マジックペンですげ替わり 2

 翌朝、春奈が目を覚ますと、今まで経験したことのない疲労と倦怠感が全身を覆っているのに気づいた。
「ううん……なんか体が変だなあ。なんでこんなに疲れてるんだろう」
 寝床の中で独り言を漏らす。何とも気分がすぐれず、身を起こすのも億劫だ。
 昨夜の就寝が特に遅かったわけではない。睡眠は充分にとったはずだし、昼間に激しい運動をしたというわけでもない。だというのに、春奈の体は明らかな不調を訴えていた。
(体がギシギシいってる。肩が痛い)
 体じゅうが錆びついたように重く、ところどころ鈍い痛みを感じる。言いようのない不快感を覚えた。あえて例えるなら、まるで新品の自転車から急に古い自転車に乗りかえたような気分だ。
(あたし、一体どうしちゃったんだろう。風邪でもひいたのかな)
 気だるげな顔を上げると、またも意外な事実に気がついた。今いる場所が、自分の部屋ではなかったのだ。
 不思議に思って辺りを見回す。ここは母の陽子が使っている和室のようだ。薄い抹茶色の壁のそばに、飾り気のないドレッサーと和箪笥が並んでいる。春奈は畳の上に敷かれた煎餅布団の中にいた。
「ここって、ママの部屋だよね。なんであたし、こんなところで寝てたんだろう」
 春奈は首をかしげた。夕べはきちんと自分のベッドで眠りについたはずなのに、なぜ母の布団で寝ていたのだろうか。
 まさか寝ぼけて部屋を出て階段を下り、この部屋に入って母の布団で寝てしまったのだろうか。
 夢遊病でもあるまいし、そんなはずがない。しかし、寝ている間に春奈が部屋を移動したのは間違いなかった。
「ママは……いないなあ。もう起きてるのかな?」
 母の陽子ならことのいきさつを知っているかもしれないが、陽子は既に起きているのか、この部屋にはいない。
 まあ、後で訊けばいいだろう。そろそろ起きて登校の準備をしないといけない時間でもあったし、春奈はとりあえず二階の自室に戻ろうと立ち上がった。
 ところが、起き上がっても違和感は消えるどころか、大きくなるばかりだ。
 奇妙なのは、母の部屋で寝ていたことだけではない。今の春奈は、なぜか母のパジャマを着ていた。着替えた記憶は一切ない。母が愛用している紺色のパジャマは、小柄な春奈の体には大きすぎるはずだが、どういうわけかぴったりだ。
(おかしいなあ。なんであたし、ママのパジャマを着てるんだろう。それに、この胸……あたしの胸がこんなに大きいはずがないんだけど)
 春奈の胸元には、ずしりと重みを感じる二つの巨大な膨らみがあった。昨日までの春奈ではありえないことだ。試しにパジャマの上から乳房を触ってみたが、手のひらに揉まれて自在に形を変える柔らかな肉の塊は、どう見ても作り物ではない。
 無性に不安になって、ドレッサーの鏡をのぞき込んだ。
 ひょっとすると、自分は母になってしまったのではないか──そんな非常識な発想に思い至ったが、鏡には長い黒髪を肩に垂らした少女の顔が映っている。それが見慣れた自分の顔であることに、春奈は安堵した。
(よかった。あたし、もしかしてママになっちゃったのかと思った。そんなこと、あるわけないよね)
 しかし、確かに顔こそ春奈自身のものではあるが、母の寝巻きを着ていることに変わりはない。紺色のパジャマに包まれた今の春奈の体は、まるで陽子のようにむっちりして肉づきがいい。
「でも、あたしの体、変だよね。一体どうなっちゃったんだろう……マ、ママぁっ?」
 とにかく母に相談してみようと部屋を出たが、陽子はリビングにもキッチンにもトイレにもいない。どこに行ってしまったのだろうか。春奈は仕方なく階段を上がり、二階の自分の部屋に向かった。
 意外なことに、そこに当の陽子の姿があった。
「あれ……ママ、なんであたしの部屋で寝てるの?」
 陽子は娘のベッドの中でぐっすり眠っていた。一階の和室で寝ていたはずの陽子が、なぜここに──急いで揺さぶり起こす。
「ん、春奈……どうしたの?」
 陽子は目を開いて、眠たげな瞳で春奈を見つめた。
