祐介の妊娠 1


「祐ちゃん、この問題はどうやって解いたらいいの?」
 座卓の向こう側から聞こえてきた声に、中川祐介は顔を上げた。瑞希はシャープペンシルの尻を唇に当て、難しい顔で考え込んでいた。
「ええっと……ああ、これか。これは平衡定数を使って解くんだ。酢酸の濃度をC、電離度をαとして図を描くとわかりやすいぞ」
「え、それってどうやって描くの?」
「それはだな、こうやって平衡の式を書いて、この下に濃度を……」
 祐介は身を乗り出し、自分のノートを見せてやった。瑞希は熱心な様子で祐介の説明を聞いていたが、やがて軽くうなずくと解答に取り掛かった。
「うん、何とかできそうな気がする。さすが祐ちゃん、頼りになるなあ。ありがとう」
「いや、なんてことないさ。ここは一応、俺の得意分野だから」
 目の前にいる小柄な少女が見せた微笑にどきりとし、照れ隠しにそっぽを向く祐介。今年で十七歳になる森田瑞希は祐介の高校のクラスメイトで、彼が小学校に上がる前からつき合っている幼馴染みでもあった。
 幼い頃から人つき合いが苦手で友達の少なかった祐介にとって、瑞希は常に自分のそばにいてくれる貴重な存在だった。一方の瑞希も内気で臆病だったため、進んで級友たちの輪に入っていくことはできなかったから、二人はいつも一緒にいた。家が近くだったことや、小、中、高と同じ学校だったこともあり、今や登下校から放課後、そして時には休日もこうして互いの家を訪ね、共に過ごすのが当たり前になっている。今日は日曜で学校の授業はなかったが、祐介はいつものように瑞希を自分の部屋に招き、一緒に宿題に取り組むことにしたのだった。
「ふう、終わった。最後の方は難しい問題だったなー。解き方を教えてくれてありがとう、祐ちゃん」
「いいよ、気にすんなって」
 祐介はペンを放り投げ、盆の上のコーヒーカップに手を伸ばした。半分ほど残ったコーヒーは既にぬるくなっていたが、課題をやり遂げた達成感のためか、決してまずいとは思わなかった。
「ねえ、祐ちゃん。そっちに行ってもいい?」
「ああ、もちろんいいぞ」
「やったー。えへへ、祐ちゃんの上に座ろうっと」
 瑞希は立ち上がると、嬉しそうな顔で祐介の膝の上に乗り、体を預けてくる。あどけない顔立ちに加えて、長い黒髪を子供のように頭の左右で束ねた髪型が、高校生の彼女をまるで小学生のように見せていた。男子として平均的な体格の祐介と並ぶと、とても同い年には見えないというのが家族や友人たちに共通した見解だった。
(瑞希の髪、いい匂いがする……)
 鴉の濡れ羽色と呼ぶにふさわしい瑞希の艶やかな髪を撫で、祐介は目を細めた。瑞希は高校生になった今でも、子供の頃のようなスキンシップを頻繁に祐介に要求してくる。相思相愛の二人はいつしか男女の仲になっていたが、祐介はどちらかといえば真面目で禁欲的な性格だったから、自分から積極的に瑞希の体を求めることはしなかった。だから二人の交際において、主導権はもっぱら瑞希の側にあった。
「祐ちゃん、好きだよ。私、祐ちゃんのことが大好き」
「ああ、俺もだ。俺も瑞希のことが好きだ」
「嬉しい、祐ちゃん。じゃあキスしてくれる?」
「今か? わかった。こっちを向いてくれ」
 頬に紅を散らした瑞希に誘われ、祐介はそっと彼女の顔に手を這わせた。目を閉じて瑞希の細い唇を自分ので覆い隠そうとしたそのとき、不意に横から咳払いが聞こえた。
「あー、あなたたち……盛り上がってるところ悪いんだけど、ちょっといいかしら」
「お、お袋っ !?」
 祐介は飛び上がった。いつの間にか部屋の入り口に彼の母親が立っていて、抱き合う二人を呆れた表情で見下ろしていたのだった。
「お、おばさん。こ、これは、その……いやあ、恥ずかしいよおっ」
「今さら何を言ってるのよ、瑞希ちゃん。あなたたち、普段はもっとすごいことをしてるじゃない」
「な、何のことですか? 私たち、そんなに変なことはしてませんけど……」
「んー? そうねえ……孫は楽しみにしてるけど、学生のうちに産むのはちょっと早いんじゃないかって話。まあ、それは今はどうでもいいのよ。それより祐介、ちょっとお願いがあるんだけど、いい?」
「何だよ。いきなりひとの部屋に入ってきて……」
 祐介は頬を赤くして母親を見返す。いくら双方の両親が公認している仲とはいえ、実母の前で瑞希と触れ合うのには抵抗があった。瑞希も耳まで真っ赤に染めて、祐介の胸に顔をうずめてしまっている。
「実はキッチンの電灯が切れちゃったのよ。今から自転車でひとっ走り行って、買ってきてくれないかしら」
「電灯? 別にいいけど、あれって普通の蛍光灯だよな」
「そうそう。型番はここに書いておいたから、急いでお願い。このままじゃご飯が作れないわ」
 母親はメモ用紙と紙幣を祐介に手渡す。祐介は膝の上の瑞希を床に下ろし、出かける準備に取り掛かった。
