マジックペンですげ替わり 1

 放課後、春奈が友人たちと廊下を歩いていると、ちょうど階段を上ってきた直紀と出くわした。
「あ、お兄ちゃん」
 声を弾ませる春奈に、直紀は優しい表情で笑いかける。
「春奈、帰るの?」
「うん。友達と一緒に」
 春奈の言葉を受けて、両脇にいた二人の女生徒が揃って直紀に会釈した。どちらの目にも、初めて顔を合わせる友人の兄に対する好奇の色が浮かんでいた。
「そう、気をつけて帰るんだよ。少しくらいなら寄り道してもいいけど、あんまり遅くならないようにね」
「わかってる。あたしももう高校生になったんだから、あんまり子供扱いしないでよ」
 子供のように舌を出して言い返す春奈。可愛らしい童顔に似つかわしい、あどけない仕草だった。
「春奈はまだまだ子供だよ。いくつになっても子供っぽいのは変わってない」
 直紀はそっと妹の頭に手を伸ばして、彼女の自慢の髪を撫でてやった。つやつや輝く長い黒髪は、大きく二つに束ねられて、頭の左右で稲穂のように揺れている。ツインテールと呼ばれるこの髪型が、最近の春奈のお気に入りだ。
「お兄ちゃん……」
 小さい頃のように兄の手に優しく頭を撫でられ、春奈は心地よさげに目を細めたが、ふと自分に向けられた友人たちの視線に気づいて、慌てて直紀から身を離した。
「や、やめてよ、お兄ちゃん。もう子供じゃないって言ってるのに」
「そうかい? 春奈は僕に頭を撫でられるの、昔から大好きだったじゃない。今でもそうだろう?」
「う、うん。でも、皆が見てるんだよ。恥ずかしいよ……」
 春奈は頬を真っ赤に染めて、恥ずかしそうにうつむいた。直紀の顔を直視できずにもじもじして、口の中で何やらつぶやくさまが愛くるしい。
 直紀はそんな春奈を眺めてくすくす笑っていたが、
「じゃあ、僕はこれから委員会があるから、そろそろ行くよ。気をつけてお帰り。お友達も、春奈をよろしくね」
 と言って、悠然とその場を去っていった。春奈は赤い顔をじっと下に向けたまま、黙って兄を見送ることしかできない。
「お兄ちゃん……一緒に帰りたかったな」
 廊下の曲がり角の向こうに消えてしまった直紀を想い、小さくつぶやく。兄を慕う春奈の心は、恋に焦がれる乙女のそれと何ら変わりはなかった。
「今の、春奈のお兄さん? 素敵な人だね」
「この間の入学式で、新入生の歓迎の挨拶をしてた人でしょう。とっても賢そう」
 二人の友人は春奈を挟むようにして、口々に彼女の兄に対する好意の言葉を述べあった。
「春奈、よかったら私にお兄さんを紹介してよ。私、ああいう人が好みなんだ。つき合ったらすごく大事にしてくれそう」
「ちょっと待って。あんただけずるいよ。それならあたしにだって、春奈のお兄さんを紹介してもらわないと不公平じゃない」
 春奈の気持ちも知らずに、好き勝手なことを言い合う二人。
「ダ、ダメよ! そんなのダメっ! あたしのお兄ちゃんをとらないでよぉっ!」
 突如としてあがった大声に、二人はびくりとして春奈を見つめた。
「ど、どうしたの、春奈。そんな声を出して……」
 春奈は日頃から引っ込み思案で、このように激しく自己主張することはほとんどない。友人たちが驚くのも当然だった。
「お兄ちゃんをとるなって、妙な言い方ね。別にあたしたちがあの人とおつき合いしたって、悪いわけでもないでしょうに」
 友人たちは怪訝な顔で春奈の表情を観察している。そのうちに、片方の少女が合点がいったように手を打ち鳴らした。
「ねえ、ひょっとして春奈は、あのお兄さんのことが好きなの?」
「ええっ。そ、そんなことないよ。あたしは別に、お兄ちゃんのことなんて……」
 ずばりと言い当てられて、春奈は耳まで真っ赤になってしまう。指摘した友人は、腕を組んでうなずいた。
「その反応、間違いないわ。春奈はあの人が好きなのよ」
「へえ、そうなの? でも二人は兄妹なのよね。ひょっとして、禁断の恋ってやつかしら。あの春奈が、まさかねえ……」