「マ、ママっ。聞いてよ、大変なのっ」
 春奈は異常を訴えようと両手を振り回したが、陽子は娘の困惑にはまったく気がつかない。
「ああ、今朝はやけに気分がいいわ。よく眠れたからかしら。まるで生き返ったみたい」
 背中を起こして、心地よさげにグッと伸びをする陽子。ところが、彼女の体にも明白な異変が起きていた。
「ママ……そのパジャマ、もしかしてあたしのじゃない? なんでママがあたしのパジャマを着てるの?」
「え? あら、本当……これ、春奈のパジャマよね」
 陽子は昨日春奈が着ていた薄桃色のパジャマを身につけていた。子供用とそう変わらないサイズであるから、大人の陽子が着るにはかなり窮屈なはずだが、苦しそうな様子は見られない。ちょうどいい大きさのようだ。
「なんで私、春奈のパジャマなんて着て……それに、サイズもぴったり。どうしてかしら」
「マ、ママっ。ママの体が小さくなってるよっ!」
 春奈は目を丸くした。パジャマだけではなく、陽子の体そのものが子供のように縮んでしまっていたのだ。陽子もようやく自分の身に異常が起きていることを悟って、表情を強張らせた。
「ママ、ちょっと立ち上がってみて」
「え、ええ……」
 春奈は陽子の手をとり、彼女の体をベッドの中から引っ張り出した。普段は見上げている母の背丈が、今は自分の肩の辺りまでしかない。春奈の方が今の陽子よりも背が高くなっていることが、これではっきりした。
「春奈、どうしてそんなに背が伸びて……そ、それともママが小さくなっちゃったのかしら」
 陽子は自らの体を見下ろして、確かめるように腰や脚に触れた。やはり陽子の体は、昨日までと比べて随分と縮んでしまっているようだ。背が低くなっただけでなく、胴体も手足も少女のように細くきゃしゃになっている。
「うん……その両方みたい。あたしの体が大きくなって、代わりにママが縮んじゃったのよ」
 自分の着ている陽子のパジャマを指して、心細そうな表情を浮かべる春奈。理解のできない異常事態に、どうしたらいいのかさっぱりわからない。
「春奈、あなたママのパジャマを着てるの? それに、その体型……春奈、一体どうしちゃったの」
「わ、わかんないよ。朝起きたらこうなってたの。あたしはママの部屋で寝てたし、代わりにママがあたしの部屋で寝てるし……いったい何がどうなってるんだろう」
 何の前触れもなく発生した怪奇現象に、母と娘は揃って首をかしげるばかりだった。
「二人とも、どうしたの? 早く支度しないと、遅刻しちゃうよ」
 そこに、兄の直紀がやってきた。既に高校の制服に着替えていて、いつでも出かけられる格好をしている。
「お兄ちゃん、た、大変なのっ。あたしとママの体が変なのっ」
 春奈は不安と困惑を声に込めて、直紀に訴えかけた。
「変? 本当だ……春奈もママも、雰囲気がいつもと随分違うね。一体どうしたの?」
 直紀は優美な眉をひそめて、変わり果てた義母と義妹の姿にじっと見入った。
「わかんないよ……起きたらあたしはママみたいになって、ママの部屋にいたの。逆に、ママはあたしみたいになって、あたしの部屋にいたの」
「ふむ……これは、ただ服を交換しただけじゃなさそうだね。春奈は背が伸びてママみたいにむっちりしてるし、ママは逆に、春奈みたいに小さくて可愛らしい。まるで二人の首から下だけがそっくり入れ替わっちゃったみたいだ」
 直紀がそう分析すると、春奈のパジャマを着た陽子は神妙な面持ちでうなずいた。
「本当にそう……私、春奈と体だけが入れ替わっちゃったみたい。そうとしか思えないわ」
 陽子の服を着て陽子のような体格になった春奈と、春奈の服を着て春奈のような体格になった陽子。顔だけはそのままで、二人の首から下だけが入れ替わったような奇怪な状態だ。
「でも、どうして? なんであたしとママの体が……こんなの信じられない」
「僕も信じられないよ」
 直紀は二人の姿を交互に眺めて言う。「まるで夢を見てるみたいだ。まさか、こんなことが実際に起きるなんて……」
「夢なら早く覚めてほしいわ。こんな非常識な夢、見たくない」
