ナースのスワッパー

 待合室に女が立っていた。やや小柄で髪の長い、大人しそうな三十女だ。
「こんにちは。春斗君のお母様ですか?」
 明日香は穏やかな口調で話しかけた。女は顔を上げ、不安そうな表情を見せた。
「はい、母の由紀恵と申します。あの、春斗をお呼びですか?」
「ええ、どうぞ診察室にお入り下さい」
「それが……」
 由紀恵と名乗った女は黙り込んでしまう。
 明日香が訝しがっていると、廊下の方から大きな話し声が聞こえてきた。
「嫌だよ! 僕、もう帰る!」
「そんなの駄目だって言ってるでしょう! ワガママばかり言わないの!」
 驚いて振り返った明日香の前に、子供を連れた別の女がやってきた。
 中年を過ぎた頃の白髪の女だ。明日香が「お義母さん」と声をかけた。
「あら、もう呼ばれたの? ごめんなさいね、この子が嫌がって逃げてしまって……」
 そう説明し、白髪の女は明日香に挨拶した。春斗の祖母で、和子というらしい。
 その和子が手を引いている、というより腕にしがみついているのが春斗だった。
 色白で線が細く、同年代の男子に比べて華奢な体つきだ。
 明日香がいる科で診るため呼びに来たのだが、どうやら嫌がっているようだった。
「お姉さん、看護婦さんなの?」
「ええ、そうよ。こんにちは、春斗君。私は看護師の明日香。春斗君の番になったから、一緒に診察室に行こうか」
「やだ、やだ! 病院なんて嫌いだー!」
「ハルちゃん、駄目でしょう! 診てもらわないとハルちゃんの体、治らないのよ!」
 明日香に手を取られて嫌がる春斗を、和子が叱りつけた。
 それでも春斗は聞かず、手を振り払おうとする。明日香の腕に力がこもった。
「春斗君、お母さんもお婆ちゃんも君のことを心配しているのよ。怖くないから一緒に行こう」
「嫌だよー!」
(やれやれ、困ったわね)
 扱いかねる聞かん坊を前に、態度に出さすに嘆息すると、明日香は由紀恵や和子と協力し、春斗を奥へと連れて行った。診察室の中では医師の俊彦が待ちかねていた。
「お、来たか。ちょっと時間がかかったね」
「すみません、先生」
 春斗の代わりに明日香は詫びたが、俊彦は大して気にしていないようだった。温和な性格で、患者からの信頼も厚い。ひと回り近く年上のこの医師のことを、明日香はつねづね尊敬していた。
「よーし。じゃあ、検査を始めようか。春斗君、ここのベッドに上がってもらえるかな?」
「やだ、やだ!」
「春斗!」
 由紀恵が顔色を変えた。春斗はますますぐずり、手を離したらすぐさま部屋を飛び出しかねない。母親や祖母が叱っても、まるで効果が無かった。この年頃の少年であればもっと落ち着きがあって然るべきだが、春斗は見た目以上に幼かった。
「困ったなあ。これでは検査ができないよ」
「先生、どうしましょうか」
「ふむ、そうだな……」
 俊彦は少しの間考え込むと、眼鏡のフレームを指で持ち上げた。何か思いついたときのサインだ。
「明日香君、君、手伝ってくれるかな?」
「え? 何をですか」
「何って、春斗君の体の検査に決まってるじゃないか。協力してくれないか」
「そりゃあ、もちろん……でも、どうするんですか?」
「すぐにわかるよ。おーい、誰か!」
 明日香の承諾を取り付けた俊彦は、診察室の奥にいる別の看護師を呼び出した。
 現れたのは、明日香の先輩である瞳だった。彼女も、新人の明日香が頼りにする存在だ。
「はいはーい、先生、どうしましたかー?」
「瞳君、スワッパーを持ってきてくれ」
「わかりました。誰に使うんです?」
「明日香君だ。彼女には初めてだね」
「はーい、じゃあ取ってきまーす」
 妙にとぼけた独特の口調で答えると、瞳は奥へと引っ込み、すぐにまた戻ってきた。
「お待たせしました。先生、どうぞ」
「ありがとう。さあ、明日香君、これを首に装着してくれ」
「え? 何ですか、これは」
 明日香は首をかしげた。俊彦に手渡されたのは、手を広げたくらいの大きさの金属の輪だったのだ。
 輪は中ほどで折れ曲がるようになっており、開閉や長さの調節が可能なようだ。