「じゃあ瑞希、悪いけど行ってくる。すぐに戻るから、ここで待っててくれないか」
「ううん、私はそろそろ帰るよ。うちももうすぐご飯の時間だし……」
「ちょっと待ちなさい、瑞希ちゃん」
 席を立った瑞希を、祐介の母親が引き止めた。「せっかく来てくれたんだから、もうちょっとゆっくりしていきなさいよ。おばさん、あなたにいろいろ聞きたいことがあるの」
「な、何ですか?」
「それがね、うちの祐介ってぶっきらぼうで口数が少ないじゃない。年頃の男の子だからしょうがないかもしれないけど、やっぱり一人息子が普段学校でどうしてるかとか、瑞希ちゃんとどんなおつき合いをしてるかとか、母親としては気になるのよね。だからその辺のこと、瑞希ちゃんに根掘り葉掘り聞いておきたいなって。ちょうど今だって、いい雰囲気だったし」
「は、はあ……でも、そういうのってちょっと恥ずかしいかも……」
「おい、お袋。瑞希に変なことを訊かないでくれよ。困ってるじゃないか」
 祐介は渋い顔で抗議したが、母は聞く耳を持たない。「どうせキッチンの電灯を取り替えるまでお夕飯の支度はできないんだから、この機会に瑞希ちゃんを質問攻めにしておかないとね。ほら、祐介はぐずぐずしてないで、さっさと行ってきなさい」
「きゃあっ !? た、助けて、祐ちゃん……」
「お、おい、お袋……」
 瑞希の襟首をつかみ、やけに浮かれた様子でリビングへと去っていく母親に、祐介は呆気にとられてしまう。このままでは、あまりひとに訊かれたくないプライベートな質問をいくつも投げかけられ、瑞希が恥をかかされるのは間違いない。
「くそ、こりゃ急いで帰ってこないとまずいな。蛍光灯、蛍光灯……」
 メモに書いてある蛍光灯なら、最寄りのスーパーマーケットに置いてあるはずだった。片道五分、往復十分。買い物の時間を入れても十五分はかからないだろう。祐介は慌てて家を飛び出し、愛用の自転車を走らせた。

 三十分後、祐介は真冬だというのに全身汗だくで自転車を漕ぎ続けていた。一月の太陽は既に落ち、暗い道路を街灯の頼りない光が照らしていた。
「はあ、はあっ……くそ、なんで俺がこんな目に……」
 運が悪いとしか言いようがなかった。はじめ、最寄りのスーパーマーケットに行ったのだが、目当ての品はたまたま売り切れていた。それから二、三軒コンビニに立ち寄ったのだが、そこにも蛍光灯はなく、結局国道沿いのホームセンターまで出向く羽目になった。かなりの距離があるうえに長い長い坂をのぼらなければならず、ようやく店に着いたときには、祐介はすっかりくたびれ果ててしまっていた。
「はあっ、はあっ。とにかく買い物は終わったんだ。帰りは下り坂だし、随分と楽になるはず……ん?」
 ふと祐介の視線が隣の公園に向けられた。立ち並んだマンションの隙間にある、何の変哲もない小さな公園だが、そこに見覚えのある少女の姿があった。ちょうど向こうも祐介に気がついたらしく、こちらに駆け寄ってきた。
「あら、中川じゃない。ねえねえ、こんなところで何してんの?」
「げっ、加藤じゃねえか。お前、なんでこんなところにいるんだよ」
 祐介は面食らった。彼のもとにやってきたのは、クラスメイトの加藤真理奈だった。女子にしてはかなりの長身で、祐介とほとんど背丈が変わらない。派手に染めた茶色の髪が印象的な美少女だ。冬だというのに裾の短いスカートをはいて、自分の長い脚を強調している。
「なんでって……ここ、あたしの家だもん。そんなの当たり前じゃない」
「げっ、そうだったか。道理で、どっかで見たような風景だと思った……」
 祐介はげんなりした声でつぶやいた。すぐ隣にある高層マンションが真理奈の家だということを失念していた自分を、心の中で激しく叱責した。
(なんで日曜なのにこんなやつの面を見なくちゃいけねえんだよ、畜生。何かされる前に俺は帰るぞ。いや、今すぐ逃げないとヤバいって──)
 前に向き直り、挨拶もせず自転車のペダルを思い切り漕ぎ出す祐介。一刻も早くここを離れて、家族と恋人の待つ自宅に戻らなければ。
 ところが次の瞬間、祐介を乗せた自転車は金属の軋む不快な音をたて、その場で盛大に転倒した。
「うおおおおっ !? い、痛えっ! な、なんだっ !?」
 地面に転がり、無様にのたうち回る祐介。はき古しのジーンズは膝の部分がすり切れ、わずかに血がにじんでいた。骨折や捻挫はしていないようだが、右膝のすり傷がじんじんと痛んだ。
 いったい何が起こったのか、事態を把握しようと顔を上げると、真理奈がホルダーつきのキーを指でくるくる回していた。それは祐介の自転車をロックするためのキーだった。
「お、お前か、加藤っ! いきなり鍵なんて抜きやがって、どういうつもりだ !? 危ねえだろうがっ!」
「あんたこそ、人の顔を見ていきなり逃げ出すなんて失礼じゃない。いったいどういうつもり?」