 春奈が兄の直紀をひとかたならず慕っていることに、友人たちも気づいたようだ。好奇にわずかに悪意が入り混じったような視線を春奈に向ける。
「考えてみたら、あんな素敵なお兄さんと、ひとつ屋根の下で暮らしてるわけでしょう。それでどうにかならない方がおかしいのかも」
「でも、相手は実のお兄さんよ? いくら素敵な人でも、そんなこと……」
「馬鹿ねえ、実のお兄さんだからいいんじゃない。禁断の恋だからこそ、背徳感が効果的なスパイスになるのよ」
 二人は廊下の隅に移動して、憶測をひそひそ語り合った。この年頃の娘たちにとって、友達の色恋沙汰ほど興味をそそられるものはないのだ。
「ふ、二人とも……変なことばっかり言わないでよ。あたしとお兄ちゃんは、そんな仲じゃないよぉっ」
 春奈は必死で否定したが、二人は聞く耳を持たない。むしろ、むきになる春奈の様子に、かえって確信を深めたようだった。
「だ、第一、実の兄妹じゃないよ。あたしとお兄ちゃん、血は繋がってないの……」
「え、そうなの? 義理の兄妹?」
 春奈の発言が、二人に新たな驚きをもたらした。
 直紀と春奈は実の兄妹ではない。春奈の母親が再婚したときに、相手の男性が連れていたのが直紀だった。もう十年近く前の話だ。
 初めて会ったときから、春奈は兄によく懐いた。幼くして父に死なれ、母しか頼る者のいなかった内気な少女にとって、新しくできた聡明な兄は、闇夜の灯火のように頼もしい存在だった。
 あれから十年。今や春奈にとって直紀は、実の兄同然の大切な家族になっていたし、直紀の方も、春奈のことを本当に血の繋がった妹であるかのように可愛がっていた。唯一、そこに普通の兄妹と異なるところがあるとすれば、妹が兄に対して家族愛以上の感情を抱いている点だろう。直紀のことが好きなのだという友人たちの指摘は、まさしく的を射たものだったのだ。
「へえ、義理なんだ。じゃあ、春奈があの人を好きになっても、何も問題ないわね」
「そっかあ、あの人は春奈が予約済みなのか。あーあ、残念」
 二人はわざとらしくため息をついて、春奈を慌てさせる。
「だ、だから違うってば。あたしとお兄ちゃんはそんなんじゃ……」
「何よ、別に隠さなくたっていいじゃない。春奈がホントにあの人のことが好きなんだったら、応援してあげるからさ」
「そうそう。その代わり、いろいろ話を聞かせてもらうわよ。いつからあの人にお兄ちゃんをしてもらってるの? もう告白は済ませたの? ねえねえ、教えなさいよ」
 二人で春奈を挟み込んで、逃がさないようにする。警察官に連行される犯罪者の気分だった。
「だから、何度言ったら信じてくれるの? あたしとお兄ちゃんはそういう関係じゃないよぉっ」
 春奈はにやにや笑いの二人に手を引かれて、危なげな足どりで階段を下りる。それから友人たちは春奈をひたすら質問責めにして、嫌がる彼女を散々に困らせたのだった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 仕事から帰った陽子を出迎えたのは、子供たちの笑顔と温かな夕食だった。
「ママ、お帰りなさい」
 キッチンでは娘の春奈が真っ白なエプロンを身につけて、陽子のために味噌汁を用意しているところだった。既にテーブルには三人分の食事が並べられ、食欲をそそる香りと湯気を漂わせている。息子の直紀はひと足先に席について、陽子が座るのをじっと待っていた。
「ただいま、二人とも」
 陽子は上着の袖から腕を抜き、背もたれにどっかり寄りかかった。一日の疲れが一気に襲いかかり、四十も近い女の肩に重々しくのしかかってくる。運動不足で硬くなった体が、錆びた機械のように音をたてて軋んだ。
「待っていてくれなくてもよかったのに。お腹すいたでしょう」
 時計を見ると、夕食には少し遅い時間だ。二人を気遣う母に、春奈は首を横に振る。
「ううん、大丈夫。ママの帰る時間は大体わかってたから、お兄ちゃんが一緒に食べたいって」
