栄太の災難 1


 どこにでもある平凡な高校の廊下で、彼は全力で走っていた。
「はぁ、はぁ……」
 少し長めの黒髪を汗で湿らせ、普段は友人とにやけた顔で談笑するその表情も今は命の危機とばかりに切羽詰ったものに変わっている。休み時間の廊下には通行人の姿も少なくなかったが、彼は驚くべき俊敏さで道行く生徒たちの間をすり抜けて校舎内を駆けていった。
 そして、その後ろから一直線に彼に迫る影が一つ。
「えぇぇぇたぁぁぁぁ !! 待ちなさぁぁぁぁいっ !!」
「ひぃぃぃぃぃいいっ !!」
 一瞬だけ後ろを振り返り、自分を追ってくるそれの姿を確認した彼は悲鳴をあげた。こちらに走ってくるその影は、怯えて逃げ惑う彼にどんどん近づいてくる。速度は負けている。その上スタミナでも不利だ。
 こうなったらどこかに隠れてやり過ごすしかない。彼は酸素の欠乏しつつある脳を必死で働かせ、自分が身を隠すのにふさわしい場所を探した。
(――掃除用具入れ……ここなら……!)
 廊下の角を曲がり、大急ぎでそばにあった鉄製の扉を開けて狭いその中に飛び込む。箒とモップの先が彼の制服に当たって埃や染みをつけたが、今はどうでもよかった。
「はぁ、はぁはぁ……」
 ――見つかるか……? いや大丈夫だ。あいつがそんなに賢いはずがない。
「栄太ぁ、待てぇっ !! ちっ、階段ね! 逃がさないわよぉ……!」
 彼の思惑通り、凄まじい威圧感とけたたましい足音は彼のいるすぐ横を通り過ぎ、どこにもない彼の姿を求めて階段を下りていった。
「ふぅ……」
 ほっと胸を撫で下ろして用具入れから出てきた男子生徒の名前は、二年B組の佐藤栄太という。全身汗まみれで息を荒くし、真っ赤な顔で油断なく辺りを見回す。
 ――大丈夫だ、誰もいない。あとは休み時間の残り数分を逃げ切って教室に戻ればいい。
 栄太がいつもの余裕を取り戻し、自分を追いかけてきたあの女に対する愚痴の一つもこぼそうかとしたとき、突然その後ろから声がかけられた。
「あはは、君、大変だったねえ」
「…………?」
 聞き覚えのないその声にゆっくりと栄太が振り向く。さっき見回したときは誰もいないはずだったが、いつの間にか彼の背後に一人の少年が立って面白そうな目でこちらを眺めていたのだった。
「あんたは……?」
 彼が驚いたのはその少年の美貌だった。稀代の彫刻家が魂を捧げて彫り上げたのではないかとさえ思わせる、非現実的なまでに整った顔立ちがそこにあった。歳は自分と同じくらいだろうか。だがこの学校の生徒とは違って私服姿であるし、もしこんな目立つ少年と一度でも顔を合わせていれば栄太の記憶に残らないはずがない。
 ひたすらに怪しい雰囲気を醸し出しているその少年と、彼は一対一で向かい合っていた。
「僕はただの通りすがりさ。最近暇で仕方なくてね。面白そうな事を探してたら、たまたま追いかけっこをしてる君たちの姿が見えちゃって」
「ああ、そう……よくわからんけど……」
「ところで君を追いかけてたあの女の子、君の彼女じゃないの?」
 涼しい笑みを浮かべて少年が栄太に問いかけた。
「んー……一応付き合ってはいるかな」
「その彼女になんで追いかけられてたのさ?」
「いや、これには深いわけがあって……」
 栄太は疲れた顔で、見ず知らずの少年を相手に事情を話し始めた。
 少し前から彼と付き合い始めたあの少女は坂本由紀というが、これがまたとんでもない男勝り。気に入らないことがあると、すぐ栄太に殴る蹴るの暴力を加えて苦痛を与える。細身の体のくせになぜか力は彼よりはるかに強く、腕力も体力も女子とは思えないほどだった。
 今日も誤って彼女の機嫌を損ねてしまった栄太は、怒り狂うあの娘に追いかけられこうして命からがら逃げ伸びたという訳である。
