うちの姉さん 1

 下の階から聞こえてきた大声に、ジュリアンはすくみあがった。
 ここ最近は比較的平和だったのに何事だろう。彼は端正な、だが線の細い顔に不安の色を浮かべ、そっと階段を下りていった。
「――冗談じゃありません !!」
 食堂のドアを通して女の金切り声がびりびりと響いてくる。さすがに開けるのはためらわれ、ジュリアンは扉の前で立ち止まった。部屋の外であっても会話は充分聞こえてくる。
「会った事もない人と、結婚などできますか !!」
「――しかしな、エリザベート……」
 恐れをなしてか、父の声も小さくなっていた。
「相手は公爵家のご長男、王家の血も引いていらっしゃる。言うまでもないが、うちなどよりはるかに格上なのだよ」
「それが何だと言うんですか !!」
「しかも聡明でかなりの美男子、宮廷での評判も高い。となれば、喜びこそすれお断りする理由がないのだ」
「私には輿入れする理由などありません !! ちゃんと自分のお相手は自分で探します !!」
 父は困り果てているようだが、引き下がりはしない。
「エリザベート……お前は賢いし、父の目から見ても、その、充分に可愛い顔をしている。しかし、いまだ浮いた話一つないではないか」
 父の指摘に、エリザベートのキンキン声が鳴り響いた。
「だからと言って、知らない男性に嫁げと言われれば誰だってうなずくはずがありません !! お父様は、私を政略結婚の道具にするつもりですか !!」
「い、いや……そうではないのだが……」
「もういいです !! とにかくお断りしてください !!」
 バン !!  蝶つがいが吹き飛びそうな勢いでドアが開けられ、ジュリアンは避けようと尻餅をついてしまった。逃げる暇もなく、エリザベートと目が合う。
「――ジュリアン、聞いていたの?」
「う、うん……」
 静かな姉の迫力に押され、座り込んだままうなずく少年。エリザベートはそんな弟を立たせてやると、
「心配しないで。私はお嫁になんて行かないから」
 と優しく抱きついてきた。
 姉弟共に金髪碧眼、美しい貴族の子女である。
「私の好きなのはジュリアン、あなただけだもの。これからもずっと一緒よ。ジュリアン」
「う……うん……」
 父と同じ、困り果てた顔で少年はうなずいた。

 部屋に戻ると、既にベッドが整えられている。
 悩んだ様子のジュリアンを心配したのか、アンが果実のジュースを作って持ってきてくれた。
「ありがとう、アン」
 まだ幼さの残る小さなメイドが、短い黒髪の頭を下げる。
 今年入ったばかりの新米でジュリアンより2、3歳年下のはずだ。彼とて背の高い方ではないが、小さな体でパタパタ忙しく動き回るアンを見ていると、何となく微笑ましく思ってしまう。
「しかし姉ちゃんにも困ったもんだよ……」
「そ、そうなんですか?」
 他に言う相手もいないため、ついアンにこぼしてしまう。
「恋人もいなくて、僕にばかり構ってくるんだもん。やれ乗馬だの、やれ買い物だの、結構疲れるんだよ? そのたびにこっちは好き勝手な姉ちゃんに付き合わされてさ」
「はあ……」
「今回の話だって、相手は公爵家なんだから大したもんじゃないか。うちみたいな端くれ貴族にはもったいないくらいだよ」
 聞いているアンも返答に困った顔をした。

 嫌がるエリザベートだったが、縁談の話は急速にまとまっていった。何でも舞踏会で一目惚れしたとかで、向こうの公子がどうしてもと強く言ってきているのだ。伯爵家でも反対の声をあげるのは本人だけで味方はいない。
 一月ほどして、とうとうエリザベートの輿入れが本決まりになった。
「あーん、ジュリアンーっ !!」
 弟を抱きしめて涙を流すエリザベート。
「……ま、まあ仕方ないよ。結婚しても姉ちゃんは姉ちゃんでしょ? またいつでも戻っておいでよ」
 心にもない慰めは、もちろん姉を感動させはしなかった。
「はあ……やっぱりあなたも、私を厄介払いしたいのね。私はこんなにあなたを愛しているのに……」
「――むっ !? ん……む……」
 突然唇を奪われ、ジュリアンは目を白黒させた。
 いつもより力強く濃厚なキスに呼吸が苦しくなる。たっぷり1分ほど唇を貪られ、やっと彼は解放された。
「……見てなさい。絶対何とかしてやるんだから。私がこのまま終わると思ったら大間違いよっ !!」
 拳を握り締める姉にかける言葉は、残念ながら思いつかなかった。