 真理奈は腰に手を当て、不機嫌な顔で祐介を見下ろす。祐介が逃げようとしたのを察知し、彼が気づかぬうちに素早く自転車のキーを抜き取った手並みは、とても真っ当な女子高生のものではない。まるでスリだと祐介は思った。
「なんで逃げるって、そりゃお前に関わるとロクな目に遭わないからに決まってるだろう。この疫病神がっ!」
「なんであたしが疫病神なのよ !? ひとを災害みたいに言わないで!」
「やかましいっ! 今だって、お前のせいで俺は思いっきりスっ転ぶ羽目になっただろうが! ひとにケガさせといてその偉そうな態度、少しは反省しやがれ! ノータリン!」
「今のはあんたが逃げるからでしょ! 逃げさえしなきゃ、あたしだってわざわざこんなことしないわよ! 原因はあんたなんだから、やっぱりあんたが悪いに決まってる!」
 案の定、真理奈にはまるで反省の色がなかった。抜群のスタイルを誇る美少女なのだが、残念なことに彼女は常に周囲に迷惑をかけずにはいられないトラブルメーカーでもあった。特に祐介とは相性が悪く、祐介は今まで何度も彼女に煮え湯を飲まされている。学校の中でも外でも彼が一番会いたくない相手が、この加藤真理奈だった。
「とにかく、お前に関わると俺はロクな目に遭わねえんだ。頼むから今日はこのまま帰らせてくれ。この電球を早く持って帰らねえと、うちは晩飯が食えねえんだよ」
「そんなの、あたしの知ったことじゃないわね。ほらほら、この鍵を返してほしかったら土下座してお願いしなさいよ」
「てめえ……」
 辺りに緊迫した空気が漂う。二人が険悪な顔でにらみ合っていると、公園から一人の女が出てきた。祐介の知らない顔だったが、女は真っ直ぐこちらにやってくる。
「どうしたの、真理奈ちゃん。そのコ、真理奈ちゃんのお友達? それとも彼氏?」
「いや、断じて友達でも彼氏でもないです。ただの学校のクラスメイトです。それも犬猿の仲って感じの」
「ふーん……君、こんにちは。私はちひろっていうの。斉藤ちひろ。よろしくね」
 女はそう名乗った。髪は黒に近い茶色のショートカット。縁なしの眼鏡をかけ、膝丈の黒いワンピースとジャケットの上にベージュのコートを羽織っている。一見すると平凡な格好だったが、祐介は思わずちひろという若い女の姿に見とれてしまった。
「……どうかした、君? 変な顔しちゃって」
「い、いいえ、何でもありません。俺は中川です。中川祐介。不運なことに、こいつのクラスメイトです」
 祐介は横にいる真理奈を指差し、ちひろに頭を下げた。「何よ、その失礼な言い方は」と真理奈が頬を膨らませた。
「へえ、祐介クンか。ねえ、名前で呼んでもいいよね? 祐介クンも私のこと、ちひろって呼んでいいからさ」
「は、はあ……ところで、斉藤さんは妊娠してるんですか?」
 明るく人懐こい笑顔を見せるちひろに戸惑いながら、祐介は訊ねた。彼の注意を引いたのは、ちひろの豊かなバストのすぐ下に巻かれた細い帯と、前方に突き出た大きな腹部だった。どう見ても妊娠している。それも出産間近の妊産婦と思われた。
 こうして妊婦と向かい合うのは、祐介には初めてのことだった。通行人の妊婦を遠くから眺めることはあったが、知り合いや親戚に新婚の夫婦が少なかったため、妊娠している女性に近づく機会はほとんどなかった。臨月と思しき巨大なちひろの腹部に見入ってしまうのも、無理のないことかもしれない。
「斉藤さんじゃなくて、ちひろよ。ちひろって呼んでって言ったでしょ」
「は、はい。ちひろさんは妊娠してるんですか?」
 問うと、ちひろはにっこり笑って自分の突き出た腹を撫でた。「そうよ、いま妊娠三十八週目。予定日はもうちょっと先だけど、そろそろ産まれてもおかしくないわね」
「なのに、こんなところで立ち話をしてていいんですか? 寒いですし……」
「あはは、そうね。買い物の帰りに真理奈ちゃんに会って、つい話し込んじゃったわ。私、真理奈ちゃんと同じこのマンションに住んでてね。あのコ、ここに越してきたばかりの私に親切にしてくれたのよ。お店の案内をしてくれたり、荷物を持ってくれたり……」
「加藤が? ちょっと信じられません。こいつ、学校じゃすごい問題児なんですよ……あれ?」
 真理奈を指差そうとして祐介は困惑した。つい今まで隣にいたはずの真理奈が、忽然と姿を消していたのだ。きょろきょろと周囲を見回しても、見えるのは無残に倒れた祐介の自転車だけだった。
「あら、そうなの? 実を言うと、私もそうじゃないかって思ってたの。真理奈ちゃんって何となくトラブルメーカーって感じがするわよね。いつも面白そうなことしてそう。あはははは……」
「笑いごとじゃありませんよ。あいつのせいで俺たち、酷い目に遭わされてばかりなんですから」
「でも、あのコはホントは優しいコよ。ちょっと素直じゃないだけかなって、見てて思う」