「……そりゃあ俺だって、あの乱暴女と付き合うからには多少は覚悟してたよ。でも毎日毎日、くだらんことでいちいち殴られるのは勘弁してほしいなぁ……」
「君は彼女が嫌いなのかい?」
「いや、そうでもないけど……あれはあれで結構優しいとこもあるし……」
 自分の頬を指で掻いて栄太が答えた。少年は恥ずかしそうな彼の表情を、眩しいほどの笑顔で見つめている。
「じゃあ君がもっと強くなったらいいんじゃないかな? 彼女に負けないくらいにさ。そうしたら君たちもいいカップルになれると思うよ」
「んー……そうだったらいいんだけどなぁ……。正直言ってあれに勝てる気がしないな。俺って元々、女の子に弱いタイプだし」
「確かに、なんだか尻に敷かれそうだね君は。あっはっは」
 軽く口に手を当てて少年は笑った。陽光のように明るい朗らかな笑み。
「ならそうだね、僕が君を強くしてあげよう。彼女と同じくらいに」
「何だって?」
 そう言った少年の手が上がり、その白い手のひらが栄太に向けられた。突然のことに驚きつつも、栄太はなぜか彼の手から目が離せない。
(なん――だ? こりゃ……)
 視界がぼやけて体の感覚がなくなり、意識が薄れていく。光のない濁った瞳で少年を見つめたまま、栄太は音もなく床に崩れ落ちた。

 ――キーンコーンカーンコーン……。
 チャイムが鳴ったのが聞こえてその少女、坂本由紀は顔をしかめ悔しそうに唇を噛んだ。
「ちぇっ、休み時間終わっちゃったか……栄太のやつ、どこ逃げたのかしら……」
 短く切られた癖のある茶髪、強気につり上がった目、細くしなやかな手足。かなりの距離を疾走したはずの由紀だったが、軽く深呼吸して息を整えるとほとんど汗もかかずに廊下を歩いて教室へと戻っていった。
「くそ、後で絶対懲らしめてやるんだから……!」
 頭から湯気をたてて廊下の角を曲がったときのことだった。
「あら?」
 由紀が怪訝な顔をして立ち止まる。その彼女の視線の先に一人の女生徒が倒れていた。貧血か何かだろうか、とにかく放っておく訳にはいかない。彼女は小走りに女生徒に駆け寄り、横たわるその身を静かに抱き起こしてやった。
「大丈夫、あなた?」
 相手はセーラー服を着た、短い髪を茶色に染めた細身の少女だった。
 しかし、何となくこの娘をどこかで見たような……由紀は疑問に思いつつも少女の肩をゆする。
「――う……ん……」
「あ、気がついた?」
 ほっとした顔で由紀が女生徒に問う。次の授業はもう始まっているが放ってはおけない。事情を説明すれば教師とて怒りはしないだろう。彼女はあまり勉強熱心ではなかったのでちょうどいい口実だと思い、この娘を保健室に運んでやろうとしていた。
「あ、ここ……は……?」
「大丈夫? あなたここで倒れてたのよ。怪我とかしてない? あたしもついてってあげるから、とりあえず一緒に保健室に――」
 そのとき顔をあげたその女生徒と目が合い、由紀の動きが停止した。女生徒はまだ意識がはっきりしないのか、虚ろな目でこちらを見つめている。
「え? あ……あれ……?」
 驚いたように声をあげて女生徒を眺める由紀。その表情が呆然から驚愕へと変わっていき、まるで信じられないものを見るかのような顔になっていた。
 短く切られた癖のある茶髪、強気につり上がった目、細くしなやかな手足。見覚えがあるどころの話ではない。そのどれもが由紀が毎日目にしている――。
「あ――あんた、あたし……?」
「……あ、由紀? 俺……なんで……」
 由紀と全く同じ顔、同じ声、同じ姿をした女生徒は力のない様子で彼女と見つめ合った。

「んじゃ、状況を整理するわね……」
 近くにあった準備室、授業中で誰もいない部屋の隅に二人の少女が座っていた。
「あんた、ほんとに栄太なの?」