 ――キラリ……。
 まさしく、そんな音が聞こえてきそうなきらめきだった。日の光に照らされた銀の糸が幾筋も宙に舞い、見る者は妖精の機織りではないかと錯覚してしまうほどだ。
「――ふむ……」
 輝きの主、美しい銀髪の少女が言った。
「お話はよくわかった。わたくしの力ならば容易い事だが、貴女は本当にそれでいいのか?」
 幼い鈴の音の声に似つかわしくない、大人びた口調である。
 王家の威厳を目の当たりにし、エリザベートは戦慄した。
「……はい、構いません。ぜひ、王女様のお力を貸して頂きたいと――」
「そうか、ならばやってみせよう」
 心なしか少女は喜んでいるようだった。秘められた魔術の力を久々に発揮できるのだ。
 なぜこの美しい王家の娘が、怪しげな魔導などに通じているのか。エリザベートには知る由もなかったが、今はこの王女を頼るしかない。
「では、その者をここへ」
 既に連れてきている。娘は王女を前にしてガチガチに固まっていた。事情も知らず連れてこられたのだが、彼女の知った事ではない。何も知らない娘を、エリザベートはためらいもなく王女に差し出した。

 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 

 日がのぼり、傾き、沈み、そしてまたのぼる。気の遠くなる昔から続いている、一日の流れだった。
 そして今は日がのぼったところだ。また平穏で退屈な一日が始まる。
 そろそろ起きないといけないな――。
 ジュリアンはまだ大部分寝ている頭で、ぼんやりとそう考えた。
 ――くちゅ……ぴちゃ、くちゅ……。
 何だろう、とても気持ちがいい。温かくて柔らかい何かが口の中を優しくなで回している気がする。くちゅくちゅという音と共に甘い液体が彼の中に入ってきて、それを飲み込むとジュリアンの乾いた喉が歓喜の声をあげた。
「ん……?」
 薄目を開けるといつもの天井ではなく、大きな影が視界を覆っているのに気づいた。あまりに近すぎてわからなかったが、それはいつも見慣れた顔だった。
(ああ、アンか……)
 可愛らしい黒髪のメイドの少女が彼に覆いかぶさり、唇を塞ぎ熱い舌をジュリアンの口中で蠢かせている。先ほど飲み込んだ液体は、どうやらこの少女の唾液らしい。
(ああ、アン、とっても温かい――)
 ……。
 …………。
 ………………。
「――ぶはっ !!!」
「きゃっ !?」  あまりにも唐突に、ジュリアンが跳ね起きた。その勢いでアンは吹き飛ばされ、床に尻餅をついてしまう。
「……痛〜い……」
「な、ななな、何してるんだよアン !!」
 白い顔をこの上なく真っ赤に染めてジュリアンが叫ぶ。
「ああ、起きたのね。キスくらいで慌てちゃって、ホントに可愛いんだから」
 少女はニヤリと笑い、主人の少年に言った。いつもの遠慮がちで内気な様子はどこにもなく、腰に手を当てて偉そうにこちらを見上げていた。
「――だから何で、こんな事するんだよっ !!」
 相手を指す手がブルブル震え、真っ直ぐに向かない。アンはそんなジュリアンを鼻で笑ったようだった。
「だって、今の私はあんたのメイドでしょ? 朝、起こしてあげるのは当たり前の事じゃない」
「それで何でキスなんだよ !?」
「……おかしいわねえ。昔ならとにかく、ここ最近はキスくらいで文句言われた覚えがないんだけど……。あんた、ひょっとしてまだ寝ぼけてる?」
「―――― !?」
 年下のメイドの失礼すぎる物言いに返す言葉も思いつかず、ジュリアンは真っ赤になってアンをにらみつけた。
「まあいいわ、とりあえず顔洗ってきなさい。朝食の時間よ」
 伯爵家の朝食は家族全員が揃う。この日も父と母、それにジュリアンがテーブルに着いた。今までは姉のエリザベートも同席していたのだが、先日公爵家に嫁いでしまったため今は三人である。
「――はい、あ〜ん」
「…………」
 こちらに向けられるスプーンにジュリアンが言った。
「あのさあ……アン……」
「何よ? 早く食べなさいよ」
「何で、僕が、君に、ご飯を、食べさせて、もらうのかな?」
「そんなのいつもの事でしょ。ほら口開けて」
 当然のように言い放つ小柄なメイド。
 もちろん彼はアンに食事を食べさせてもらった覚えは絶対にない。いつもは嫌がる彼に姉のエリザベートが――。
「……わかったわかった。やり方が気に入らないのよね?」
 そう言い、アンはスプーンを自分の口に運び咀嚼すると、不意にジュリアンの唇に自らのそれを重ねた。
「――――っ !?」
 口移しで入ってくる柔らかい肉の感触に、彼はアンを突き飛ばす。
「――やめろっ !!」
 再び尻餅をついて、アンはこちらを見上げてきた。目は細くなり、静かな怒りを込めてジュリアンをにらみつけてくる。
「……何するのよ、ジュリアン」
「何って、おかしいだろ、アン !? 今日は一体どうしたのさ、いつものアンじゃない !! おかしいよ、全部おかしい !! 全部だ !!」
 彼は呼吸も忘れてまくし立てた。だがアンはまた唇の端を吊り上げ、笑顔を彼に返す。
「うーん、やっぱりわからないか。まあ当然よね」
「――何がだよ !? 一体何なんだよ !?」
「それじゃあ、お父様に説明してもらいますか」
「父さんに……?」
 ずっと二人の様子を見ていた両親に、アンは視線を向けた。伯爵は先日と全く同じ、困った表情を浮かべている。
「あー……それがな、ジュリアン」
「はい」
「実は、お前に許婚ができた」
「……はい?」
 唐突な重大発言に目が点になる。ジュリアンは父親に食ってかかった。
「――許婚 !? そんな話聞いてませんよ !!」
「うむ、ついこの間決まったばかりだからな」
 怒鳴り続ける息子に対し、両親はあくまで平静を装っている。
「エリザベートも望まぬ相手と結婚させられたのだ。お前も伯爵家の跡取り、覚悟していなかった訳でもあるまい」
「確かにそうですが……。で、誰なんです、その許婚とやらは」
 先日パーティで仲良く話した子爵令嬢だろうか。それとも従妹で歳の近いイネスだろうか。
「それがな、お前の隣にいる」
「え……?」
 とっさに反応できず、何気なく横を見るジュリアン。そこには小柄な黒髪のメイドがニヤニヤと彼を見つめている。
「という訳で、今はまだ許婚 兼 専属メイドだけど、何年かしたら私があんたの奥さんになるから。いやあ、あんたも国一番の果報者よねえ」
「………………」
 絶句するジュリアンに、穏やかな伯爵の声が聞こえた。
「そういう訳だから、さあ朝食を続けようか」
「何でだぁあああぁあっ !!!!」