 小さな機械が接続されていることを除けば、犬の首輪のようにも見える。
「それはスワッパーといって、首につけるものだ。今回はそれを使って、君に検査を手伝ってもらう。さあ、それをつけてベッドに座って」
「はあ……よくわかりませんけど、着けました」
 明日香は言われるがままベッドに腰かけ、スワッパーと呼ばれる輪を首に装着した。長さを調節し、首が絞まらない程度に覆う長さにする。
 次に、俊彦は同じ輪を取り出して春斗に突きつけた。
「すみません、保護者の方々。少しの間、春斗君を押さえておいて下さい」
「承知しましたわ、先生」
「何するつもりだ、放せー! 僕もう帰るー!」
 春斗は再び暴れようとしたが、大人たちに押さえ込まれては流石に逃げられない。俊彦は春斗の首にも同じ金属の輪を着けてやった。
「よし、これでいいな。大丈夫だよ、春斗君。君はもう検査を受けなくていいから」
「え、ホント !?」
 途端に、春斗の顔が明るくなった。しかし、俊彦の発言は不可解だった。
「先生、検査はしないんですか?」
 明日香が問うと、俊彦はかぶりを振った。
「いや、検査はするよ。でも、春斗君にはしない」
「それってどういう……」
「すぐにわかるよ。スワッパー、起動」
 俊彦はパソコンのキーボードほどの大きさの機械を取り出し、操作を始めた。どうやら、この輪のコントローラーらしい。
「春斗君と、明日香君のデータを入力して……うん、いける。では始めます」
「あれ? 首が……熱い」
 俊彦がコントローラーを巧みに操るのを見ているうちに、明日香は首に違和感を覚えた。首を覆う金属の輪が振動し、熱くなっていたのだ。
「あ、熱い。首が熱いよ……」
 春斗にも同じ現象が起きているようだ。また暴れるかと思ったが、自分の首を懸命に両手で押さえ、椅子の上から動かない。
「あ、熱いよ。助けてえ……」
「あの、先生……私も首が熱いんですけど、どうなっているんですか?」
「明日香君、少しの間、口を閉じておいてもらえるかな。大丈夫だから」
「はあ……」
 不承不承、沈黙して事の成り行きを見守る明日香。その首を覆う輪はいっそう熱を帯び、とうとう我慢できないほどになった。
(あ、熱い……助けて!)
 悲鳴をあげようとして、声が出ないことに気づく。次の瞬間、長い電子音が診察室に鳴り響いた。
「ハ、ハルちゃんっ !? あなた……!」
「しっ、お静かに」
(うう……一体どうなったっていうの)
 いつの間にか、明日香を苛んでいた熱は綺麗さっぱり消え失せていた。だが、変化はそれに留まらなかった。声が出せないことだけではなく、明日香は更なる異変に見舞われていた。
(な、何よこれ。体の感覚が……!)
 膝に当てられた両手の感覚、椅子に座る尻の感覚、靴を履いた足の感覚……明日香の体からあらゆる触覚が消失していた。肌や筋肉の様子を感じることができないほか、体を動かすこともまったくできない。指一つ動かせないようにさえ思えた。まるで、自分の体が丸ごと無くなってしまったかのようだ。初めて味わう、途方も無い喪失感に明日香は恐怖した。
「お、うまくいったね。春斗君の方も大丈夫そうだ」
 狼狽する明日香の耳が、落ち着いた俊彦の声を受け止めた。幸い、聴覚は残っているらしい。視覚も問題なしだ。しかし、触覚が完全に抜け落ちているため、さながら音声つきの映像を観せられている気分だった。
(先生、私、どうなったんですか)
 相変わらず声は出ない。しかし、俊彦は明日香の表情から彼女の言いたいことを察してくれたようだ。傍らにいる瞳に、鏡を持ってくるように命じた。
「うまくいったよ、明日香君。さあ、存分に見なさい。自分の身に何が起こったかを」
(こ、これは…… !?)
 俊彦に円形の手鏡を突きつけられ、明日香は戦慄した。
 鏡には、首輪を装着した明日香の顔がはっきりと映っていた。ただし、頭だけだ。首から下の体がない。体があるはずの部分が、金属の輪によってぷっつり途切れていた。明日香は自分が置かれた状況が信じられなかった。なんと、明日香は首だけになっていたのだ。
(私、首だけ! 首だけになってる !?)