「ああ、俺だよ……栄太だって」
 由紀の問いに、由紀と瓜二つの少女はぶすっとした顔で答える。
(あたしの顔、こうやって見るのはすっごい違和感あるなぁ……)
 驚きに心が乱れる中、彼女は何とか平静を保とうと努力していた。
 本人の話によると、由紀の分身のようなこの少女は由紀の彼氏、佐藤栄太だという。にわかには信じがたい話だったが、こうして自分と寸分たがわぬ少女の姿を目の前にして、由紀はこれが現実のことだと認めざるを得なかった。
「……で、なんであんたがあたしのカッコしてんの?」
「そんなの知るか、俺だってわかんねえよ! どうなってんだよっ !?」
「しぃっ! 声が大きいわよ!」
 大声でわめきたてた栄太の口に手を当てて静かにさせる。由紀になってしまった栄太は、彼女以上に落ち着きを無くしているようだった。突然自分の体が女の、しかも恋人のものになってしまったのだからそれも当然だろう。
「しっかし……見れば見るほどあたしとそっくりよねぇ……あんた」
 由紀は鏡に向かっているかのような錯覚を感じながら栄太を眺めやった。セーラー服に上履きに靴下に、身に着けたアクセサリーまで全く同じだ。ご丁寧にもケータイまで自分と同じものを所持している。
(利用料金も二倍かかったりするのかしら? やだなぁそれ……)
 などと場違いな感想を持った由紀だったが、栄太はそれどころではなかった。
「じ……じろじろ見るなよ……恥ずかしいだろ……」
 頬を朱に染めて栄太が自分の体を小さく丸める。無理もない。男子生徒の彼がセーラー服を着せられ、胸にはブラジャーまでつけているのだ。
(う……スカートってなんかすっげえスースーする……)
 慣れない女の服装に栄太は戸惑いつつも、はっきりした恥辱と興奮とを同時に感じていた。
「何が恥ずかしいのよ? 女の子にはそのカッコが普通なんだからね。不安なのはわかるけど、あんまその顔で変なこと言わないでよ」
「うぅ……なんで俺が女になってんだよぅ……しかも由紀に……」
「なによ、あんたあたしのカッコに不満でもある訳 !?」
 半泣きになってべそをかく栄太の肩を由紀が乱暴につかむ。
「ち、違うって……! 俺が言いたいのは、なんでこんなことにって……」
 震える瞳でこちらを見上げてくる自分と同じ姿の少女に、由紀はふと不思議な思いを抱いてしまった。
(あ、あたしの顔……なんかカワイイかも……)
 いつも鏡でしか見られない自分が、か弱い少女の顔で怯えている。自分の胸に芽生えた感情が何かもわからないまま、彼女は栄太から手を離した。
 由紀は仕切りなおすように咳払いを一つして栄太に話しかけた。
「……とにかく、確認しないといけないのは二つね。まず一つ目は、なんであんたがあたしになっちゃったかってこと。何とかして元に戻ろうにも、原因がわからないとどうしようもないわ」
「原因なぁ……」
「栄太。あんたがあたしになったとき、どんなことがあったの?」
 由紀の言葉に、彼は細い指を自分の顎に当てて考え込んだ。脳裏に浮かんだのは、この姿になる直前に出会った一人の少年の姿だった。美麗な顔に涼しげな笑みを浮かべて栄太を楽しそうに見つめている。栄太の記憶の中でその細く形のいい唇が動き、耳障りのいい声を発した。
“僕が君を強くしてあげよう。彼女と同じくらいに”
 あのとき、少年はたしかにそう言った。
(由紀と同じ……それってこういうことなのか……?)
 今栄太がこのような姿になっているのは、恐らく彼の仕業だろう。身長も体重も声も顔も、今の佐藤栄太は全てが坂本由紀と同等になっている。たしかにこの体で彼女と喧嘩をすれば負けないような気もする。だが、それは何かが間違っているように彼には思われた。
(……あいつ何者なんだよ? 俺、元の体に戻れるのか……?)