 陽子は両手で顔を覆って嘆き悲しんだ。春奈も同じ気持ちだった。
「落ち着いて、ママ。これは夢なんかじゃない。ママが春奈の体になって、春奈がママの体になってるんだ。理由はわからないけど、きっと二人の首から下だけが入れ替わっちゃったんだよ」
「ああ、なんてことかしら。一体どうして……」
 がっくり肩を落とす陽子。直紀はそんな義母の体を抱いて、優しく慰めてやった。優等生の少年らしく冷静な態度だが、人ごとだからこそ慌てずにいられるのかもしれない。
「落ち込んでばかりいても何も解決しないよ。それよりも、これからどうしたらいいか考えないと。二人とも、今から病院に行って、お医者さんに診てもらったらどうかな?」
「うん……でも、こんなの病院で治してくれるのかな。病気かどうかもまだわからないのに」
 春奈は気落ちした声でつぶやく。こんな珍妙な話、今まで聞いたことがない。母と娘の体が入れ替わってしまったなどと、そもそも医者が信じてくれるかどうかも疑わしかった。
「春奈の言う通りよ。ママと春奈の体が入れ替わったなんて相談しても、お医者様は困るでしょうね。それに私は、今日はちょっと仕事を休めそうにないの。帰りも遅くなるかもしれないし……」
 陽子の声も硬くなっている。恐怖と困惑のためか、語尾がかすかに震えていた。
「ママ、その体で仕事に行くの? それはいいけど、あたしの体でママがいつも着てる服、着れるのかなあ」
 春奈は自分よりも小さくなってしまった母に、そう指摘した。
 もしも陽子と春奈の首から下の体が入れ替わってしまったとすると、どちらも普段自身が着ている服を着ることなどできないだろう。サイズがまったく合わないからだ。体格の違う親子ならではの悩みだった。
「そうね。こんなに体格が変わっちゃったら、私の服じゃぶかぶかでしょうね。ああ、困ったわ……」
 陽子は自分の体をまるで他人のもののように見下ろして、ほとほと困り果てた様子だった。
「それなら、ママは春奈の服を着て出かけなよ。ちょっと変かもしれないけど、サイズはちょうどよさそうだよ。現に、ママが今着てる春奈のパジャマだって、ぴったりなわけだし」
 直紀の意外な提案に、二人は顔を見合わせた。
「わ、私が春奈の服を着るの?」
「そうそう。試しに春奈の服を着てみたらどうかな。春奈も別に構わないよね?」
 問われて、春奈は兄の意図を理解した。
 仮に二人の肉体が入れ替わっているのならば、二人とも今までの自分の服は着れなくなっても、その代わりに互いの服を交換して着ることはできないだろうか。
 つまり、陽子が春奈の服を着て、春奈が陽子の服を着るのだ。
 当然ながら首から上、顔の部分はそのままなので、見た目には違和感があるだろうが、サイズの合わない服に無理やり袖を通すよりは、いくらかましかもしれない。
 直紀の提案は非常識なようであるが、この状況下においては他に選択肢がなかった。
「うん、あたしの服でよかったらいいよ。何でも好きなのを着ていって、ママ」
 母を励ますために、春奈は笑顔を浮かべてうなずいた。
「で、でも、春奈の服を私が着られるかなんてわからないし……」
 年端のいかぬ娘のようにおどおどする義母の前で、直紀は裁縫用のメジャーを取り出した。
「疑う前に、まずは自分の体のサイズを測ってみなよ。多分、今のママには春奈の服がぴったりだと思うよ。だって、単純に二人の首から下が、そっくりそのまま入れ替わっちゃったわけでしょう?」
 といって、直紀は陽子の手の中にメジャーを押しつける。
「え、ええ。多分、そうじゃないかと思うんだけど……」
「それならママにだって春奈の服が着れるはずだから、とにかく試してみてよ。その間、僕は下で朝ご飯の用意をしておくから、着替えが済んだら下りてきて。遅刻しないように、できるだけ急いでね」
 直紀はやけに楽しそうに言い残すと、二人を置いて部屋を出ていってしまった。
 残された陽子はどうしていいかわからないようで、しばらく呆然と立ち尽くしていたが、
