら……今度は、ちゃんと、う、おっぱい……育てなさい」
 目を細めて熱い息を吐いて、母は娘に言い聞かせた。
 男は欲望を秘めた目で真理を見つめた。
「愛理……俺、もう……」
「我慢できないの、大ちゃん? もう、困った人ね……」
「思ったけど、大樹さんって意外と根性ないよね。お姉ちゃんもよく結婚したねえ……」
「うるせー馬鹿娘。黙って見てろ」
 父は愛理を叱りつけ、真理の中に猛りきった肉棒を突き入れた。
 ――ヌプヌプヌプ……ズチュッ……。
 既に程よく濡れていた膣は、あっさりと夫のものを受け入れる。
「ああ……大ちゃん、熱いぃ……!」
「くっ……こっちもきつい……すっげーよく締まってるよ……」
 子持ちの真理の膣は相変わらず狭く、大樹をきつく締めつけてくる。その様子を幼い愛理は、這い上がったベッドの上から眺めていた。
(うわ……大樹さんが、あたしの体を犯してる……)
 自分が死んでから幾度も繰り返され、今の自分がそれで生まれてきたというのに、愛理は両親の交わりを新鮮に感じて興奮してしまうのだった。
 大樹は軽い妻の体を押さえつけ、激しく腰を前後させた。
 ――ズチュッ、ズッ、ズッ……!
「んああ……大ちゃん、大ちゃあん……!」
「愛理、気持ちよさそう……すっげー可愛い顔してる……」
「やああっ……大ちゃん、そんなこと言わないでぇ……」
「大樹さん、それあたしの顔だってば〜」
 横で雰囲気をぶち壊しにする娘を無視し、大樹は真理を犯し続ける。童顔の妻は、彼の硬い陰茎に膣をえぐられ何度も喘ぎ声を漏らした。両親に無視された形の愛理は、仕方なく黙って二人の性交を眺めている。
(うわ、激しい……でもお姉ちゃん、すっごい気持ちよさそう……)
 姉の心が入った自分の体が、目の前で憧れの男性に抱かれている。自分が望んでこうなったとはいえ、やはり羨ましく思ってしまう彼女だった。
 今の自分の幼い体を見おろし、ついため息をつく。
(あたしがこんなことできるのは……まだまだ先ね。あと十年以上待たないと……うう、お姉ちゃんはいいなぁ……)
 入れ替わった愛理が死んで十年。その間に真理と大樹は夫婦となっていた。
やがて、二人の間に一人の女の子が生まれたのだが、その乳児は小さな手を必死で動かし、虚空に文字を書いて両親に知らせた。
“あたしは真理です”と。
 大樹と真理は大喜びでこの赤子に愛理と名づけ、大事に育てている。
 愛理の方も幸せそうな両親の姿に心が満たされ、娘として甘えている。
 死の別れを覚悟したはずの二人とこうして再会できたのだから、彼女の感慨もひとしおだった。
 ただ、死ぬ間際に聞いた少年の言葉が、彼女の心の片隅に残っている。
“いつか真理ちゃんそっくりの心を誰かに植えつけてあげる”
 それが今の自分であることは明白だった。
 ではやはり今の自分は真理ではないのか。自分を真理だと思い込んでいる赤子なのか。それとも本物の真理は、大樹の妻になった目の前にいるこの女なのか。誰が死んで、誰が生まれ、それとも誰かが生き返ったのか。自分で考える話としてはあまりにも複雑で、扱いかねるものだった。
(あたし……誰なんだろ……?)
 その疑問を胸に抱いて、幼児は裸の両親を見つめている。
 大樹は妻の中をえぐり、膣を肉棒でゴリゴリ擦りあげている。二人の体格差はかなりのものがあり、はじめのうちは自分のものをこの小さな少女が受け入れられるのかと心配したものだった。しかし今では二人の体の相性も良くなり、無事子供も出産している。
 淫らな音をたてる女性器を激しくかき回し、彼は真理を叫ばせた。
「ああ――いいっ !! いいよぉっ !!」
「俺も最高だよ、愛理……すっげーいい……!」
 パンパンと腰を突き上げ、奥の奥、子宮の入口を刺激する。真理は全身を震わせ、愛する夫との交わりに喜んでいた。
「はあぁっ……! そこ、もっとしてぇぇえっ!」
 妻に乞われるまま、大樹が膣内をこねくり回す。あまりの母の乱れように、愛理はごくりと唾を飲んでしまった。その表情は興味半分、羨望半分といったところか。
 やはりこれは教育上よろしくないな――と、大樹は意識の隅で思った。
「あんっ! あひ! あひぃぃっ !!」
 よだれを垂らした真理が体を揺らして喘いでいる。激しく動いても乳房の一つも揺れないのは大樹にとっては残念だったが、だからといって妻の魅力が損なわれるということは決してない。
 彼はいよいよ真理を絶頂に導くつもりで、思い切り陰茎を突き動かした。
「あああぁっ !? それ――だめぇぇぇっ !!」
「イッちまえよ……愛理!」
「ひゃあぁぁあぁんっ !!!」
 彼女は海老のように背を反らし、白目を剥いて意識を飛ばした。
 ――ビュルルッ !! ドプゥッ !!
 またしても子宮に熱い汁が注がれ、真理は小さな体を痙攣させた。大樹が満足そうに息をついて、萎えた肉棒を妻から引き抜く。その拍子に溢れた子種と汁が漏れベッドを汚した。
「ふうぅ……」
「……二人目できそう? 大樹さん」
「さあな。真理は弟と妹どっちが欲しい?」
 真っ赤な顔でこちらを見やる娘に、大樹はそっと笑いかけた。


参考図書:三浦俊彦『論理パラドクス〜論証力を磨く99問〜』(二見書房)


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