 声さえ出すことができれば、絶叫していただろう。だが、今の明日香にはそれすらも叶わない。
「驚きましたか、明日香君? これがスワッパーの効果です。これを使うと、人間の体から首だけを生きたまま取り外すことができるのです。ちょうど今の君のようにね」
 俊彦は右手に明日香の生首を、左手に鏡を持って説明する。それは、患者に病気や薬の説明をするときとまったく同じ口調だった。
「違和感があるかもしれないけど安心しなさい。首を取り外しても血は出ないし、頭にも体にも悪影響はまったくない。数時間そのままでも命には別状ない。実に画期的な装置だよ」
「明日香ちゃん、目を白黒させてるわ。可愛いー」と、横槍を挟んだのは瞳だ。
「瞳君、からかうのはやめなさい。君だって最初は彼女と同じだったんだから」
「はーい」
 瞳はけらけら笑い、明日香から離れて壁にもたれかかった。明日香の生首を手に持った俊彦の猟奇的な像を目にしても、まったく驚いた様子はない。会話から察するに、彼女もこの装置を使ったことがあるようだった。
(でも、どうしてこんなことを。先生は何を考えているの)
「なんでこんなことをしたかって? それも、今から説明しよう」
 明日香の瞳に浮かんだ疑問に、俊彦が答える。「スワッパーは、ただ人間の首を生きたまま切断するだけの機械じゃない。今から、そのもう一つの機能をお目にかけよう」
 と言いながら、俊彦は明日香の首を丁寧にベッドの上に置いた。落ち着いた俊彦や、驚きの表情を浮かべる由紀恵と和子の顔が、はるか上方にあった。明日香が不安を隠し切れずにいると、彼女と向かい合う形で春斗の首が正面に置かれた。春斗も混乱した様子で、明日香に何か言いたげだった。
(私だけじゃなくて、春斗君の頭も取れちゃったんだわ。酷い……)
 自分が信頼し、尊敬している医師が、なぜこんなことをするのか理解できなかった。しばらくして、俊彦が再び明日香の頭部を持ち上げた。
「安心しなさい。すぐに体に繋げてあげるからね」
 その優しい表情と声音に、幾分、気持ちが安らかになった。
(なんだ。すぐに元に戻してもらえるんだ……)
 視界がゆっくりと回り、椅子の上の辺りで固定される。察するに、首無しの体の上に載せられたらしい。
「スワッパーは単に首を取り外すだけじゃなくて、元のように繋げることもできるんだ。こうやって……」
 俊彦は再びコントローラーを操作し始めた。ようやく安堵した明日香だが、一瞬、間をおいて、あることに気がつく。
(あれ、私の体があそこにある……どうして?)
 視界の端に、ベッドに座った看護師の姿が見えた。胸元の名札には明日香の名が記されている。身動き一つしないその体には、あるべきはずの頭部が存在しなかった。首は根元の辺りで切断されており、出血のない滑らかなピンク色の切り口を晒していた。
(あそこにあるのは、どう見ても私の体よね。じゃあ、ここにあるのは……?)