「マ、ママ……時間もないし、とにかく着替えてみようよ。お兄ちゃんの言った通り、今のママならあたしの服を着れるかもしれないよ」
 という春奈の声に我に返り、はっとした顔で娘を見やる。
「そ、そうね。それじゃあ悪いけど、春奈の服を貸してもらおうかしら。ごめんね、春奈。あなたもママの体になって困ってるでしょうに……」
「ううん、いいの。その代わり、あたしもママの服を貸してもらうから。おあいこだよ」
 落ち込む母を慰めようと、笑顔を浮かべる春奈。
「ありがとう、春奈」
 陽子は背伸びをして、自分よりも大きな娘の頭を撫でた。ようやく親子は揃って笑顔になった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 春奈と陽子が着替えを終えてダイニングに顔を出すと、テーブルの上には既に、パンやサラダを中心にした三人分の朝食が並べられていた。
「二人とも着替え、終わったんだね。へえ、母さんが着てるのは、こないだ買ってきたワンピースじゃない。よく似合ってるよ」
「そ、そんなお世辞……恥ずかしいわ、こんな格好」
 息子の明るい声に、陽子は顔を赤らめた。今、彼女が着ているのは、つい先日春奈に買ってやったばかりの、いかにも春らしい桜色のワンピースだった。
 桜の花びらを一面にあしらった、可憐なノースリーブのワンピース。中には長袖の白いシャツを着ているので、明るいピンクの布地がよく映える。試着室で春奈を何度も着せ替えながら、娘の可愛らしさを引き立たせるために、陽子が熟考して選んだ組み合わせだ。
 まさか、それを四十も近い自分が着ることになろうとは。羞恥のあまり、陽子は直紀の顔を正視することができなかった。
「ふふっ、そんなに恥ずかしがらなくてもいいのに。春奈の格好をしたママも、可愛らしくて素敵だよ」
「や、やめてちょうだい。こんなおばさんに向かってそんなこと……」
 陽子は蚊の鳴くような声で直紀をとがめる。恥ずかしくて、顔から火が出そうだった。
 だが、息子にからかわれたくらいで尻込みしていてはいけない。自分はこれから、この格好で外出しなくてはならないのだ。大勢の人間に今の自分の姿を見られることを考えただけで、すくみ上がってしまう。
(ああ、脚がこんなに震えて……大の大人がこんなことでいいのかしら)
 膝丈のワンピースの裾からは、昨日まで娘のものだった細い脚が丸見えになっている。春奈はパンツの類をあまり好まず、普段は大抵、フリルつきのミニスカートを身に着けているため、今の陽子が着る服を選ぶのには難儀させられた。いくらサイズの合う服が無いとはいえ、三十八にもなって、ふんだんにリボンを配したティーン向けのミニスカートをはいて仕事に行くなど、とても耐えられることではない。かといって春奈のセーラー服を着て出かけるわけにもいかず、少ない選択肢の中からようやく陽子が選び出したのが、この格好だった。
「春奈が着てるのは、ママのジャージかな。こっちも、なかなか似合ってるじゃない」
 直紀は処女のように恥ずかしがる義母から視線を外し、その隣で黙って立ち尽くす義妹に目を向けた。
 春奈も母の陽子と同様に、陽子の服を借りている。ところどころに白いラインの入った、赤い上下のジャージだ。一時期、陽子が近所の公園での運動を日課にしていたときの品だった。
 こちらは陽子ほどの違和感はないものの、胸元の大きな膨らみをはじめとして、艶かしい熟女の肉体が描く丸みを帯びた曲線は、やはり春奈の童顔には似つかわしくない不自然な印象を受ける。今の春奈の姿を目にした者は、彼女の年齢は一体いくつなのかとしきりに訝しむことだろう。
「ありがとう、お兄ちゃん」
 春奈はにっこり微笑んだが、兄と母に心配をかけまいと無理をしているのがありありとわかる。陽子は娘に何もしてやれない自分の身を呪った。
「それじゃあ、ご飯にしよう。急がないと遅刻しちゃうからね」