 ひとり物思いにふける栄太を、由紀は怪訝な顔で眺めていた。
「どう栄太? あたしになったのはなんでかわかった?」
「んー……わかったような、何か違うような……」
「何よそれ。はっきりしないわね」
 少しだけ苛立ちを込めて自分を見つめる少女に、栄太は話を進めて言った。
「……んで、もう一個の確認ってのは?」
「とりあえずこれからどうするかよ。あたしが二人いるって皆に知れたら大変だし、あんたもあたしのカッコでこのまま家に帰る訳にはいかないでしょ? いつ戻れるかわかんないし、あんたをどうするかも考えないとね」
 由紀の言う通りだった。この状況を客観的に見れば、佐藤栄太という男子が消えてその代わりに女子の坂本由紀が二人いるということになる。
 さて、由紀になった栄太はこれからどうするべきだろうか。とりあえず佐藤栄太は行方不明ということにして元に戻れるまで身を隠すのか、それとも教師や家族に事情を話して由紀の姿になってしまったと信じてもらうのか。
 この“変身”がいつまで続くのかも考えないといけないだろう。数時間で戻れるのか数日かかるのか、それとも二度と元に戻れないのか。もしかしたら、このまま一生由紀の姿で女として生きていかないといけないかもしれない。考えれば考えるほど、言い知れない不安が栄太の胸に湧き上がってくる。
「……う、うぅ……由紀、俺どうしよう……」
「こら泣くな! あんた男でしょっ !?」
「うぇぇん……由紀ぃ……」
 ついに両手で顔を覆って泣き始めた栄太を、由紀は優しく抱きしめてやった。
「ほら、泣くなってば栄太……ホントに女の子になっちゃうよ?」
「……由紀……」
 誰もいない部屋で静かに身を寄せ合う二人の少女。中身は恋人同士の男女であっても、今の二人はどこからどう見ても仲睦まじい一卵性双生児の姉妹にしか見えなかった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 太陽が南に差しかかる頃、由紀と栄太はこっそり学校から抜け出した。
「……で、今からどうするんだ?」
 不安な顔で栄太が聞く。この由紀の姿では自分の家に帰れないのだ。彼女は軽くため息をつき、彼を見やって答えた。
「仕方ないからあんた、とりあえずあたしん家に来なさい。こんな昼間っから制服着たまま街を歩いてたら補導されちゃうかもしんないしね」
「う、そうか……そうだよなぁ……」
 沈んだ顔で自分の姿を見下ろす栄太。セーラー服の胸元を押し上げる脂肪の塊は巨乳というほどではないが小さくもなく、彼に確かな自分の胸の重みを実感させてくる。どこにあれだけの筋力があるのかと普段から疑問に思っている手足は女の子らしく細く、だが太ももはむっちりと柔らかく、男にとって魅力的なラインを描いていた。短いスカートは風を受けて揺れ、中身が見えてしまうのではないかという不安を煽り立ててくる。その中身はと言えばフリルのついた白いショーツに覆われ、いつも股間に存在している大事な棒と玉の感覚はどこにもなかった。
(お、俺……本当に由紀になっちまってるんだ……)
 彼とて健康的な男子高校生、女子のスカートから伸びる脚や豊かな胸にはつい目が向いてしまう。その興味と性欲の対象が自分の眼下に隠れることなく広がっているのだから、栄太の感じている興奮は言葉では言い表せないほどだった。
 ――じわり……。
 彼は意識しなかったが、その白いショーツはほのかな湿り気を帯び始めていた。

「ほらがに股になってる! 今のあんた、女の子なんだから気をつけなさい!」
「そ、そんなこと言われても……」
 由紀の家はそう遠くはなかった。学校から歩いて十五分といったところか。ごく普通の二階建て、平凡な住宅が坂本由紀の自宅だった。
「ただいまー!」
 鍵を開けてずかずか中に入っていく由紀。その後ろをおどおどとついていきながら、栄太はきょろきょろ周りを見回していた。