 明日香が解答にたどり着く直前、唐突に全身の感覚が舞い戻ってきた。
「ひゃあっ !? あ、声が……出る。体も……動く」
 明日香は調子はずれの声を発した。完全に触覚が遮断されていたため、突然の復旧にうろたえてしまう。五感が完全だというのは、これほど満ち足りたものなのか。驚きが収まってから、ようやく嬉しさがこみ上げてきた。
「ああ……私、元に戻れたんだ。よかった……あら?」
 安心したのも束の間、自分の姿を見下ろした明日香は困惑した。
 明日香の服装が、さきほどまで着ていた看護師用の白衣ではなくなっていたのだ。
 いつの間にかキャラクターものの半袖のTシャツと、薄い茶色の短パンへと変わっていた自分の格好に、わけがわからず驚き戸惑う。
 まるで男子小学生のようなその服装に、明日香は見覚えがあった。それは春斗の服だった。
「きゃあああっ !? な、何よこれっ! 私の体が……」
 とうとう悲鳴があがった。変化していたのは服だけではなかった。手足は成人とは言いがたいくらい細く、長さも足りない。眼前に座っている俊彦の目線からも、自分の体が縮んでしまっていることがわかる。まるで子供のような体格だ。
 間違いなく、明日香の服装も、体型も、春斗と同じようになってしまっていた。どういうことかと慌てる明日香に、俊彦がまた鏡を見せた。
「落ち着きなさい、明日香君。今の君は、春斗君の体になっているんだよ」
「ええっ !? 春斗君の !?」
 明日香は鏡を引ったくり、己の姿をまじまじと眺めた。ナースキャップをかぶった常日頃の自分の頭の下に、春斗の小さな体があった。信じられない、いや、信じたくない姿だった。
「驚いただろう? これがスワッパーのもう一つの機能だよ。明日香君の頭を、春斗君の体と繋ぎ合わせたのさ。まったく何の違和感もなくね」
「違和感ありますっ! こんなの違和感しかないですっ! お願いですから、元に戻して下さい!」
 明日香は猛烈に抗議したが、俊彦は涼しい顔だ。
「心配しなくても、ちゃんと戻してあげるよ。その体の検査が全て終わった後にね」
「え? それって……」
「そう、明日香君が春斗君の代わりに検査を受けるんだよ。そのために、わざわざこんなことをしているんだ」
「そんな……そんなの聞いてません」
 明日香はようやく事情が飲み込めた。検査に協力しようとしない春斗の頭部を体から切り離し、代わりにスタッフの明日香の頭部を繋げることで、スムーズに検査ができるようにするのだ。
「やっと理解してくれたようだね。じゃあ、遅くなったけど検査を始めようか。保護者の方は、どうかあちらでお待ち下さい」
「先生、あの……」
 発言したのは春斗の母親、由紀恵だった。「春斗、このままで大丈夫なんでしょうか?」
 見ると、ベッドの上に春斗の生首が置かれ、その隣には首の無い明日香の体がへたり込んでいた。血こそ流れていないものの、猟奇殺人の現場を思わせる、見るも無残な光景だった。
「ええ、検査をする間くらい大丈夫ですよ。でも、お母様としてはやっぱり気になりますよね」
「は、はあ……まあ……」
「わかりました。検査をする間、春斗君にも一緒に外で待っていてもらいましょう」
「え?」
 当惑する由紀恵と和子の前で、俊彦は春斗の生首を軽々と持ち上げた。そして、男児の頭を首のない明日香の体に載せてしまう。
「先生、何を……まさか」
 俊彦が軽快な手つきでコントローラーを操作すると、若い看護師の体が一瞬、小さく痙攣し、そしてゆっくりと動き出した。
「え、何これ。僕、どうなっちゃったの?」
「は、春斗……!」
 それは俊彦と瞳以外の全員が吃驚する光景だった。男子小学生の頭が、成人女性の体と結合されていたのだ。線の細い少年の顔の下に、丸みを帯びたシルエットを持つ女体が繋がっていた。
「特に複雑なことはしていませんよ。明日香君の頭を春斗君の体に繋いだように、春斗君の頭を明日香君の体に繋いだだけです。要は、二人の首をすげ替えたわけですね」
「す、すごいや……僕、看護婦さんの体になっちゃった」
 春斗は立ち上がり、自分の体を手のひらで触り始めた。身体が変わったことを確かめているようだった。
「具合はどうだい、春斗君? ちゃんと繋がってるかな」
「うん、大丈夫! ホントにすごいや。今の僕、ママより背が高いし、おっぱいだって……」
 興味津々の様子で、春斗は己の胸にある膨らみを揉みしだく。張りのある乳房が上下に揺れ、豊かな弾力が見て取れた。成人女性の平均よりもやや大きめの明日香のバストは、今や春斗のものになっていた。