 猛烈なジュリアンの主張により、食事は自分の手でとる事ができた。
 もちろん給仕はアンだったが。
「あんた、まだ気づかないの?」
「――何がだよ」
 カップにお茶を注いでくれるメイドに聞き返す。それを受けて伯爵が続けた。
「それがな、実はそれエリザベートなのだ。実の姉と結ばれるのは嫌かもしれんが、体はアンに間違いないから安心してくれ」
「――な、ん、だって !?」
 血圧の急激な上昇でジュリアンは気が遠くなった。

「……それでね、王女様に体を入れ替えてもらったのよ。だから今は私がアンで、アンが私ってわけ」
「…………」
 説明を聞いて、少年は頭を抱えていた。王女が魔導に通じているというのは公然の秘密だったが、まさかこんな事が現実に起きようとは思ってもみなかった。
「――これでうちは公爵家に繋がりができるし、私は晴れてあんたと結婚できるし、万々歳ね」
「…………」
 頭痛がする。
 いつからだっただろう。
 幼い頃、浴場で姉に全身を舐め回されたときだったか。好きだった子の目の前で姉にディープキスをされたときか。夜這いされ、全裸の姉に一晩中抱き締められたときだろうか。
「……う、うう――」
 生まれた時から、姉の好意は感じていた。その感情が姉弟の関係を超えたものだとも、薄々気づいていた。だが名ばかりとはいえ伯爵家、やがて姉はどこかに嫁ぎ、自分も適当な貴族の令嬢を妻に迎えるはずだった。
「――はあ……」
 結局、出るのはため息だけだ。
「てことは、アンが姉ちゃんの代わりに嫁入りしたのか……」
 婚礼を前に泣き喚くエリザベートの姿が蘇る。
“――ち、違います !! あたし、結婚なんて…… !!”
「アンに可哀想だと思わないの? 姉ちゃん」
「別に? 絶世の美女の私の体で公爵公子のお嫁さんになって、平民の娘には身に余る光栄じゃない」
「身勝手とは思わないの !?」
「その身勝手で、私は結婚させられたのよ?」
「…………」
 アンが黒い瞳でジュリアンを見据えて言う。
「私は体を公爵家に差し出す。あんたは妻の座を私に差し出す。ほら、姉弟で平等じゃない。まさか人には結婚しろって言っといて、自分だけ嫌とは言わないわよね?」
「…………」
 長い会話の末明らかになったのは、もう自分に逆らう余地は残されていないという事だった。両親も承知している以上、話は決まったも同然だ。姉の心が入ったこの年下のメイドを許婚に迎えるしかない。やがては正式に妻にし、ベッドで交わり、何人も子供を作るのだろう。
 だが彼の中では冷たい風が吹き続け、長い冬が永久に終わらない事に心が凍りついていた。
「――わかったら、こっち向きなさい」
 上機嫌のアンに言われ、逆らう気にもなれずそちらを見やる。今にも触れそうな距離に、黒い瞳の年下の少女の顔があった。
「ん……」
 そのまま唇と唇が触れ合い、たっぷり唾液の混ざった食物が舌と共にジュリアンの口内に送られてくる。
 ――ごくん。
 今度は拒絶せず、熱い塊が喉を通過する。
「……はあ……」
 少女の味は、いつもの食事よりも少しだけ酸っぱかった。


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