「そうだったの。ありがとう、ナオ君」
 陽子は視線を正面に座る息子に向けた。直紀は整った顔立ちを柔和にほぐして笑い返す。
「気にしないで。ママは毎日、一生懸命働いてくれてるでしょう。だから僕も春奈も、ママと一緒にご飯が食べたいなあって思ってさ」
 息子のいたわりの言葉が、陽子の疲れた心にじんわり染み込んでくる。実の息子でもないのに、直紀は彼女のことを母と呼んで、このように慕ってくれる。目頭が熱くなった。
 直紀は陽子の二番目の夫の子供だ。
 最初の夫とは見合いで知り合い、結婚して春奈をさずかった。親子三人で何不自由なく幸せに暮らしていたが、その夫は突然の病であっけなく亡くなってしまった。幼い春奈を連れて途方に暮れていたところ、知人に二番目の夫を紹介され、再婚。その際に相手が連れていたのが直紀だった。
「これからお母さんって呼んでいいですか」
 まだ小学校に上がったばかりの利発そうな少年が、見知らぬ女にぺこりと頭を下げて、丁寧に挨拶してくれた光景を、陽子は今でもよく覚えている。あの日から直紀は彼女の息子になった。
 その夫も三年前に他界した。今住んでいる家と多少の財産は残してくれたものの、二度も夫に先立たれた陽子は精神的に不安定になってしまい、自宅で塞ぎ込むようになった。
「これからどうしたらいいの……」
 昼間から酒を飲んで自暴自棄になる陽子を懸命に励まし、叱咤したのは息子の直紀だった。
「お母さんにはまだ、春奈も僕もいるじゃないか。それなのにお母さんがそんな風に泣いてばっかりじゃ、春奈が可哀想だよ」
「ナオ君……」
 その通りだと思った。まだ自分には、残された子供たちを一人前に育てる義務と責任があるのだ。それが、その子供たちの前で酒に溺れて醜態を晒して、なんてざまだ。
 それに、悲しいのは自分だけではない。幼い頃に母を失い、そのうえ父親にも死なれてしまった直紀の方が、陽子よりも遥かにショックが大きいはずだ。なのに彼は、陽子の肩を抱いて励ましてくれている。それを思うと、いつまでも悲嘆に暮れているわけにはいかなかった。
 陽子は働き始めた。
 亡き夫の友人に勤め先を世話してもらって、悲しみを振りはらうようにして一心に仕事にのめり込んだ。収入はさして多くはなかったが、直紀の父が遺してくれた財産もあり、三人で慎ましく生活するには充分だった。
 見事に立ち直った母の姿に、春奈と直紀は大いに喜び、進んで家事を手伝うようになった。今ではこうして仕事帰りの陽子のために食事を用意し、掃除や洗濯も甲斐甲斐しく引き受けてくれる。いじらしく親孝行な子供たちのことを、陽子は誇りに思っていた。
「それじゃあ、いただきます」
 子供たちが作ってくれた夕食を前に手を合わせた。肉じゃがと焼き魚、味噌汁にほうれん草のひたし物と、陽子の好きな和食の献立が並んでいた。空腹だったこともあって、箸が軽快に進む。
「春奈の作ってくれた肉じゃが、とっても美味しいよ。もうママよりも料理が上手になってるんじゃない」
 ほくほくのじゃが芋を口に運んで、直紀が笑った。陽子もつられて笑顔を見せる。
「そうね、これじゃあ完全にママの負けだわ。完敗よ、春奈」
「そ、そんなことないよ。ママだって時間さえあったら、あたしの作ったものよりも美味しいご飯が作れるじゃない……」
 春奈の頬がかあっと赤くなった。春奈は生来気が弱く、ひとに褒められても、喜ぶよりも先に恥ずかしがってしまうのだ。微笑ましくもある反面、もっと自信を持ってもいいのではないかと陽子は思う。家庭環境が複雑だったため仕方のない部分はあるが、時には母として不安になることもあった。
「でも、美味しい料理を作れるっていうのは幸せなことよ。だって、食べてくれる人を幸せにできるんだもの」
「そ、そうかな……」
「そうだよ、ママの言う通りだ。僕は料理が苦手だから、なおさらそう思うよ」