「や、やめて、春斗君! それ、私の体なのよ !?」
「まあまあ、明日香君。子供のすることじゃないか」
 明日香は見ていられなくなって止めようとするも、俊彦と瞳に押さえつけられてしまう。「君が暴れては、わざわざスワッパーを使った意味がないだろう。大人しくしなさい」
「い、嫌です! 先生、私の体を返して!」
「お母様がた、早く春斗君を連れて、外へ」
「は、はい……失礼します。春斗、行くわよ」
 二人の保護者は、明日香から逃れるようにして白衣の春斗を外へと連れ出す。明日香は叫んだが、どうにもならなかった。たとえ一時のこととはいえ、自分の大事な体が今日初めて会った男子小学生に奪われてしまい、不安で不安で仕方なかった。
「ふう……まったく、何を考えているんだ。すぐに元に戻してやると言ってるだろうに」
「で、でも、こんなのおかしいです」
「何もおかしくはない! さあ、検査を始めるぞ!」
 いつになく強い口調で言って、俊彦は明日香をベッドに寝かせた。たった数時間で終わるはずの検査が、果てしなく続くように思えた。
 やがて、俊彦がぽつりと言った。
「うーむ、これは……やはり手術が必要だな。瞳君、たしかベッドに空きはあったね?」
「はーい、大丈夫でーす」
「ええっ !?」
 明日香は横になったまま声を張り上げた。今日は検査だけではなかったのか。
「悪い知らせだ、明日香君。君には今すぐ入院してもらうことになった。期間は手術後の経過次第だが、おそらく一ヶ月ほどかかると思う」
「そ、そんな……どうして私が入院しなくちゃいけないんですか !? そんなの春斗君がするべきことでしょう。元の体に戻して下さい!」
「まあ、ひと月くらいいいじゃないの、明日香ちゃん。その間はお仕事しなくていいし、お給料だってちゃんと出るわよ。ちょっと長いお休みだと思ってさあ」
「嫌です! 絶対に嫌です!」
 面白そうに言う瞳に力いっぱい怒鳴ってから、明日香は俊彦に向き直った。
「先生、お願いです。早く私を元の体に戻して下さい」
「それは難しいな。残念だが、君の期待には応えられそうにない」
「どうしてですか !? どうしてそんな……!」
「今のその体にスワッパーは危険なことが判明した。完治してからでないと、もしかしたら後遺症が残るかもしれない。私が軽率だった……」
 聞けば、春斗の身体から当初の予想とはまったく異なる疾患が見つかったのだという。本来、スワッパーを用いてはいけないケースだそうだ。
「春斗君とお母様がたにもきちんと事情を説明して、了承してもらわなければね。瞳君、明日香君を部屋に運んでくれ」
「わかりましたー」
 瞳が気楽な声で答え、明日香のベッドを動かし始めた。明日香は恐れおののいた。
「せ、先生! 何とかして下さい! 先生っ!」
「大丈夫、疾患自体は別に命に関わるようなものではないよ。安心しなさい」
「せ、先生っ! 俊彦先生っ!」
 明日香の悲鳴が検査室に響いた。突然の災難に見舞われ、どうしていいかわからなかった。病棟の廊下を運ばれながら、明日香は無力な子供のように泣きわめいた。

 その日、見舞い客が明日香の病室に姿を見せたのは、昼過ぎのことだった。
「あら、春斗君も来てくれたの?」
 明日香は個室のベッドから身を起こした。体調は良く、多少動いても問題ない。
「うん、お見舞いだよ。果物を持ってきたから、後で食べてね」
 春斗が明日香の傍らに立ってはにかんだ。今日の春斗は夏らしいノースリーブのカットソーに、青いキュロットスカートという涼しげな装いだ。それは明日香の私服だった。明日香の自慢だった豊満なバストが、春斗のあどけない顔の下で揺れていた。
「こんにちは、いつもお世話になっております……」
 春斗の後ろでは、母の由紀恵が恐縮した様子で挨拶している。今日は、祖母の和子はいないようだ。
「そんなに硬くならないで結構ですよ。お世話になってるのは私の方ですから。どうぞ楽になさって下さい」
 明日香は自分が着ている子供用のパジャマを示して言った。アニメのキャラクターのイラストがプリントされたその寝巻きは、春斗が愛用していた品だ。自分の服を貸す代わりに、春斗の服を貸してもらっているのだ。
「いいえ、そういうわけには参りません。この子の代わりになって入院していただいた上に、手術まで……本当に申し訳ございません」
「もういいんですよ。過ぎたことですし、それに経過も良好ですから」
 由紀恵たちは入院費用の負担や身の回りの世話など、明日香が必要とするあらゆる措置をとってくれた。体が入れ替わって三週間になる現在では、感謝の念こそあれ、いささかも恨みはない。