「そんなわけありません。ちひろさんは学校での加藤を知らないから、そんなのんきなことが言えるんですよ。それにしても、あいつはどこに行ったんだ? 俺の自転車の鍵を持ったままでいなくなりやがって……」
 倒れた自転車を起こし、祐介はぼやいた。早く家に帰らなくてはいけないというのに、こんなところで道草を食うわけにはいかない。ただでさえこんな遠くまで足を延ばして時間をかけているのだ。
「ねえ、祐介クン。籠に入ってるそれって、蛍光灯?」
「あ、はい。うちの電灯が切れちゃったんで、買って帰る途中だったんですよ」
「そうなんだ。ねえ、祐介クンのおうちってどこ? なんかキリっとしててカッコいいよねー。彼女とかいたりする?」
 あれこれと質問を投げかけてくるちひろに、祐介は困惑する。どうやら、彼女はとても話好きらしい。こんな真冬の日暮れ時に公園で真理奈と話していたのもそうだ。初対面の相手とでも親しげに話せるのが、ちひろの特技のようだ。人見知りの激しい祐介とは対照的だ。
「あ、あの、俺、急いで帰らないといけないんで、今日はこれで……」
「あー、引き止めちゃってごめんね。私、普段は家に一人でいるもんだから、たまに人と話すとついつい長引かせちゃうのよ。悪いクセだって自分でもわかってるつもりなんだけど……」
「え、一人暮らし? 旦那さんは一緒じゃないんですか」
 訊ねると、ちひろは少し寂しそうな顔をした。
「それがね、去年の暮れからヨーロッパに出張してるの。長期の出張だから、予定日にも帰ってこれないって言われたし……新婚なのに酷い旦那よね。ホント」
「そ、そうだったんですか……」
 なんと言えばいいかわからず、祐介は狼狽した。気まずい空気が辛かった。気の利いたことの一つでも口にできたらいいのに、と切実に思った。
 急に黙り込んでしまったちひろを前に困り果てていると、マンションのエントランスから真理奈が出てきた。どこに行っていたかと思えば、なんと自宅に帰っていたという。祐介は憤慨して腕を振り上げた。
「おい、加藤! お前、俺の自転車の鍵を持ったままだろう! 早く返せよ!」
「はいはい、わかったわよ。でも、わざわざ鍵を返しに下りてきてやったんだから、あたしに感謝しなさいよ? あたしは別に返さなくても全然困らないんだから」
「ふざけんな! おら、返せ!」
 真理奈が差し出したキーをひったくり、自転車に差し込む。無事にロックが外れ、祐介の愛車は再び走れるようになった。さきほど盛大に転倒したが、自転車に深刻な損傷はないようだ。
「それじゃちひろさん、俺は帰ります。ゆっくりお話しできなくてすいません」
「あら、いいのよ。また今度、うちに遊びに来てね。歓迎するわ」
「はい、わかりました。それじゃ……」
 今度こそ自転車のペダルを漕ぎ出そうとしたとき、祐介を異変が襲った。
 全身の力が急激に抜けていき、立っていることすら難しくなる。祐介は自転車をその場に倒し、アスファルトの上に膝をついた。目まいがして、頭がくらくらした。
(な、なんだ? いったい何が起きたんだ……)
「祐介クン、大丈夫っ !?」
 抗いがたい脱力感に苛まれる祐介のもとに、ちひろが駆け寄る。しかし別の人物が彼女を押しのけた。真理奈だった。
「ふっふっふ……油断したわね、中川。この加藤真理奈様が、一度盗んだ鍵を簡単に返すと思った? 今のはあんたの不意をつくためのフェイクよ。あたしに背中を見せるとこういうことになるから、次からは気をつけなさい」
 やけに物騒な台詞を放ち、真理奈は祐介の前に立つ。その手には楕円形をしたプラスチックの小さな容器があった。強く握られてへこんだ容器の先端には、注射針のように細く鋭い針がついていた。首筋にそれを突き立てられ、中身の薬液を注入されたのだと祐介は気づいた。
「お前、俺に何しやがった。その浣腸みたいなブツはなんだ……」
「大丈夫、死にはしないわ。実はこないだ新しい薬を手に入れて、人体実験をしなきゃいけなくなったのよ。せっかく格好の実験台がノコノコあたしのうちまで来てくれたんだから、使わない手はないかなって。ちひろさんのおかげでスキだらけだったし」
 手に持った容器を二人に見せびらかす真理奈。彼女の話によると、友人に怪しい薬剤師がいて、その友人はしばしば危険な新薬を開発しては、真理奈に実験を依頼しているのだという。
 その実験台になるのがいつも真理奈の身近にいる祐介であり、あるいは瑞希だった。人の心と体を変容させる不可思議な薬──祐介はこれまでに何度もその実験台にさせられ、煮え湯を飲まされている。真理奈はそれをまた繰り返そうというのだ。
 突如として己の身に降りかかった不幸に、祐介は暗澹たる心地にさせられた。
「や、やめろ。俺は早く帰らなきゃいけないんだ。家で瑞希が待ってるのに……」