(そういや俺、由紀の家に来たことなかったな……いつもこいつが俺ん家に来るから……)
 一応付き合っている仲だというのに、由紀の私生活や家族構成について今までほとんど聞いたことがなかったことに栄太は気がついた。
 玄関にある靴は一足だけ。女物だが、由紀の母親のものにしては少々若すぎるように思える。平日の昼間で両親ともに不在なのだろう、おかえりの言葉も飛んでこなかった。
「お、お邪魔します……」
 由紀が脱ぎ捨てた靴を整えて、自分もその横に全く同じ靴を揃えておく。物が多くやや手狭な床を、意識して内股で歩いて由紀についていく栄太。
 二人が足を踏み入れたのはごく普通のダイニングキッチンだった。由紀は鞄を下ろし、自然な動作で冷蔵庫から麦茶を出す。
「飲みなさい。あんたも喉渇いてるでしょ?」
「え? あ、ありがと……」
 冷たそうな茶色の液体が入ったガラスのコップを受け取る栄太。ひやりとしたそれを飲み干し一息つくと、彼は多少の落ち着きを取り戻した。
「ふーっ。……何だよ由紀?」
 こちらを見つめる視線を感じ、栄太は彼女を見返した。由紀は自分を複製した姿の彼を見て目を細めている。
「ん……こうして見ると、あたし結構カワイイなって思って」
「ば、馬鹿言え……お前、これ自分の顔だろうが」
 赤くなって言い返す栄太だったが、突然その体が何者かに抱きしめられた。
「――――っ !?」
 いきなり後ろから羽交い絞めにされ栄太はじたばたと暴れたが、彼を拘束している人間はまったくその腕を緩めなかった。彼の耳に口を寄せ、調子の外れた高い声でそっと囁く。
「……はぁい由紀ちゃん♪ こんな時間に帰ってきちゃってどうしたの? 学校をサボるなんてホントにいけない子よねぇ〜。お姉ちゃん悲しいわぁ〜……」
「ち、違いますっ! 俺は由紀じゃ……」
「お姉ちゃん、それあたしじゃないよ……」
「……え、あれ? そっちにも由紀ちゃん? あれれ?」
 それは若い女だった。由紀より高いかなりの長身と、真っ直ぐ肩まで垂れた金色の髪。けばけばしい濃い目の化粧の臭いがつんと栄太の鼻をついたが、決して不細工な顔ではなかった。
「は、離して下さいっ!」
「大丈夫、栄太? ごめんね、これうちのお姉ちゃん」
 ようやく解放され、栄太は由紀に抱きとめられる。そんな同じ顔の二人を眺め、女は驚いた表情でその場に立ち尽くしていた。
「由紀ちゃん増えたのぉっ !? 嬉しいっ、これで一人は私専用にぃ……!」
「黙れ馬鹿姉っ! 大学はどうしたのよ !?」
「今日ひとコマだけだからサボっちゃった♪」
「はあ、このNEETめ……。人のこと言えないじゃん……」
「ちゃんと学生してるから、Not in Educationじゃないわよ♪」
 頬に汗をかいて栄太が由紀に尋ねた。
「んで由紀、この人がお前の姉さん?」
「……うんそう。あたしの馬鹿姉、坂本沙紀。実質NEETだけど自称女子大生らしいよ」
 軽く頭を抱え、由紀は彼にそう説明してやった。今度は沙紀がにこにこ笑って由紀に問いかける。
「それで由紀ちゃん、こっちの由紀ちゃんは誰なのぉ? クローン? ダミープラグ?」
「んー、説明するのが難しいけど……あたしの彼氏の佐藤栄太君。話したことあるでしょ」
「――んなっ !?」
 その紹介に女は後ろによろめくと、不意に由紀の前に立って彼女の肩をつかんだ。
「由紀ちゃん……いつから好きなコは自分ですなんて寂しい子になっちゃったの……? いくらあなたが可愛くても、鏡相手に恋をするのはちょっとどうかと思うのぉ〜」
「いや、何言ってんの……栄太のやつ、なんでか知らないけどあたしになっちゃったのよ」
 困ってるんです、と言いたげに気弱な視線を沙紀に向ける栄太。普段見られない妹のその表情に、女は意味深げに微笑んで彼を見やった。
「てことはぁ、栄太クンってホントはオトコノコ?」
「はあ、一応……今は女になっちゃってますけど……」