 直紀はもじもじする陽子と春奈の表情を交互に見渡して、二人を席に着かせた。義母と義妹の首から下だけが入れ替わってしまうという異常事態を目の当たりにしても、大して動揺していないように見えるのは陽子の気のせいだろうか。いやに落ち着いているばかりでなく、どことなくこの奇怪な現象を楽しんでさえいるかのように思われた。
(それにしても、私たち、これからどうなっちゃうのかしら。元の体に戻れるのかしら……)
 陽子は不安で胸が張り裂けそうな思いだったが、大人の自分が娘の前で取り乱すわけにもいかない。何とかしてこの肉体を春奈に返してやろうと心に決めて、彼女はたっぷりバターの塗られたトーストにかじりついた。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 春奈のワンピースを着て仕事に出かける陽子を見送った後、春奈も直紀と共に家を出た。
 最初は、こんな事件が起きたのだから欠席しようかとも思ったのだが、
「大丈夫だよ。ママだって春奈の服を着て出かけたじゃない。春奈もママを見習って、ちゃんと休まず学校に行こうよ」
 と直紀に説得されて、しぶしぶ登校することにしたのだ。
 もちろん、母の体ではいつも着ている自分の制服は着られない。やむなく陽子のお古のジャージを着て行ったのだが、電車の中でも通学路でも、自分の格好が気になってたまらず、おかしいところはないかと何度も直紀に問いかけた。
「お兄ちゃん、どう? あたしの格好、変じゃない?」
「うん、大丈夫。誰も春奈のことなんて気にしてないよ。運動部だったら朝からジャージを着てる人もわりといるしね。変にビクビクせずに、堂々としてたらいいよ」
 直紀は恥ずかしがる春奈を熱心に励まし、優しく手を繋いで学校までエスコートしてくれた。昨日までの自分と比べると相当に背が高くなったとはいえ、それでも直紀の身長には及ばない。こうして兄に手を引かれていると、胸の内が確かな安心感で満たされる。
 だが、春奈が危惧した通り、周囲を歩く生徒の中には、時折、春奈の方をちらちら向いて、好奇の視線を投げかけてくる者も少なからずいた。赤いジャージに包まれた春奈の肉感的な体が気になるのだろう。晒し者になっているような気分で、どうにも落ち着かなかった。
(いやだ……あたし、見られてる。ママの体でジャージを着てるの、皆に見られてる……)
 見下ろせば、昨日までの自分にはなかった二つの大きな膨らみが、ジャージの胸元をぐいぐい押し上げているのがわかる。カバンを持つ手も、白いシューズをはいた足も、本来の春奈自身のものではなく、大切な母の体のパーツなのだ。
 自らの身に重大な異変が起きたのだと改めて思い知り、春奈は周りの視線から逃れるように顔を伏せた。うつむいた拍子に、涙がこぼれ落ちそうになった。
「大丈夫だよ、春奈」
 そんな彼女の手を握りしめて、直紀が言った。
「どんな姿になっても、春奈は春奈じゃないか。たとえママと体が入れ替わっていても、僕の大事な妹だってことに変わりはないよ」
「お兄ちゃん……」
 春奈は潤んだ瞳で直紀を見上げる。義兄はいつもと変わらない笑顔で、春奈を見つめ返していた。
 十五歳の少女の体が、何の前触れもなく三十八歳の母の肉体と入れ替わってしまったのだ。気持ち悪いと思われても仕方のないところを、直紀はこうして春奈の手を握り、落ち込む彼女を励ましてくれている。直紀を好きになってよかったと心底思った。
「春奈、おはよう」
 ちょうど校門をくぐったとき、濃紺のセーラー服を身にまとった二人の少女が現れ、春奈に声をかけてきた。どちらも春奈のクラスメイトで、仲のよい友人だ。
 いつもならば春奈も挨拶を返して、二人と話をしながら仲良く教室へと向かうところだが、今日はそういうわけにもいかず、怯えた表情で兄の背後に隠れてしまう。
「やあ。君たちは昨日、春奈と一緒にいた二人だね。おはよう」
 返事のできない春奈の代わりに、直紀が挨拶する。二人は明るい笑みを浮かべて直紀にぺこりと頭を下げたが、すぐに春奈の様子がおかしいのに気づいたようだ。
「どうしたのよ、春奈。そんなジャージなんて着て。制服はどうしたの?」