「へえ、今日は瑞希と一緒だったんだ。ちょうどいいわね。あの子にもこの薬の効果を見せてやることにするわ。ふっふっふっふ……」
 真理奈は不敵な笑みを浮かべて、祐介の前にひざまずく。目線の高さが同じになり、二人はじっと見つめ合った。真理奈は悪戯に成功したときの子供のような目をしていた。
(畜生。これだからこいつと顔を合わせたくないんだ。いつもいつも厄介ごとばかり起こしやがって……)
 全力で逃げ出したい心境だったが、無念にも今の祐介には指一本さえ動かせない。脱力感と痺れが全身に広がり、意識を保つことすら危うくなる。ついに前のめりに倒れたところを、真理奈に抱きとめられた。
「おやすみ、祐ちゃん。せいぜいいい夢見てね。ふふふふ……」
 真理奈のにやけ笑いを最後に、まぶたが閉じて何も見えなくなる。五感がほとんど失われていた。薄れゆく意識の中で、祐介は真理奈を散々に罵倒した。それが罠にかかった彼にできる、唯一の反撃だった。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

「起きて、祐介クン。君の家に着いたわよ」
「ううん……」
 体を揺さぶられ、祐介はようやく気がついた。うっすら目を開くと、自分に手を差し出しているショートヘアの女の姿が見えた。祐介は女を見つめ返したが、はたして誰だったか咄嗟に思い出すことができない。霞のかかった頭が、思考することを拒否していた。
(あれ……俺、どうしたんだっけ。たしかお袋に買い物に行けって言われて、それから……)
 だんだんと覚醒するにつれて、五感が機能しはじめる。どうやら、今の祐介は背もたれつきの椅子に座っているようだ。体の背面を覆う柔らかなクッションの感触に、車のシートに座っているのだと気づく。誰が締めてくれたのかまるで覚えがないが、肩からわき腹にかけしっかりとシートベルトを着用していた。
 自転車に乗って買い物に出かけたはずの自分が、いつの間にか乗用車の後部座席に腰かけている。どうしてこんなことになったのか、祐介は頭を振って思い出そうとした。ところがその前に、横から伸びてきた手が彼の手を引っ張った。祐介は寝ぼけながらもシートベルトを外し、車外に出た。とうに冬の陽は落ち、暗い道路を冷気が覆っていた。
 ずっと眠っていたからか、妙に体が重い。真っ直ぐ立とうとしても、ふらふらとよろめいてしまう。まるで大きな荷物を抱えているような錯覚に襲われた。
「大丈夫? 祐介クン。危ないから転んじゃダメよ」
「は、はい……ありがとう、ちひろさん」
 口に出したことで、やっと女の名前を思い出した。この眼鏡の女は斉藤ちひろ。祐介のクラスメイトである加藤真理奈のマンションに住む主婦で、海外出張中の夫と離れて一人暮らしをしているという。笑顔がよく似合う、話好きの明るい女性だ。
 ちひろは祐介の肩を支え、彼が無事に立っていられることを確認すると、車のドアを閉めてロックした。おそらく、これは彼女の車なのだろう。スカイブルーの軽自動車で、つい最近のCMで見たことがあった。
「ここは……俺の家? ちひろさん、わざわざ車で送ってくれたんですか?」
 祐介は目の前の住宅が自分のものだと気づき、ちひろに訊ねた。ちひろはうなずき、蛍光灯の入った袋を祐介に手渡す。
 いつの間に着替えたのか、ちひろはトレーナーとジーンズというラフな格好になっていた。臨月で随分と腹が目立っていたはずだが、今はまったくそう見えず、ごく普通の体型としか思えなかった。不思議なことだと思った。
「別にいいわよ。あそこから祐介クンの家までだいぶ距離があったし、私のせいで足止めしちゃったようなものだから。それに──」
「それに?」
「その体じゃ、自転車を漕いで帰れないでしょ?」
 と言って、ちひろは祐介の胸を指し示した。祐介は何気なく己の体を見下ろし──次の瞬間、絶叫した。
「うわあああっ! な、なんだよこれっ !? 俺の腹が……胸が……!」
 祐介の視線の先にあるのは、黒いワンピースの胸元を押し上げている豊かな乳房だった。どう見ても男の胸部ではない。体を揺らすたびにゆさゆさと弾む二つの大きな肉の塊が、自らの重みに負けてやや下方に突き出していた。
 異常は胸だけではなかった。乳房の下には、さらに巨大な腹部が前に張り出していた。太っているのではない。左右にはほとんど膨れておらず、前方にだけ突き出た重々しい胴体は、肥満ではなく別の単語を祐介に連想させた。それは妊娠だった。
「俺の腹がこんなに膨らんで……これ、どうなってるんだ? ああっ、すごく重い……中で何か動いてる……」
 こわごわと自らの腹部をさすり、中に小さな命が宿っていることを祐介は理解した。いつの間にか細長くなった指で表面を撫でると、腹の中の命がかすかに動く感触がある。ずしりと重いこの腹は、祐介が母親になった証だった。