 「学校でいきなり変身しちゃったらしくて、どこにも行くところがないからうちに呼んだの。早く元に戻してやらないと、こんな馬鹿でも一応あたしの彼氏だからね……」
「ふぅん、変身ねぇ? ちょっと信じられない話だけどぉ……」
 だが実物を目の当たりにしては否定できない。沙紀は少し考えた後、気楽な笑顔で栄太に言った。
「栄太クンって言ったわよねぇ?」
「はい……」
「元に戻らなくていいから、あなたうちのコになりなさい。可愛がってあげるぅ♪」
「ちょっ…… !?」
 目を剥いて慌てる栄太に、由紀は怒った顔で言った。
「こらこら栄太、本気にしちゃダメよ。お姉ちゃんも、栄太は今すごい落ち込んでるんだから変なこと言っていじめないでよね!」
「えー、半分以上本気なんだけど……由紀ちゃんが二人いるなんて、お姉ちゃんドキドキぃ♪」
「まあこの馬鹿姉はおいといて……栄太、とりあえず着替えなさい。外に出るにも制服だとあれだし、あたしの服貸したげるからこっち来て」
「あ、ああ……って着替えるのか、俺……」
 女の声でそう返事をする栄太に、由紀は目をつり上げた。
「当たり前でしょ、あんたあたしになってるんだから。ずっとそのカッコじゃいられないし、お風呂もトイレも入んないといけないんだからね」
「う……」
「ホントは目隠しでもさせたいとこだけど……いつ戻れるかわかんないから仕方ないわ。ブラのつけ方とかトイレの仕方とか、わかんないとこ教えたげるね」
「……あ、ああ……」
 真っ赤になって、小さな声でうなずく栄太。
「着替えですってぇ !? それならお姉ちゃんがお似合いの服を用意してあげるわぁ〜! 今の栄太クンは可愛い女の子なんだから、ちゃんとした服着ないと駄目よぉ?」
「…………」
 不安な顔で沙紀を見上げる栄太と由紀。沙紀は妹すら超えた適応力を発揮し、この異常事態を明らかに楽しんでいた。

 便座に座って、栄太は軽く息を吐いた。
「はあ……俺、これからどうなるんだろ……」
 ――チョロロロロ……。
 彼の股から暖かな黄色の液体が漏れ出し便器を汚していく。陰部を濡らす気持ちの悪い感触に、栄太はなぜ女子トイレに小便器がないのかを理解した。
「うう、俺のチンポ……どこいっちまったんだ……」
 涙声になりながら自分の女性器を見下ろす。由紀の性器と思えば興味津々ではあるが、それが自分のものとなるとまた話は違う。大事な肉棒の喪失は耐え難い苦痛となって栄太の心を蝕んでいた。
「ん、全部出たかな……えーと、拭かないといけないっけ……」
 トイレットペーパーを適当な長さに千切って濡れた股間にあてる。
「んっ……」
 ところどころ毛の生えた割れ目の周辺を柔らかい紙で擦りあげる。男のときには想像もしなかったこそばゆい感覚に栄太の体が軽く震えた。
(な、なんか変な感じ……)
 恋人の性器をまざまざと見せつけられ、それを自分の意のままにできる。その事実を思い知らされ、栄太は興奮して顔が火照り、心臓の鼓動が早くなるのを自覚した。
(これが由紀のアソコ……こ、こんな感じなんだな……)
 ――ドキドキ、ドキドキ……。
 栄太の鼓動がどんどん早まっていく、ちょうどそのときだった。
「どう栄太? ちゃんとおしっこできた?」
 自分と同じ声の少女が、ドアの向こうから大声でそう尋ねてくる。
「あ、ああ……だ、大丈夫……」
 思わずびくりと身を跳ね上がらせ、栄太はいそいそとショーツとスカートをたくし上げた。
「そう? 学校とかでするときはちゃんと水を流しながらするのよ。周りに音が聞こえないようにね」
「そ、そう……なのか……?」
 女の習慣に大きな戸惑いを感じて、栄太はトイレから出てきた。
「大丈夫? じゃ、そろそろ出かけよっか」
「ああ……」
 由紀はすぐ外で彼を待っていた。既に私服に着替え、紫のトップスと黒のデニムパンツというラフな格好だ。対する栄太はベージュのタンクトップに紺のミニスカートである。
(そういやこの服……前にこいつが着てたっけ……)