 直紀は陽子の発言にうなずきながら、端正な唇の端を緩めて義妹に微笑みかけた。
「いつか春奈が結婚したら、毎日頑張って旦那さんと子供たちに美味しい料理をいっぱい作ってあげるんだよ。そうしたら、きっと皆が幸せでいられるから」
「そうね、ママも同じ意見だわ。少しくらい嫌なことがあっても、美味しいものを食べたらすぐに忘れちゃうもの」
 お世辞ではなく、陽子は心の底からそう思った。仕事でどれだけ疲れ果てても、帰りを待っていてくれる家族がいて、温かくて旨い料理を口にすれば生気がみなぎってくる。腹だけでなく、心も体も満たされるのだと改めて思い知る。
 しかし、春奈は義兄の発言の別の箇所が気になるようだった。箸を止めて直紀をちらちらと横目で見やり、何やらぶつぶつ言っている。
「け、結婚って……あたし、まだそんなこと考えてないよ……」
「もちろん、将来の話だよ。ああ、春奈と結婚する人は、こんな美味しいご飯を毎日食べられるんだね。その人が本当に羨ましいよ」
「そ、そう? それならあたし、お兄ちゃんのお嫁さんになって、毎日ご飯を作ってあげたいなあ……」
 最後の方は声がかすれてほとんど聞こえなかったが、春奈の言いたいことは陽子にもわかっている。最近、春奈は家庭内で、直紀に対する好意の念を口にすることが多くなった。以前から義兄にはよく懐いていたが、いつの間にか彼に向ける憧憬の念が、女が男に向けるそれに変化していたらしい。
「あら、春奈はナオ君のお嫁さんになりたいの?」
 陽子は娘の顔をのぞき込んで、からかうように言った。
「ナオ君、春奈はああ言ってるけど、どう? こんなおませな子だけど、迷惑じゃなかったらお嫁にもらってやってくれる?」
「マ、ママっ。そんな質問したら、お兄ちゃんが困っちゃうよぉっ」
 春奈は泡を食って抗議したが、陽子はくっくっと笑って茶化すだけ。しかし、内心では娘の成長を喜ばしく思っていた。
 小さい頃は弱虫で泣いてばかりだった春奈も、男性に懸想するような年頃になったのだ。その相手が義兄の直紀だというのは少し意外だったが、直紀は昔から優しくて面倒見のいい少年だった。血が繋がっていないこともあり、春奈が惚れてしまうのも仕方のないことかもしれない。
 母の目から見ても直紀は申し分のない男であり、もしも彼さえよければ、春奈と一緒になっても別に構わないと思っていた。もちろん、直紀に他に好きな女性がいれば、残念ながら春奈には諦めてもらわなくてはならないだろうが。
「いいよ。僕なんかでよかったら、喜んで春奈をもらってあげる」
「お、お兄ちゃんっ! ホ、ホントなのっ !?」
 血相を変えて兄に確認する春奈。兄も母も半分冗談めかして笑っているのに、春奈だけは違う。素直で純真で、どこまでも一途な娘だった。
「本当だよ。僕もずっと春奈のことが好きだったんだ。妹としても、女の子としてもね。春奈も僕のことが好きなんだったら、将来は一緒になろう。そしてママと三人で、父さんが遺してくれたこの家でいつまでも暮らそうよ」
 直紀は目を細めて、春奈に微笑みかける。春奈はあまりの嬉しさに、感情が抑えきれないようだ。
「お兄ちゃん……あたし、嬉しいっ」
 母の見ている前だというのに、春奈は席を立って勢いよく直紀に抱きついた。直紀も春奈の背中に腕を回して、妹を力強く抱きしめる。
「まあ、春奈は大胆ね。ママ、なんだか妬けちゃうわ」
 陽子は直紀の膝に乗って睦まじく抱き合う春奈を見て呆れてしまうが、やはり多少は娘が羨ましい。初めて結婚したときのことが頭をよぎった。
 もう十五年以上も前の話だ。あの頃の自分にも、今の春奈のように愛する男がいた。間もなく子供も授かり、これからもずっと幸せな生活を送っていくものだと無邪気に思い込んでいた。それが叶わぬ夢だと知ったのは、夫に先立たれてからだった。
「仮に、僕が春奈と結婚したら、ママは本当に僕のお母さんになっちゃうね。何だか面白いな」
 春奈の肩越しに、直紀がそう言ってくる。楽しそうな口調だった。