(俺、妊婦になっちまったのか? 一体どうして。しかもこれ、ちひろさんの服じゃないか? まさか、これって……)
 青ざめた顔をちひろに向けた。ダークブラウンのショートヘアが随分と高い位置にあった。どう見てもちひろの方が、十センチ以上高い。先ほどまで祐介の方が高かったはずの身長が逆転していた。あんなに突き出していた腹も、見事なまでに平坦になっている。
 妊婦だったちひろが、ラフな格好に変わって妊婦でなくなった。しかもちひろが着ている服は祐介のものだ。反対に祐介はちひろの服を着て、身重の体になっている。そして入れ替わった身長。いったい何が起こったのか、祐介は全てを理解した。
「ちひろさん、ちょっとそこをどいて下さい。その車のミラーを見たいんです……ああっ! や、やっぱり! 俺の体が、ちひろさんのになってる……!」
 車のサイドミラーをのぞき込み、祐介は絶望に喘いだ。決して当たってほしくない予想が的中したことを悟った。祐介の顔の下に、マタニティウェアを着た妊産婦の体があった。それは今日はじめて会った斉藤ちひろの肉体だった。
 祐介の首から下は、もはや十七歳の少年の体ではなかった。ちかぢか出産を控えた三十前後の主婦の肉体になっていたのだ。祐介の頭部と、ちひろの胴体が融合していた。信じがたい光景だった。
「おーっほっほっほ! やっと理解したようね、中川。今の自分の体が、ちひろさんのと入れ替わっちゃったこと」
 突然高笑いが聞こえて、祐介は戦慄する。車の向こう側には加藤真理奈が仁王立ちしていた。この上なく楽しそうな極上の笑みを浮かべて、変わり果てた祐介の姿をあざ笑っていた。
「か、加藤……これはお前の仕業かっ !?」
「ふん、そんなの訊くまでもないでしょ?」
 真理奈は祐介を見下し、ポケットからプラスチックの容器を取り出した。卵型の容器の先には、注射針と思しき細い針が備わっている。それは祐介が意識を失う前、真理奈が手に持っていた品だった。
「さっきも見せてやったわよね。これ、人間の体を粘土みたいに柔らかくしちゃうすごい薬なの。これをあんたの首に注射したら、あんたの頭は簡単に胴体から引きちぎれるようになるのよ。一番すごいところは、体がバラバラになっても死なないことね。あんたの首を胴体から引き離しても、別に死ぬわけじゃないの。仮死状態になるだけ。そんで仮死状態になった人間のパーツとパーツを合わせたら、逆にくっつけることができるのよ。わかる、中川? あたしはこの薬であんたとちひろさんの首を体から引っこ抜いて、交換してやったの。だから、今は中川の首から下がちひろさんで、ちひろさんの首から下が中川になってるってわけ」
「ふざけんな……早く俺たちの体を元に戻しやがれっ!」
 祐介は真理奈に飛びかかったが、力と体格で勝る彼女には敵わず、簡単に押さえ込まれてしまう。いくら元が男だろうと、体が臨月の妊婦になってしまっては満足に動けるわけがなかった。
「くそ、放せっ! 俺たちを元に戻せっ!」
「こら、ちょっと落ち着きなさい。そんな体で暴れたらお腹にさわるわよ。今のあんたは妊婦さんなんだから、気をつけないとダメでしょうが」
「ふざけんなっ! くそ、俺の体があっ!」
 振り回した腕は細く、小枝のように華奢だった。祐介は涙を流して、無力な己を恥じる。地面に膝をついてめそめそ泣いていると、慌ててちひろが駆け寄ってきた。
「ま、真理奈ちゃん! 乱暴なことはしないでよ!」
「大丈夫ですよ、何もしてませんから。てか、暴れたのはこいつだし」
 真理奈はにやりと笑って一歩退く。ちひろは祐介の傍らにしゃがみ込み、「祐介クン、大丈夫?」と訊ねてきた。
「だ、大丈夫です。大したことはありませんけど……ちひろさん、お願いです。俺の体を返して下さい。俺、こんなの耐えられません」
「うん、そうしたいのは山々なんだけど……私じゃ元に戻せないの。私もいきなり真理奈ちゃんに首を引っこ抜かれて、君の体にくっつけられちゃって……ごめんね、祐介クン。私のせいで君をこんな目に……」
「違います! 悪いのはあの厄病女神です! 毎度毎度いらんことばっかりしやがって、畜生……」
「待ってて。今、元の体に戻してくれるよう真理奈ちゃんに頼んでみるから」
 ちひろはそう言って、すっくと立ち上がった。トレーナーとジーンズに身を包んだ彼女の体はがっしりしていてたくましく、見上げると威圧感があった。やはりちひろの首から下は男の体なのだと、祐介は改めて思った。
「お願い、真理奈ちゃん。私たちの体を元に戻して。これじゃ祐介クンが可哀想。私だって男の子の体は嫌だし、それに大事な赤ちゃんをひと任せになんてできないわよ」
「あら、そうですか? お腹が重くて大変だってぼやいてたから、せっかく入れ替えてあげたのに。男の体もなかなかいいもんでしょ?」
「ダメよ、真理奈ちゃん。早く私たちを元に戻して!」