 まさかそれを自分が着ることになろうとは。栄太は心の中で涙を流して由紀についていった。そこへ嬉しそうにやってくる彼女の姉、沙紀。
「由紀ちゃん、栄太クン、どこ行くのぉ〜?」
「うるさいわね、買い物よ買い物! 下着の替えとか買い足しておかないといけないの。ややこしいからお姉ちゃんはついてこないでよ!」
「え〜……やだぁ、私も行きた〜い」
「だーめ、ダメダメ!」
「そこを何とかぁ〜。ねっ、栄太クンもいいでしょ?」
「えっ? えっと……その……」
 水を向けられて返答に困る栄太。
「ほらぁ、栄太クンはいいって言ってるぞぉ〜。お姉ちゃんも連れてけぇ〜!」
「栄太はそんなこと言ってないでしょ! この暇人!」
「あ、あの、えーと……」
 こうして彼女に押し切られ、二人の買い物に沙紀もついてくることになった。
 三人は家を出て、歩いて駅前の繁華街へと向かった。時刻は既に夕方近くになっており、下校途中の中高生の姿も多い。
「ふふふ〜ん♪ 栄太クン可愛いぞぉ〜♪」
「いや、その……や、やめて下さい……」
「きゃ〜真っ赤になっちゃって、ホント可愛い♪ やっぱうちのコにしたい〜!」
 楽しそうに栄太の手を引っ張って歩き回る姉の姿に、由紀はため息をついた。由紀は目を見張るような美人ではないが、その辺の女子と比べると充分に可愛い部類に入る。そんな少女が二人全く同じ顔で並んで歩いているのだから、時々彼女らを振り返る男もいた。
(うぅ……あの連中、俺のこと見てる……)
 女として感じる男たちの視線。タンクトップを押し上げる乳房やスカートから生える脚をじろじろ覗かれている。まるで飢えた獣の中に放り込まれたような落ち着かない気分で、栄太は周囲を見回した。周りの視線を全く気にしない姉妹とは正反対で、彼は通行人とすれ違うたびにびくびく怯えていた。
 そのうちに由紀たちが入ったのは一軒のランジェリーショップである。辺り一面に飾られた生々しい女の下着の数々に、栄太は呆気にとられて立ちすくんでいた。
「? 何してんの、栄太? こっち来なさいよ」
「……え、俺……ここ入んの……?」
「当たり前でしょ? そりゃあんたとあたしはサイズ一緒だけど、あんたの好みもあるだろうし自分のブラくらいは自分で選びなさいよね」
 当然のように話を進める由紀に、栄太は耳まで赤くして首を振るだけだった。そんなうぶな反応をする彼を、沙紀が楽しそうに冷やかす。
「ほ〜ら栄太クン、お姉ちゃんがブラ買ってあげるからこっち来なさ〜い!」
「あぁっ……お姉さん、胸、触らないで……」
「まあ今日はお姉ちゃんがお金出してくれるし、あたしも奮発しーちゃお♪」
「あ〜、由紀ちゃんのは自分で買ってね〜♪ 私が買ってあげるのは栄太クンのだけよ〜」
「このクソ姉貴っ !!」
 そして坂本姉妹の玩具にされること二時間。散々あちこちの店の試着室を回らされ、ショーツからブラウスまで様々な衣類を買ってもらった栄太はあまりの激しい経験に、右も左もわからないフラフラの状態で二人にひきずられて帰宅した。

 由紀の両親は自分たちの娘そっくりの栄太を快く歓迎してくれた。
「君が佐藤君か! 由紀から話は聞いてたが、こんなに由紀そっくりだとは思わなかった! 良かったらずっとここにいて、うちの子にならないか !?」
「……え、いや、だからあの……」
「もうあなたってば、佐藤君は由紀の大事なボーイフレンドなんですよ。このままずっと由紀のままだったら困ります。男の子に戻るまでうちでゆっくりしていってね」
「は、はぁ……ありがとうございます……」
 由紀の母親が作った料理を前に、栄太は緊張した面持ちでじっと座っていた。テーブルを囲む隣の席には彼とそっくりの由紀が座る。
「……なぁ。お前の家族って、なんでこんなに大雑把なんだ……?」
「うらやましいでしょ? 常識人はあたしだけよ」
「やぁ〜ん、由紀ちゃんが嘘つきだぁ〜!」
「うっさい馬鹿姉貴!」
(これって一応、親公認の仲なのかな……?)