「あれ、あんた急に背が伸びた? たしかあんたよりもあたしの方が背が高かったと思うんだけど、変ねえ」
「あ、あの、それは……」
 答えに詰まる質問を次々にぶつけられ、春奈はこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。やはり学校になんて来ずに休めばよかったと後悔した。
「ああ、実はね」
 窮地の春奈に手を差しのべたのは、またも直紀だった。
「どうやら春奈にも、遅まきながら成長期が訪れたみたいでね。いつの間にか体が大きくなってて、今までの制服が着られなくなっちゃったんだ。だから新しい制服ができるまで、とりあえずお母さんのジャージを借りてるってわけさ」
 あらかじめ考えておいたのだろう。直紀の口からすらすらと出てくる嘘の説明に、春奈は舌を巻いた。さすが直紀は聡明で頼りになる。とはいえ、やはり苦しい言い訳には違いない。
「へえ、そうだったの。言われてみたら、確かに背は伸びてるし、なんか大人っぽい体つきになってるような……」
「馬鹿ねえ、一日や二日でそんなに変わるわけがないでしょう。制服が着られなくなったのは、単に太っただけじゃないの? いつも甘いものばっかり食べてるからよ」
 二人は不審そうな目で春奈を見つめてくる。
「う、うん。成長期っていうのもあるけど、最近急に太っちゃったみたいで。あははは……」
 照れ笑いを浮かべる春奈だが、幸いにもそれ以上追求されることはなかった。助け船を出してくれた義兄と、些細なことはあまり気にしない二人のおおらかな性格に、春奈は心の中で感謝した。
 友人たちと日常の会話をすることでいつもの笑顔を取り戻した春奈の姿に、直紀も安心したようだ。
「じゃあ春奈、また後で」
 直紀は校舎の入り口のところで立ち止まって、春奈に別れを告げた。二年の直紀の下駄箱は、ここから少し離れたところにあった。
「うん。じゃあね、お兄ちゃん……」
 同じ学校でも学年が違うため、ずっと直紀と一緒にいることはできない。友人たちがいるとはいえ、やはり心細かった。
「困ったことがあったら、いつでも僕の教室に来てくれていいからね。お友達の二人も、春奈のことをよろしく頼むよ」
「はい、任せて下さい」
 二人は嬉しそうに笑った。春奈の勘ぐりかもしれないが、どことなく二人が春奈のことをだしにして、直紀に近づきたがっているようにも思える。
(二人とも、まだお兄ちゃんのことを狙ってるのかな……)
 美形で優等生の兄を友達にとられるのではないかという嫉妬が、春奈の胸にわき起こる。どうにも不安で落ち着かなかった。
「ああ、そうだ。春奈、ちょっとこっちにおいで」
 ふと兄に呼び止められて、春奈は顔を上げた。柔和な微笑を浮かべる直紀の手に、鎖つきの小さな金属の飾りがぶら下がっていた。
「春奈にこれをあげよう。財布に入れておくとか携帯電話につけておくとかして、できるだけ肌身離さず持っていてくれないかな」
 といって、春奈の手にその装飾品を握らせる。小銭ほどの大きさの丸い金属板の中心に、正三角形が二つ、上下に折り重なるような形で彫り込まれていた。
「お兄ちゃん、これは何?」
 春奈は兄を見上げて訊ねた。キーホルダーだろうか。
「これはアミュレットっていってね。わかりやすく言うと、お守りさ。これを持っていると、事故や病気から守ってくれるんだって。春奈のことが心配だから持っていてほしいんだ」
 直紀は慈しむような瞳を春奈に向けた。言われるままに金属板をぐっと握りしめると、なんとなく心が落ち着くような気がした。
「うん、わかった……大事にするね。ありがとう、お兄ちゃん」
 礼を言う春奈の髪を、直紀がそっと撫でる。兄の心遣いが嬉しくて、今にも泣いてしまいそうだった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 陽子の職場は、最寄りのバス停からバスで二十分ほど行った先にある大型のショッピングセンターだ。二階の婦人服売場の一角が、陽子の持ち場だった。