「はいはい、わかりました。ちひろさんがそう言うんじゃ、しょうがないなあ。今、元に戻る薬を出してあげますね」
 あっさりと真理奈はちひろの説得を聞き入れ、先ほど薬を取り出したポケットに再び手を突っ込んだ。ひねくれ者で祐介にとっては疫病神の真理奈だが、年長者の言うことは素直にきくらしい。ちひろは安堵の表情を浮かべ、祐介に向き直った。
「安心して、祐介クン。今、真理奈ちゃんが元に戻してくれるそうだから──きゃあっ !? な、何? ごほっ、ごほっ!」
 突然あがった悲鳴に、祐介はびくりとした。真理奈がポケットから小さなスプレーの缶を取り出し、ちひろの顔に振りかけたのだ。不意を突かれたちひろはまともに飛沫を浴び、激しく咳き込んだ。
「加藤っ! お前、ちひろさんに何しやがる!」
「あんたはそこで黙って見てなさい。とっても面白いものを見せてあげるから」
 真理奈はスプレーの缶をポケットにしまい、ちひろに手を伸ばす。ようやく呼吸が収まったちひろは、やけに力の抜けた様子で立ちすくんでいた。口を開けたまま、焦点の合わない目で真理奈を眺めて呆けていた。
「ふふふ……催眠スプレーの効果が出てきたみたいね。ちひろさん、あたしの声が聞こえる?」
「うん、聞こえるよ。真理奈ちゃんの声、とってもよく聞こえる……」
 ちひろは母に抱かれた子供のように安らかな顔で、真理奈に返事をする。明らかに異常をきたしているのが、その表情からわかった。また真理奈が何かしたのだと、祐介は直感した。
「加藤! お前、また妙なことを……今度はそのスプレーか !? それを吹きかけられたから、ちひろさんは……!」
「中川は黙ってて。まあ、どうせあんたの声はちひろさんには届かないからいいけども。ねえ、ちひろさん?」
「んー、何? 真理奈ちゃん。私、今とってもいい気持ちなんだけど……」
 ちひろの虚ろな瞳には、もはや真理奈しか映っていない。彼女の言うとおり、いくら祐介が呼びかけてもちひろは振り向こうとしなかった。完全に真理奈の術中にあった。
「あのね、ちひろさん。ちひろさんはさっき、中川と入れ替わった体を元に戻してほしいって言ったでしょ? あれを撤回してほしいの」
「うん、いいよ。撤回する……」
「な、何だって !? 加藤、てめえっ!」
 祐介は立ち上がり、真理奈につかみかかろうとした。だが、やはり無駄な抵抗だった。真理奈の術にかかったちひろが祐介の両腕を押さえ、妊産婦になった少年を羽交い絞めにした。
「ち、ちひろさんっ !? 放してください、ちひろさん!」
「ダメだよ、祐介クン。真理奈ちゃんの邪魔をしちゃダメだよ……」
 祐介の声は、もはやちひろに届かない。完全にちひろの心を支配下においた真理奈は、勝ち誇った邪悪な笑みを浮かべた。
「ふっふっふ……いい子ね、ちひろさん。じゃあ、これからあたしの言うことをよく聞いて。ちひろさんは不自由な妊婦の体が嫌で、そこにいる親切な中川祐介君に体を交換してもらったの。入れ替わったのはちひろさんの意思だから、ちひろさんは男になって万々歳ってわけ。元の体に戻りたくなんてない。それどころか、ずっとこのままでいたいと思ってる。OK?」
「うん、わかった。私、ずっとこのままでいる。元の体に戻してもらわなくてもいい……」
 すっかり真理奈の操り人形と化したちひろは、彼女の言葉を一分の疑いもなく受け入れる。真理奈はそんなちひろの姿にほくそ笑むと、大きく手を叩いて、「はい、催眠モード解除!」と宣言した。するとちひろの瞳に光が戻り、彼女はやけに嬉しそうに自分の体を見下ろした。
「ふふふ、これが男の子の体……私、祐介クンと首から下を取り替えっこしたんだ。嬉しいなあ」
「ち、ちひろさんっ !? 何を言ってるんですか! 俺の体を返して下さい!」
 祐介は暴れたが、ちひろは彼の両腕をがっちりつかんで放さない。やがて祐介の体はちひろの腕の中に納まり、優しく抱きしめられた。
「ありがとう、祐介クン。こんなにいい体を私にくれて。私、君の体を大事にするね」
「そんなの絶対に嫌です! 俺の体を返して下さいよおっ!」
「ダーメ。私も祐介クンも、もう体が入れ替わっちゃったんだから、一生このままでいるしかないんだよ。祐介クンは私の体で赤ちゃんを産んでママになるの。ほら、このコもそれがいいって言ってるよ」
 ちひろは大きな手のひらで祐介の腹部を撫でた。その言葉に反応したのかはわからないが、三十八週目の孕み腹の一部がぽこんと盛り上がる。祐介の子宮にいる赤子が、内側から外に手を伸ばしたのだ。
「ふふふ……お腹の赤ちゃんも新しいママを歓迎してるね。祐介クン、頑張ってこのコを産んであげてね。このコはもう私の赤ちゃんじゃなくて、祐介クンのなんだから」
「こ、こんなのおかしいです……狂ってる!」