「違うわよ、ナオ君。そういうのはお母さんじゃなくって、姑っていうのよ。きっとママは怖い姑になって、ナオ君を毎日いじめちゃうんだわ。うふふ……」
 陽子は素敵な未来予想図を思い浮かべて笑い声をあげる。笑うと心身ともに癒され、仕事の疲れが吹き飛ぶような気がした。
「ああ、そうだっけ。でも、それじゃあ今とあんまり変わらないね。だって僕は今でも、春奈を一人占めしてるってママに怒られてばかりだからさ」
 直紀はぱちりと片目を閉じて、会話の調子を合わせてきた。
「そうね。ナオ君に独占される春奈が羨ましいわ。あーあ、ママもナオ君のお嫁さんになりたかったなあ」
「じゃあ、二人まとめて僕のお嫁さんにしてあげるよ。春奈もママも、どっちも僕のお嫁さんだ」
「そ、そんなのダメっ! お兄ちゃんのお嫁さんはあたしだけなのにっ」
 春奈が口を尖らせ、それにつられて直紀と陽子が揃って笑う。これがこの家の団欒だった。
「でも、別に強制するつもりはないけれど、もしも春奈とナオ君が一緒になるんだったら、ママはとっても嬉しいわ。本当に楽しみ……」
 陽子はひしと抱き合う子供たちをまぶしそうに見つめて、食後の煎茶を口に運んだ。自分はこれからどうなっても構わないが、せめて娘だけは幸せになってほしいと願った。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 その晩、夜も更けて家族が寝静まった頃、直紀は静かに自室を出た。
 電灯の消えた家の中は暗い。夜間用の青白い明かりが足元をぼんやり照らす廊下を歩いていると、まるで別の世界に迷い込んだかのような錯覚に囚われる。できるだけ足音をたてないように注意しながら、隣室に足を向けた。
 隣の部屋のドアには、「はるな」と大きな平仮名で書かれたネームプレートがかかっていた。慎重にドアノブを回すと、金属の部品がひきつるかすかな音が聞こえてくる。予想通り鍵はかかっておらず、何の抵抗もなくドアが開いた。
 春奈はベッドの上ですやすや眠っていた。二つに束ねられていた艶やかな黒髪は今はほどかれ、肩の辺りを緩やかに流れている。少女の体を包んでいるのは、春らしい薄桃色のパジャマだった。
 一体、どんな夢を見ているのだろう。春奈は目を閉じて安らかな表情を浮かべていた。天井の薄明かりに照らし出された一つ下の義妹の寝顔は、おとぎ話に出てくる姫君のように可憐だ。
「春奈、起きてる?」
 最愛の義兄が耳元で囁いても、春奈は返事をしない。直紀はにやりと笑って、春奈の口にハンカチくらいの大きさの白い布をかぶせた。
「もっと気持ちよく眠れるお薬だよ。これで春奈は何をされても、朝まで絶対に目覚めない」
 直紀の唇が弧状に曲げられた。これから行なう行為を考えると、笑わずにはいられない。普段は誰にも見せない邪悪な笑みをさらけ出して、白い布を取り去った。心なしか、春奈の呼吸が深くなったような気がした。
 次に直紀が取り出したのは、細いペンだった。キャップは黒で、本体は白。ラベルや装飾はない。先端を無造作に引っ張ると、気持ちのいい音がしてキャップが抜けた。スポンジのように柔らかな丸いペン先が露になった。
「春奈、ちょっと体を起こすからね。よっこらしょっと」
 直紀は春奈の背中に腕を入れて、華奢な彼女の体をベッドの上に座らせた。力が抜けてぐったりした春奈の体は、手を離せば崩れ落ちてしまいそうだ。直紀は自らもベッドに上がり、後ろから春奈を支えてやった。
「春奈の体、とっても軽いね。もう高校生なのに、子供みたいだ」
 本人が普段から気にしている言葉を間近で囁いても、春奈は目を開かない。成長期を迎えてもいっこうに背が伸びず、女性らしい体型にならない自分の体に、春奈はコンプレックスを感じているようだ。
 だが、もうそんな心配はいらない。今の直紀の力をもってすれば、妹の悩みなど、いともたやすく解決できるのだから。