 茶碗の飯をかきこみながら、栄太はぼんやりとそんなことを考えた。だが彼が元の体に戻らないと、由紀と男女の付き合いはできない。何とかして男に戻る方法を考えなくてはいけないのに、今の彼は受身一辺倒になっている。状況に流されたまま、出口の見えない迷宮を栄太はさまよっていた。

 女になったばかりの栄太は、風呂の入り方も由紀に教わることになった。
「い、いいよ……一人でできるって……」
 恥ずかしげにそう言う栄太を由紀が咎める。
「ダメ。最初だけはあたしが手伝ったげるから、次から一人でしなさい」
 狭い浴室に二人で入る全裸の少女。茶色の短髪もつり目の顔も、二人はまったく見分けがつかなかった。栄太は椅子に座らされ、シャワーを手に持った由紀に程よく熱い湯をかけられた。
「んっ……!」
「いい? 私の肌は結構敏感なんだから、優しくしなきゃダメよ。洗うときも気をつけて、こうやって……」
「うっ、うぅ……!」
 スポンジで栄太の腕を擦る由紀。そのくすぐったい刺激に栄太は声をあげてしまった。
「力加減がわかったら後で自分で洗ってみなさい。すぐ慣れるはずよ」
「あ、ああ……」
「あと、あたしの髪は短いからまだ楽だけど、こうやって……」
「ん……」
 自分の髪を指と湯で優しく撫で回してくれる由紀に感謝して、栄太は大人しく座っていた。
(こいつ……何でもかんでも適当だと思ってたけど……家じゃやっぱり女の子してるんだな……)
 普段見えなかった由紀の姿につい興奮してしまう自分がここにいた。

「うぅ〜……あ、暑い……」
 裸の体にバスタオルを一枚だけ巻いて風呂から出てきた栄太。ややのぼせ気味の彼に、由紀が冷蔵庫から一本の瓶を出して渡してやった。
「ん、何だこれ?」
 瓶の中にはよく冷えた茶色の液体が詰まっている。麦茶ではない。
「コーヒー牛乳。あたし風呂上りはこれって決めてるの」
「あ、そうですか……こりゃ旨そうなことで……」
 そう言って栄太は腰に手を当て、一気に牛乳瓶をあおった。
「ぷはぁっ! いいなこれ」
「でしょでしょ? 絶対旨いって!」
 生き写しの二人の少女は互いに半裸のまま楽しそうに言い合った。知らない者が見れば仲の良い双子の姉妹としか思わないだろう。男女の付き合いではなく、女同士としての由紀との触れ合い。
(――うーん、これはこれで楽しいけど……俺、これからどうなるんだろ……?)
 自分の家には友人を通じてその友達の家に泊まると伝言をしておいたが、その言い訳も長くは続けられないだろう。学校もそうそう休む訳にはいかない。いつ戻れるのだろう。そもそも本当に元の佐藤栄太に戻れるのだろうか。
「…………」
 言葉にできない不安と安らぎの狭間で、栄太は由紀の顔をぼんやり見つめていた。


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