 今朝の騒ぎのせいで、来るのが少し遅れてしまった。ひょっとして遅刻してしまっただろうかと、慌てて売場に顔を出すと、
「あ、北島さん。おはようございまーすっ」
 一番近くにいた年若い店員が、陽子に気がついて話しかけてきた。
 まだ二十歳そこそこの、やせぎすで背の高い娘だ。そのくせ、栗色のショートヘアがやけに丸々としたシルエットを形作っていて、細い体と対照的だった。年配の店員たちから、陰で「こけし」と呼ばれていることを思い出す。
「おはよう、菜々子ちゃん。チーフはどこ?」
 陽子はその店員、池田菜々子に訊ねた。
「それが、まだ来てないんですよ。さっき電話があって、申し訳ないけど今日は少し遅れますって言ってました」
 菜々子は陽子を見下ろして言った。元々身長は菜々子の方が少し高かったが、春奈の体と入れ替わった今は、余計に互いの身長差を実感させられ、戸惑うばかりだ。
「そう……何かあったのかしら」
「さあ。またお子さんのことで、旦那さんと揉めてるんじゃないですか? ここんとこ多いですからねえ、あの家の夫婦ゲンカ。ひょっとしたら、午前中はあたしと北島さんだけになるかもしれませんよ」
 まるでひと事の口調で菜々子が言った。あまり真面目ではないが、さばさばした性格で取っつきがいい。陽子としても、春奈とそう変わらない年頃の、この明るい娘のことは、決して嫌いではなかった。
「それにしても、今日は一体どうしたんです? 妙に若向けの格好をしてますねえ。びっくりしましたよ。まるで中学生くらいの女の子みたい」
 まじまじと自分を見つめてくる菜々子に、陽子は何でもないと手を振った。
「気にしないで。ちゃんと制服に着替えてくるから」
「はあ……イメチェンですかね? 北島さんは美人だから何を着ても似合いそうですけど、さすがに違和感ばりばりですねえ」
 返事をせずに笑って誤魔かし、陽子は売場の奥のロッカールームに足を運んだ。娘の体を使う恥ずかしさと申し訳なさはあったが、肩こりに悩まされない若い体になったのは、やはり嬉しい気持ちも無いではない。
(うふふ、体が軽くてすがすがしいわ。そういえば、菜々子ちゃんよりもこの体の方が年下なのよね。首から下の体だけは……)
 不思議な気分だった。春奈と入れ替わってしまったから仕方がないとはいえ、今まで親子ほども年齢差があった菜々子よりも、今の自分の体の方が若いのだ。
 手の甲を見ると、十五歳のみずみずしい肌が、太陽に照らされた若葉のような輝きを放っている。今はこれが自分の肌なのだ。まだ男を知らない無垢の乙女だった頃を思い出して、つい心が弾んでしまう。
(いけないわ。春奈は私の体になって困ってるのに)
 高揚しつつある自分を慌てて叱咤する。陽子が春奈の体になった代わりに、春奈は陽子の体になってしまったのだ。三十八歳の中年女の体を押しつけられた女子高生の愛娘の苦悩は、並々ならぬものだろう。それを考えれば、若返ったとひとり喜んでいる自分がとても浅ましく思えた。
(とにかく、早く元に戻る方法を見つけないと。もしも元に戻れなかったら、春奈になんて詫びたらいいか……)
 恐ろしい想像だった。もしも自分たちの体が入れ替わったまま元に戻らなかったら、娘はどうなってしまうのか。まだ開きかけのつぼみのような少女の体を失って、しおれた母の肉体で一生を過ごすというのは、春奈にとってあまりにも辛いことだった。
 まして、春奈には直紀という愛しい相手がいるのだ。首から下が一気に二十歳以上も老け込んだ春奈の姿に直紀は失望して、彼女から離れてしまうかもしれない。
 このままでは、自分のせいで春奈を不幸にしてしまう。それだけは何としてでも避けたかった。自分はどうなってもいいから、春奈だけは幸せにしてやりたい。普段よりも小さなサイズの制服に袖を通しながら、陽子はどうすれば娘を助けてやれるかを必死で考えていた。


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