 直紀はペンを持った手を春奈の体に近づけた。首筋にペン先を当てて、すうっと横に撫でる。一本の細い線が春奈の肌に浮かび上がった。そうして首をぐるりと囲むように線を描いた。直紀は少女の白い肌に刻み込まれた黒い線を満足そうに眺めて、薄ら笑いを浮かべる。これで準備は完了だ。
「春奈はとってもいい子だね。いい子にしてたら、クリスマスにサンタさんがプレゼントを持ってきてくれるんだよ。父さんがそう言ってた」
 直紀は春奈の腹に腕を回して、歌うようにつぶやいた。幼い頃の自分も、春奈に同じことを言った覚えがある。あのときは、彼自身もきっとそうだと信じていた。
「でもね、いくら僕がいい子にしてても、サンタさんはやってこなかった。それどころか、父さんも母さんも僕を置いて逝ってしまった。だから僕はサンタさんを信じなくなった。クリスマスも嫌いになった。皆は神様にお祈りをするけど、神様なんてどこにもいやしないんだよ、春奈」
 トーンを落として、冷たい声音で続ける。パジャマに包まれた細い体を抱きしめると、長い黒髪からシャンプーのほのかな香りが漂ってきた。
「僕は春奈のことが好きだ。春奈も僕が好きだろう? でも、僕の『好き』は春奈の『好き』とはちょっと違うんだ。僕は春奈を完全に自分のものにしたい。春奈を僕の思うようにしたいんだ。そのために悪魔に魂を売って黒魔術の力を身につけたんだよ。その素晴らしい力を、今から春奈に見せてあげるね」
 春奈の首筋を指先で撫でて、優しく語りかける直紀。その視線は、先ほど描いた黒い線に注がれていた。
 直紀の唇から囁き声が漏れる。日本語ではない。かといって、英語というわけでもない。呪文のような妖しい響きだった。
 ごく短い言葉だったが、それが春奈に与えた影響は驚くべきものだった。
 薄暗い部屋の中で、黒い線が光を放った。春奈の首に引かれた線が、夜の街灯のようにぼんやりと輝いている。蛍光ペンでもないのに、描いた線が光っていた。
 直紀が固唾をのんで見守る中、光はしばらく辺りを薄く照らしたのち、音もなく消えていった。あとに残ったのは何の変哲もない黒線だけだ。
 だが、直紀が春奈の頭に手を伸ばした途端、またも異変が起きた。春奈の首が線のところでぱっくり切れて、胴体から外れてしまったのだ。
「ふふふ、うまくいったよ。死んじゃったらどうしようかと思ったけど、どうやら大丈夫みたいだね」
 直紀は頭だけになってしまった春奈を、愛しげに胸の中で抱きしめた。春奈は首から下を失っても、何もなかったかのように安らかな寝息をたてている。出血もしていなければ、窒息して死んでしまうこともない。ただ静かに眠っていた。
「春奈の顔、綺麗だよ。まるでお人形さんみたいだ」
 直紀の指が春奈の髪をさらさらとかす。漆黒の髪と対照的な白い額に、優しく唇を押しつけた。何をされても、今の春奈が目覚めることはない。
「それじゃあ、下におりようか。この可愛らしい身体ともこれでお別れだね、春奈」
 春奈の胴体は、兄の肩にもたれかかるようにしてへたり込んでいた。細く華奢な体には首がついていない。ナイフで切られたチーズのように滑らかな、ピンク色の切断面を晒していた。
 直紀が立ち上がると、春奈の体は支えを失って仰向けに倒れ込んだ。直紀は首の無い義妹の体に、そっと毛布をかけ直してやった。
 春奈の頭を大事に抱えて、部屋をあとにする。薄暗い階段をゆっくり下りながら、直紀は苦笑していた。
(これって、まるでホラー映画のワンシーンみたいだよね)
 切断した妹の首を手に、夜の暗がりを徘徊する自分。出来の悪いホラー映画の主役になった気分だった。
 彼が向かったのは、階下にある義母の部屋だ。こちらは和室で、畳の上に布団が敷かれている。廊下とはふすまで仕切られているだけで、当然ながら鍵などかかってはいない。
「ママ、起きてる?」
 春奈のときと同じように、寝ている陽子に呼びかける直紀。やはり返事はない。よほど疲れているのか、ぐっすり眠りこけているようだ。