 あまりにも常軌を逸した事態に、祐介はおかしくなってしまいそうだった。平凡な男子高校生の自分が妊婦と体を交換させられ、子供を出産させられようとしているのだ。真理奈の罠にかかった哀れな祐介は、肉体だけでなく男としての矜持も奪われようとしていた。
 そのとき、祐介の家の門が開いて、中から瑞希が飛び出してきた。異変を察知して駆けつけてくれたようだ。瑞希の背後には祐介の母親の姿もあった。
「祐ちゃん、大きな声を出してどうしたの? わあっ、その格好は何 !?」
「み、瑞希……俺の姿を見ないでくれ。俺、女にされちまったんだ……それも、こんな大きな腹をした妊婦になっちまったんだ……」
 祐介はこれ以上ない羞恥に赤面する。幼い頃からつき合っている恋人に、変わり果てた姿を見られるのは耐えられなかった。瑞希だけでなく、祐介の母親も一緒になって興味津々の表情で祐介を観察している。辛い仕打ちに涙がこぼれた。
 やってきた二人に説明を始めたのはちひろだった。ちひろは己の姿と祐介の格好を比較し、真理奈の持ってきた薬物によって自分たちの頭部を交換したことを、嬉しそうに語った。
「ホントに、祐介クンには感謝しないといけませんね。このコのおかげで、私は大きなお腹をかかえて苦しい思いをしなくて済んだんだから。お母様にもお礼を言わせてもらいますね」
 身勝手な感想を口にするちひろ。真理奈に操られているとはいえ、彼女の不快な言動が祐介の母親と瑞希を激昂させるのは明らかだった。「祐介の身体を返せ」と二人が騒ぎ出すのは想像に難くない。また新たな騒動になるのではないかと思うと、祐介はどうしていいかわからなかった。
 ところが、現実は残酷にも祐介の予想を裏切った。ちひろの説明を黙って聞いていた祐介の母親と瑞希は、やがて深く感心した様子でうなずき、口々に祐介を褒め称えたのだ。
「やるわねー、祐介。妊婦さんを助けるために自分の体を差し出すなんて、なかなかできることじゃないわよ。あんたみたいな立派な息子を持って、母さん嬉しい」
「祐ちゃん、すごい。祐ちゃんはこれから赤ちゃんを産んで、ママになるんだね。いつか私が祐ちゃんの赤ちゃんを産みたいって思ってたけど、そういうことなら私、祐ちゃんのことを応援するね」
「はああっ !? お前ら、何を血迷ってんだよ! 俺の体が盗まれたんだぞ! そんなのんきなこと言ってないで、早く俺の体を返すようちひろさんを説得してくれよ! 俺の体がこのままでもいいってのか !?」
 祐介が素っ頓狂な声をあげると、二人は口を揃えて「うん、そのままでいい」と言い出した。信じられない返事だった。祐介が肉体を強奪されたというのに、二人はむしろそれを喜んでいたのだ。
「祐介のお腹、すごいわねー。臨月なんですって? さっきから孫がほしいって瑞希ちゃんと話してたけど、まさかこんな形で授かるなんて思わなかったわ。うふふふ……」
「大丈夫だよ、祐ちゃん。私は祐ちゃんが男でも女でも大好きだから。これから祐ちゃんが赤ちゃんを産んでママになったら、私も育てるのを手伝ってあげる。えへへ、楽しみだなあ……」
「な、なんだ? お袋、瑞希……二人とも、いったいどうしちまったんだ?」
 虚ろな表情で笑い出した二人を見て、祐介は胸騒ぎを覚えた。母親と瑞希の奇妙な振る舞いは、先ほど真理奈に催眠術をかけられたちひろとそっくりだった。もしかするとまた真理奈が──そう疑念を抱いていると、祐介の家から唐突に真理奈が出てきた。真理奈は手にあの怪しい薬物の容器を持ち、とても清々しい顔をしていた。
「よーし、これで中川のお父さんも洗脳完了! 皆、頑張って祐ちゃんの妊婦ライフに協力してあげてねー。真理奈ちゃんからのお願い! てへっ」
「やっぱりお前の仕業かああああっ !! 加藤真理奈、てめえだけは生かしちゃおけねえ! 絶対にぶっ殺してやるっ!」
 祐介は全身の力を振り絞って真理奈に飛びかかろうとしたが、ちひろと母親、瑞希によってたかって押さえつけられてしまう。無力な妊婦と化した祐介は、もはや為すすべもなかった。
「それじゃあ、あたしたちはこれで帰るわね。ちひろさん、車を出して下さい」
「ええ、いいわよ。ああ……祐介クンの体、とっても動きやすくて気に入ったわ。これならしばらく控えてた車の運転も、楽しくできそうね。祐介クン、ホントにありがとう。それじゃ、さよならーっ」
 真理奈とちひろは軽自動車に乗り込み、颯爽とその場を去ってゆく。祐介はそれを止めることもできず、呆然と見送るしかなかった。
「お、俺の体が……これからどうしたらいいんだ。いったい俺はどうしたら……」
 新たな命が宿った孕み腹をかかえて、祐介は力なくうめいた。マタニティウェアに包まれた若い妊産婦の肉体が、今の祐介の体だった。祐介はただ女になっただけではなく、じきに母親になろうとしていた。


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