「来月の頭ごろには退院できそうです。そうしたら、ようやくこの体を春斗君にお返しできますね」
「はい。本当に感謝の言葉もございません……」
「春斗君、どう? お姉ちゃんの体になって、何か困ったことはない?」
 明日香が訊ねると、春斗は大きくうなずいた。
「うん、大丈夫! こないだお股から血が出てきてびっくりしたけど、僕、泣かなかったよ! セーリって言うんだよね、あれって?」
「まあ、そんなことまで……そうね、私の体になってるんだものね。生理だって来るか……」
 明日香は一瞬、目を丸くしたが、すぐに納得して笑顔を見せた。他人と首から下の肉体を交換するというのは、途轍もなく大変なことなのだ。小学生の男の子が二十代の女性看護師の体になったのだから、尚更である。
「でも、あんまりお姉ちゃんの体に慣れちゃうと、元に戻ったとき大変よ。春斗君、立っておしっこできる自信はある?」
「うーん、自信ないかも……」
「お姉ちゃんも、だいぶ春斗君の体に慣れちゃったから大変よ。元に戻ったら、トイレの前でスカートをまくり上げて、おちんちんもないのに立ちションしちゃうかも」
「あはははっ! それ、おかしい!」
 春斗はひとしきり明日香と歓談すると、由紀恵に手を引かれて名残惜しそうに帰っていった。春斗の方が長身で肉づきもいいため、歳の離れた姉妹のようにも見えた。
 見舞い客を帰した明日香は、入院患者用の味気ない夕食を終えると、早々に床についた。経過は良好とはいえ、まだまだ完全に治ったわけではない。安静にして、少しでも早い退院を目指すべきだった。
「早く春斗君にこの体を返して、私の体を返してもらわないとね。今は我慢我慢……」
 明日香はタオルケットを頭からかぶると、子供のように寝息をたて、夢の国へと旅立っていった。

 ◇ ◇ ◇ 

「あらあら、まあ……」
 和子は歓喜の声をあげた。診察室の中でくるりと一回転して、自身の姿を確かめる。ノースリーブのカットソーにキュロットスカート。それは、春斗が身につけていた若者向けのレディースファッションだった。
「いかがですか? 明日香君の体は」
 俊彦は椅子に座ったまま、和子を見上げた。二十二歳の看護師の肉体を所有しているのは、本来の持ち主である明日香でも春斗でもなく、還暦を迎えたばかりの和子だった。その細い首には明日香と春斗が用いた医療器具、スワッパーが装着されていた。
「最高です。羽が生えたみたいに身が軽いし、お肌も艶々で……私の、お婆ちゃんの体とは大違いですわ」
「喜んでいただけたようで何より」
 俊彦は肩をすくめ、スワッパーのコントローラーを机の上に置いた。彼は再びスワッパーを用い、今度は春斗と和子の首から下を入れ替えたのである。
「これがお婆ちゃんの体かー。ううっ、肩が痛い。腰も痛いよ……」
 頭部以外が六十歳の祖母の肉体になった春斗が、しかめっ面で感想を述べた。「やっぱり僕、明日香お姉ちゃんの体の方が好き」
「ちょっとの間、我慢しなさい。また明日香さんのお見舞いに行くとき、体を交換してあげるから」
 和子は己の白い肌を撫で回しながら、孫に言い聞かせた。嫁の由紀恵は同行していない。世話になった明日香の体を和子が勝手に用いることに、由紀恵はいい顔をしなかったが、どうせばれはしないと強引に押し切った。若い娘の肉体は、和子にとっては魅力的なのだ。医師を脅迫し、持ち主に無断で借用するほどに。
「何か変わったことがございましたら、すぐ私どもにご連絡をお願いします。まあ、その体は健康そのものですから、特に何ごともないでしょうが」
 俊彦は淡々と告げた。少なくとも表面上は、その態度に嫌悪の情は表れていない。
「ありがとうございます。春斗のことといい、先生にはいくら感謝しても足りません」
「感謝は結構ですから、春斗君にスワッパーを使った件、くれぐれも他言なさらないようにお願いしますよ」
「承知しております。こうして良くして下さっている限り、先生に決してご迷惑はおかけしませんわ」
「そうですか。それじゃ、お大事に」
 俊彦は丁重に和子と春斗を送り出した。
 病院を出ると、夏の陽が傾いて街をえんじ色に染めていた。和子は不意に大声をあげたくなった。
「若い体、最高ねっ! うふふふ……」
 後ろに春斗がついてきていることも忘れて、嬉しさのあまり飛び上がる和子。周囲の通行人の注目を集めるのが、彼女にはまた快かった。


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