 直紀は春奈の頭を枕元に置いて、陽子の顔に白い布をかぶせた。これで彼女も朝まで起きないはずだ。万事順調なことに、笑いがこみ上げてきて抑えきれない。
 布団をめくると、義母の寝姿が余さず見えた。春奈とは違って地味なデザインの紺色のパジャマを着て、昼間は結っている髪を解いておろしている。こうして見ると、やはり春奈とよく似た器量よしだと思う。正確には、春奈が母に似ているのだが。
「ママ、綺麗だよ」
 直紀は陽子の胸元に手を伸ばした。母と娘の一番大きな差異は乳房のサイズだ。直接触れないと膨らんでいることがわからない春奈と違って、陽子の胸はパジャマの上からでもはっきりわかるほどの圧倒的なボリュームを備えている。まるで砲弾のようだ。
「ママのおっぱい、すごく大きいね。こんなにでかかったら、肩がこって当たり前だよ。ただでさえ仕事が忙しいのに、大変でしょう」
 陽子の身を起こして、巨大な乳房を背後からパジャマ越しに揉みしだいた。もうすぐ不惑を迎える陽子の乳房はとても柔らかく、手のひらに吸いつくようなさわり心地だ。歳のせいで少し垂れ下がってはいるが、持ち上げたときのずしりという重みに感心させられる。
「でも、こんなに大きいのに、使い道がないのはもったいないなあ。春奈はママみたいな巨乳になりたくてしょうがないっていうのにさ。親子なのに、どうして似なかったんだろう。不思議だね。体だって、ママの方が随分と丸みがあってむっちりしてるし。やっぱり子供を産んだからかな?」
 独り言を言いながら再びあのペンを取り出して、陽子の首に黒い線を引いていく。直紀が呪文を唱えると、青白い光と共に義母の生首がごろんと転がり落ちた。
 直紀は陽子の頭を受け止めると、春奈のときと同様に髪を撫でて、額にキスをしてやった。黒い髪の中にわずかながら白いものが混じっているのを認めて、直紀の瞳に同情の色が浮かんだ。
「ママ、苦労してるんだ。可哀想に」
 陽子の首を下に置く。代わりに春奈の頭を手にとって、母の肩の上に載せた。ちょうど二人の首がすげ替わった格好だ。
「春奈には大好きなママの体をあげよう。春奈がなりたがってた大人の女性の体だよ。嬉しいだろう」
 切断面を丁寧に合わせて、また呪文を口にした。わずかに大きさの違う二本の線が光ったかと思うと、次の瞬間、春奈の頭は陽子の体にくっついていた。黒い線は一つになって、跡形もなく消えてしまった。
「よし、完璧だ。これから春奈は、ママの体で生きていくんだよ」
 春奈は何が起きたかも理解できずに、穏やかな表情で眠っている。まだ子供っぽさを残した少女の顔の下に、肉感的な子持ちの熟女の体があった。アンバランス極まりない、奇怪な組み合わせだ。
 直紀は母の肢体を与えられた春奈を布団に寝かせて、寝室を出た。その手に物言わぬ陽子の首をぶら下げて。
 階段を上り、もう一度春奈の部屋に向かう。最後の仕上げだ。春奈のベッドには、首のない少女の体がマネキン人形のように横たわり、直紀が来るのを待っていた。
「さあ、ママには可愛い春奈の体をあげよう。若いから肩こりにも悩まなくていいし、仕事に精が出るはずだよ。明日からもお仕事、頑張ってね」
 直紀は同じように呪文を唱えて、陽子の首を春奈の体にくっつけてしまった。やはり陽子が目覚めることはなく、何も知らずに深い眠りを貪っている。まだ高校生になったばかりの少女の清い肉体に、白髪混じりの母の頭が載っている。こちらも先ほどに劣らず、出鱈目で面妖な姿だった。
「さて、明日からどうなるだろう……ああ、夜が明けるのが楽しみだなあ。それじゃあ、おやすみなさい」
 そっと妹の部屋のドアを閉める。これで全てがうまくいった。明日からの我が家はとても楽しくなりそうだ。直紀はそのまま自室に戻り、充実した顔で眠りについた。


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